半世紀前の淡路交通(3)

電化に合わせ南海電鉄から、運輸省規格形のモハ63型20両割当見返り供出車両として、5両の木造電動車が入線した。南海からは後に2両増車された。次いで阪神電鉄の鋼製廃車体を2両購入。自社宇山車庫で手持ち部品を取付け、電動車とした。以下、奥野師匠に教えられた事を交え述べる。

*モハニ1001・入線1948.01.23→クハ101・制御車化1953.10:1961.06.20廃車。元加太電鉄モ30の旧番号を持つ。車体は南海電化時(1907.8.21)の新造車(1907.07日車)で、電1形10両のうち3号車が昭和初期に鋼体化名義車となり、抜け殻を加太電鉄に売却したものであった。加太電鉄は1942.03.14に南海鉄道に併合されたので、南海電鉄から譲渡されたことになる。車体は【10722】で紹介された軌道線101形に似た面構えの正面3窓で、台車は加藤BW型、電動機はWH101‐1(37kw×4)が加太時代。淡路では台車BL・27GE‐1と電動機は×2になっていた。譲受時価格は1,181,000円、1950年再評価で600,000円、制御車化で400,000円。阪神中古車体の再生後に廃車。

*モハニ1002・入線は前と同じ、鋼体化1955.01.10。元加太電鉄モ31。これも南海時代の1937年に鋼体化名義車になったもので、原車は製造1909.07・天野であった。これが前窓5、関西タマゴ型の最初の電車であった。台車BL27E‐1と電動機はモハ30と同型で×4となっていた。鋼体化は台枠再用で内装は木造、台車をBWタイプ、電動機をTDK‐30に、出力72㏋×4に強化している。購入時価格245,000円は鋼体化後、再評価で4,125,000円となった。1958.09.18にドアエンジン取付、1960.02.01貫通路設置、幌を取り付けた。更に台車をDT10、電動機はMT‐4・に取替、クハ112とMTc編成を組んだ姿を見ている。この届けは翌年1961.07.05らしいが、田舎ではよくある話、気にしない。

*モハニ1003・入線は前と同じ、簡易鋼体化1959.06.15。元加太電鉄モ32である。この電車の来歴は先の1002号と同じ、鋼体化は屋根を残し柱や外板を鋼製とした。台車BL27GE1、出力37kw×4、制御器・制動装置MK15・AMJと、淡路標準方式になった。

*モハニ1004・入線は前と同じ:1961.02.20廃車。次の1005号と共に南海での車歴は同じ。電3形1921年川崎造船所製造とある。その後1940年に改造を受けモユニ525,526となる。これが迷図作家紹介の木造4扉車であった。そして1944年6月開業の多奈川線専用となり、沿線に建設された川崎造船潜水艦工場に向かう産業戦士専用車として無座席車となった。終戦後、この2両は加太線に配置されていたとか。これが縁で紀伊水道を渡った。台車BL77E2、電動機の出力37kw×4、定員90人は1001~1003と同じが座席定員(60)の記載なし。阪神中古車の再生後に廃車。

*モハニ1005・入線は前と同じ、鋼体化1961.05.25。来歴は1004号と同じで車体新造の鋼体化車。淡路唯一のクロスシート車。訪問時に確認できず、後に京都鉄道趣味同好会誌”急電”で概要を知った。ここでは大阪通信員撮影のカラー写真で紹介する。台車DT10、電動機TDK30・53kw×2、制御器はPC型、制動装置はAMJとなっていたが、後年変更があったようだ。

*モハ1010、1011・入線1956.08.24。1010→鋼体化1957.06.05、モハ1011→鋼体化1958.03.20。この2両は入線後に車体新造で鋼体化された。原車は前面5窓タマゴ型の電8形132(1924.10・梅鉢鉄工)号と電5形120(1921.10・川崎造船)号の2両であった。その後、改番を経てモハ1025、1027となり共に加太線用となり、本線新車投入に伴う玉突きで淡路島へ送られた。台車BL・MCB2、電動機GE-218(52kw)×4、制御器は日立PR200、制動装置はAMJ、定員90(52)人となっていた。車体製造は昭和車両工業所と名乗る今も知らないところである。譲受価格は1,025,000円、鋼体化後の再評価で5,654,000円になっていた。

