江若鉄道三井寺下再現(その3)

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

三井寺下の工事はボチボチですが、車輌の方に浮気をして オークションで入手したサンゴのB10キットを改造して 1118が完成しました。1118(国鉄1070形)とB10はよく似ていますが 動輪径がφ1400のB10に比べてφ1524と大きいという違いがあります。でも1/80にすれば1ミリ強の違いなので 気にしないことにしてサイドタンクやコンプレッサー、エアタンクの位置を変えて1118らしくなりました。これで当社のSLはC111、6号機に次いで3両となりました。こうなるといよいよ木造のホハ101~103を作らねばならないかと夢をふくらませています。実は今 オークションでバルカンアイアンのB1 サドルタンクを入札中で 落札して1B1の100号(元宇部鉄道100→国鉄205)に改造して 4両目のSLにと目論んでいます。と言うようなわけで 三井寺下の工事は足踏み状態です。

江若鉄道三井寺下再現(その2)

撤??鉄道ハ11

播但鉄道ハ11

連日の猛暑にうんざりしながら、工事が停滞していますが、ようやく朝晩が涼しくなってきて工事を再開する気分になってきました。まずは気分転換のために 三井寺下車庫に鎮座していた旧播但鉄道のハ11を一晩で作りました。ここでも湯口先輩の「丹波の煙 伊勢の径」の写真が大変役立っています。走らせるための模型は数多く作ってきましたが、廃車体を作ったのは初めてです。レイアウトが完成した暁には アクセントになってくれるでしょう。ところで またまたこの廃車体の色がわかりません。塗り分けではなさそうで、それもかなり薄い色のように見えるのですが、ご存知の方があれば 教えてください。実物の屋根にはキャンバスがダラリと掛けられているのをどのように表現しようかと 思い悩んでいるところです。

ところで 藤本氏の標茶、茶内 そして歌登の簡易軌道の写真と解説を興味深く拝見しました。湯口先輩の「簡易軌道見聞録」の話が出てきますが、以前から入手したいと思っていて いまだに手にすることができず どなたかにお借りして拝見したいと思っています。

持っている人いますか?

近くの老舗のご主人(商学部卒)が仲間だと最近知りました。

来年にある親鸞聖人750回忌に関して650回忌の時に作られたという梅小路仮駅についての資料を見せてほしいとのご依頼が当会にあったらしく、玉座から私に訪問してご説明せよと命令を受けました。

その方から「戦前にあった“鉄道”という雑誌を見たいのだが古本屋でも売っていない。だれか持っている人はいないか?見せてほしい」とのご依頼がありました。「我が会は何でも持っている人がいます。一度調べてみましょう」といって帰ってきました。

どなたか「鉄道」という雑誌をお持ちの方はいませんか?見せてくれる方はいませんか?お尋ねします。

歌登町営軌道

小頓別に到着した昭和39年泰和車両製の自走客車

幌延町営軌道を後に問寒別駅8時27分発324D(キハ22×2)に乗車した。稚内発旭川行で、宗谷本線全線を6時間40分かけて走破する列車である。約1時間で音威子府に到着、天北線経由稚内行725Dに乗換え、小頓別に10時26分に到着した。この時間帯は町営軌道の接続はなく、駅前から枝幸行の宗谷バスが接続した。女性車掌が乗務する中1扉のツーマン車で、乗客は思いのほか多く座席は7割方埋まっていた。「上毛登別」「下毛登別」「12線」と停車し、約30分で「歌登」に到着、降りたのは私の他3名であった。この先に大きな町はないので、殆どの乗客は終点の枝幸まで行くのであろう。

バス停から200m程歩くと線路があり、13時20分発小頓別行になる自走客車が停まっていた。寒冷地のためか立派な車庫があり、使用していない車両はその中に格納されており、外に出ていたのは、ロータリー車と廃車になった元十勝鉄道の客車だけであった。発車時間まで見学・撮影し、車内に入ると運転台横には運賃箱があり、歌登と小頓別からの運賃表が掲示されていた。途中駅間の運賃表示のないのが気になったが、そんな乗客は非常に少ないのであろう。歌登発車時は4人であったが、途中の停留所からボツボツ乗客があり、小頓別到着時は12名になっていた。小頓別から「急行天北」に乗車したが座席の8割位が塞がっていた。行きに乗った枝幸行の宗谷バスといい、まだ公共交通機関がアテにされていた時代であった。   

