【4004】台湾鉄道全線乗車の旅 Part14 内湾線

湯口徹大先生の、鉄道友の会「島秀雄記念優秀著作賞」受賞を記念しての、クローバー会の祝賀会に参加後、自宅でTVを見ていますと、台風8号が台湾に上陸して、大きな被害が出ているとのニュースを見ました。

台湾の河川は、山から海までが、極めて短く、標高差が大きく、また直線が多くなっているので、普通の降雨でも、一気に濁流となります。そのために、川幅を広くとっていますが、台風時や、最近のゲリラ豪雨は、想定外の水量となって、鐡道橋梁に重大な被害を及ぼし、山間部では、土砂崩れが多発しています。

直ぐに、インターネットで、現地被害を見てみましたら、史上最悪の被害が、各地で続出しています。大きな土石流で、村自体が埋まり、数100名の不明が伝えられています。河川際の8階建てものホテルが倒壊して、激流に飲み込まれたニュースを見られた方も多いと思いますが、場所は、台湾南東部の南廻線(台東~枋寮)、知本温泉のホテル金師飯店です。

現在、懸命の復旧作業が行われていまして、被害を受けた、台鐡各線も開通見込みですが、南廻線は、橋梁流失もあり、被害が甚大で、開通見込みすら、たっていません。

台鐡の大動脈、西部幹線は、台北~新營間で、優等列車の折返し運転をしている状況です。早く復旧した高鐡新幹線が、増発と、普通車の全車自由席対応で、旅客輸送を代行しています。

日本の豪雨での被害も、多大ですが、日本と比べて、地形が自然災害にあいやすい台湾は、もっと大変な状況です。不幸にも、災害にあわれた両国の方々に、ご冥福と、1日も早い復興をお祈りいたします。

さて、台湾鉄道全線乗車の旅も、第11日目の5月30日、最終日を迎えていました。この日は、内湾線と、台北の奥座敷、烏來温泉のトロッコ列車乗車を目指しました。2回に分けて投稿します。

5月30日(第11日目)
① 台北7:30-(自強號1005)→8:40新竹   180元
② 新竹駅前9:10-(連絡バス)→9:35竹東駅前 48元
③ 竹東10:15-(區間車3249)→10:39内灣   18元
④ 内灣11:45-(區間車3252)→12:06竹東    9元
⑤ 竹東駅前12:15-(連絡バス)→12:40新竹駅前 48元

明日は、帰国日です。台湾鉄道全線走破を目指し、残された日は、今日一日だけです。未乗車区間は、灣線のみと、なりました。勿論、林口線も残っているのですが、こちらは、貨物線で、平日のみ朝夕2本のDCが運行されていますが、営業路線と位置づけていないため、運賃無料となっています。予想外の端午の節句4連休もありましたので、乗りたくとも運行していません。これは、次回としました。

内灣線も、台湾新幹線開業に伴い、竹中駅から高鐡竹中駅への連絡線建設、新竹~竹中高架化、新駅設置等のMTR化のため、2007年3月より、新竹~竹東間の運行が停止されており、バス代行となっています。
工事は、一応2011年完成予定ですが、台湾新幹線の例もあります。国家交通部のチェックも厳格です。その他、過去の例を考慮する、難しいと予測されますが、淡水線のようにMTR化されれば、台鐡でなくなってしまいます。


今日も朝早くにホテルを出発し、台北駅に向かいました。自強號に乗車、昨夜下車した新竹駅をもう1度視察後、代行バス停を探しました。バス停前の朝食屋で、美味しそうな肉まんを買い求めて乗車、バスは、高速道路圣由で、竹東駅に約25分で到着しました。




内灣線は、日本統治下の戦争末期1941年に建設が始まりましたが、資材不足もあって、完成に至らず、、戦後の1947年に新竹~竹東間が開通しました。1950年、合興まで延長、1951年、 内湾まで延長され、全線開通しました。石灰、セメント等の輸送が多かった時は、黒字優良路線でしたが、貨物輸送が途切れた今は、通勤・観光支線となっています。

竹東駅は、煉瓦造りに瓦屋根の一風変わった駅舎です。島式ホーム1面、単式ホーム1面があり、かつては、にぎわったであろう貨物ヤードもあります。そのヤードに1両のタンク車が、留置してありました。察するに、竹東~内湾を往復するDR1023+DR1020、2両1編成の、燃料補給用とみましたが、どうでしょうか。



