【13387】37年前のマレーシア鉄道


ムーア風のクアラルンプール中央駅


改札口と言いたいがフリーパス 左のトルコ帽は駅員らしい

RG50氏のマレーシア便り。余命を勘定しだした老人も、最初の海外体験でマレーシアに出張したことがある。指折り数えると、37年前だった。老人がまだ30代後半の元気な時である。仕事はクアラルンプールで開催される見本市へのアテンドと、その2年後事務局の当番が回ってくるので、その会場の選択―具体的には開催地をクアラルンプールにするか、シンガポールにするかの見極めであった。

約1か月の出張だったが、その内往路に台北、バンコック、途中にシンガポール、帰路に香港と、各2泊づつしたので、クアラルンプールには25泊ぐらいした。それも2週間の入国許可しか得られなかったので、途中一旦シンガポールに出国し、マレーシアに再入国(そんなこともあろうかと、ダブルビザを取得していた)。その間ブキット・ビンタン通りのフェデラルホテルに連泊した。

本来の見本市は夕刻から夜遅くまで開催だから、昼間はかなり余裕があるのだが、京阪神と堺の4市グループでの参加(総合事務局はジェトロ)なので、そう勝手な行動もできない。それでもクアラルンプール駅には行った。ムーア風の建物が特色だが、列車は少なく、蒸機は勿論全廃。日本製のステンレス車体気動車が幅を利かしていた。


待合室には蒸機煙突利用の灰皿が

待合室に妙な灰皿が何本もあり、これが蒸機の煙突を再利用したものだった。

シンガポールからマレーシア、タイにつながる鉄道(ミャンマーもだが)はメーターゲージで、連結器はドロップフック式だが、ディーゼルカーは自連である。


ステンレス車体のディーゼルカー




これは客車である インド(行ったことはないが)と同様幕板が広いのは熱さ対策



貨物列車の本数は少ない バックはかつて錫を露天掘りしていた跡

保存蒸機 連結器は英国植民地に多いドロップフック式

それから何十年か。我が家の実力者(ヨメ様)と、キャメロンハイランドからの帰路、クアラルンプールに立ち寄ったことがある。話には聞いていており、シンガポールも然りだが、この都市の発展は凄いもので、超高層ビルやらタワーやら。新交通顔負けの高架トラムやら。老人が過ごした1974年との落差は凄い。ビンタン通りにフェデラルホテルを探したら、高層ホテルの谷間にあるにはあった。かつて屋上に回転レストランがあった―その付近でズバ抜けて高い建物だったのだが。

かつてのクアラルンプール中央駅は放棄され、廃墟と化して、近くに新駅が出来ていた。中心街の広大な芝生広場はそのままだったが、地下がやはり広大な駐車場とレストランが。世の中は三日見ぬ間の桜かな。上海(も行ったことがないが)はもっとすごいんだろうな。


【13381】米手作市氏にしがみつく

5年前の今頃、姪の結婚式が成田であり、そのついでに銚子電鉄に47年ぶりに立ち寄り、濡れせんべいを乙訓へ送る手配をしたこと、投稿した。その折に銚電・笠上黒生駅上りホーム側線でデハ101号見つけたと記したように思う。その時の姿を今回紹介しよう。この101号についてはDRFC時代から関心を抱いていた。奧野利夫師匠に特異な構造した台車をつけている電車だ、と聞かされていた。同型台車が花巻電鉄にあることも奧野師匠に教えられた。その花巻電鉄を訪れたのは1959年9月20日と当時の手帳には記されてある。

この日、老人は盛岡から夜行で石越着、栗原電鉄・若柳町にある車庫へ出向き在籍車両調査をさせてもらった。その後、石越を12時20分発117レ青森行普通で花巻に14時49分着であった。到着するや線路をまたいで花巻電鉄の線路にまっしぐら、15時7分発鉛温泉行をとらえるためであった。馬面電車と思いきや、不細工な芋電車(鉄デハ2+サハ3)が出てきたのにはがっかりであった。でも台車は特異な構造のものであることが確認出来て満足であった。こうなれば乗りたい。

