カフェに続いて巨大模型店も開店!

友人が知らせてくれたのですが、会員に話したところ「知らないので場所などを書いてくれ」と言われたのでURLを記します。

http://www.volks.co.jp/jp/hs/hs_kyoto.html

この模型店は昔、室町今出川にあったそうですが私は知りませんでした。

それにしても開店する場所が問題、西大路駅の北方の西大路通り東側にあった悪名高かったサラ金の「日栄」本社ビルです。かつては債務者に「肝臓うれ!」「腎臓売れ!」と脅しの電話で警察沙汰になった会社です。悪は栄えず、過払い利息の返還請求に耐えられずつぶれてしまいました。あのビルは巨大なものですからここで模型店とは大丈夫かいな?と心配してしまいます。まあ、時々は覗きに行ってみようとは思いますけど。

祇園にジオラマカフェ『デコイチ』オープン

厳寒の大地への旅を終えて、ようやく帰国しました。今日朝、朝日新聞を見ていましたら、祇園にジオラマカフェ『デコイチ』オープンの記事が載っていました。京都に、しかも家賃の高い祇園に出きるとは、ちょっとびっくりしました。模型班の皆様、一度寄ってみませんか。場所は、見つけるのが難しそうな所です。四条通を八坂神社に向かって、花見小路を左に曲がって、約300m直進、祇をん神門荘がある角を右折して、東に入った7軒目、祇園フォレリール2Fです。鉄道好きで、模型を運転してくれるスタッフを募集中だそうで、趣味と実益を望まれる方は連絡してあげて下さい。責任者は、本山支配人です。記事内容は、下記のとおりです。
http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000170912100001

続々東海道あれこれ①

三島で宿(アルファ・ワン)を予約したのは2度目である。BHを利用するようになったのは1989年九州旅行の時からで、夕は居酒屋、朝はコンビニのスタイルが確立した。宿は駅前だから荷を置くや5軒先の居酒屋へ潜りこんだ。魚料理売り物の「庄屋」と称する店で、縞鯛の煮付け、おでん、胡瓜の糠付け、飯1杯、ビール大1本で2,500円で釣りがきた。ほろ酔いで宿に戻りしばらくニュースを見ていたら寝てしまった。深夜3時過ぎに目が覚めた。風呂に湯を入れ目覚まし代わりとする。ひげをそり、0415からテレビ観賞。自宅でも土曜日のこのスタイルは変わらない。

 こんなことで三島駅には7時前に登場である。霧が濃い。喫茶店が見当たらないので天麩羅そばを賞味する。伊豆箱根のホームには西武の中古車が客を待っている。「霧のため徐行運転をしておりますので全列車5分遅れています。」と、アナウンスしている。自動改札器は自社線キップとJRのキップを一緒に入れろとあるので2枚入れた。ピンポーン、通してくれない。きっと老人のジパングの方に問題があるのだろう。ホームの中古車は100系の後期車で、最近引退を始めたグループのものだ。1301140122013連だ。これに乗って一先ず大場まで行く事にした。

広小路を出たら霧は益々濃くなってきた。架線電柱の2本目が見えない。視界780mであろう。大場の手前、PSコンクリートの橋は霧に埋まって姿を現さない。この橋の架け替え工事の時、この場所にやって来た。ポン友・三好好三さんと三角トラス組の架線柱が話題となり、1994年東北旅行では仙石線矢本付近で見付け、かぶりつきから一発仕留めた。数年後、大場車庫へ向かう途中、この地で発見。車庫訪問後に撮りにきた。撤去された三角柱は転がっていた。関西では見られないもので、買収国電の線区で時折見られるものであった。