竹東駅を超満員で発車したDCは、2つの長い鉄橋を渡り、なだらかな登り勾配をゆっくりと走行しますが、九讃頭駅を過ぎると、急に25‰勾配区間に入ります。トンネルを抜け、着いた駅は、かつては、台鐡で唯一だった、スイッチバックの合興です。

石灰石を運ぶ、珍しい空中ロープウェーもあったという構内は、公園化されて、引込線には、旧客車も展示されていました。ホームは、なんと、25‰勾配線上に位置しています。


合興駅からは、右へ右へと、登りカーブが続きます。月台もカーブした富貴駅。1962年に、南河駅として開業したが、2003年に同じ内灣線の栄華駅と合わせて『栄華富貴』=華やかに栄え、財産地位、身分が高いという縁起の良い名前に変えたが、地名を無視した名前になったと、住民反発を招いた、いわく因縁の駅です。右方上がりの駅ですから、それだけでも良いような気もします。



どんどんと、山を登り、町並みが見え出すと、終点の内湾駅に到着です。ここでも、DCと、記念写真を撮るギャル多数がいます。とうとう車内で、話していた女子高校生にも、日本人と会うのは、初めてだったとかで、一緒に記念写真を撮りたいと、言われました。それも、数組からのオファがきました。大陸は、数10回は、行っています。韓国も数回行っていますが、こんな事は、初めてです。やっぱり、どこか台湾は、違ってますね。



駅前は、鐡道以外でも来た、観光客で一杯です。道路の両側は、飲食店がずらりと並んでいます。大陸から移住した人が多く、結構、はじめて見る料理が多く、片っ端から食べました。豚を数匹、丸焼きして並べて、ナイフで切りながら、売っているのは、びっくりしました。これも、中々、旨かったです。


先がありますので、次の折返し列車で、内湾線を後にしましたが、合興駅にも寄りたかったし、また、ゆっくりと来たい所でした。  Part15へ続く


【4015】1954年3月高校修学旅行 その2


藤田興業フハ33 この車両は最後にはサイドに両引き扉を設けワフ ニフになった

39レ急行「筑紫」は姫路で1年前に誕生した下り特急「かもめ」に抜かれ、10時33分発山陽路を西に向かう。次なるアイテムは和気(通過)での藤田興業(片上鉄道)だが、人気のないホームには2軸木製客車のフハ33が1両ポツンと取り残されているだけ。側戸式マッチ箱客車(形式ハ1005)を1937年東洋車両で両オープンデッキ車体を新製したものを戦後運輸省から購入。どこか分からないが戦時中の買収車である。

岡山には10分停車。86牽引列車(津山線か)、建物代わりに使われているナハユ15018を撮る。その左側も紛れもなく木製客車だが、気付かなかったようだ。甲種輸送中のEF15はどこで撮ったか思い出せず、番号も読めないが、撮影日が1954年3月11日だから、三菱三原で竣功したばかりのEF1585か86であろう。

ナハユ15018 木製の踏み段が付き建物代わり

これも確か岡山かと思うが確かではない 三菱三原からの甲種輸送 右のトキも懐かしい

無人の鞆鉄道福山停留場 この時点では既に廃止11日後だった

鞆鉄道ボワ6

笠岡も停車せず井笠鉄道は撮影できなかったようで、次は13時20分着の福山である。何としても鞆鉄道カが見たかったのに、鞆のホームには有蓋貨車ボワ6がたった1両だけ。鞆鉄道は永い間国鉄福山駅に入れず、300m程西の三の丸が終起点で、徒歩連絡から無料バスでの国鉄福山連絡であった。やっと延長が叶ったのは開業から17年以上経った1931年で、それも用地が得られず、福山とは称しても無人の停留場、しかもポイントも亘り線も何もない、「1本突っ込み」線だけ。当然三の丸-福山間は上りか下りかのどちらかが推進運転になる。最もこんな事ははるか後に知った。なお鞆が存亡の危機とは聞いていたが、実は11日前の2月末日で廃止済であった。その後5月29日一人で訪ねた時は勿論バスで、終点の鞆と三の丸にほぼ全車両が残存はしていた。


福塩線の電車 左側は南武鉄道 その後ろは豊川鉄道買収車


豊川鉄道買収車

福塩線の電車も何両か。ダサい車両が多かった南武鉄道買収車では一番スマートなグループ、それに京都在住者なら奈良電デハボ1000でおなじみの、丈夫そうな3扉車(豊川鉄道買収車)などが並んでいた。