車庫で在籍車両など教えてもらい、次の16時発は馬面電車(軌デハ4)単行で、志度平温泉までとのことだったが、委細かまわず乗ることにした。車体幅1,600ミリは車内幅となると1400ミリ程度しかない。座席の奥行きは300ミリ程度だったが、それでも車掌はキップを売りに来た。乗り心地は押して知るべしゴツゴツしたものであった。なぜなら揺れ枕バネがない。これが特異な構造、揺れ枕ナシのボギー台車なのだ。だがその台車を丸裸では見たことがない。それが笠上黒生駅の側線にあるボロボロ姿の101号に装着されていたのだ。

木立の蔭に隠れるように留置されているデハ101号。時が時なら、国が国ならスクラップとなりその生涯を終えていたかもしれないが、この国では朝鮮事変後のように「テーツ、買いまっせぇー」と、自転車でリヤカー引いた鉢巻姿のオッサンは今では現れない。なんとしても台車枠内に首を突っ込んで揺れ枕の有無を、姿を、無いならその代わりになるものを確かめたい。だが諦めた。蜂の巣が台枠にあるのに気付いたからである。家蜂がいる。結婚式に顔を腫らしていくわけに行かない。仕方なく離れて撮るよりしかたが無い。そこで撮れたのが今回の1枚。以来、特異な構造のボギー台車、花巻で乗ることは出来たが肝心な箇所を見ることなく「お迎えの来る日」を待つばかりかと思いきや、哲男さんのお陰で写真で知ることが出来た。でも上からの撮影でないので今ひとつ良く分らない。東武鉄道の門を叩かねばならないのか、その時は哲男さんにエスコートしてもらおう。

さて、揚げ足取るつもりは無いが、花巻電鉄の始発駅は花巻市の都心に当る中央花巻駅で、元岩手軽便鉄道の始発駅でもあった。軽便が改軌するまでは「遠野物語」の出発点を共有したことになるが、軽便の方が先輩である。その後、観光で中央花巻駅跡の近くに行ったことがあるが、往時は花巻市の南西端に位置する場所のように見受けた。家並みの中を西に向かい、国鉄線を越えたところが西花巻。したがってここが創業時の中心で車庫も設けられていた。鉄道線として花巻温泉に向け西北方向に延長されるに従い国鉄駅西側に「花巻駅」が設置され、1931年の車庫火災をきっかけに「花巻」に車庫は移転されたと聞く。1965年7月、東北本線電化工事に合わせ西花巻~中央花巻間は廃止となった。

米手作市さんが身を「しばらく隠すぞよ。その間クローバー会のこと、しっかりたのむぞ!」と仰せられてから間もなく1週間となる。直ぐに乗られずであったが、電車に関係ない方面で2010年のことがまとめられ、デッキにしがみつく行為が可能になった。そして昨日買った鉄道ピクトリアル8月号、なんと我々の仲間になって頂いた「河 昭一郎さん」の玉稿のスタートだ! 内容は先ず手にしてのお楽しみ。売り切れぬうちに本屋へダッシュしよう。

床下を覗き込むも蜂の巣が……

床下を覗き込むも蜂の巣が……

 

やっと出合った特異な台車

しずしずお出ましの芋?電車

トレーラーは揺れ枕付のアーチバー型

 

 


【13344】米手作市氏の誘いに乗る(Ⅱ)

毎朝掲示板を開けるのが日課であることは湯口先輩と同じであるが、朝食後6時30分に家を出て、京成バス、JR→メトロ→JRと乗り継ぎ、4月中旬からは更に新橋で「ゆりかもめ」に乗り換えてレインボーブリッジを渡り「お台場」まで1時間30分かけての通勤している。今回は本業多忙により若干乗り遅れてしまった。

雨宮製作所製の台車の件は前回(5月10日【13285】)で湯口先輩が解説されておられるので、関連事項について触れてみたい。

台車の実物は、湯口先輩が記述されている通り、東武博物館と上毛電鉄大胡車庫にそれぞれ保存されており、興味のある方は是非見学いただきたい。東武博物館には雨宮製作所の銘板も展示されている。(上毛電鉄大胡車庫の見学はイベント時以外は事前予約制)

 


上毛電鉄大胡車庫に保存されている台車(平成22年1月3日)

 


東武博物館に保存されている台車と説明板(平成22年5月20日)

