CRHの旅Ⅲ Part3 北京北駅

CRH2-300運行廃止の悲しい報告をした後に振り返ると、復路に乗車したCRH3の座席ポケットには、初めて見るCRH3編成案内パンフレットが、入っていました。今までの中国鉄路にはなかった、ちょっとコケティシュなパンフレットです。ご覧下さい。朝日新聞の記事は、Webにも掲載されていますので、ご覧下さい。
http://globe.asahi.com/feature/090202/03_2.html
http://globe.asahi.com/feature/090202/03_1.html

また、同じく座席ポケットには、京津城際鉄路の旅客報『PASSENGERS』なる雑誌が入っていて、CRH投入後の乗客増に大きく寄与している等の記事が、掲載されていました。その数、約2,000両、主に沿岸部の大都市間を結びます。今までの中国鉄路を走る優等列車と言えば、夜行寝台列車が、殆どでしたが、昼間を走る座席専用の高速列車が、各地に走りだした事は、中国鉄路の大革命となりました。

CRHの旅レポートを続けます。北京北駅は、地鉄駅から少し離れています。全線2元均一運賃となり、満員ラッシュ状態が続く地鉄を避けて、タクシーで、そのまま行きましたが、道路も、以前にも増しての大渋滞でした。

約50分をかけて到着した北京北駅は、3日後のリニューアルオープンを控えて、すっかりと様変わりしていました。以前は、これが首都の駅なのかと思える程のひなびた駅でした。駅に向かう道路沿いには、まだ当時の面影が残っていますが、これも一新されるでしょう。

“和諧長城号”のダイヤは、2009年1月改正の全国時刻表を探しましたが、見つかりません。駅に行っても表示すらありません。駅員に聞いても、”知らない”の1言です。切符を買おうにも、春節前の長蛇の列です。日本と違って珍しいのは、学生街が近いので、学生専用切符売場がある事です。学割運賃は、半額と聞きます。

撮影は、次回にする事にして、並行して走る地鉄13号線に乗車して、撮影地ロケハンに切り替えました。13号線は、1号線全線開通後に初めて開通した新路線でした。2号環状線の西直門から東直門までを、半円形に結んでいます。
2002年9月に、西直門~霍営間が部分開通した際には乗車しましたが、2003年1月の全線開通後は、未乗車区間です。北京市の北郊外を走り、大学や都市改造のために、新しく建設されたベットタウンが多くある通勤・通学路線です。

開業時は、1号線の旧車や、休線となっていた天津地鉄の車両まで使用してのボロボロ電車でしたが、今では冷房付きの新車に交換され、スピードアップもあって、快適に乗車できるようになりました。しかし、4両の短編成とあって、ラッシュ時は、乗れたものではありません。車両製造が追いつかないのでしょう。編成増が望まれています。

運転席後方窓から、”和諧長城号”との巡り合いを期待して、カメラを構えていましたら、発車9分後に姿を確認できました。シャッターを切りましたが、残念ながら、カーブで、反対車線から来る地鉄車両と、かぶってしまい、撮れませんでした。

約50分間を、電車でGOの世界で、楽しみましたが、西直門からの2号線ラッシュと、ぶつかりした。ギュウギュウの車両に、スーツケースを持っての乗車には、疲れました。『はやて』寝台電車までの待ち時間は、たっぷりとあります。先は長いので、駐在時代に行きつけだった、北京駅1つ手前の建国門駅上の日系ホテルで、冷えた麦ジュースと、温かい米ジュースを飲みながらの夕食で、病み上がりの体をゆっくりと、休める事にしました。
北京駅までは、アモイへ出張中だった北京駐在中の朋友が、北京空港到着後、急いで駆けつけて、送ってくれました。

モハ33、34

澤村達也様よりモハ33、34についての質問があったので、今回はこの系列の解説をする。モハ33形は昭和7年山手線用として2両(001、002)モハ34形は、モハ33を両運転台付にしたタイプで、昭和8年、中央線、山手線(赤羽~池袋間)、横浜線の増結用として、26両(001~026)作られた。【1678】でも書いたが、関西地区ではすでに20m車が投入されていたが、東京地区は受入れ準備が整っていなかったため17mとなった。