大場の駅付近は少し明るい。駅では8分遅れと言っている。霧が晴れるには後1時間かかるであろう。老人は川べりに住まいしているから分かる。昨日は雨、今日は霧、ついとらんなぁ。そうだ、830分過ぎに東京行きがあったぞ。それに乗ろう。そこで大場から三島に戻ることにした。9分おくれでやって来た300130023501編成に乗る。3001に乗って気付いた事がある。中間車3002の車内が変わっている。3扉車の扉間は明るい茶色の対向クロス22列の筈が、やけにブルーのシート地が目立つではないか。行ってみると扉間62列の転換クロスに取替えられていた。伊豆箱根JR西日本113系更新バージョンといったところである。

東京直通の湘南電車231系を待っていたら、彼方の伊豆急ホームには最新型7200系が到着。こちらの腰部分はカッテングシール張りの賑やかなものになっている。この系列の中間車は2扉車で、はじめから転換クロス車であった。座席指定にして別料金でも取るつもりだったのかもしれないが、今のところ特別扱いはしていない。元西武700系であった1000系は見られなかったから、もう引退したのであろう。当線の7時台は5列車の設定で、岳南も同様である。いつの間にかワンマン運転になっていた。

丹那トンネルを出ると快晴である。伊豆半島の東西でこれだけ気象が異なるのはどうしてであろうか。熱海では伊豆急2100系が乗り換え客を待っていたが、東急中古車の受け皿となり観光電車も引退する日は近いようである。昨春訪問が叶ったが、東急8000系の片側(海)が転換クロスに改造されており、

これには参ったなあ、と思った。これを見て伊豆急の3002号が誕生したのかもしれない。

 小田原を前にして箱根登山いや小田急の登山電車連絡専用の赤い電車と競争になったが、あっと言う間に抜き去った。箱根登山線は湯本~強羅間を4回に分けて東海道を歩いている。この話はまたの機会としよう。酒匂川を越え、恨畜生の富士フィルムの工場を後にすると“富士山”が目に入る。231系ボックスシートで東京に尻を向けている。小田原で乗客の大半の入れ替わりがあり、席の位置を変えておいた。富士は5合目辺りまで雪に覆われている。国府津を過ぎて一旦見えなくなる。二宮あたりで再び見えてくるが、今度は5合目から上で、真っ白である。神々しい思いがする。裾野を引き摺るよりきれいだ。富士を撮るなら富士見へ、富士岡へと撮り鉄のお立ち台があるようだが、老人のような乗り鉄は、あちこちに移動展望区間を設定している。このあたりで幕を引く事にしよう。(2009.12.09.記)

 

1954年3月北陸から長野、三重 その8


三岐鉄道キハ5+ハフ11 (国鉄)富田

最後の余力?を振り絞り、三岐鉄道が分岐する富田へ。この時点架線は既に張ってあったがまだ電化に到らず、蒸機とディーゼルカーだったのに、なぜか蒸機は撮っていない。この鉄道の開業は1931年7月23日と遅いが、初めから客貨分離で客車はなく、旅客用にキハ1~5の同形車5両を投入。江若鉄道キニ3と同図(同形車)だが、機関がウォーケシャ6SRL(江若はブダBA-6)。手荷物室があるのに記号はキハニではなくキハで、1931年6月日車本店製、両荷台は敗戦後の装着である。


キハ5 荷台と窓2段化で分からないが 江若鉄道キニ3と(機関以外)同形車だった

燃料が不自由になった戦時中は混合列車を運行せざるを得ず、私鉄、国鉄からボギー車、2軸車を購入。この時期の買い付けだからまさしく雑多の寄せ集めだが、珍しく半鋼製2軸車が4両あった。


ハフ11←鶴見臨港鉄道モハ51 

ハフ11、12は汽車会社1932年製鶴見臨港鉄道(鉄道線)の2軸電車モハ51、52。台車はブリル、片側車軸上にパンタがあったが、貨車用の単軸受に交換し、当然自連も装備。入線当時はハフ1、2を名乗っていた。


ハフ13 車体は戦時中の新製だが、屋根上のトルペードベンチレーターは旧車から取外した?