*モハ609、610・竣功1960.06。木造車101、1004号追放のため、阪神電鉄で廃車(1960.02.05)になった車体2ケを購入、宇山工場で手持ち台車と電装品で再生した。この2両、阪神時代とパンタを見れば向きを変えている。台車は609にBWタイプ、610はBL・27GE1をあてがい、電動機はTDK30・53kw×2の出力。単車走行可能である。老人は1954年秋、この2両を伝法大橋で撮影している。その2両と再会出来て感激であった。評価額は不明。

*モニ500・入線1950.07.28→鋼体化1952.10.10。元国電モヤ4003である。鋼体化までの期間が少ないところをみると、相当酷い状態でやってきたものと思える。元モハ1だけに電装機器は国鉄の標準品で送られて来ており、その後の標準化に役立ったと思われる。ただ連結器は間に合わずで、そのくだりは須磨の爺やの薀蓄をお読み下さい。入線時評価額は957,681円と記録されていた。

淡路交通にはその後、2回乗ることが出来た。1961年秋と1966年初夏に「鳴門観潮」のためであった。

1966年の時に外部塗色が変わっているのに気がついた。1960年訪問の時は窓下濃チョコレート、窓上淡クリームであったとの記憶が残っている。準特急氏から「新歓」の帰途に訪ねたと便りがあった。それが紹介されることに期待を寄せている。大阪通信員さんの思い出はいかが?

DRFC現役時代、須磨と行を共にすることは殆どなかった。しかし生中の時だけは別で、この日も15時頃の南海汽船で「深日港」に上陸、愛用していた東福寺口経由、ミュンヘンで大ジョッキを煽りながら島の鉄道について益々の隆盛を祈念した筈あった。

モハ1002

    モハ1002

モハ1003
モハ1003
モハ1005
モハ1005
モハ1010+1011
モハ1010+1011
モハ609
モハ609
モハ610
モハ610
モニ500
モニ500

デト11

年末年始お休みでした、関三平さんの「昭和の電車」シリーズが再開されました。

また、阪堺電車ですが無蓋電動貨車のデト11です。もちろん私は見たこともありません。しかし、昔はこんな電車はどこの鉄道にもありました。国鉄のクルやクモルを始め、京都市電にもありました。京都市電の無蓋電車は中央市場からゴミを運び出すのに使われていたようですが、どこへ持って行ってたのかは知りません。今回も乙訓の長老様にご高説を伺うことにしましょう。

江若鉄道三井寺下駅再現(その8)

今年初めての投稿です。正月休みも専ら三井寺下で過ごしました。来週の梅小路での運転会にお誘いを頂いたのですが、残念ながら参加できない代わりに 今日時点での三井寺下の状況をご紹介します。

駅本屋、本社屋、2棟の車庫、給油所、給炭・給水所、ホームの上屋、洗浄線など主な設備がかなり揃ってきました。各路盤の裏にこれからポイントマシンを仕込んでゆくことになるのですが、ポイントマシンの製作が結構面倒です。ポイントマシンの取り付けと調整が済まないと、レールへのバラスト撒きや固定ができません。

駅本屋とその前の給油所の裏側です。

本社屋も何とかそれらしく出来ました。これもまた外装の色がわからないので 適当な色にしました。この本社屋の左側にももう1棟木造2階建てがあり(後年 組合事務所?)、これから着工です。日本瓦や波板(スレート)はエコーモデルのパーツを使っていますが、本社屋や車庫のように大きな屋根が日本瓦や波板の場合は 屋根だけで数千円にもなってしまうので、雰囲気が出ればよしとしてペーパー屋根にして 必ずしも実物通りではありません。