戦時中モハ34011~026の後部運転台を撤去してモハ33に編入する工事が計画されたが、実施されたのは9両であった。両運で残った3両と片運に改造したモハ33の1両が戦災のため廃車となった。戦後木製荷物電車の廃車補充のため、モハ34、10両、更に片運改造したモハ33の内5両を両運に戻して荷電に改造し、形式を1形式1両のモニ53に編入して002~016となった。

その結果、片運のモハ33はオリジナルの2両と、モハ34の片運改造車9両の内、戦災廃車1両と荷電改造の5両を差引いた残り3両の計5両、モハ34は片運改造車9両、戦災廃車3両、荷電改造の10両を差引いた残りの4両が残った。

昭和28年6月の改番でモハ33はモハ11300番台となり、11300、301~307の奇数、モハ34はモハ12000番台となり、12000~12003となった。また、荷電に改造されたモニ53は、番号はそのままでモニ13となった。

 クモハ11300番台

最終配置は300が中原、301と307は弁天橋、303は北松本、305は陸前原ノ町で、307が昭和48年11月、それ以外は昭和42年8月までに廃車された。305と307の2両は、元50系のクハ16559と共に昭和36年に大井工場でモデル更新車として、内装のビニールクロス張りハードボード化等の近代化改造が実施されていた。

 クモハ12000番台

最終配置は、000が大垣、001は北松本を経て構内入換及び牽引車として沼津、002と003は陸前原ノ町で、001は昭和58年に、他の3両は昭和42年中に廃車された。000は廃車後昭和44年に伊豆箱根鉄道に譲渡され、最後は大雄山線の事業用車であったが、平成9年まで使用された。

 

クモハ12001(長キマ)/昭和8年汽車会社製、旧車号はモハ34005で、新製時の配置は三鷹であった。戦後、中野に転属し、品川、弁天橋を経て昭和26年5月に北松本に転属、昭和48年8月まで大糸線で使用されていた。同年9月1日付で沼津に転属して入換、工場への入出場車の牽引車、控車として使用され、関東地区にも顔を出していたが、昭和58年に廃車された。大糸線時代の昭和41年11月、下り向きに霜取り用パンタを増設して2丁パンタとなり、下りの朝一番電車の先頭車に使用されていた。その後のダイヤ改正で一番電車が新宿発の急行「穂高」に変わった時にクモヤ90803と交替したが、霜取りパンタは沼津に転属するまで残された。

この写真を撮影した時点では大糸線の17m車はこの車両1両のみで、まさか撮影できるとは思っていなかった。この日は物凄く寒い日で信濃大町駅の温度計は零下15℃を指していたが、この車両を見た途端に寒さは吹っ飛んだ。(昭和48年1月14日 信濃大町) 

伊豆箱根鉄道モハ66←クモハ12000(名カキ)/前述の通り元クモハ12000で、昭和44年1月に伊豆箱根鉄道に譲渡され、三島~修善寺間の駿豆本線に配置された。譲渡の対象は車体のみと云われ、台車はDT11を履いている。廃車後、譲渡までの間は浜松工場に保管されていたと思われるが、車体のみを伊豆箱根に運んだとは考えにくく、恐らく売却の対象になったのが車体のみで、実際には足回りも付いていたのではなかろうか。ちなみに同時期に車体新製の新車1000系3次車(モハ1005-モハ1006-クハ2003)が作られている。昭和52年1月大雄山線に転属、平成4年4月27日付で工事車コデ66に改造され、平成9年3月24日付で廃車となった。尚、パンタ側の乗務員室は通常は3両編成の連結面となるため営業運転で使用されることはなかったため扉は撤去され窓に改造されていた。(昭和62年6月23日 大雄山)

③ クモニ13002~016

荷電に改造された15両は、東京地区と大阪地区に配置され、長く新聞輸送等に使用され、大半の車両が昭和50年代後半まで在籍した。特に007は廃車後も東京総合車両センター(旧大井工場)に保管されているが、昨年の一般公開時に見たところでは、痛みが激しくなってきており早急な補修が望まれる。(旧掲示板8月25日付【1550】参照)

クモニ13013(南シナ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34013として作られ、昭和19年3月大井工機部で片運化してモハ33005、昭和26年4月大井工場で両運化の上荷電に改造された。昭和56年1月廃車された。(昭和50年12月31日 大森~蒲田)