ハフ13は芸備鉄道買収車で、その前は日露戦争当時陸軍が多数のB6機関車と共に現地に持ち込んだ新橋工場1904年製木製客車だった。芸備ではハユフ1で三岐でも同番だったが、戦時中名古屋工機部で木製車体を新製。除去した旧車体はその後も三岐の社紋のまま富田に物置で残存していた。


ハフ15←神中鉄道キハ11 のち別府鉄道ハフ6に

ハフ14、15は旧神中鉄道のキハ10、11で、日車東京支店1930年製の、一見丈夫そうな2軸車。下降式窓は2段(下段上昇)に、乗務員扉も埋められ窓になっている。


ハフ16 のち別府鉄道ハフ7 

ハフ16はやはり旧神中鉄道のハ24で、汽車1926年製オープンデッキ車。なお当線電化後ハフ14~16の3両がキハ5、キハニ6とも、別府鉄道にやってきてハフ5~7、キハ2(二代目)、キハ3になったのが周知である。なお別府廃止後キハ3は佐久市に引取られ、本来の佐久鉄道キホハニ56に復元(100%厳密な復元とは言いかねるが)され静態展示。ハフ16も相模鉄道に無償で譲られ、保存されている。

このほか三岐には旧神中鉄道ホハ200も購入しホハフ201としており、車体を半鋼で新製したが、小生が訪ねた前年に日本軽金属(蒲原)に売却したので、結局見ず仕舞であった。

三岐鉄道は1955年電化するが、電気機関車は貨物のみ牽引。旅客はディーゼルカーが分担するという特異な運行を続け、1956年以降社型国電を導入。また貨物は当然関西本線への接続だが、旅客は1970年6月25日近鉄名古屋線の近鉄富田に変更し、数少ない国鉄富田接続のためにディーゼルカーを保有し続けた。その後気動車はキハ1~3を津軽鉄道キハ2406、2405、2404に売り飛ばし、2404はさらに上武鉄道キハ2400に転じている。謎の多いキハ7も北陸鉄道(能登線)に譲渡しキハ5162になったが、廃車後日本海の藻屑―漁礁として沈められた。

最終日のみ個別活動した3人は指定の列車に参集し京都へ。乗車券は草津で切れ、山科で下車すると草津-山科分を払わにゃならん。手元著しく不如意とあって、心ならずも山科では先頭客車からホームと反対側に下車?したら、機関士か助手かに見付かり、「おーい、2人逃げよるぞー」と大声が発せられたが、無事逃げおおせた。当時の駅はどこも開けっぴろげだったから、まことに「人に優し」かった。(この項終わり)

続・東海道あれこれ①

家山駅前で菓子パン2ケと自販機で飲物を調達して、気になっていた豆デジカメの首尾を点検したら2発共に失敗であった。本日やり直しは不可能である。1330発で金谷に戻る。交換した下り列車は元南海210034の2連だが外部塗装はボロボロだ。乗ったのは元吉野特急の16001、まだ荒れ果てた姿とはなっていない。この日、本線上では元吉野が2本稼動しており新金谷庫外に1本、更に庫内にピカピカが1本、計4本。1本増えているが、これが元南海の1本を追放するのであろう。当線は1日4本で運用可能。予備、全検用を各1本とすれば6本あればOKとなる。元近鉄名古屋線特急は姿を消しており、そのうち元女王様も退位の宣告を受け、全て吉野特急になる日が近いのではないかと思う……。仁蓮上人の笑顔が浮かび上って来る。その時は腰が痛いとぼやかずに「川根温泉」で治療に当られたし。

金谷1409発興津行きで東行、211系である。静岡で1454発熱海行きに乗り換え。今度は313系となる。吉原で下車、岳南鉄道である。先ずトイレへ。年を取るとトイレが眼に入るとあれこれ考えずに直行する。外は本降りとなっている。せいせいしたところで出札口へ。終点、往復」といったら、硬券と600円が返ってきた。片道350円なのにと思いながら硬券に目をやると全線1日フリー乗車券とある。出札のオバサンに聞けば土・日・祝日のみ通用で400円なのだそうだ。これはお得な乗車券である。