セノハチも勾配を上る急行「筑紫」 当然補機が付いていた マイネ40がひときわ目立つ

憧れの「セノハチ」もたった1枚撮っただけ。一段と屋根が高く丸い客車はマイネ40である。「筑紫」の編成は下り側からユ、ニ、イネ(特イネ/イネ)、特ロ×2、ロ、シ、ハ×8で、ユは東京-門司、イネと特ロ1両、シ、後尾3両のハは博多で切り離す。したがって博多-鹿児島間はユ、特ロ、ロ、ハ×3の6両となる。


広島でのC597

広島は15時41分着、50分発。C597と入換のC50しか撮っていないのはなぜか分からない。


入換機はC50 京都でもお馴染みだ

白状しておくが、これら走行中の急行「筑紫」からの撮影はすべて35mmスプリングカメラのバルジーナで、ファインダーに手動のパララックス矯正装置が付いている。台車や銘板、社紋などを撮る時には実に重宝な機能だが、接近撮影後はほぼ100%戻すのを忘れる。従ってその後の撮影はそれに気付くまで、横位置なら全部天部が苦しく、地部がドカンと空く。それをトリミングで誤魔化そうとすると、かような細長構図を余儀なくさされるのである。


【3992】熊電探訪

熊本駅に降り立ったのは195795日、夜9時を回っていた。この年716日、前期試験が終わるや始めた氷屋のアルバイトは8月30日に終わった。45日連続で(日給500円×45)+報奨金2,50025,000円を稼ぎ出し、831日夜9時発の四国連絡宇野行きで京都を後にした。翌1日は琴電、2日琴参、3日土佐電、4日伊予電、その夜は高浜港でステホをやった。翌早朝の関西汽船で10時過ぎ別府に上陸した。5日は温泉街で電車を追いかけ湯の町知らずであった。熊本では風呂に入りたいが駅前で見付からず、旅館の客引き小母さんと交渉の結果、1泊朝食で280円まで値切った。豊肥本線96に燻され道後の湯の効果は消えてしまっていたようだ。

熊本の鉄道事情など全く知らず、JTB時刻表を頼りにやってきた。奥野師匠は1つだけ教えてくれたが、それ以外はなにもなし。宿の小母さんに熊電の乗り場に行く方法を尋ねたら、駅から市電1番で子飼橋行きに乗り藤崎宮前で降りると目の前だ、と教えてくれた。藤崎宮前駅構内で先ず目に入ったのは、師匠が教えてくれた木造切妻電車。並んでいる3両のトレーラー58415757,58号が切妻、41号はダブルルーフの丸妻で関西では見慣れないタイプで、共に元電動車であったことを物語る台車構造をしている。そしてもう172号、これの出自はピク誌28号「買収国電を探る・可部線」の記事で知っていた。「原爆の日」紹介した熊電71形の1両である。

「車庫は何処ですか?」と駅員に問えば、「次の黒髪町と北熊本の間で、電車は今出たところだから、歩いて行けば20分位。その方が早いよ」との返事を貰った。このくそ暑い中をと思いつつ、教えられた道筋を辿った。砂利道を歩くうち左から単線が寄り添い、その向こうに車庫が見えて来た。車庫正門?らしき所に着いたとき前方の北熊本駅に着いた電車がある。慌てて線路寄りに移動すると、103号と名乗る3扉車がやって来た。

車庫事務所で型式図を見せて貰い筆写する。先の103号が昭和19年製(日立)と知りびっくりした。その前年に切妻木造車体の515154両が田中(現近車)車両で生まれているのだからだ。戦時体制強化で益々日本は窮乏の途を歩んでいたのに、何故こんな片田舎の電鉄に新車が入線したのか、その後も持ち続けた疑問であった。次いで202号が試運転に向け整備中、木造国電モハ1の払い下げ車らしい。福山(福塩線)で見たものが琴電に入線しており初対面ではない。簡易鋼体化されていた。201号は遠望しただけで、共に旧番号など分からなかった。電動車は他に56号があり、電装解除された55号は58に改番された。同形には57号があり竣工時より客車であった由。これら50番代が戦時下の切妻木造電車であった。

41号は元名古屋鉄道からの63形導入による供出車で、71形入線で電装解除されたのであった。他に3132号の木造客車があったが、これは改軌電化(19238月)を同時施工しているが、改軌前(3フィート)の有蓋貨車を客車化したもので、近く廃車になると聞いた。客車はモハ515456、モハ71,72、モハ101103、モハ201,20212両、付随車はコハ3132、ホハ41、ホハ57585両であった。これ以外に工作車(架線修理用)モコ1があったが、これも買収国電の一員で、宇部電鉄の木造単車がプロトタイプであった。室園車庫の一隅には木造車体が倉庫代わりに置かれていたが、これは電化当時の電車6両の一つであると教えられた。