エコーモデルのレイアウトパーツは種類も豊富で出来も良いのですが、何といっても高くつきます。困るのがブロック塀です。駅構内の周辺の民家にブロック塀が多いのですが、これをエコーのものを使おうものなら 万円になってしまいます。給油所もブロック塀で囲わねばならないのですが、厚紙にスジを入れ、 厚さを出すために張り合わせて作ったのですが、水性アクリル塗料で色付けしたりしているうちに、どんどん反ってきて不気味なブロック塀になり 改善が必要です。全体写真の右側の車庫への引き込み線沿いの境界には延々と古枕木の柵が続いていて この枕木柵の製作もうんざりしそうです。

そして駅周辺の民家をどう再現しようかと 最初から判っていた課題が現実のものになりつつあります。あの市街地の中の三井寺下のムードをどう再現するか・・・・。何か良い知恵がありましたら アドバイスをお願いします。

民國100年のはじめに、台湾へ2

 台湾でナローゲージ(五分仔車)のトロッコに初めて乗りました。台湾では、かつて精糖工場輸送のナローゲージ鉄道が数多くありましたが、現在ではほとんど役割を終えて、かつての日本の軽便鉄道のように廃線になっていきました。

 しかし、その一部は観光用に残り、中には蒸気機関車の運用を行うところもあります。 

 今回は、台湾糖業公司の2箇所、高雄花卉農園と圓林の溪湖花卉文化園區に行ってきました。

 

 高雄はMRTの橋頭糖廠駅からすぐ、往復切符のみで80元、始発は10時半から、あと11時半、13時半、15時半、16時半の最終まであり、帰りもそれぞれの30分後に出るパターンです。ただし、定期列車は土日のみで、平日は団体予約を受けることとされています。機関車の銘板を見るとドイツ製ということはわかりましたが、この手の車には全く知識がありませんのでわかりませんでした。トロッコはもとは貨車のようでしょうが、観光用に改造されています。路線は片道7分弱田舎道を走り結構本格的です。遊園地鉄道ではないので当然といえば当然でしょう。

 路線は、西部幹線としばらく並行するので、特急や鈍行電車からもよく見えます。特急(自強号)から眺めていると橋頭駅の手前で観光用塗装を施していない機関車がたくさん車庫に留まっているのが見えて「しまった」と思いました。また機会があれば撮影してみたいと思いました。

 

 次いで、圓林の溪湖花卉文化園區中心です。こちらは少し行きにくく、圓林駅を降りて左に暫く歩き、圓林客運(バス)の溪湖生きで30分程度まず乗ります。そこを降りてからさらに10分歩くと到着です。

 こちらは、かなり本格的で路線も片道約15分、9時の始発から16時30分の最終まで7本、うち2本は蒸気機関車による牽引です。初発の9時は私一人の貸切状態でした。高雄と同様切符は往復券のみで100元。土日のみの定期運行、平日は団体予約のみです。団体観光客も結構いるようでしたので、平日も走っていることと思います。ディーゼル機関車はロッドが懐かしい1967年の日立製でした。客車はやはり観光用に改造したものでした。車庫にオリジナルと思われる客車もあり、私にはそちらの方がよかったのですが、観光トレインですのでそうはいきません。

 

溪湖糖廠の五分仔車
溪湖糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
溪湖糖廠のDL
溪湖糖廠のDL
溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
渓湖糖廠の廃車体
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都電8800形カラーを変更して増備

都電8800形の平成22年度分の増備車5両が、昨年10月と12月に登場した。8806と8807の2両が従来のローズピンクからバイオレットにカラーが変更され10月22日より、8808と8809の2両がオレンジ、8810がイエローとなり、12月25日より営業運転を開始した。予備車として待機している8809以外の4両と8801に1月23日までの予定でヘッドマークが取り付けられている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 


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22-11-23 熊野前  下/22-12-28 荒川車庫前

 
上/
22-12-28荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


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22-12-30荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