そして差し出されたコピー、「機関車まつり」とある。SLでなくELである。開催日は1212日(土)、午前930分~15時、会場:比奈駅、催し物【一部を紹介する】比奈駅:機関車乗車体験(会費1,000円)、吉原~比奈間:機関車重連(ED403ED402)運転、下り吉原発938→比奈954、機関車プッシュプル運転(ED403・中間に貨車・ED402)上り比奈発1303→吉原1319着、下り吉原発1404→比奈1421着。詳しくは電話0545330510に問い合わせのこと。哲男君、君が紹介した梓川上流のダム建設工事で活躍した“ELまつり”ですぞ!そして比奈駅1257には7000系、8000系の電車に加えED501ED403ED402を並べて撮影会をするとの耳寄りな話!さあ、京王電鉄で飯を食わせてもらった準特急もお出ましか!

お釣りの600円に30円加えてNゲージ1107形を購入する。孫へのお土産の追加である。15507003号で江尾に向かう。保線状態は誠によい。大井川も少しは力を入れて欲しい。上下分離方式で中部電力に相談を持ち掛けるとどうなるだろうか? ジャトコ前なる駅がある。何時改名したのか、前名は何か思い出せない。7001号入線直後以来の訪問だが、その時はどうだったのかな? あの時は7001号と青蛙の走行音に聞き耳を立てていたので駅名などかまっていなかった。

比奈にはED501が留置されている。今も入換担当なのだろう。構外には元小田急の達磨さんが3両放置されたままである。この辺りには“アパッチ軍団”は出没しないようだ。富士岡の車庫には7002号とED402403が建屋内に、ED291は屋外留置線にある。今も入換に使っているのか気になる。いずれ哲男君から当電鉄の薀蓄が披露されるであろう。

乗降客は途中入れ替わりあって延べ23人。神谷で吉原から一緒だった22人目のご婦人が下車、後は23人目の老人一人で終点到着。80002連が留置されていた。朝のどの列車に充当されるのだろうか、聞き洩らした。雨の中、頭上を新幹線が唸りを立て走り去る。近くに閑静な住宅街があるが、どちらが先住民なのか気になる。運転手君が戻ってきた。一日乗車券を見せたら「どうも恐縮です」と会釈されてしまった。老人の貸し切りとなったのは須津(すど)迄で、それからボツボツ乗降する人が増える。前回乗った時は外国からの出稼者が目立ったが、今回は殆ど見当たらない。これは東海道線でも同じ傾向で、現在の日本を象徴する光景なのである。吉原着で降車客を数えたら40人を超えていた。  

吉原1654発、三島1717着。静岡からは3132500番代ロングシート車で、本日2回目の乗車であった。始めに立てた計画では19時過ぎに三島到着だったのだが、大井川で最悪の女王様のお成りに加え雨のため完全な乗り鉄になってしまい、つまらん東海道中になってしまった。また良いこともあろうと、期待している老人である。(2009.12.08.記)

東海道あれこれ①

息子が関東圏に進出して15年になる。以来、東海道を上り下りする機会が多くなった。時間の許すかぎり普通列車に乗るように心掛けている。2009年は44日、浜松下車で遠州鉄道、静岡下車で静岡鉄道が覗けた。そして今回125日は先ず金谷からスタートである。時間を倹約するため乙訓の陋屋を640に出発、新幹線729京都発、掛川下車935から「あれこれ」開始となった。