花巻電鉄の車両について触れておられるが、この件について若干補足する。
花巻電鉄は西花巻~花巻~花巻温泉間の鉄道線と西花巻~西鉛温泉間の軌道線が存在した。実際の運行は花巻が起点で、軌道線が西花巻~花巻間に乗入れる形を取り、鉄道線の一部列車は西花巻発着で運行されていた。

雨宮製の板枠台車を履いていた車両は、鉄道線デハ1~4と軌道線デハ1、3~5である。鉄道線のデハ1~3は大正14年、デハ4は大正15年に作られたが、3と4が昭和6年8月火災で焼失し、台車を流用して半鋼製車体を新製した。木製のまま残った1と2は昭和34と35年に鋼体化が行われ、全金製の新製車体に乗せ替えてデハ21、22となり軌道線用となった。その際台車が補強されたため形が変化した。

車体幅が極端に狭い軌道線のデハ1、3~5の経歴は複雑で、デハ1、3、4は昭和6年8月火災焼失車の台車を流用して作られた半鋼製車、デハ5は大正15年製の木製車であった。晩年は鉄道線のデハ3、4も軌道線で使用され、本来の軌道線のデハ3、4と車号が重複した。

 
鉄道線用として製作されたデハ4(昭和41年9月3日)

 


湯口先輩が撮影されたデハ2を鋼体化したデハ22(昭和41年9月3日)

 
軌道線デハ5(昭和41年9月3日)/デハ4、5の2両作られたがデハ4は火災焼失のため半鋼製車体を新製した。

 
軌道線デハ1(昭和43年9月3日)/昭和6年焼失車の補充として新製し、消失により欠番となった1を付番

 
軌道線デハ3(昭和40年3月23日)/製作の経緯はデハ1と同じ。花巻駅近くの公園で保存されている。

 
軌道線デハ4(昭和41年9月3日)/デハ5と同時に新製したデハ4の焼失補充として新製。
前述の鉄道線デハ4も軌道線で使用されていたため、スタイルの異なる2両のデハ4が走行していた。

湯口先輩の記述の通り下野電気鉄道は改軌後、昭和14年に日本鉄道自動車が台車のみ引取り、木製車体と組み合わせて銚子電鉄ボデハ101として再起した。唯、昭和14年に木製車体を新製するというのは不自然で、窓配置を見ると1D2332D1と扉間の窓が分割されており、どこかの車体乗せ換えにより不要となった車体を化粧直しして売り込んだ可能性があると思っている。14年後の昭和28年に早くも半鋼製の新製車体に乗せ換えているが、車体が小さいため一貫して予備車的存在であった。写真は2009年8月11日「【4039】銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)」に掲載されているのでご覧いただきたい。
日本鉄道自動車が雨宮製台車を引取ったのは、自社ブランドの台車を製作するためにサンプル目的もあったのではないかと推測している。

昭和17年に納入した草軽電鉄のモハ101~105は、雨宮製類似の自社製の台車を履いている。昭和22年から順次栃尾鉄道(→越後交通栃尾線)に譲渡され、最終的に5両全車が譲渡された。

 
越後交通栃尾線サハ301(昭和48年4月29日)/元草軽モハ103→モハ208
(S25.4)→サハ301(S41.8)

 
サハ303(昭和48年4月29日)/元草軽モハ102→102
(S36.11)→ホハ29(S39.4) →サハ303(S41.12)

 
サハ306(昭和48年4月29日)/元草軽モハ105→モハ200
(S22.6)→サハ306(S41.12)

戦後では平成19年3月末に廃止された「くりはら田園鉄道」の前身、栗原鉄道が電化(昭和25年9月21日直流750V)に際して新製されたモハ2401、2402の2両の台車に使用された。但し、翌年増備されたモハ2403は通常のものになった。同鉄道は、昭和30年9月27日1067㎜に改軌され、ED20形電機は台車枠を広げて引き続き使用されたが、電車は僅か4~5年で失職して下津井電鉄で再起した。下津井電鉄では他車と共通運用するには制御器の交換等大幅な改造が必要なため電装解除してサハとして使用した。

 
サハ1(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2401(電装解除されたのみで、車体はほぼ原形のまま使用されていた)