22-12-28
荒川車庫前

【他形式の動向】
(1)7500形
             
7500形の動向については、【8261/2010年5月22日】でお知らせした通り、8800形との置換えで順次廃車が進み、平成22年10月末日時点で7505、7510~7512、7520の5両が残るのみとなっていたが、8806、8807の増備により11月に7505、7510が廃車され、残るは7511、7512、7520の3両となった。この3両も8808~8810と交替で廃車されてもおかしくないが、1月8日時点では、7511と7512は常時運用に入っており、7520が予備車となっているようであるが、姿を消すのは時間の問題であろう。7511は【8489/2010年6月6日】でデカンショ祭り号さんの報告の通り阪堺線旧塗装に変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 
22-12-29
荒川車庫前

(2)9000形
他形式と共通運用で日常的に使用されているが、貸切運行時に指名が掛かることが多い。9002は正月期間中「賀正」の表示板を付けていた。

 
22-11-23
熊野前~宮ノ前

 
23-1-2
町屋駅前

(3)8500形
【8261/2010年5月22日】での紹介時点では8503と8505にラッピング広告が貼られていたが、現在は解除され、8502と8504に貼られている。スポンサーは前回と同じ警視庁でデザインは変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

(4)7000形
【8261/2010年5月22日】の時点と同様22両が健在で主力として活躍しているが一部の車両のラッピング広告がスポンサーの変更により変更されている。今年度から新車と交替して廃車が始まる予定である。今年度の新車は8800形に変わる新形式車が登場する予定である。

 
22-12-28
荒川車庫

 
22-12-28
荒川車庫前

 
22-12-28
荒川車庫前

「カレチ」という漫画

先日、ふと手にした講談社のモーニングという漫画の見ていましたら、「カレチ」という作品が掲載されていました。モーニング自体は、週刊ですが、月一回の連載の作品です。

文字通りカレチ(専務車掌)がモデルになった作品で、舞台は、昭和40年代後半の大阪車掌区。そこに勤務する新米カレチ荻野の奮闘と成長が描かれています。

DRFC OB諸兄の身近な国鉄が舞台です。

今まで連載をまとめたコミックも発売されており、今まで、コミックを買ったこと無かった私も購入してみました。因みに御代は、一冊533円(税別)です。

中身は、読んでのお楽しみですが、なかなかのものです。下記の内容が描かれています。

ご興味ある方は、是非、立ち読みではなく、購入してご覧ください。

続編を期待しています。

民國100年のはじめに台湾へ

354次普快 金崙駅

354次普快 金崙駅

 成人の日の連休に台湾へ行ってまいりました。

 夜、台北に着くと結構寒い。ダウンジャケットやコートを着ている人も結構います。着いた日に夜行の急行(CK63次)で台東へ向かいましたが、車内の寒いこと。足元の暖房がほしいと思いました。ところが南の高雄や台南まで行くと日中はかなり暖かく、彰化駅の温度計は25℃でした。

 12月22日にダイヤ改正があり、花蓮台東間の普快199次、200次の旧型客車は復興型の空調付客車に置き換えられました。時間と列車番号はそのままで区間車となっています。西部幹線の復興号もなくなっており、このタイプの客車は余剰となったものと考えられます。

  あと、1月2日に新線の沙崙線が開業しました。これは台南から終点の沙崙まで全て通勤電車が走ります。終点の沙崙は高鉄(台湾新幹線)台南駅に直結しています。

 

 旧型客車ですが、南廻線(台東-枋寮)の2往復はそのまま残っていました。普快352次、353次、354次、355次全て2両編成で、割合は日本製とインド製と半々でした。南廻線は新しい線なのでトンネルが多いのですが、太麻里-大武の間は太平洋を眼下にとても気持ちのよい線です。ただし私が乗った1月7日は曇りでしたが。数年前まで旧型客車を冷房化して冷気平快として運用されていた35SPK2300型客車が加禄駅の構内に大量に留置されていました。

 旧型客車といっても製造は1970年前後、たたずまいは10系客車のようです。もしもスハ44の10系客車タイプがあればこのようになっていただろうという形です。シートはビニールクロスの回転式で、阪急6300系のような棒の足置きがあるタイプもあります。

 

