【14682】最後の夏

今日の関東地方は、しとしとと雨の降り続く日曜日となりました。

その雨の中、8月で定期運用から離脱する国鉄型車両を追いかけました。

一つは、JR東日本の113系。もう一つは、関東鉄道のキハ350形です。

早朝、土砂降りの中、成田線大戸~下総神崎間を行く113系です。晴れていたら、結構人が集まったかもしれませんが、雨でしたので、私のほか一人だけでした。8月末で、定期運用から撤退とのことですから、この区間を走るのは、あと何回でしょうか?鹿島貨物を待つ間、いつも顔を合わせていましたが、ここで、出会うのも最後かもしれません。正に涙雨です。

 

一旦自宅に戻り、午後、再度出陣です。まだ、雨はしとしとと降り続いています。

7月22日金曜日から8月28日の金土日曜日に、キハ350形が限定運用で、走っています。今日を逃すと、来週の3日間しかありません。

守谷~新守谷間を行くキハ350形です。随分田舎のようですが、つくばエクスプレスの走る守谷駅のすぐ近くです。

小絹~水海道間の水海道車両基地の脇を行く、キハ350形です。後輩が見守っています。

バリバリの現役時代は、どちらかといえば、あまり写す気にならなかったような車両たちですが、今の車両と比べたら、個性的で温かみのあるような気がします。

来週がラストチャンスです。

天気がよければ、最後にもう一度会いたいものです。


【14663】有難うございました 高橋弘さん

訃報に接し、鉄道趣味の先達であり、師匠と仰いでいた方が次々と逝去され寂しい思いがしてならない。

高橋さんと同席となったのは1955年12月、奥野さん宅であった京都鉄道趣味同好会忘年会の時であった。この時、父は高校2年生に一升瓶を持っていけと言って渡してくれた。この忘年会には大橋さん、中谷さんも参加され、同好会会務と会誌「急電」発行についての打合せも行われたように思う。

忘年会は高山さんを含め6人、私は最年少で高山さんと高橋さんに挟まれ小さくなっていた。一升瓶を持ちこんだことで大いに盛り上がり、高橋さんから訪問された各地の電車話をお聞きする事ができた。私も姉が四国・善通寺で所帯を持ち、1954、1955年の夏休みに四国を巡った話をしたところ、興味をもって聞いて頂けた。その時、琴平参宮電鉄創業期の木造4輪車を撮りそこなった話をしたようで、後に3景の写真をそれぞれ2枚ずつ頂いた。この時「沖中君が琴参電車の紹介を何処かでする機会があったら自由に使ってくれたら良いよ」とおっしゃった。その3景は次のとおりである。

①     デハヨ型26号、撮影地は琴参琴平駅。高橋さんが東山中学5年秋(1949年と思われる)、修学旅行で四国へ行れた時のもので、夜行で高松に上陸、屋島と栗林公園に行き琴平で1泊、琴平神宮参拝後に撮影したとの説明があった。フィルムは映画用をライカ1型のパトローネに詰め込んだもので粒子が粗く、大きい写真は掲載に向かないから気をつけるように言われた。

以前、1954年夏に樫藪変電所横に留置されている竹製はしごを括りつけた27号を撮りそこなったと「デ元青」に記したが、それと同型車である。デハヨ型は5期に亘り新造されたが、その最終期1925年4月梅鉢鉄工所で製造された5両、24~28号の内の1両が26号である。廃車は1954年4月21日付けで28号と同時であり、27号は架線修理車として残されたが1955年3月末に廃車解体。開業期の車両はこの時点で見られなくなった。

②     和歌山鉄道モハ50号、於:東和歌山駅、1952年2月24日撮影。「琴参の2軸車改造とは思えない車体ですが、台車も改造か?」との高橋さんのコメント入りである。この50号は琴参のトップバッター、開業した1922年10月22日の祝賀電車となったものである。1939年10月に和歌山鉄道に売却されたデハヨ型は4両、11~13、15号の4両であった。燃料事情から水力発電が豊富な和歌山では、アメリカから原油を差し止められるやいなや、一早く鉄道電化に着手した。ノンステップ化、連結器取り付けなどの改造後50~53号と付番され、1941年12月末の電化工事の完成を待って1942年正月から使用開始となった。私は松電、長電、東京の電車見物を終えた後、国電モハ52が阪和線で特急運転している奧野さんに教わり、天王寺を朝9時過ぎ発で乗りに行っている。その時、この50号が東和歌山構内で貨車入換作業をしているのを見ていた。50号は旧11号の旧番号持つ。つまり1号車なのである。26号と11号は正面の横樋が曲線と直線の相違以外に、出入口が3ステップと2ステップの違いもあり、開業時の5両のうち4両はいち早く売却の憂き目にあった。