【3981】【速報】湯口さん「島秀雄記念優秀著作賞」祝賀会行われる

昨8月9日(日)、当会の湯口徹さんが、鉄道友の会「島秀雄記念優秀著作賞」を受賞され、その栄誉を称えるクローバー会の祝賀会が、大阪・曽根崎「ミュンヘン」において、厳粛に、かつ賑々しく執り行われました。参加が叶わなかった皆様に当日の様子を掲示板でお伝えしましょう。
この「島秀雄記念優秀著作賞」は、もっとも優れた鉄道図書を選出し、鉄道趣味界の発展に寄与することを目的として、鉄道友の会によって創設された賞で、今回、湯口さんが著されたRMライブラリー『日本の蒸気動車』(上下)が単行本部門で選定されたものです。

受賞の記念盾を手にした湯口さん(ちなみに受賞に際しての賞金、賞品、交通宿泊費、生涯年金は一切なかったとのこと)

山科の人間国宝からは、終戦直後に出された、ガリ版の模型機関誌「テイルライト」に若き日の湯口さんの記事が載っていることが披露された

祝賀会は、まず琵琶湖のヒマ老人の司会で始まりました。あまたある鉄道図書の中から選定された理由について、「俗説や不明点の多かった蒸気動車に対して、特許や実用新案にさかのぼって、その過程を丹念に検証、これまでの誤謬を修正した点が評価された」と受賞の理由を説明。
徹底して一次資料に当たり、一つの資料の発掘のために、何日も掛けて国立公文書館に通い詰める地道な研鑽姿勢が、今回の栄誉に結実したもので、安易な鉄道図書が蔓延る最近の風潮に警鐘を鳴らすものとも言えるでしょう。
ちょうど蒸気動車では唯一の保存車両である明治村のキハ6401に、今春のクローバー会総会で訪れ、参加者全員で湯口さんの説話を聞いたのも、何かの縁を感じさせるものでした。
これに対して湯口さんからは、小学校以来の表彰を率直に享受したい、クローバー会の理解や援助があっての受賞と吐露され、好きな酒も絶って、残り少ない人生を軽便鉄道や内燃動車の研究に全身で打ち込みたいと力強いお話がありました。
その後、参加者一人ひとりが、湯口さんに祝辞を述べ、記念品を贈呈。
最後に登壇した乙訓老人からは、湯口さんとの長い付き合いの思い出が披瀝され、「ミュンヘン」が選ばれた理由も、クラブ草創期の頃のピク京阪特集寄稿で、原稿料をつぎ込んで祝杯を上げたのが、京都にあった「ミュンヘン」とのことで、湯口さんや乙訓老人にとっては、思い出の店なのでありました。
湯口さんのますますのご活躍・長寿を願って、全員でバンザイ三唱して、クローバー会会員の快挙を参加者全員で祝ったのでありました。

記念品のオロナイン軟膏を中林さんから贈られる(高齢者にしか判らない古典ギャグ)

一人ひとりの参加者と友好を深められた

乙訓老人の思い出話をしんみりと聞く参加者

最後に準特急さんの音頭でバンザイ三唱

名古屋、東京からも駆けつけた21人の参加者


【3924】台湾鉄道全線乗車の旅 Part13 苗栗鉄道博物館

5月29日(第10日目)

① 高鐡台北7:30-(高鐡407)→8:27高鐡台中
② 新烏日8:47-(區間快車3807)→9:27二水
③ 二水9:59-(區間快車3806)→10:29彰化
④ 彰化13:14-(自強號1016)→14:06苗栗
⑤ 苗栗16:37-(自強號1029)→17:33彰化
⑥ 彰化17:57-(区間車2554)→19:54竹南
⑦ 竹南20:28-(自強號1036)→21:55台北

彰化機関区
見学後は、彰化駅内のセブンイレブンで、阿里山の『奮起湖便當』が売ってありましたので、現地のと同じなのかなと購入して、東部幹線の自強號の主力プッシュプル式のE1000系に乗車しました。

便當の中身は、奮起湖駅で買ったものとは違っていましたが、何種類かはあるのかと、食しました。今日は10元安くて、55元(約160円)です。今回の訪台旅行での昼食は、平渓線の十分駅前食堂以外は、全て駅弁でした。貧乏旅行には、この価格は、本当に助かります。そして、何よりも、旨い!