 沙崙線にも乗ってみましたが、8日までは無料の体験乗車ができました。何と太っ腹のことと思いました。そのまま高鉄台南から新幹線で高雄まで戻り、釣掛式EMU1200型の自強号(特急)に乗ります。次いで週末だけ運用されているEMU300で始発の斗南から自強1024次で台北まで向かいます。EMU300も釣掛式車両です。これらの電車は釣掛式といえども特急車なので、空調固定窓、絨毯敷、リクライニングシートで快適です。EMU300はイタリア製でEMU1200も台湾で更新したとはいえ元は南アフリカ製、他の形式では日立や日本車両、韓国製もありなかなか多彩です。

 今回、日本製の最新振子電車TEMU1000型タロコ号にも乗ることができました。こちらは、JR九州の885系をもとに作られたことは有名です。実際よく似ています。台湾鉄路管理局はTEMU1000型を136両増備し、2012年から就役させるとアナウンスしています。

 

普快客車35SPK32700の車内
普快客車35SPK32700の車内
開業間もない紗崙駅
開業間もない紗崙駅
EMU1200型 高雄駅
EMU1200型 高雄駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型の車内
EMU300型の車内
タロコ号 TEMU1000型 台中駅
タロコ号 TEMU1000型 台中駅

 

 

半世紀前の淡路交通(2)

それでは2人が眼にした電車などを紹介することにしよう。宇山車庫で見せてもらった形式図や書類を2人は1冊の手帳に分担して記帳している。片方が記帳の時は、もう一人は外へ出て撮影をしていたようである。以下の説明は、一部について鉄道ピクトリアル161,162号を参考にした。

*キハニ1→モハニ2006:電動車化1948年6月、床下に電動機(TDK516A・85㏋×2)取付、内燃動車時代の推進軸により駆動する直接制御車とした。1955年8月、ブリル27GE1台車にすると共に電動機(WH37kw×4)は吊り掛け駆動とし、制御器はGE-PC形、制動方式もAMJ自動ブレーキとした。1957年5月、車体改造を行い上り(洲本側)方の運転台撤去、荷物室仕切撤去、貫通路の開設、定員80人(手荷物4.3頓)を乗客定員90(36)人、制御器統一でMK方式とした。更に1958年9月ドアエンジン取付をしている。

*キハニ6→モハニ2007:電動車化1948年9月、要領は2006号と同一。ところが1955年9月直角カルダン改造とあるが委細不明。1956年3月MK、AMJ化。1958年9月、客用扉閉鎖窓新設(荷扱い扉を客用に)及びドアエンジン、塗油器取付。定員は100(42))人となる。

*キハニ5→モハニ2008:電動車化1950年3月、おそらく南海から譲渡された電動機・50㏋×4と直接制御器を使用したものと思われる。その後1954年12月、当車は台車をブリル77E2からTR10に取り換え、運輸省の補助金を得て神鋼電気製の垂直カルダン方式を採用した。電動機は75㏋×4、制御器はSE・RPC‐101となった。1958年1月、貫通路設置、荷物室と客用扉撤去(荷物室扉を客用に)、ドアエンジン取付とある。定員100(40)人。尚、当車は代燃装置取外し後、トレーラーとして使用されていたらしいとの話もある。

*キハニ3→モハ2009:電動車化1956年3月、木造電動車1001を制御車とし、その電動機WH‐101H、37kw×2にした。この時の台車は日車・菱枠型である。形式図ではBL27GE1とあり、現車は日車製である。藤井信夫氏の記述によれば、後述の111号とMTc編成を組んだとあるが、訪問時は63形供出車1003号とMM編成であった。後に出力強化されたものと思われる。1958年8月車体改造と制御器及び制動装置の変更についても先の2007に倣っている。当時のメモに113→2009とあり、代燃装置を取り外した後、一時期トレーラーとして使用していたのかも知れない。また逆で2009→113として元内燃動車6両を、垂直カルダン編成3本へと目論んでいたのかも知れない。想像するのは勝手で、夢ある話だと思いませんか?