③     デハ56号、撮影場所と時は26号同じ。琴参は昭和期に入り乗客数が急上昇している。琴平急行電鉄開業もあり「金毘羅参り」が頂点に到達した頃、車両増備が図られた。結果は南海鉄道軌道線の余剰車両、元阪堺電鉄1型(1911年製)5両(15、17、29、37、39号車)の導入であった。1935年9月に購入され1936年2月に使用認可を得ている。南海側では50~54号と付番して出荷したと伝えられているが、すでに琴参には50形51~54号が存在しており、60形55~59号に改番された。導入後の写真では阪堺時代同様オープンデッキであったが、後に折畳扉を取り付けた。この5両は戦後鋼体化されているが、撮影された1949年の56号は鋼体化工事前である。

頂いた3枚の写真の説明はこれ位として、”参ったぁー”となった事が1件ある。2002年のことだったと記憶するのだが、高橋さんは鉄道友の会シルバー賞の栄誉に浴された。その祝賀会が二条駅北の弥栄会館で開催された。私は富山時代の2年間だけ入会しただけだったが、祝賀会の案内状が舞い込んだ。過去の短期間の会員であるのに関わらず、案内をいただいた事に感動を覚えると共に即座に出席の返事を出させていただいた。当日、受付で席札を貰ってびっくり!「A」となっているではないか。名札を探したら高橋さんの隣席ではないか。もう一方の隣席は吉川文夫さんとなっていた。これは何かの間違いではないかと、テーブル「B」におられた高山さんに問い質しに行った。いとも簡単に「あ々、あれかいな、あんたは付き合いが古いし、なんかあった時お互いに遠慮もないと思って吉川君とで挟んでおいた。」といわれた。この時、持病と言っておられた腰痛に悩んでおられた頃でもあった。大変な役を仰せつかったものだと思いながら、高山さんの願いを果たすべく高橋さんの手足となって動いたつもりであったが、終わりの方は旧知の人に久しぶりに会って「飲ん兵衛」になっていたかも知れない。その節は高橋さん、ごめんなさい。また天国でお会いしましょう。吉川さんをはじめ天下の「電車好き」が集まって語り合いましょう。

①大譽11年生まれにしては古閾・?スタイル

①大正11年生まれにしては古臭いスタイル

②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車

【14659】高橋 弘氏を悼む


51年半前の高橋 弘氏 両備バス西大寺鉄道会陽特別運転の日 1960年2月12日

佐竹保雄先輩と並び、在京都―関西、いや日本有数の、それも昨日や今日デビューしたんじゃない、筋金入りの鉄道カメラマン、高橋 弘が亡くなった。79歳であった。180cmを超える長身だけでなく、100kgも超える堂々たる体躯、それで温厚、誠実なお人柄だった。タカハシ写真館のご当主だけに、気楽トンボの我々と違い、せいぜい夜行で1日行程ぐらいと、行動範囲はそう広くはなかったが、関東から山陽路ぐらいまで、丹念に足を運んで居られ、行動力は人後に落ちなかった。1950年代自転車に小型エンジンを搭載した簡易バイクが流行ったが、それで北丹、加悦鉄道まで行かれた由だし、そのバイクが「ポキンと折れました」という話も、彼氏のボリュームを考慮すれば、さして不思議でもない。

車種に好き嫌いせず、何でも熱心・丹念に撮っておられたが、やはり一番好きだったのは電車、それも路面電車だったような気がする。別段メモをされている印象はないのだが、実に記憶がよく、車歴に詳しかった。それに細かいところにも気がつき、あの電車の台車はどうだった、あれのどこが変わっていたとか、それもけして吹聴するのではなく、メモもなくさりげなく記憶を披露されるのに、何度も感心し、脱帽した記憶が尽きない。

彼氏とは何度か山陽路の撮影をご一緒させて頂いた。気楽トンボの小生は、先に出発してステホを重ね、約束の場所で落ち合う。彼氏は仕事を済ませ、夜行でやってくるのである。ご一緒した先は尾道鉄道、井笠鉄道、両備バス(西大寺鉄道)などなど。西大寺・観音院の年に一回の大祭である会陽(えよう=俗に天下の奇祭「裸まつり」)の時も、小生は前日から行っており、彼氏と落ち合って岡山電軌、後楽園駅、終点西大寺車庫、沿線などで一緒に撮影した。彼氏は単端式2両がボギー客車5両を牽く「会陽特別列車」を、三脚に乗せた単レンズの8mmエルモのスプリングモーター一杯撮影しながら、スチルカメラの両刀使いもされていた。一連の8mmは小生が何度かお借りしてコンパでも上映したから、記憶が残る人もいるはずである。