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【3909】1954年3月高校修学旅行 その1

先回までの「高校生東京へ」からほぼ1年後=2年が終了する3月に、修学旅行があった。1954年3月12日、京都から急行「筑紫」で西へ向かったのだが、1954年の時刻表を繰ると、39レは東京を前日21時30分発、京都7時35分着、50分発。大阪、三ノ宮、神戸、明石、姫路、岡山、倉敷、福山、尾道、糸崎、広島、宮島口、岩国、柳井、下松、徳山、三田尻、小郡、下関、門司、小倉、折尾と停車し、博多着22時23分。再び夜行列車となって翌朝5時48分鹿児島終着である。

この時はカメラを二台もって行った。いずれも戦時中防空壕で過し、レンズが名古屋市大曽根の湿気にやられてカビが生えていたが、ローライコードUとバルジーナなる、バルダックス社製35mmスプリングカメラである。せっせと同級生を撮り、あとでプリントしてひと稼ぎ=自分の車輌写真分のフイルム代プラスアルファを浮かそうという魂胆である。まだカメラは高価で誰もが持てるわけではなく、修学旅行イコール6,800円(プレミアムがついて8,000円かそれ以上出さないと買えなかった程人気があったのは、ただただ安く、よく写ったから)のリコーレフというのは、我々のひと世代後の話になる。またしばらくカビの生えた古写真にお付き合い願いたい。


進行中の「筑紫」デッキから撮った兵庫駐在のD50 右側は旧ナロハのナハ10064で、確か旧2等室は転換クロスシートが残っていたと記憶する

B50は神戸港線と共にいっぱいいた

最初に撮ったのは兵庫のヤードである。今では和田岬線も電車になり、高架と地平の中間辺に乗降場があるが、以前は勿論地平で、かなり広いヤードと機関車駐泊所があり、川崎車輌、三菱造船所、鐘紡、神戸市中央市場等の貨物を扱っていた。高架線へ貨車を押し上げるため、D50が1両常駐していたほかは、B50ばかりだった。

D50の後ろはサイドに扉を設けた通勤客車 冷蔵車は勿論中央市場用

和田岬線は現在では三菱の通勤客のみになり、かつての超混雑振りは見られず、またヤードは新興高層住宅が建ち並んでしまい、かつての面影はない。ここの木製客車はどてっ腹に引戸2か所を設けた、戦時中からの通勤客車が大方だったが、それでいて同じ木製でも転換クロスシートが残った旧2等車、播丹鉄道買収で制式中型車に編入された丸屋根車(ナハフ14070)=共に側扉はない=もいた。

国道の南(左)側はすぐ海である のち線路の右山側に列車線が新設され複々線に 今走っている線は緩行・快速電車専用になった 中央のトラックはパンクでタイヤ交換中だが いやに低くへべちゃい荷台は 米軍放出のダッジ4輪トラックか 詳しい方のご教示を待つ 右(明石側)からやってくるトラックはニッサン

左手に淡路島を望む進行中の写真は塩屋西方で、分離帯も何もない国道2号線の南側はすぐ瀬戸内海である。今では西神戸地区の下水処理場のためすっかり埋め立てられ、人工の丘や林で視野が遮られてしまった。ただ新快速は一段高い斜面に張り付いて走るから、景観は良い。


このモニ53ならぬモニ13はどこで撮ったか記憶がないが、地平ホームだから明石しか考えられない。この駅は手荷物扱いホームから容易に(ほぼ人目を気にせず)外に出られるとあって、小生は事の外愛用?したものであった。それを聞きつけた故羽村兄も何度か「活用」した由。今では高架になり、そんなことはあり得ない。


姫路に到着した39レ急行「筑紫」

姫路は機関車交換のため12分停車するので、その間走り回った。飾磨線のホームではC1178が20メートル大型木製客車1両だけを牽引し、煙を吐いていた。その木製車は何とスハニ28907で、座席は一方方向クロスシート。すなわちスハニ35の二世代前の特急つばめ用客車である。

飾磨線のC1178+スハニ28907 この列車は姫路10時20分着で 次の飾磨行は15時45分までない

かつて東海道を我物顔に走った特急つばめ専用客車の成れの果て 妻面のレタリングDは木製客車の状態をAからEまで5段階評価したもの 台枠はその後オハ61系に生かされた