 
サハ2(昭和40年8月18日)/元栗原モハ2402(モハ104+サハ2+クハ25の3両固定編成化の際、車体に大幅に手を加えられた。昭和47年3月末、茶屋町~児島間廃止時にモハ102+サハ3+クハ22の中間に連結されていたサハ3と交代し、平成元年最後の新製車メリーベル号と交代するまで健在であった。

 
サハ2の台車(昭和44年3月18日)

 
【参考】サハ3(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2403(モハ102+サハ3+クハ22の3両固定編成化の際、貫通幌の取り付け等が実施された)


【13338】DRFC-OBクローバー会の会員へのお知らせ

昨日、DRFC-OBクローバー会の皆様に下記の書類を郵送させていただきました。一両日中にはお手元に届くと思いますので届きましたら、開封していただき内容物をご確認ください。
なお、会員の方で届かない場合は、新役員または管理者までメール、または電話にてご連絡ください。

内容は、下記のとおりです。
1 全体連絡
2 総会の概要
3 会長挨拶
4 会則
5 会計報告
6 パスワード(一部会員)
7 振替用紙(一部会員)

会費未納入の会員の方には、郵便振替用紙を同封しておりますので、6月末日までにお手続き方の程、よろしくお願い申し上げます。
既に第3期会費を納入済みで投稿未登録の会員の方には、「デジタル青信号」への積極的な投稿を願い、ユーザー名・パスワードを割り当てましたご連絡書類を同封しております。近況等、身近なことでもご投稿願えれば幸いです。


【13313】じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part5  魚梁瀬へ 魚梁瀬森林鉄道3の3

【馬路温泉から魚梁瀬へ】
馬路温泉から約16キロの山道を森林鉄道遺産を見学しながら魚梁瀬に向かいました。

▲ 馬路村から魚梁瀬までもトンネル1箇所が林道として、橋も3箇所が拡幅され一般道路として利用されています。中にはトラス橋もありしっかりした橋が築かれていたことが分かります。途中、森林鉄道で使用されたレールと連結器が山積みにされて放置されていました。保守にでも使われるのでしょうね。森林鉄道遺産についての詳細は、魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアムに紹介されていますので、こちらをご覧ください。

森林鉄道を飲み込み廃止に追いやったダムですが、景観はコンクリート製と比べると、辺りの自然と上手くマッチしているように見えました。

走ること約1時間、水没した部落が集団移転した丸山台地に着きました。朝から曇っていた空も晴れ、新緑のまばゆいばかりの森林に囲まれて気分は最高です。






▲ 1,000円を支払うと、1周400mを2周運転することが出来るのは、鉄ちゃんにとって大きな魅力です。本格的に敷設された軌道をガタンゴトンとゆっくり運転しまして、気分はさらに浮き上がりました。


▲ 森林鉄道館には、3台の機関車が動態保存されていました。運転席にハンドルが着いていますが”?”です。

続いては、馬路温泉前の森林鉄道とインクラインの乗車です。戻って、予約注文しておいた駅弁を食べてから乗り込みました。


▲ 渓谷をぐるっと回る約300mの路線を2周します、勾配もあって、わずかながらも森林鉄道乗車の雰囲気を楽しませてくれました。


▲ 山頂に着けばタンクに水を入れ、麓に戻れば水を抜く、まことにエコなインクラインです。山ふじが咲く中にこいのぼりが泳ぐ森、すがすがしい馬路村での一日でした。

▲ 部屋もロフトもあって広く、掃除も行き届いて綺麗でした。自慢の温泉に浸かって、今日は身も心もくつろげました。最後は美味しい夕食と冷たい生ビールで乾杯です。

鉄道ファンの遊園地のような馬路村の魚梁瀬森林鉄道。ちょっと遠いですが、皆様方もご訪問ください。素朴ですが暖かいもてなしが待っています。


【13266】じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part4  馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道3の2

第2日目 5月5日
① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉


土佐くろしお鉄道「田野駅」の駅の下が、道の駅「田野駅屋」となっています。朝7時になると近辺の農家のおばさん、おじさん達が軽トラックでやってきて、朝に畑で収穫した野菜を並べて販売準備を始めました。