【沿 革】

宗谷本線は大正元年11月に音威子府まで延伸開業し、その後、小頓別、中頓別、浜頓別、浅芽野、鬼志別と小刻みに延伸開業を繰り返し、大正11年11月に稚内に達した。当初は咲来からオホーツク海沿岸の中心的な町であった枝幸を経由する予定であったが、音威子府から浜頓別に向かうルートに変更されたため、小頓別と枝幸を結ぶ簡易軌道が北海道廰により建設され、昭和4年12月小頓別~幌別六線(後の歌登)間、昭和5年9月枝幸まで全通し、枝幸線と呼ばれた。当初動力は馬力であったが、昭和8年にガソリン機関車が導入された。当初は運行組合に運営を委託していたが、昭和7年5月より北海道廰直営となった。翌8年11月幌別六線~志美宇丹間の幌別線が馬力により開業した。昭和19年11月興浜北線(浜頓別~北見枝幸)が不要不急路線として撤去されると、枝幸への唯一の足として乗客、貨物共に増加したため、難所の小頓別~毛登別間をトンネルでショートカットする工事が実施され昭和22年4月に完成した。しかし、戦後間もなく昭和20年12月に興浜北線の運転が再開されると、枝幸まで行く乗客はそちらに流れてしまい、昭和23年幌別六線~枝幸間が休止となり、昭和26年に正式に廃止になると共に、残りの区間の運営を歌登村に移管した。「幌別六線」はこの時に「歌登」に改称されたものと思われる。

話が前後するが、昭和14年9月枝幸村から分村して歌登村が誕生し、昭和37年1月歌登町発足により、村営から町営となった。

歌登~志美宇丹間は昭和37年から動力化工事が開始され、昭和40年6月15日に完成し、開業したが、国鉄美幸線の工事に伴い建設用地に充てるため昭和43年12月31日以降休止となり、翌年5月に廃止となった。美幸線自体は、美深~仁宇布間21.2キロを昭和39年10月5日に開業したが、大赤字のため昭和60年9月17日限りで廃止なった。未成区間の仁宇布~北見枝幸間57.6キロ間は、路盤工事が100%完成し、一部では軌道の敷設も行われており、完成目前で中止となった。

残る小頓別~歌登間も乗客の減少により昭和45年10月31日限りで運行を休止し、翌年の46年5月26日に廃線式が行われた。

【車 両】

昭和44年10月1日現在の在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車2両/昭和40年泰和車両製8t(機関/日野DA59)

自走客車3両、内訳/昭和38年、39年、40年各1両、いずれも泰和車両製(機関/日野DS60)

ロータリー車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

ラッセル車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

6t積鉄製有蓋貨車1両/昭和40年泰和車両製

6t木製無蓋貨車3両/昭和40年泰和車両製

材運台車46両

上記の他、歌登に元十勝鉄道コホハ44(大正13年藤田鉄工所製、昭和32年泰和車両で鋼体化改造/昭和35年購入)と小頓別に昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体があった。

 

昭和39年泰和車両製の自走客車

 

運転台と車内

 

昭和40年泰和車両製のロータリー車

 

元十勝鉄道の客車の廃車体

 

昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体/運転台が片側にしかない単端式の2軸車で、エンジンはダットサンを積んでいた。定員は15名となっているが、そんなに乗れば呼吸困難になると思われ、実際には8名も乗れば満員である。窓が開かないので夏は使用できないのと小さ過ぎて使い物にならないため、早々と小頓別で物置になった。「歌登のマイクロレールバス」として模型化されており、割に有名な車両であった。

【運 行】

昭和44年10月1日現在、旅客列車4往復、貨物列車1往復が運行され、時刻表は別添の通りである。貨物列車のダイヤは、歌登発8時30分→小頓別着9時20分、小頓別発11時→歌登着11時50分であった。

歌登~小頓別間に中央、秋川(仙)、秋川(定)、熊の沢、柴山、大島、毛登別、吉田の8カ所の停留所があり、中央、熊の沢、毛登別は交換可能であった。また、歌登~志美宇丹間には辺毛内、興生、北志美宇丹の3カ所の停留所があった。