 ちょっと省略して新金谷に1000前に到着。連絡列車ないのに、と訝る人もあるかもしれない。島田市民病院行きバスがある。新幹線829発では駄目である。電車は180円、バスは160円。20円の儲けとなる。バスは新金谷駅前には立ち寄らない。大鐡との踏切、「金谷口」で下車。徒歩3分で大鐡本社前に到着する。平日は2階へ上ればいろいろ便宜を図って貰える。土、日は階下の駅事務室に行けば「鐡」向けの応対が保障される。これは白井元副社長の薫陶によるものと思われる。今回は2007921日訪問時、京阪の元女王が検査待ちで家山に留置されている姿しか見られなかったので、今生の思い出に元気に走りだした雄姿に手を合わせたいとの念願でやって来た。盆明けにturukame氏から走り出したとの報を受け行動をおこしたのだが、関ヶ原~掛川間は晴れていたのに牧ノ野原台地へ来ると時雨れており、日頃の精進の悪さを再認識することになった。

 駅では持参した手作りの運行図表に、本日の元女王の足跡予定を赤線でなぞる。千頭1142発。なに、この筋は「撮り鉄」向きではない。金谷1302着の後、新金谷へ戻り検査入場、1705再登場となる絶望運用なのである。今回、老人は体調のこともあり「撮り鉄」ではないが、豆デジカメをポケットに忍ばせてきた。1993年春、白井昭さんから女王が川根路を走ることになると聞かされ、新金谷に留置された仮台車姿の車体を、1995年盆休みには2日間、川筋をはしる姿を追い掛けた。以来、2007年まで毎年のように「大鐡詣で」を続けてきたが2008年に途切れた。今回はどうするか、後の行程を考え奥に入ることは諦め一先ず家山に向かうことにした。

 1010発でビルマから帰国したC56が、空車の客車4両を引き連れED101の後押しで下って行った。老人は1056新金谷発で下る。この日のSL急行設定は新金谷1158発の「かわね路号」なのだが、金谷発1107発の臨レがあり、貸切バスの中高年の女性で駅売店やSLランドをうろつき賑わっている。老人もつられてC12の玩具を買ってしまった。これは孫が「トーマスとその一族」の事で爺に挑んでくるので、「日本のSLはこれだ!」と教育するためである。家山に着いて一思案。構内で上りの女王様を出迎え、下る「かわね路号」を後にして女王様に打ちまたがり金谷に向うか、どうしたものだろうかと迷う。新しいトイレで、まだ考えている。済ませて外に出ると山間が明るくなって来た。よし!決めた、家山鉄橋でお待ち申し上げようとトボトボと歩く事15分、鉄橋の下にたどり着いた。今回はゴム草履なしだから県道利用である。その頃、一度上った筈のが再び時雨れてきた。「大鐵」の鉄橋下は雨宿りにはならない。平行する県道の下、切り株に腰を下ろし「臨レ」を待つ事しばし、1143にやって来た。C11193牽引、E501後押しの客車6両の編成であった。

 そして本番、1220に切り株から再び腰を上げ、木立の間から家山駅方向が見える位置に立つ、:26前部標識灯2ケのものが到着した、鉄橋を今朝見た里帰りC56先頭の「かわね路号」が軽い足取りで家山駅構内に進入して行った。:29、タイフォーンと汽笛が程よい間隔で鳴る。鉄橋に踏み入れたところで一発、100m進行して二発目と計算して豆デジカメを鉄橋の方に向ける。一発目OK、二発目、傘が被さってきた。左手で払う間に女王様は迫ってくる。豆デジカメは言う事を聞かない。つまり連射が利かないのである。タイミングはずれた。アーア、雨の中をお迎えするなんて、大スカタンである。でも、これでもう一度、拝礼のチャンスが与えられた。今度は大井川第4鉄橋でお迎えすることにしよう。turukameさん御推薦の“かわね温泉”泊まりにすることにしよう。(2009.12.07.記)

日本最古の木造客車を募金で修復へ 鳥取

【産経新聞izaより転載】

 鳥取県米子市の商店街、元町サンロードの「ぱてぃお広場」に展示されている国内最古の木造電車の修復運動を盛り上げようと同広場で7日、家庭で不要になった電化製品や車、バイクなどを1円で買い取る取り組みが始まった。修復費を集める募金活動を知ってもらおうとの試みで、1円はそのまま寄付してもらう仕組み。同広場で13日まで受け付ける。