「内燃動車発達史」をお持ちでない方にほんの少し補足しておこう。キハニ1,2は川崎車両製で、全長

12,840粍。キハニ3、4は日本車両製で、全長13,120粍。キハニ5,6も日車だが、全長15,294㍉と長い。価格だが1~3は12,635円、4は16,215円、5は23,145円、6は23,845円となっていた。

*キハニ2→クハ111:制御車化1951年9月、1957年5月乗務員室、客室出入口扉一部変更及び貫通化改造とある。ハニ→ハとなったのであろう。1958年7月ドアエンジン取付。

*キハニ4→クハ112:制御車化1952年3月、1958年8月ドアエンジン化、1960年1月貫通扉設置及び運転室変更。この2両のクハは上り(洲本)方片運転台となった。これら内燃動車改造車は電動車を含め、乗務員扉を両側面に整備したりで窓配置や顔付の変わったものもある。

写真は6枚、連続して掲出する。垂直カルダンの図は三重交通志摩線5401号のものであるが、淡路交通も同一と思われる。これについて、「ぷるぷるさん」が解説してくれるとうれしい。(つづく)

モハ2006

    モハ2006

モハ2007

   モハ2007

モハ2008
モハ2008
モハ2009
モハ2009
クハ111
クハ111
クハ112
クハ112
垂直カルダン駆動の構造図
垂直カルダン駆動の構造図

残った18きっぷで福知山行き

準特急さん言われるところの”老春18きっぷ”、今回の冬期間は、従来より10日間短い30日間の通用となり、1月10日で終了しました。使われた皆さんも使い切るのに苦心されたことと思います。私も、気がつけば一片が残ってしまい、終了間際に、雪の天気予報に誘われて、福知山を訪れました。
すでに、アナウンスされているように、3月12日のダイヤ改正で、山陰本線、福知山線の特急ネットワークに大きな変更があります。要点は、列車体系の見直し、愛称名の変更・集約、新型車両287系の投入で、昨年から、機会を見つけては、ぶんしゅうさんらと撮影に出かけてはいますが、雪の中での撮影は、これが最後かも知れません。

最初に訪れたのは、上川口駅。福知山寄りに1キロほど戻った第一十二踏切周辺は、以前から何回か訪れたところで、やや築堤になったカーブがある。ここだと、京都発、大阪発の両方の特急が通り、効率もよく、自分としては気に入っている。降雪も止んで、、晴れてきた。背後の形のいい山も姿を見せた。「こうのとり」になる「北近畿」も国鉄色が雪によく映えている。通常は4両が基本編成だが、まだ正月の増結期間で、増結2両ユニットを組み込んだ6両編成だった。

福知山電車区の183系は104両あり、すべて485系からの直流化改造である。3つのグループに分かれ、JR西日本色で全室グリーンありの4両編成がA編成、国鉄色で半室グリーンつきの4両編成がB編成、JR西日本色でグリーンなしの3両編成がC編成で、これに増結用の2両ユニットが加わる。写真の「北近畿」は、C+A編成となる。新型車両287系の投入により、183系の約半数が置き換えられるという。愛称名も変更・集約化され、新大阪発着はすべて「こうのとり」に、京都発着も「きのさき」「はしだて」「まいづる」になり、「文殊」「たんば」「タンゴエクスプローラー」「タンゴディスカバリー」は消える。調子の悪かった北近畿タンゴ鉄道の車両は、JR線への乗り入れがなくなる。

普通列車も約1時間ヘッドでやってくる。すっかり223系が多くなったが、どっこい、113系、115系も健在だ。特異なスタイルでカーブを曲がってきたのは、クモハ1146123+クモハ1156510のR1編成、以前は115系2両編成も多くいたが、他区へ転属してしまい、福知山に残る115系はこの1編成のみ、切妻、2丁パンタという、本形式でしか見られないスタイルだ。