簡易軌道廃止後は小頓別~枝幸間の宗谷バスで代替されたが、小頓別~歌登間は廃止され、歌登~枝幸間に短縮されてしまった。その代わりに札幌~枝幸間1往復と旭川~枝幸間2往復の高速バスが音威子府~小頓別~歌登~枝幸間の各停留所に停車し、ローカル輸送を担当している。枝幸7時発の札幌行は音威子府で鬼志別発旭川行と相互に乗換え可能である。枝幸町では住民の利便性の向上と観光客の誘致のため、バス会社に対し、高速バスの増発を要請しているが、採算との兼合いで実現には厳しい状況である。

 

小頓別駅の接続列車の欄には「省線接続時間」と書かれており、よほど年配の職員が作成したのであろう。国鉄の駅と歌登の町を結ぶ重要鉄道路線として認識されていたため、JTBの時刻表に掲載されていた。(れっきとした地方鉄道でも「尺別鉄道」は掲載されていなかった)

【その他】

歌登町は平成18年3月20日に枝幸町と対等合併して(新)枝幸町となった。昭和14年に枝幸村から分村して歌登村が誕生しているので、元の鞘に収まったということになる。歌登町はなくなっても「歌登」の地名はなくなっておらず、今でも冬になるとニュースや気象情報の「全国の最低気温」で時折「歌登」が登場する。(最低気温-37.9度を記録している)そんな時、自走客車の乗った時のこと、小頓別に超小型車の廃車体、元十勝鉄道の客車の廃車体等を撮影した時のことを懐かしく思い出している。町営の宿泊施設「うたのぼり健康回復村」に昭和40年釧路製作所製のディーゼル機関車が保存されており、リタイヤ後是非見に行きたいと思っている。

特派員さんの「茶内の今昔」の中の浜中町営軌道の写真、西村雅幸さんの「茶内の今昔のお返しに」を拝見して、思わず現役時代に訪れた「浜中町営軌道」のことを思い出し、つい書いてしまった。直ぐに西村雅幸さんから「茶内の思い出に添えて」のタイトルで貴重なカラー写真と共に書き込みがあったので、調子に乗ってしまい1度しか訪れていない標茶、幌延(問寒別)、歌登の各町営軌道についても思い出と共に書き込みした。歌登は片道のみ乗車したが、他の3カ所は撮影だけに終わってしまったのが残念である。理由は、時刻表に記載がなく、乗車計画が立てられなかったためで、今から思うと、事前に役場に問い合わせるべきだったと思う。但し、問い合わせたところで、問寒別線のように乗れば当日中には戻れないところもあった。

今回取り上げた各町営軌道は、昭和45年度で国からの補助金が打切られたため、46年度中には全部廃止されてしまい、最末期の記録の一端として見ていただければ幸いである。本来ならば湯口大先輩の「簡易軌道見聞録」を読み、参考にした上で書こうと思ったが、手元にないため、やむを得ず当時の写真と資料等を基にして書いた。「簡易軌道見聞録」は実家の物置に眠っている筈であるが、探しても見当たらなかった。

リタイヤ後は保存車両を訪ねると共に、簡易軌道廃止後の代替バスの運行状況等についても調査したいと思っている。

山陰線 四条踏切のこと

米手さまがお尋ねの高架前の山陰線四条踏切について、たまたま横が以前の勤務先の本社工場だったため、いくつかの記録を残していました。

▲写真1 四条踏切を行くDF50。 ちなみに四条大宮~西大路四条間に、市電ではなくトロリーバスが走ったのも、この踏切が原因

▲写真2 山陰線高架化の前日、同踏切を行く特急「あさしお」

まず踏切ですが、ウンと以前のことは知りませんが、私の知る限りでは、通常の第一種踏切で、特殊なものではなかったようです。写真1は高架工事が始まる前の昭和48年4月の同踏切で、腕木式の遮断桿が見えます。左に見える塔屋は、この地下を走る阪急京都線の排気塔で、ここを通ると、地下鉄特有の熱気を伴った匂いが漂っていたものでした。写真2は、山陰線高架完成の昭和51年3月16日の前日、最終日の四条踏切で、高架橋が頭上を覆います。その翌日、C11の牽く記念列車が京都~二条間を走りました。