その室内 背ずりモケットはなく ベニヤ板だが、京阪1000型もそうだった それでも一方クロスシートがのこっていたのである


【3898】原爆の日

同志社の鉄道ファンの皆様

 朝日新聞日曜版(BE版)などに、熊本電鉄がモハ71 被爆電車(実際には同型で既に廃棄したモハ72が被爆し、この71は下関に移動していて被爆していない)を近代産業構造物として保管し、整備しなおしたものを一般公開するという記事と写真がありました。

その画像を見たとき、同志社時代に1.2回生の頃、奈良から京都への通学で使っていた奈良電(今の近鉄京都線)の創業時の車両デハボ1000と酷似していることに気がつきました。

そこで手元の「私鉄電車プロファイル」の中の奈良電デハボ1000型の精密イラストと比較してみました。

やはり、双方とも 1928年(昭和3年)の日本車輌製造であることがわかりました。

 モハ71の方は製造当時は日本国有鉄道(今のJR)が製造を委託した車両ですが、同時代の流行を取り入れ、昭和3年の開業に備え奈良電が発注したデハボ1000の両者には共通点が見受けられます。

 ヘッドライト、一灯だけの尾灯の形や位置、少し丸みを帯びた正面の三枚窓、行き先表示板差込口などに共通点が見出せます。 扉が2扉か、3扉の違いなどはありますが。

 最近の通勤用の車両では、製造コストを下げるために発注会社が共同して共通仕様で製造を委託するケースがあります。たとえばJR東日本と東急などがあります。

 JR 東日本 E231系と共通仕様の車両

 東急    5000系 5050系 5080系

 都営地下鉄 10-300系

 横浜市営  Y500系

 相模鉄道  10000系

 下記に、熊本電鉄モハ71と ()奈良電 デハボ1000 の外観の比較をしてみました。

ご覧ください。

熊本電鉄 モハ71

1928年 日本車両製造

奈良電デハボ1000 正面イラスト

1928年 日本車両製造

 

奈良電デハボ1000  側面イラスト1928年 

日本車両製造

 画像集から撮影したため、少し反って見えます

 

200928                         河野賢太郎

拙文をお読みくださり、また「デジタル元祖青信号」転載のお申し出をいただき、恐縮に存じます。駄文でございますが、そこはDRFCHPであれば転載していただいて、当方は異議ございません。下記のように一部書き改めておきました。ただ、少し心配なのは写真は朝日新聞から、車両のイラストは出版物から、無断で複製している点であります。個人的使用という範囲で収まればいいのですが、「デジタル元祖青信号」が広く鉄道のファンの方々に読まれていますと、その点がいささか心配です。また、この文章は同志社のグリークラブのOB合唱団東京クローバークラブのHP東京クローバークラブ「タイムズ」の『てっちゃんノコーナー』にも近々掲載が予定されていますのでご承知おきください。         河野賢太郎

 

 河野さんは乙訓の老人と入学年度は同じです。土肥の雄さんの紹介で入会され以前、青信号64号には投稿されました。同好会40周年記念・大井川鉄道探訪の時にお会いしました。大学現役時はグリークラブのメンバーだったことを今回初めて気付きました。老人の幼馴染と出自の異なる先輩格のクローバー会で、ご一緒だとも知りました。本来2ヶ月前に転載するつもりでしたが、写真展その他で忘れておりました。その間に被爆電車とされました72号を、19579月に撮影したものを見つけました。その時、71号の方は元木造国電20171で北熊本・上熊本間でシャトル運行についていましたので、室園車庫から遠望したに過ぎません。そして73号となった車体は、幡生工場から回送されたままの姿で室園車庫に留置されていました。これら3両については、佐竹先輩の「買収国電」で紹介されました。ぜひ参考にされますようにお勧めいたします。       

ちょっと嘴を入れますと、熊電71型は国鉄が製造を依頼したものではありませんから、頭を整理しておいて下さい。そして今回、掲載する日は64年前、広島に原爆が投下された日です。被爆された方々に心から哀悼の意を表します。老人の親類にも被爆、亡くなった方があり、広島へいく時は必ず平和公園の慰霊の碑へお参りに行きます。1946年夏休み、母の故郷から帰京する時、兄と一緒に宮島口から広島駅前まで広電に乗りました。この時に見た広島の街の光景は、生涯忘れるものではありません。