今日は、ここから出発です。懐かしい昔の時代劇映画館がある安田の古い町並みを出ますと、対岸にトンネルが見えました。トンネルは馬路温泉まで8箇所あり、車幅が狭いため一部を除いて車道としては使用されていませんが、森林鉄道遺産として大切に保存されていました。一方、橋は2箇所が現在も現役として保存使用されています。

▲ 安田川渓谷に残る森林鉄道の立派なトラス橋。まだ現役で使用されていますが、車は2トンまで。

▲ 橋を渡ればトンネルがありました。 案内にあるとおり、田野から第3番目を示す刻印もしっかりと残っていました。これは、他のトンネルでも同様でした。



森林鉄道資産を見学しながら、約20キロの道のりを約1時間半かけて、9:00に宿泊施設のある馬路温泉に着きました。道路側には、復元製作された可愛い森林鉄道のSLとトロッコとインクラインが待っていました。

とりあえず温泉の施設に入ると、非常に感じの良い応対です。ご老公は、その暖かさに喜ばれ、今晩はここで泊まろうとご提案され部屋も空いていましたので決定しました。
この辺りに森林鉄道の資料館はないだろうかと聞きますと、宿のお姉さんは役場に電話をしてくださり、今日は休館となっていた近くの郷土館の館長をわざわざ呼び出してくれます。館長は鍵を持ってきてくださり、1時間もの間私達2人だけに林業で栄えた頃のお話、そして展示品の詳しい説明 までしていただきました。ありがとうございました。
ここで掲載しております森林鉄道の写真は、郷土館に展示されていたパネルを撮影許可をいただき撮りました写真です。

▲ 森林鉄道が始まった頃、トロ引きがトロに積んだ材木の上に乗って、勾配を下ります。蒸気機関車が入線する前の逆勾配では、馬や牛が1両1両のトロを牽引して上がっていました。

▲ 1番列車が走る前には、保線係が自転車トロにのって先乗り点検をしていました。土砂崩れの発見の他、走行することで目視では分からないレールのひび割れや、いぬ釘の緩みも分かったそうですから職人芸が線路も守ったのですね。右は人車トロです。カーブでは外に振られて落ちそうになったとか、スリル満点の山下りだったそうです。

▲ 1923年(大正12年)からは、ガソリンエンジンを積んだ機関車も登場しました。蒸気機関車と比べると、軽量で火夫、給水設備不要、火を出さないので山林火災の心配がなく メンテナンスも簡単なことから急速に普及し、戦後はディーゼル機関車へと替わっていきました。

この後、お昼までは十分に時間がありましたので、先にもう1つの復元された森林鉄道のある魚梁瀬へ行くことにしました。


【13294】乙訓のつぶやき

本来「乙訓の老人のつぶやき」なのかもしれないが、身近なことを少々。

このところ旧京阪、対岸からは5月28日のダイヤ改正の話が聞こえてくるだけである。上り列車も高架線になることで、待避線がどのように使用されるのか、これに関心を寄せている。こちら新京阪線、洛西口駅の高架線化は昨年12月9日に下り線も仮線に移行がなり、工事を一気に進めるべく目下準備が進められている。しかし上り線高架線の構築後、下り線に着手するようで工事完成は平成27年度となっている。完成は5年先とは先の長い話だ。でもこの工事で桂駅下手の山陰街道踏切、洛西口駅上手の物集女踏切での渋滞が解消され結構なことだ。

さて5月14日土日ダイヤ改正で以前報じられた「京とれいん」が走り出す。4月23日、クローバー会総会で乗らなかった方、上りは梅田発0952115213521552の4列車です。河原町まで所要43分、快速急行なのに定期急行の2分後の後追いです。定期特急と比べると茨木市、高槻市、長岡天神が通過になっています。茨木市で普通(高槻市行)が特急待避で8分停車となっています。そして河原町は2番線に入線、折り返しにはたっぷり時間をとっています。河原町発1101130115011642発です。終発を除けば河原町で26分休憩することになり、ご老体を労わる事になります。この列車、土日のみ運転で、ご老体がへたった時はオールロングシート車で代用されるからご容赦を!