山陰本線、福知山線の特急ネットワークは「北近畿ビッグXネットワーク」と呼ばれ、福知山駅で、京都方、大阪方、城崎温泉方、天橋立方の4方向から来た特急が福知山駅の同一ホームで乗り換えができるように、ダイヤが組まれている。特急先頭車にもネットワークを意匠化した大きなステッカーも貼られている。時刻表上では、わずかの時間、福知山駅のホームに4本の特急が並ぶ時間もある。実際は編成に長短があったり、延着があったりで、うまく4本の顔が並ぶのは難しいが、3本なら日常的に見られる。

50年前の淡路交通(1)

1960年11月3日、須磨は山科から、乙訓は京都から東京発姫路行きの客車列車に乗り込んでいる。既に姫路まで湘南型が直通運転していたが、敢えて客車列車を選んだのは理由があった。それはこの場で披露するのは遠慮して別の機会としよう。兵庫で出迎えてくれたのはthurukame氏であった。昼食を済ませ、彼の案内で湊川トンネルを出たところから長田に向かい歩いている。途中、火葬場の裏へまわり川ベリに出たら丸山駅前後の崖淵であった。須磨の目的は元神中、気動車改造の制御車。乙訓は湘南タイプ、WN駆動、対向クロスの温泉電車であった。好天に恵まれ3人は目的を達成することが出来た。

それ以後暫く委細不明。気付いたら2人は中突堤の飯屋で、当時流行って握り鮨(1皿3貫:20円?)で安酒を煽っていた。淡路島への渡船待ちだったのである。

JTB時刻表では淡路島への夜行便の記載なく、夜行列車愛用族はどうしたものかと思案にくれていた。その頃、旦那が新聞輸送の便船があると教えてくれた。2人は卒業後の行き先も決まった事だからと、これに飛びついたのであった。便船は播但連絡汽船の1日一便、岩屋21:20発、神戸22:50着の折返し運用となるもので、100噸位の貨物船に便乗の形であった。24:00乗船開始。案内されたのはデッキ下、エンジンルームと隣合わせであった。板張りに茣蓙、騒音と振動。この時、例え魚の干物の匂いが染みついたオハ60系であっても、汽車の夜行列車の有難味をつくづく思い知ったのであった。乗客も我々2人を除くと行商人風のオッサン連中であった。

24:30出航、志筑2:30着、同3:00発、洲本3:30着。ここで2人は退船を命ぜられた。6時まで仮眠が出来ると聞いていたが、それは嘘だった。抗議する元気もなく。淡路交通の洲本駅の場所を聞いて夜道を歩き待合室に転がり込んだのだが、寒くて寝られない。仕方なく2人は駅周辺でジョギングをすることになった。有難い事に関西汽船6時発神戸行きの初発があり、この頃に夜明けとなり港周辺の店も開店となった。そこで飯屋で定食を賞味したのだが、何を食ったのか覚えはない。

電車の洲本初発は6:10、この電車は福良5:00発→洲本5:47着で、関西汽船神戸便に接続、神戸中突堤8:30着となっていた。当時の関西汽船洲本航路は神戸8:30初発、洲本に10:40着、洲本最終17:50発、神戸19:10着があり、日帰りも可能であった。

目覚めと共に本題に参ろう。淡路交通は淡路鉄道として軌間1067粍、1914年4月10日創立、開業日と区間は次の通りである。洲本口-市村:1922.11.26、市村-賀集:1923.11.22、洲本-洲本口(宇山):1925.05.01、賀集-福良1925.06.01、福良延長線(港湾整備により埋め立て地を延長)1938.04.01、これで全線23.4㎞の開通となった。開業と共に蒸気列車が走りだしたのだが、1号機は1920年9月ポーター製の13.38頓Cタンク、客車は播州鉄道から2軸車6両を購入して対応した。路線延長による車両増備は2,3号機で、同じくCタンク1922年5月コッぺル製、13.82頓と僅かに大きいが、軽便規格と言っても差し支えない。福良延長に合わせ国鉄から18.29頓のこれまたCタンク、1914年3月ポーター製の払い下げを受け4号機としている。これは長州鉄道開業期のもので、国に買収後は形式1045となり1047号となったものであった。客車もその後の路線延長に合わせ、揖斐川電気から2軸単車7両を購入し総計13両とした。蒸機の重量はいずれも運転整備時のもので、空車時重量は9.45頓、10.97頓、15.24頓の順、価格は同じく19,400円、23,175円、5,254円と記録されていた。 