 今回の転載についての責任は、全て乙訓の老人にあります。


【3845】台湾鉄道全線乗車の旅 Part12 二水鉄道公園、彰化機関区

5月29日(第10日目)
① 高鐡台北7:30-(高鐡407)→8:27高鐡台中 595元
② 新烏日8:47-(區間快車3807)→9:27二水  63元
③ 二水9:59-(區間快車3806)→10:29彰化   47元
④ 彰化13:14-(自強號1016)→14:06苗栗   162元
⑤ 苗栗16:37-(自強號1029)→17:33彰化    125元
⑥ 彰化17:57-(区間車2554)→19:54竹南    126元
⑦ 竹南20:28-(自強號1036)→21:55台北    223元
合計1,341元

昨日で、台湾鉄路一周周遊券は、使用完了しました。購入額は、1,200元(約3,500円)でした。
実際に単票で購入した場合は、①台北(自強號)→花蓮 445元 ②花蓮(自強號)→台東 355元 ③台東(復興號)→高雄 234元 ④高雄(自強號)→台中 470元 ⑤台中(自強號)→台北 375元 合計1,879元(約5,450円)でしたので、679元(約1,950円)お得になりました。

それにしても、台鐡の運賃・料金は、安い。日本であれば、同距離で、運賃だけでも7,350円はする。各列車の料金を加算すれば、20,000円は、超える。日本の約6分の1程度です。

台湾滞在も、残すところ後3日間となりました。今日も張り切ってのスタートです。昨日、ミスった二水駅へのリベンジのために、台湾新幹線に乗車して、台中へと向かいました。

ここで、台鐡に乗り換えですが、連絡通路は、まだ工事中で、迷ってしまって、右往左往をしました。台鐡の接続駅の駅名は、新台中ではなく、『新烏日駅』です。会社が違うわけですから、同じにする必要もないのですが、客の立場から言うと、同じ方が分りやすいですね。そして、競合会社なので、台鐡の優等列車は、停車しません。普通と快速だけです。

複線電化区間ですが、乗車列車は、集集線乗り入れのため、DR1000系の区間快車です。この先頭車の良い所は、前頭助手席の窓ガラスに、VTRカメラを置けるスペースがある事です。新烏日駅から二水駅までの走行動画を撮影しました。

40分で、二水駅到着。彰化県の二水は、台湾東部を二分する、台湾最長186.4 kmの河川である濁水溪のほとりに開けています。二水駅は、1905年に二八水駅として開業、1920年に改名されました。

かつては、縦貫線、集集線、台糖鐡路(明治製糖㈱南投~二八水(現・二水)間)の集合駅でした。機関区もあり、C12、8620、9600、C55、C57、D51や、台糖鉄路の豆ロコ等の多種のSLが、構内を走っていました。その時代の記念として、CT278號(C57)と、345號が、駅近くに静態保存されています。

線路沿いを5分も歩くと、着きました。大事に屋根が付けられた下には、2両のSLが、展示されていました。ここでも、台湾ギャル達が、記念写真を撮っています。台湾の鉄子ちゃんは、本当に多くて、熱心です。

ゆっくりと、見学した後、DR1000系の区間快車に、乗車して、彰化に向かいました。彰化駅に降り、駅舎のある1番月台(ホーム)に行き、びっくりしました。ご覧いただけるでしょうか?月台上から、煙のようなものが出ています。近寄ると、水を細噴霧していて、かなりの涼しさを感じます。確か、御堂筋通りで、夏を涼しくするためにしていたニュースを見たことがあります。正式には、なんと言うのか分りませんが、駅のホームでこれをやっているのは、初めて見ました。

しばらく見ていると、列車が入線する直前から、噴霧が始まります。かなりの強風噴霧です。その都度、『キャ~』と、叫び声が聞こえ、若い女性達は、逃げています。喜んでいるのは、子供達です。列車が発車すると、噴霧は、止まります。駅員に聞くと、台鐡では、彰化駅の1番月台だけの、サービスだと言います。こんなサービスを、日本の駅でやったら、どんな反響があるでしょうか。

出口で、昨日、閉館だと聞いた駅員に出会うと、にっこりして『今日は、大丈夫ですよ』と、言って、駅前まで出て、機関区への道順を教えて下さいました。本当に、台鐡の職員は、運転手といい、車掌といい、駅員といい、とても親切、丁寧です。

約10分で、彰化機関区に到着、入口で、住所と名前を書いて、係員から、見学する際の注意を聞きます。その後は、お好きなようにご覧くださいです。入場料は、要りません。家族連れが、大勢訪れていました。