続いて朗報。河原町~関西空港間が1300円で乗れるキップが発売されると発表があった。新快速攻勢でやられ放しの民鉄、JR西日本「はるか」と比べると2,000円ばかり安くなるという。お暇な方、計算してみて下さい。これも土日昼間に河原町~天下茶屋間に20分毎に準急を走らせるようになるからだ。新京阪沿線から大阪南へ暇人を引張り込む作戦に関空連絡準急を上乗せした形だが、堺筋の繁華街、日本橋~動物園前間に阪急沿線族がどれだけ関心を寄せているか疑問だ。となると、南海ラピードに連絡する列車は、座席間隔狭い飛行機の愛用者には好評となろうが、思うようにいかぬが世の習い。しばらく静観することにしよう。

 


【13255】じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part3  馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道 3の1

第2日目 5月5日
① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉

朝日が上がる早朝6時に、ぶんしゅう7号の寝台車内で目覚めました。ゆっくり起きだし、朝食準備をしていますと、ご老公は地元の朝散歩族の方々とコミュニケーションを楽しんでおられます。私も中に入って林鉄時代の話を聞き入りました。
今日は馬路村に復元されている森林鉄道を訪問します。ただ、運行されているのは日祝日だけです。電話で確認を入れましたら5月3日~5日は大丈夫と言う事でしたので、昨日約450kmもの道のりを走ってきました。馬路村には2箇所に走っていると聞きましたので、かつて森林鉄道が走った安田川沿いを馬路温泉に向けて上がっていくことにしました。

【馬路村との出会い】
学生時代は小さな蒸気機関車が走る
森林鉄道(略;林鉄)など全く興味がありませんでした。身近にC57、C58やD51が走る山陰・草津・信楽・関西本線が蒸気全盛期を迎えていて、気が向けばいつでも撮りに行けました。小さな蒸気はせいぜい小海線を走るC56が大好きだったぐらいです。

馬路村知ったのは昨年3月にTV番めざせ!駅弁日本一」た時でした。京王百貨店で1966年(昭和44年)から開催されている大会(正式名;元祖有名駅弁と全国うまいもの大会)に今は廃線となってしまった路線から、懐かしい駅弁をご紹介する企画として「馬路村の村おこし弁当」が特別参加されていました。


▲ 馬路温泉で注文した地元食材をふんだんに使って調理された村おこし弁当駅弁。見てのとおりボリュームはありませんが、素朴な山菜料理でヘルシーです。

馬路村? 聞いたことがない、いったいどこにあるのか。そんな駅弁なんかあったのか・・・?と、興味津々に見ていくと、過疎化の進む村にかつて華やかだった林鉄時代の活気を取り戻そうと頑張る村民の願いが感じられました。
林鉄といえば、全国あちこちにあったことは知っていても、具体的には恥ずかしながら木曽、丸瀬布や台湾の阿里山ぐらいしか知りません。四国の山中にそんな有名な林鉄があったとは、一度訪問してみたいと昨年計画した次第です。

【馬路村とは】
高知県東部に位置する1,000m級の山々に囲まれ、面積の96%を山林、内75%が国有林が占める山村です。魚梁瀬の天然杉は、秋田、吉野と並んで日本3大美林と呼ばれ、かつては林業で栄えました。昭和30年代の人口は約3,000人、多くは林業に従事していましたが、1962年(昭和37年)に着工された発電を主目的とした魚梁瀬ダム建設と林業衰退化により、現在の人口は約1,000人に激減しました。過疎化した村を救ったのは、1965年(昭和40年)に始まったユズの栽培で、1988年(昭和63年)に発売された「ごっくん馬路村」は、全国ブランドに成長し、村の観光と共に馬路村を支えています。

【魚梁瀬森林鉄道】
『創成期』

それまで河川の流送に頼っていた木材輸送の近代化のために森林鉄道は、はじめに1907年(明治40年)に安田川山線が敷設され、その後1911年(明治44年)に港貯木場のある田野~馬路間、安田川線23.4キロが開業しました。当初は簡易軌道がひかれ、丸太を積んだトロ(台車)が、トロ引き係の手さばきのもと、勾配を利用した自然重力滑走で山を下り、帰り道は犬がトロを引っ張り上げていたというから驚きです。