クモニ13009(大タツ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34011として作られ、昭和23年10月汽車会社で荷電に改造された。昭和24年4月、品川より宮原に転属、後に高槻に転属し、昭和54年12月に廃車された。003、008も関西入りしたが、配給車に再改造クモル23003、010となった。(昭和42年2月20日 大阪)

クモル23010(大タツ)/クモニ13008からの改造車で、昭和8年日車でモハ34010として作られ、前述の009と同様に昭和23年10月汽車会社で荷電に改造、昭和27年5月に関西入りして、昭和36年12月に配給車に再改造された。廃車は昭和57年1月であった。(昭和46年1月15日 大阪)

【質問に答える】

【1678】澤村達也様からの質問の回答

.1 [前文省略]謎はその車体に1両だけ「クハ」と書かれていることです。Wikipediaのモハ33系電車を見てもクハが存在したとは書かれていません。窓配置はモハ34と同じですので、モハ34として作れば良いようなものですが、気になって安眠できません。

.1 「クハ」と書かれている車体をお持ちとのことですが、モハ33系にクハは存在しません。

.2 制御器サイドの床下がわかる写真はないでしょうか。

.2 探したのですが残念ながらありません。旧形国電関係の知人、友人のHPも見たのですが、皆さん同じ向きで撮影されており制御器サイドはありませんでした。代わりにモハ31系のクモハ12052の写真を貼り付けましたので参考にして下さい。

                                (昭和47年5月1日 大川)

.3  連結器を自連に取り替えたことはありませんか。

.3  昭和26年大糸線に転属時に自連に取り替えられています。前身の信濃鉄道買収車が廃車になった時点で密連化されますが、貨車引いていたクモハユニ64000の予備車を兼ねていましたので、同車が検査入場時等に一時的に自連に取り替えられたことがありました。

40年前のカラー写真(パクリ版)その2

一枚目は春の休日に横須賀を散歩したときの撮ったものです。渡し船ですが今でもあるのでしょうか。どことどこを渡していたのか、撮ったことも覚えていません。

横須賀にて

横須賀の渡し船

二枚目と三枚目は京浜急行を撮ったのですが、京急には全く興味が無くいい加減な撮り方でした。

京浜急行、撮影場所不明

撮影場所不明

 

次は都内に帰ります。夕暮れの都電を撮ったものですがこれも撮影場所が分かりません。これは東京支部の方にお助けいただく必要がありそうです。

 

次は多分新宿駅。注目は道床に張られた金網。若い会員には知らない人が多いでしょうがこの前年、10月21日に世に言う「国際反戦デー」があり新宿駅は全学連に占拠、破壊されました。その後全国の主要駅は砕石をとられないように網を張ったりアスファルトで固めてまるで市内軌道のようになったのでした。

http://www.youtube.com/watch?v=mnrgvmxEkdQ

 

線路上の防護網

 これからの4枚はクイズです。新宿であるのはお解りでしょうが、さて今のどのあたりでしょうか?昭和44年の新宿は戦後の闇市と新時代都市が交錯していた時代でした。

新宿1

新宿2

新宿3 これは分からないでしょうから正解を。建設中の京王プラザホテル

新宿4 これが分かれば新宿王!

続きます。

40年前のカラー写真(ぱくり版)その1

ほぼ同名の記事がありますが、これは似て非なるもので通称「ぱくり」、関西では「パッチもん」ですからそのつもりで見て下さい。そして教えて下さい。

というのは学生時代(実は今も全く変わりません)から写真は撮るだけ、あとは野となれ山となれでほったらかし。整理しながらどこで撮ったものかいつ撮ったものか分かりません。分かった方は教えて下さい。

時代は私が東京にいた昭和43年から45年にかけてです。北海道は昭和40年頃です。またサクラカラーリバーサル、フジクロームとエクタクロームを使っています。色の退色具合からどれかも判断してみて下さい。

たぶん原生花園

上記と同じ場所でキハ04

上と同じ場所でキハ04

壮瞥付近ではないかと思う

壮瞥付近ではないかと思う

保線区の人から「京都から汽車を見に来るとは奇特な人」と褒めてもらった。

さてこれがどこか分からん

これも・・・

これも・・・

そしてこれも・・・多分同じ駅だと思う。

これは分かるぞ!