梅小路や津山機関区と同様の、扇方機関区がありました。現役の機関区です。そこには、3両のSLが留置してありました。先日、平渓線で走行を撮影したCK124號、CK101號と、DT668號(D51)です。他にも、DL、ELや、珍しい工埕各車も、留置されています。全体を上から見学できるように、見学台も設置されていました。

CK101號と、CK124號は、現存する同型機では、各1両です。他は、既に解体されています。展示機もありません。貴重なSLです。CK100型は、汽車製です。

かつて、西部幹線旧山線区間には、25‰勾配区間があり、従来機では、牽引力不足問題をかけていました。これに対応すべく、汽車会社において、独自設計によるCK50型が、1905年試作機2両が、量産型として、1907年2両、1908年2両、1912年8両の計14両が、製造され、幹線で使用されました。性能及び走行面で、大変好評を得ました。

CK100型は、このCK50型をさらに高性能にした、改良機として、1916年4両、1919年4両の計8両が、汽車会社で製造されています。日本では、同一車種はありませんが、常総鉄道8・9号機が、最も類似しているらしいです。

日本統治後からは、新店線(萬華~郡区役所前 10.4km;1965年に廃線)、平渓線等の北部支線で、走行しました。1974年12月に引退しましたが、比較的に状態の良かったCK101號は、台北工場において、8ヶ月をかけて修復、1998年6月9日の台湾鉄道記念日に、台鐡最初の動態保存機として復活を遂げました。ただ、現在は、休眠しています。

CK50型は、1912年過熱式SLの登場以降は、支線や構内機へと、働き場所を替え、1961年前後に引退し、現在、CK58號1両のみが、高雄岡山県立文化中心に静態保存されています。

CK120型は、ご存知のとおり、日本統治下時代に送られたC12型です。1936年5両、1942年2両の計7両は、
日本車両で、製造されました。支線の客貨専用として活躍し、1979年台湾鉄路無煙化により、集集線で、最後を迎えています。

その後、CK124號だけは、淡水線北投員訓中心で、保管されていましたが、民国90年(2001年)記念として復活が、計画実施されました。修復に関しては、CK101修復経験済みの台北工場にて行われ、将来的な運用に耐えるように、ボイラー、水・石炭タンク等を新造し、約10ケ月にも及ぶ作業の末、鉄道記念日に、本線に再登場しました。

1941年川崎製のDT668號は、日本名D51型、台湾では、DT650型、台湾最大SLです。DT650型は、日本統治下時代の1939年から、32両が、川崎・汽車・日立で製造されました。しかし、1944年日立製DT678~DT682の5両は、戦争激化で、輸送できず、一時、日本国内でD511162~D511166として、使用され、戦後に輸送されています。加えて、戦後の1951年に、米国援助により、5両が三原車輌で製造、輸出されていますので、DT650型の総計は、37両と、なります。

現在、1939年川崎製のDT651號が、嘉義縣東石郷港口宮に、1940年汽車製のDT652號が、台南市體育公園に、1943年日立製のDT675號が、板橋台北縣立文化中心に、合計4両が、静態保存されています。台湾では、SL復活の声が高く、次回は、DT650型が、候補にあがっているそうです。

次は、苗栗鐡道博物館の見学ですが、長くなりましたので、分けて投稿します。
Part13へ続く


【3840】江若鉄道6号機のこと

懲りもせず江若鉄道の再現を進めています。珊瑚の古典大系A-8のキットが手に入ったので 江若で除雪用に最後まで生き残った6号機の晩年の姿にしようと、暇を見つけては組み立ててようやくかたちになって 試運転にこぎつけたところです。湯口先輩の「私鉄紀行No.39」の昭和29年当時の写真も大いに参考にさせて頂いたのですが、晩年の写真がなく多分発電機があったと思われるのですが、確証がないので どなたか6号機の晩年の写真をお持ちなら お教え頂きたく。炭庫は増炭仕様にかさ上げし、キャブには窓枠を入れましたが、これから面倒なコンプレッサとエアタンク、エア配管をしなければならず、上回りと下回りの切り離しをどうしようかと悩んでいるところです。煙突のチムニーキャップはなくして ストレートタイプにします。スノプローは両側に装着されていたのかもよくわからず、スノープローを付けると連結が難しくなるので これもどうしようかと考えているところです。

高島町駅の再現は足踏み状態ですが、6号機の前にキハ51とハフ2も完成し、車両の増備が先行している今日この頃です。