さて1920年代後半から内燃動車が実用化され、非電化鉄道でも旅客輸送が見込める地方私鉄では採用される事例が増えて来た。詳しくは湯口会員の「内燃動車発達史」をご覧ください!としておけばこの場は凌げる。淡路鉄道は1931年にキハニ1~3、1933年キハニ4、1935年キハニ5、1937年キハニ6と6両の半鋼製ボギー車を揃えた。揃ったとたんに燃料統制となり、苦闘の時代を迎えるのであるが、

その話は前著上巻231頁に紹介されている。終戦と共に燃料問題が解決したわけでなく、比較的得られやすい電力を動力源とする鉄道電化が世の風潮となった。戦時統合で鉄道から交通に改名したのは1943年7月、1946年11月電化工事の許可を得、1948年2月11日より電車運転となった。この時導入されたのが南海電鉄の木造電動車で、いずれも63形割当供出車で、淡路では1001~1005となった。それが先日、見事な姿で紹介された訳である。本稿では先輩である内燃動車の電化後の姿を改造順に紹介することにする。それらの車両番号は電動車2006~2009、制御車111、112号となっていた。

 

工房便り D50の制作(4)

 皆さん、新年おめでとうございます。私、時折コケながらもしぶとく生きております。本年もどうぞ宜しくお願いします。
  ぐずぐずしている内に新年となり、今更D50でもないのですが主台枠後部の工作 を残していましたので、続きをご覧頂きます。 主台枠後部はご覧のようなユニットを作り、ダイキャスト製の台枠にねじ止めしました。既製品は製造コストや曲線通過性のために主台枠後部は従台車と一体に作ってあることが多いのですが、今回は実物のように主台枠後部は固定し、従台車のみ首を振る構造です。

従台車の軸箱はドロップ製のものを加工。担いバネは愚直に帯板を重ねて作ったものです。我ながら呆れます。

  

台枠にねじ止めしたところ。

従台車と、ついでにモーターも取り付けてみました。コアレスモーター初採用です。

 

以上で主な工作が終わり、細部の仕上げを終えた姿をご紹介します。それにしてもずいぶん時間がかかっています。そのわけは一緒に写っている機関車。そう、D51標準型、これも同時併行していたからです。

細部の仕上げを終え、上回りを乗せたところ。背後にいるのはD51。

D51と一緒に、洗いを終え塗装直前の姿。真鍮生地が美しい。

D51と一緒に、洗いを終え塗装直前の姿。真鍮生地が美しい。

D50のテンダーは12-17。本来の20立方メートル形をC51��と交換したり、最初から12-17で新造された機が多かったとか。
D50のテンダーは12-17。本来の20立方メートル形をC51等と交換したり、最初から12-17で新造された機が多かったとか。
さて、いよいよ私の最も苦手とする塗装作業です。今回小型の電動コンプレッサーと排気扇付きの塗装ブースを導入しました。従来はエアー缶を圧力源として霧吹き式のスプレーガンを主体に、空気使用量の多いエアブラシは修正用に使っていましたが、今回からはエアブラシを全面的に使用することにしました。
分解の後、ナンバープレートとスライドバーをマスキングして塗装を始めます。メタルプライマーを数回吹いた後に、数時間の乾燥時間をとってから黒色のラッカーを吹いて行きます。最初の2~3回はフラットベースを混ぜないで、仕上げの数回はフラットベースを混ぜて、半艶消し塗装としました。
というわけで今年の年賀状に使ったショットです。

というわけで今年の年賀状に使ったショットです。

このあと、作用管などの磨き出しor銅色塗装とか、最後に石炭の積み込みを行ってやっと完成。ウエザリングは(自信がないから)しないつもりです。
今回でD50の巻は終了とし、次回は一緒に写っていたD51をご紹介しましょう。