▲写真3 地上の山陰線をオーバークロスする京福のポール電車

▲写真4 高架化前日の様子。この日、一晩で上下が入れ替わってしまう

いっぽうの山陰線高架化による京福嵐山線の処遇ですが、写真3は高架化前の様子。山陰線は地上、京福はその上を越えています。確かに、このまま高架化してしまうと、京福側のクリアランスがなくなってしまいます。そこで採ったのは、京福の盤下げ化でした。写真4は2と同じ高架化前日で、中央の複線の両脇に、路盤が下げられた仮線が見えます。翌日から、この仮線を電車が走り、平行して中央の現在線を盤下げする工事に掛かり、現在見られる関係になりました。

教えて下さい!

先日四条通を歩いていて、山陰線高架下でふと思いました。

地上にあった頃、この踏切はヨーロッパにあったようなレールの上を横にころがす式の遮断機だったような記憶があるのですが記憶違いでしょうか?

もう一つ、南側を見ると嵐電の高架が見えるがこの高さでは山陰線の高さをクリアできない。どうなっていたのか?

以上二点についてご存じの方にお答えいただきとうございます。

新緑の北海道 余話-6-

倶知安 今昔

酷暑が続く毎日ですが、今日から9月、今さら”新緑”とは時期遅れも甚だしいのですが、これで最終とします。
ぶんしゅうさんとの北海道の最終日は、日高本線鵡川を出発し、室蘭本線で寝台特急を撮り、フェリー出航の小樽へ向かうコースでした。多少遠回りになるものの、旧胆振線沿いのルートを走ります。長い裾野を広げる羊蹄山が、初夏の青空に美しい姿を見せると、車は倶知安駅前に到着しました。
40年前、山手にあるユースを拠点に、DRFCの仲間とともにC62を追った思い出の駅でもありました。

倶知安駅も、道内のほかの駅と同じく、きれいに整備はされているものの、乗降客はほとんどなく閑散としていた。駅の裏手にあった機関区はとうの昔になくなり、公園化されていて、駅は単純な2面3線式になっていた。発着する列車も優等列車は1本もなく、単行のキハ40が日中は2時間に1本程度の発着。ヤマ線と言われる函館本線小樽~長万部間の凋落ぶりを感じずにはいられなかった。

これは40年前の倶知安駅の賑わい。キハ22に乗り降りする客でホームはあふれている。貫通扉を開け、係員が待機して、これから増結作業が始まろうとしている。北海道名物の気動車の解併結は、以前ほど複雑なものはないものの、現在でも行われていた。

駅に隣接して機関区があった。アーチ状の門標がある北海道独特のスタイル、胆振・岩内線のキューロク、本線用のD51がいて、ホームからもよく眺められた。手前に見えるちっこいタンク車は、10トン積みのタ600形、当時の国鉄貨車の中では最小部類の貨車で、ほとんどが道内封じ込め用として使用されていた。

C62重連の「ていね」が夕刻の倶知安駅に停車している。「ていね」は、撮ってよし、乗ってよしの列車で、重連が吐き出すシンダーの洗礼を受け、音と匂いで五感を刺激されながら、今は亡き一年先輩のKさんとともに長万部から着いた。跨線橋を渡り、何気にホームを見ると、C62がブロアーを吹き上げ、まもなく発車しようとするところだった。

上り「ていね」は、12時9分に倶知安に到着する。4分間の停車時間を利用して機関車は、給水、火床の整理に忙しい。「ていね」は当時客車8両編成、機関車も入れると、ホームもハミ出してしまう。広い構内で発車を待つ姿をやや低い位置から眺めたC62は、王者の風格であった。ツバメマークのデフの向こうには羊蹄山も見えた。

倶知安を有名にしたのは何と言っても下り「ていね」の発車シーンだろう。18時27分、夏なら薄暮、冬ならとっぷり暮れた中、水銀灯に照らされ巨体が、煙と音が織り成す、すさまじい発車シーンを見せてくれる。夜間撮影の楽しさも教えてくれた。これが終わると、凍て付いた道を滑りそうになりながらユースへの道を急ぐのが常だった。