続きはまたいつか・・・・

CRHの旅Ⅲ Part2 京津城際鉄路 『はやて』 運行激減の理由

1週間前から、京津城際鉄路の記事をまとめて投稿しましたら、本日2月2日の朝日新聞朝刊のGLOBEに下記の記事が出ていまして、びっくりしました。CRH2-300についての記事を転載しますので、お読み下さい。


これで、先日CRH2-300を見た時に車両編成番号が消されていた理由、また京津城際鉄路での使用が激減している謎が分かりました。

DRFC-OBで、川崎重工に勤務されておられる先輩に、CRH2-300ベース車のE2系1000番台の新幹線電車が、日本では、営業最高速度275km/hに制限されているのに、なぜ中国ではM車比を変えたぐらいで350km/hで走行できるのかを聞いた事がありました。

ご返答として、歯車比を変更しているかも。また、日本でも走れない事はないが、その分電力を必要とする。コスト面を考えないと、日本では難しい等々との事でした。

確かに、北京オリンピック開業時に開通する京津城際鉄路には、300km/hの新列車を走行するという話は、ありました。しかし、350km/hとは、驚きでした。

中国人は、日本人には、理解できないぐらいに “メンツ”を最も大事にします。中国人民が待望したオリンピック開催の目玉の1つとしての、京津城際鉄路350km/h走行は、理由のイカンを問わず、絶対に実現しなければならない”メンツ”だったと、容易に想像できます。

安全面では、考慮の余地がない事は分かっていますが、日側も、中国人の”メンツ”を理解してあげて、何とか協力する大きな心が、あっても良かったのではと、思う中国特派員です。

これで、北京~上海間の中国版新幹線にシーメンス社のCRH3が決定したという報道も信用性が高くなりました。今度行く時は、もう京津城際鉄路を走るCRH2-300は、見る事も、乗車する事も出来なくなったとは、本当に残念です。

CRHの旅Ⅲ Part1 2009年の京津城際鉄路

タフとパワーが売りでしたが、さすが病魔には、勝てずで、定年後の勤務続行を急遽断り、自由人となる決意をいたしました中国特派員です。

リハビリと静養を続け、ようやく担当医からOKが出ましたので、1月中旬、機上の人となり、大地を目指しました。今回の訪中は、12月末まで務めていた会社からの、最後の社命です。

関空から北京へのJAL便は、定員232人に対して、わずか38名の乗客です。最近は、殆どこんな搭乗率で、不況による影響は、搭乗客減に直結していると、アテンダントのお姉様方は、嘆いておられました。しかし、機内サービスは十分で、呑み助には最高でした。

鉄道と違って、乗客数に応じて、編成車両数を調整出来ない飛行機は、大変です。この分では、また便数が減ると思っていたら、先日JAL,ANA共、休航や減便発表がありました。両社共、劇的に搭乗客が増加しない中国線に、競うように増便を重ねた結果です。これでもまだ多いと思いますので、第2段が続くでしょう。


1月26日の春節(旧正月)前とあって、北京空港も閑散としていました。空港で、1仕事をした後、いつものように、空港快速リニア軌道に乗車して、東直門で、北京地鉄環状2号線に乗換、宣武門で下車後は、タクシーで北京南駅に向かいます。所要時間は、空港着陸後から、約1:30~2:00です。

コンコース内は、目的地の天津への乗客でいっぱいです。開通6ヶ月で、利用客は、高速バスや相乗りタクシーから移行して、定着した感があります。
往路の切符は、並ぶ事もなく、難なく自動販売機で購入できましたが、春節前は混むからと、前もって買っておくように言われた、4日後の復路の1等車切符が、買えません。

2等車は、10日後まで購入可能ですが、1等車は、3日前までからの発売となっています。いつから、なぜ変更されたのか分かりませんのが、中国鉄路の不思議です。
発売駅でしか、切符の変更はしてくれない事は、以前に経験済みなのですが、春節前の事態です。購入できないリスクを避けるために、あえて2等車切符を購入しておきました。空席さえあれば、乗車後に追加料金を支払えば、変更可能な時もあります。

なぜか削り取られた 『はやて』 CRH-065C の列車編成表示

乗車時間となりホームに下りてみますと、CRH2-300『はやて』が待っていましたが、なぜか車体番号と下部の青い帯が削り取られています。列車乗務員に質問しましたが、”不知道=知らない”の1言です。愚問でした。しかし、1編成全車に意図的に削り取られているのは、気になりました。