当時の、トロ引き係は犬を2~3匹飼っていて、行きはトロに乗せ、帰りはトロに人が乗って犬が引き、勾配となると両方が力を合わせて引き上げていました。

▲ 馬路の街の入口にある五味随道をバック入れた犬ぞりトロの様子。 実際にはこんなに近い間隔で続行することはなく記念写真です。右の写真は現在保存されているトンネル反対側です。今にもシェイ式蒸気機関車がトロを牽引して出てきそうな雰囲気がありました。

『満州レール』
レールは本線用が10キロ、支線が9キロ、されに奥地へは6キロの1本5mが採用されていました。注目すべきは、森林鉄道が日露戦争を契機に建設されたと伝えられる点です。1905年(明治38年)終戦後、ロシアが旅順要塞に使用していたレールを戦勝品として日本国内に持ち帰り、安田川線敷設に使用しました。このレールは7cmと背が高く頭が小さくカーブ使用には不利ながら重量物に耐え「満州レール」と呼ばれていました。

『蒸気機関車の導入』
1915年(大正4年)に上の魚梁瀬まで、1919年(大正8年)には、さらに上の石仙まで延伸され田野までの41.6キロが完成しました。しかし途中で14‰もの逆勾配区間が発生したため、この解決策として、全国初の林鉄である津軽森林鉄道よりリマ社製シェイ式蒸気機関車(1号機)が譲渡購入されました。
土讃線より早く、四国でも2番目となる蒸気機関車は、高知からの見物客も押しかけ期待を持たれましたが、急勾配に強いはずのシェイ式は12.8トンの巨体は、10トン対応の路盤には耐えられません。とくにS時カーブではレール負担がきつく一日3回もの脱線は珍しくなかったようで、保線泣かせでした。75もの木橋を付け替え補強を強いられました。シェイ式は、鈍い「アメリカ牛」と酷評され、1921年(大正10年)にポーター社製の整備性の良いワルシャー式B1蒸気機関車2両(2・3号機)が輸入運用されますと、田野貯木場入替機に配置転換され、1925年(大正14年)に廃車解体されてしまいました。

▲ 左はシェイ式1号機、釈迦ヶ生~久木間4.4キロは14‰の逆勾配になっていて、木材を積んでの犬トロでは走破不可能、オス牛が牽引しましたが1両牽引がやっとで、蒸気機関車の導入となりましたが、鈍足に呆れられ右のワルシャー式に替えられました。

1924年(大正13年)に同形式1両(4号機)輸入、1942年(昭和17年)に田中機械製作所製国産コピー機(5号機、1952年3号機に改番)が、1944年(昭和19年)には八島製作所製Bサイドタンク車(2代目5号機)が増車されています。
その後、2・4・初代5号機は、下回りを利用してディーゼル機関車に改造されていますが、この先の説明は内燃機関車の権威者ご大老がおられますのでお任せいたします。


【13242】じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part2  高松琴平電気鉄道

春の大型連休が終わりましたが、皆様どのようにお過ごしになられましたでしょうか。旅行・撮影にお出かけになられたり、鉄道模型製作に励まれたかと思っておりますが、私は乙訓の老人こと「ご老公」のお誘いを受けて一緒にぶんしゅう7号に乗り、5月4日から8日まで4泊5日の四国路の旅に出ました。
お互いに老朽化で車体・モーター・台車に多くの問題をかかえていましたが、幸いにして故障発生はなく無事帰還いたしております。今回は、天候にも恵まれてゆっくりと、新緑がまばゆい四国路を回ることができましたので紀行記をご披露させていただきます。

第1日目 5月4日
① 乙訓6:00(名神・中国・山陽・瀬戸中央・高松自動車道)→11:30琴電岡田
② 琴電岡田付近→滝宮駅→土器川鉄橋(旧型車両走行撮影)
③ 土器川鉄橋13:55(高松・高知自動車道)→土佐くろしお鉄道田野駅(道の駅 田野駅屋)

連休中の高速渋滞を考慮して早朝6時に出発しましたが、予想に反して空いていました。快調に走行を続けましたが、岡山手前で突然に渋滞に遭遇、見れば車10数台の衝突事故でした。まだ警察・救急車も来ていなく発生したばかりです。本線上に止まる事故車を避けながら抜けきりましたが、道中での高速事故遭遇はその後2度もあって、その都度渋滞に巻き込まれました。連休中は普段、高速道路を使わない不慣れなドライバーが多く、こういった事故発生による渋滞が多発します。自分達も加害者にならないようにスピードは控えめに慎重運転に努めました。