両備バス後楽園駅構内 オーバーコートで撮影する高橋 弘氏 1960年2月12日

東山五条のお店で、暗室に入れてもらったことがある。ご父君の代から使っているという、陶器のバットには銀が随所で光っていた。冬だったが、暗室内のコンロには薬缶がのり、湯気を噴いている。現像液のバットは一回り大きいバットに漬けられ、時折薬缶の湯を注いで適温を保つ仕掛けである。四つ切バットで全紙までなら四つ折、六つ折してOKとのこと。小生は六つ切りバットで半切ぐらいはこなしていたが、もっと大きい印画紙だと、スポンジに現像液を染ませ、それで印画面を拭く名人芸もあるのだそうだ。

鉄道だけでなく、音楽、ステレオにもご造詣が深かった。アカイ900(分る人は手を挙げて=まだテレコが凄く高価だった時期、アマチュアでも手が出る価格で販売されたオープンリールのテープデッキ自作キット)も難なく組み上げ、ステレオが全盛になるとやはり自作のアンプとスピーカーシステムを聞かせていただいた記憶もある。

ここ10年ぐらいはご健康が優れず、正直やや痛々しかったが頭はしっかりしておられた。お目にかかったのは1908年12月7日、関東と関西の仲間が寄っての忘年会が関西受け持ちで湯の花温泉であり、翌日大津魚忠では、ご子息修氏のご配慮で弘氏も同席され、昼食をご一緒したのが最後になった。その折西大寺鉄道に行った記憶―一人でなら到底あんな列車を撮影できなかったと話されたのが忘れられない。こっちこそ、本当に有難うございました。得がたい先輩をまた一人失った。


【14654】江若鉄道三井寺下再現 その11

レイアウト工事の方は 見通しがついてきましたので、たまっていた車両の塗装工事を進めています。連日の猛暑で、盛んに熱中症予防が叫ばれているなか 当鉄道の塗装工場には手動式塗装機・・・・・スプレー缶というものが世の中に出回る前には 殺虫剤も手押しの噴霧器でした・・・・しかなく、20両近くの塗装作業は熱中症との戦いの様相を呈しております。第1陣として4両の蒸気機関車が塗装工場を出ました。旧宇部鉄道から来た短命の100号機、最後まで残った6号機、江若夏の陣で活躍した1118号機、そしてC111の4両です。C111はウオームギアの調達が難航しモーターを仕込んでない無火機ですが、その他の3両は試運転調整も終えて 出番を待つ状態です。

続いて塗り分けのない客車群、塗り分けの面倒な気動車の順に塗装工事を進めることにします。


【14652】猛暑をくぐり京都の写真展へ

 お盆休みの13日を利用して、大文字でスカタンな話題を提供する京都へと向かう。烏丸御池で開催の福田静二さんの写真展「市電の記憶 昭和の京都」ならびに五条河原町で開催の佐竹保雄さんの写真展と津田雅司さんの模型運転会共催の「東北を旅して」を鑑賞するためだ。一日に二度楽しめるコスパ満点の機会だ。
 大阪市営地下鉄堺筋線日本橋駅から堺筋線に乗る。途中の市営と阪急の運転手が交代する天神橋六丁目駅のすぐ上にある大阪くらしの今昔館では世界的な鉄道マニアと云われる原信太郎翁92歳の特別展示「鉄道模型と極める-関西の鉄道-」が9月4日まで開催されている。ちょうど今日の日経夕刊に原信太郎さんの自作や収集された鉄道模型約六千輛のうち一千輛を順次展示する鉄道模型博物館が横浜市みなとみらい21地区に来年7月を目途に開設されるとの記事が載っていた。天六駅から昔の新京阪線となる。新京阪の旧天六駅ビルは解体中で高層マンションになる。立体交差工事がすすみ三階ぐらいの高架橋が散見する淡路駅で特急?に乗り換えるが盆休みでか混雑していて烏丸駅まで立ち席。しかし良く停車駅がある。京都市営地下鉄にひと駅乗って烏丸御池ギャラリーへ。
 写真展の写真はすべてモノクロで福田調ただよう素晴らしいものである。安全地帯に溢れんばかりのお客が市電の到着を待っているのは微笑ましいばかりだ。今でも正月の初詣のときに阪堺電車の住吉大社停留所の安全地帯で、同じ光景が見られる。鉄道写真としてはもちろん、街の情景や服装・建物など記録写真としても貴重なものだ。少し奥まったとこにあるので多くの人に見て貰えないのが惜しい。
 過剰装備の背の高い豪華ホームドアが設置された大赤字の地下鉄東西線と馴染めない配色になった京阪電車に乗って清水五条駅へ。地上へ出ると猛暑。報道に寄りますと、この日の京都市は全国二番目の暑さだったとか。二つめの目的地に着くと佐竹さんご夫妻・福田さん・津村さんのお顔を拝することができ、幸運だった。暑さにも負けず佐竹さんはお元気で、直々に写真の説明をしていただけた。懐かしい蒸気機関車や旧型客車列車、大好きだった薄幸のキハ55系準急色の写真を見る。また福田さんには阪堺電車撮影会など情報提供をいただきながら音信不通のお詫びをする。大阪通信員というのに通信しないと風評が立っているとお叱りを受ける。よってこの一文を熱帯夜のなかで発信する次第である。今春定年を迎えた津村さんは模型鉄道の社長に就任し悠々自適とのこと、ご要望があれば出張運転会が可能のようだ。キハ17系気動車・焦げ茶のDF50の牽くスハ32系客車などお若いのに通信員好みの渋い車輌があり気分良好。なお滞在中に、はるばる伊丹市からご婦人がトランクを引いて来場される。朝日新聞の紹介記事を見て、鉄道資料のチャリティに役立てて欲しいと「日本の電車」などの書籍と記念乗車券や東北新幹線開業メダルなどを持参されたのだ。最近お亡くなりになったご主人のものだとか。ちょうどお盆で旦那さまへの良き供養となれば幸いである。通信員のみならず、OB皆様もお盆を機会に、ご家族には収集品を安易に片付け屋などに渡さぬよう一言云っておかれることも肝要ではありましょう。
 大谷廟へのお盆のお墓参りなのか五条大橋の東行きは長い渋滞。京阪電車に乗って丹波橋でこれまた良く停まる特急に乗り換える。やってきたのは生き残った8000系。淀駅は高架駅となったが引き込み線などの工事は残っている。高架になったので淀城跡が上から良く見える。また橋本駅横では遊郭だった建物がまだ見える。途中すれ違う旧色の列車がすっかり少なくなっと嘆いているうちに北浜駅から日本橋駅へと戻る。