いつもと同様に、発車案内もベルもなく、静かに定刻発車して天津に向かいます。直ぐに300km/hを突破し、最速は334km/hでした。

ワゴンサービスで、ミネラルウォーターのサービスをする列車服務員

完成後、前代未聞のわずか1ヶ月の試験運転のみで、営業開始した京津城際鉄路です。それまでの最速200km/hから、世界最速の350km/hの営業運転は、経験もなく、安全無視の滅茶苦茶な運行でした。今まで、事故もなく安全運行されているのは、まさに奇跡的と、言わざるをえません。

4日後、天津での仕事を済まして、帰国しようとしておりましたら、JALシステムダウンの連絡です。当日の帰国は、難しい事態が、予想されます。自由人となった今は、時間に制限はありません。トラブル発生時の臨機応変は、得意中の得意です。早速に上海経由からの帰国を検討しました。

昨年12月に登場以来、乗車したいと、熱望していた北京→上海への新幹線車両、初の寝台の切符は、春節で、購入不可能と諦めていましたが、21:39発のD309の1等寝台上段切符が、確保できました。予定変更は、これで決定です。期待を胸に、天津駅へと向かいました。

今日の天津駅ホームは、珍しくシーメンス社のCRH3が並んで出発待ちをしていました。これまで、京津城際鉄路に使用されている車両は、CRH2-300が殆どを占めていました。CRH3に乗車するは、極めて難しい状態でした。CRH3の量産製造が遅れたのが、要因ですが、走行中にすれ違う列車は、むしろCRH3が多くなってきています。

今回は、CRH3の初めての2等乗車となります。席は、3人並びの窓側でしたが、座席幅は、CRH2『はやて』と比べると、明らかに狭すぎ、ピッチも十分とは言えません。また、CRH3は、丸みを帯びた車体です。窓側は、圧迫感があります。
500系と700系との違いと言えばお分かりでしょうが、CRH2と同じ車体幅に広げたので、それ以上に、余裕がありません。インテリアは、CRH3の方が好きですが、座席の快適さは、やはりCRH2が上回ります。

北京南駅でも、CRH3ばかりでした

CRH3の最高速度は、331km/hでした。30分の所要時間ですので、無理に350km/h走行の必要性がないのでしょう。
夜の乗車までは、十分に時間があります。昨年8月から走りだした万里の長城へと向かう”和諧長城号”を見に北京北駅へと向かいました。

しつこく江若鉄道と法勝寺のこと

江若鉄道のキハ12が何とか完成し、先に完成したキハ5124と塗装を残すのみとなりました。キニ9のエッチング板をオークションで入手したものの、車両製作はひと休みとしましょう。(オハ27 3両の完成が先・・・) キハ12は棒型モータを床下にぶら下げ、ユニバーサルジョイントで駆動することにしたのですが、あえて1軸駆動にしたため動き始めは音ばかりで加速が悪く、またモーター付のキハ15などと連結運転すると 引っ張られたり押したりと実物そっくりの状態で うれしい限りです。

さてレイル67号に藤本先輩の法勝寺の記事があるとのこと、三原市内の本屋に行ってみたものの、三原の田舎に格調高い「レイル」があるわけもなく、その代わりになぜこんな本がという「鉄道連隊」の本があって これを買って帰りました。日の丸法勝寺の現役時代には訪れたこともなかったのですが、この正月休みに米子を訪ね、保存車両には会ってきました。南部町法勝寺の西伯小学校に保存のデハ203も米子市元町商店街に保存のフ50のいずれも状態は良く、当時を彷彿させてくれました。

ところで 木次線の亀嵩-出雲三成間の線路脇の空き地になぜかワキ10073と10120の2両が放置されていてびっくり。空気バネ台車を履いた高速貨車がなんで出雲の山の中にあるのか 夜も寝られません。どなたか事情を知っておられる方は薀蓄をかたむけてください。

汽車住宅や江若鉄道でお騒がせ致しておりますが、毎夜この掲示板を開くのを楽しみに正業にも励んでおります。明治村には行けそうになく残念至極でありますが、皆様とつながっていると実感しながら 鉄分補給しています。