今日は琴電の旧型車両4連が走行する日です。ご老公が若き日に自転車に乗って走り廻り、情熱を傾けられたお奨めの撮影地を目指しました。聞けばこの時期は「こいのぼり」が乱立しての一緒の撮影が出来たそうですので楽しみにしましたが、全くこいのぼりが見えません。どうしたことかと嘆くご老公ですが、若者の過疎化、また少子化という時代の流れは、5月の風物詩まで奪ったようです。


11:45、高松築港からの3221。23+500+200+120の旧型電車4連。岡田~羽間。


撮影後は早朝出発でタンクも空になっていましたので、近くの「川八うどん」に直行して満タン補給。鯛ちくわの天ぷらをのせた「醤ちく」が美味しく近所の家族連れで満員でした。お奨めします。


12:45、この日の旧型電車は、琴電琴平から滝宮を1往復して仏生山に帰ります。滝宮駅での折り返しの1カット。正面の「急行」サボマークはかつて取り付けられていたものだろうとのご老公の懐かしげなお言葉でした。同業者はようやく数名を見ました。


13:11、ようやく見つけたこいのぼり。「青空に泳ぐこいのぼりと旧型電車」と言いたいのですが、この日は黄砂が多く、また風もなくて泳ぎません。仕方がないので、最後の1カットは無難に土器川鉄橋にて撮影しましたが、ここでは同業者は我々だけでした。


撮影後は、高知自動車道を走り南国土佐へ、宿営地土佐くろしお鉄道田野駅に併設された「道の駅 田野駅屋へと向かいました。この日の温泉は近くの二十三士温泉としました。この温泉、泉質は良いのですが保守管理がされていなくて、お奨めできません。どうしたんでしょうか? 管理者の姿勢? 結構お客も入っていましたのに、残念です・・・・。


22:50、奈半利行きの最終を見送ろうとのご老公のお言葉でホームに上がっての記念撮影です。

2010年3月に訪問しました琴電の旧車両走行撮影記は、こちらをご覧ください。


【13238】米手作市氏の誘いに乗る

毎朝この掲示板を開けるのが日課だが、またもや米手作市氏からチョッカイが出たではないか。で、すぐさま乗せられ、いそいそとスキャンする羽目に。

この真四角鉄箱電車に関しては老人の出る幕はない。台車だけである。これは雨宮製作所1926年製で、元来下野電気鉄道デハ103が装着していたものである。独特の板台枠をアングル材で補強、軸バネはウイング。写真は株式会社雨宮製作所の『機関車・車輌案内』(カタログ)掲載で、側面がノッペラボーだが、現実には丸穴が5個開いている。軌間762mm用で、花巻と下野電気の50人乗りボギー電車=花巻は電動機30馬力×2、ギヤ比4.93だが、下野は25馬力×2、6.67。


雨宮カタログの台車 762mm軌間ながら車輪径は1067mm並みの864mm ホイルベースは1,498.6mm 現実には側板に丸穴が5個穿ってある 左上は雨宮製作所の社紋

ところで下野電気鉄道デハ103は、出力とギヤ比以外、盛岡電気工業→花巻温泉電気鉄道(鉄道線)デハ1~4と同じ図面で製造された。下野の写真が得られないので、花巻デハ2で代用しておく。


花巻電鉄デハ2 1960年3月18日湯口撮影 花巻 本来鉄道線用の車両だが オッソロしい急カーブがある狭い併用軌道の軌道線対応のため連結器が独特である 下野電気鉄道デハ103も外見は同一

下野電気鉄道は1929年1067mmに改軌(1943年6月30日東武鉄道に合併)されたから、この電車はたったの3年余しか走行しなかった。その後東武浅草工場で保管され、1939年台車だけ日本鉄道自動車が引き取って1067mm用に改造し、銚子電気鉄道デハボ101に装着して再起した次第である。なお台車は現在東武博物館と上毛電気鉄道で保管されている由。