記事本文の続き 展示されているのは、米子市と旧西伯町(現南部町)を結んで大正13年に開業した法勝寺電車の「フ50形客車」。昭和42年の路線廃止後は、市がこの客車を引き取り湊山公園で展示していた。しかし、放置されて傷みが激しくなったことから、平成13年に修復されて現在の場所に移転。そのときの調査で、明治20年に英国バーミンガム市で製造された日本国内に残る最古の木造客車と判明した。

 前回の修復から8年が経過し、塗装の劣化が進み、再び修復が必要となっているため今年10月、元町通り商店街振興組合が「行政に頼らず、自分たちで修復を」と募金を開始。本来なら処分費用がかかる不要品を買い取ることで、募金自体をより多くの市民に知ってもらうのが狙いという。

 同組合の高橋信三・活性化委員長は「貴重な客車の修復くらいは自分たちで何とかする商都米子の心意気を見せたい」と話す。

 買い取りに関する問い合わせは「恵伸サービス」(090・9063・6303)。

松本電鉄・大糸線

湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重 その4」で松本電鉄上高地線(当時の名称は島々線で昭和30年4月上高地線に改称)と大糸線について、当時の貴重な画像と共にご紹介いただいたが、昭和50年前後の状況を書いてみたい。

松本電鉄上高地線

歴史は意外に古く、大正9年3月筑摩鉄道として設立、翌年の10月松本~新村間を開業、11年5月に波多(昭和31年5月波田に改称)、同年9月に島々まで開業した。以降の動きを簡単に纏めると次の通りである。同年10月社名に「電気」を挿入して「筑摩電気鉄道」に変更、昭和7年12月松本電気鉄道に再度社名変更した。戦後の動きは、昭和30年4月線名を「島々線」から「上高地線」に変更。32年11月架線電圧を600Ⅴから750Ⅴに昇圧。41年10月赤松駅を「新島々」に改称して駅前に上高地、乗鞍方面行のバスターミナルを設置。58年9月28日台風による土砂災害のため新島々~島々間が不通となり休止を経て昭和61年1月廃止。61年12月架線電圧を1500Ⅴに昇圧すると共にワンマン運転開始。平成11年10月ATSを設置。平成19年3月21日新村車庫で保管されていたハニフ1を鉄道博物館に寄贈のため搬出。

松本電鉄は川中島バス、諏訪バス等を統括するアルピコグループの中核企業であるが、少子高齢化による人口の減少、通勤客のマイカーへの転移等で、電車、バスの利用者が減少により、メインバンクに対し私的整理ガイドラインに則った再生支援を要請した。また、大正9年の創業時に建設された、西松本~渚間の田川鉄橋、渚~信濃新井間の奈良井川鉄橋が国交省から「数年以内に抜本的な対策が望ましい」との指摘を受け、架け替え工事費が数十億円もかかるとかで、会社側から「行政の支援がなければ事業継続は困難」との見解を示された。一昨年の8月下旬、槍ヶ岳登山の帰り、上高地から松本行の直通バスに乗車した時、新村を過ぎた辺りから交通渋滞のため、ダイヤ上では40分の新島々~松本間が2時間半もかかり大変な目にあった。松本市はご承知の通り城下町のため市内の道路が狭く、行楽シーズンの午後は大渋滞となることと、沿線の高校、大学の通学の足として学生の利用が相当数あること、夏季を中心に登山客、観光客の利用が相当数あること等により、バスへの転換は無理な面があると思われるため、行政側もしっかり支援していただきたい。

車両について

電車

湯口先輩が訪れられた当時の電車は昭和33年から39年にかけて、当時、日本車両が地方私鉄向けに製造した「日車標準車体」に乗せ替えられて、形式モハ10形・10-1~10-11の奇数の5両(-は解説上付けたもので実車には表示はない)とクハ10形10-2の計6両となっていた。昭和61年12月24日架線電圧の1500Ⅴ昇圧時に元東急デハ5000形改造のモハ5000形5両、クハ5000形3両と交替で廃車となった。モハ5000形も、老朽化のため平成11年と12年に元京王電鉄井の頭線のデハ3100形・3050形改造のモハ3000形+クハ3000形4編成と交替して廃車となった。

 

 

上 モハ103 下 モハ101 波田 (50.11.23)

 

モハ107+モハ1011 森口~下島 (45.3.18)

電動貨車

湯口先輩はデワ2を新村で撮影されておられるが、私が訪れた時は森口駅の直ぐ傍の工場(社名は忘れた)に出入する貨車の入換と、屋根の島々寄りに櫓が取り付けられ、架線修理車して使用されていた。

森口  (45.3.18)

電気機関車

湯口先輩の訪問時には機関車がなく、前述のデワ2がその任に当たっていたが、昭和35年6月西武鉄道からED301を購入、昭和40年から44年かけて梓川に建設された奈川渡、水殿、稲核の各ダム工事の資材輸送のためED402・403の2両を新車で購入し、計3両が在籍した。

ED301

大正15年アメリカ・ボールドウィン社(機械部分)ウェスチングハウス社(電気部分)製で昭和35年6月西武鉄道から購入した。元を正せば、大糸線松本~信濃大町間の前身信濃鉄道電化時に新製された1~3のうちの3で昭和12年6月国有化によりED223に改番、昭和31年に廃車となり西武鉄道に譲渡されA1形A1に改番した。平成7年9月廃車となったが、機器扱いで現在も残されている。

 

森口  (45.3.18)

ED402・403

前述の通りダム工事の資材輸送のため、昭和40年10月日本車両で新製した。新製当時の架線電圧は750Vであったが、工事終了後他社への売却を考慮して1500Vとの複電圧回路であった。工事終了後、昭和46年に岳南鉄道に売却され、改番されることなく使用されている。

 

波田  (45.3.18)

ハニフ1について

前述の通り平成19年3月21日鉄道博物館に寄贈のため新村車庫から搬出されたが、寄贈が決まった平成18年12月から搬出日までの土日に一般公開が実施され、搬送当日には盛大な式典が実施された。当件は後日知り、事前に判っておれば無理をしてでも行っていたのに非常に残念であった。以前から寄贈の話は何度かあったが、交換条件が折り合わず実施に至らなかったという話を聞いたことがある。

大糸線

湯口先輩が北松本区で撮影された元信濃鉄道買収車クハ5101、モハ1101、モハユニ3100は、当時の買収国電を撮影されておられた方が少なかった時代の記録として大変貴重である。車両の詳しい経歴等は佐竹先輩著作のネコパブ社発行「私鉄買収国電」をご覧いただきたい。買収後は東京から17m車が転入して信濃鉄道の買収車を置換えた。モハユニ3100の代わりは20mのモハユニ44000と100が務めた。モハユニ61001が前身のモハユニ44100は昭和35年両運に改造され、クモハユニ64000に改番され、自連付で貨車を牽引していた。昭和45年8月クモユニ81003と交替して岡山区に転属して赤穂線で使用、昭和52年9月静岡に転属して入替えと大船工場への入出庫車の控車として使用、翌年8月に伊那松島区に転属して飯田線で本来の目的で使用後、昭和59年2月に廃車となった。

17m車は、関西から転入したクモハ51、54、関東から転入したクモハ60、クハ55、サハ57等に置き換えられて廃車となった。現在は115系と大糸線専用車として新製されたE127系100番台が使用されている。E127系は交流の701系の直流版とも言うべき車両で0番代は新潟地区で使用されている。昼間の2連の列車は信濃大町以北、一部は有明以北の殆どがワンマン化されている。かつては春から秋にかけての行楽シーズンは、登山客、観光客で賑わい、新宿、名古屋からの臨時の直通列車が多数運転されていたが最近では減少している。理由はマイカーへのシフトもあるが、長野新幹線の影響が大きい。長野新幹線と大糸線は一見関係なさそうに見えるが、東京から白馬や信濃大町へは松本で大糸線に乗換えるよりも、長野で特急バスに乗換える方が断然早い。おまけにバスは栂池やアルペンルートの扇沢まで直通する。また、白馬駅ではバスと新幹線の直通切符を発売しており、山から下りてきた登山者は、運賃が高くても自宅までの所要時間が短い方を選択する傾向がある。

旧形国電時代の車両については書きはじめるとキリがないため、後日機会があれば解説することにして、今回は列車写真を中心に貼り付けた。

 

ED602牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25) 

 

ED603牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25) 

 

急行「アルプス4号」細野~北細野 (48.3.25) 中央東線急行の基本編成

南小谷12時16分発信濃大町まで普通、信濃大町から急行となる。5両目は売店付きのサハ164である。

 

急行「アルプス8号」信濃大町 (48.3.25) 中央東線急行の付属編成

新宿を23時45分に発車して、付属編成が松本から普通列車となる南小谷行

 

クモハ51013+クハ55405+クモハ51014+サハ57400+クモハ51011+クハ55439 信濃大町(48..14) 

クモハは全部51形である。旧形の基本編成は4両と2両があり、4+2の6両編成が多かった。

 

クモハ54004+クハ55430+クハ55439+クモハ12000+サハ57400+クモハ60082 信濃大町(48.3.25)

中間に17mのクモハ12が入っている。両運のためクモユニ81003の予備車として残された。2丁パンタで上がっていない方は霜取用である。

 

クモユニ81003他7連 信濃大町 (50.11.23)

 

6両編成の普通列車 細野~北細野 (48.3.25)

 

糸魚川~信濃大町間のDC列車 上 キハ5243 下 キハユニ2629 信濃大町 (50.11.23)

当時、糸魚川から信濃大町まで2往復、白馬まで1往復のDC列車が設定されていた。糸魚川~信濃大町間に2往復もDC列車が残されていた理由は、郵便・荷物輸送のためで、信濃大町でキハユニ26からクモユニ81に積み替えられていた。(下りの場合は逆)南小谷で積み替えを実施しなかった理由は、信濃大町以北のホームの有効長や南小谷駅の設備の関係があった。

 

 

クモハE127-105+クハE126-105   白馬 (H13.8.18)

E127系は、平成10年12月より使用を開始し、MT2両編成が12本、24両在籍する。座席は南小谷方面に向かって左側がクロスシート、右側がロングシートになっている。信濃大町以北(一部の列車は有明以北)はワンマン運転になっている。画像の列車は松本から更に先の辰野行であるが、平成15年12月より松本~塩尻間のATSがSN形からP形に変更されたため、乗り入れができなくなり大糸線専用になった。

満ち欠け

【欠け】 先日、飯田線を訪れたとき、面白い信号機がありました。

単線閉塞区間なので、黄色が不要なんですね。
3灯式信号機の黄色い部分にフタがしてあります。
これなら青の無い色灯式信号機があるのではと探してみると、
案外近くで見つかりました。


中央東線、日野駅の下り方の中線(待避線)へ入る信号機がそうでした。
分岐部分でS字にカーブしていて、徐行運転が必須の様です。
でも流石に赤の無い色灯式鉄道信号機なんて、無いでしょう?
工事区間の徐行解除を示す青の円盤(標識)は別として。 (^^;)

【満ち】 さて今度は満ちている方です。
先日、修善寺/花月園のレイアウトを『583』で占拠しました。

しかし最後の画面に写るパトカーには出来すぎの感が。 (大笑い)