【14635】広島電鉄の単車

【14623】で関 三平先生の広島電鉄152号のイラストと解説が紹介された。解説文を再掲させていただくと「8月中旬には広島駅頭に立って再び興奮に包まれていた。駅前停留所にはひっきりなしに広電(広島電鉄)の四輪単車が発着して、ある時間帯には単車ばかりという(私にとっては)想像もできなかったシーンが現出されていたからだ。150、200、400、450の4型式あわせて60両強が現役で、『単車祭(?)』の状態になるのは当然の結果だが…。もちろん、全車、原爆の犠牲車だ。
4型式のうち400型、450型は、戦前から始められた鋼製車(木造車からの改造)が完了し、スマートな『広島スタイル』におさまっていた。150型、200型には、原型をとどめた応急復旧車が残り、152号車(イラストの電車)もその1両、屋根がリベット打ちの鋼板屋根に変更されたりしてはいるが、全体として昭和初期鋼製車の原形をよく残している。
長さ約9メートル、70馬力弱の小型車ながら頑張り、広島の街の復興繁栄を見届けて昭和45年までに全車廃車。152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。なおスマートに更新された156号は『被爆単車』として保存され、現在も折にふれて市内を走る」と記されている。

関先生の言われている「単車祭(?)の状態」とは、昭和35年頃ではないだろうか。

また、米手作市様が「今回ばかりは切れが悪いようで、意味の理解できない部分もあります」と言われている部分は、①昭和45年までに全車廃車。②152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。③スマートに更新された156号は「被爆単車」として保存され、現在も折にふれて市内を走る。以上3点の相関関係ではないかと思われるので、それらを含め解説したい。

 広島電鉄を初めて訪れたのは昭和40年3月のことで、京都駅23時5分発準急「ななうら」で出発した。準急のため途中停車駅が結構多く、広島到着は6時51分であった。ちなみに帰りは翌日の宮島口13時53分発153系の急行「関門」で帰ったが、広島で通路まで満員となり、宮島口から乗ったのは正解であった。山陽本線は全線電化されていたが、広島以西の貨物列車は殆どD52が牽いていた。私は電車の撮影に専念していたので、そちらは撮影していない。

150形(151~160)
大正15年梅鉢鉄工所で10両作られた。原爆では宮島駅にいた157以外被爆した。昭和23年までに全車復旧したが、昭和27年に152、153、160の3両を除き、車体更新が実施され、自社製の新製車体に乗せ換えた。車体更新されなかった3両は関先生が書いておられる通り昭和40年に廃車。車体更新車も昭和44年から46年にかけて廃車されたが、解体を免れ江波車庫に保管されていた156が昭和62年に複籍を果たし、イベント時に展示走行されている。

 
151/紙屋町 
(44-3-29) 万国博まであと351日

 
156/広島駅 
(40-3-27) 一旦廃車になったが、車籍を復活して保存されている。

 
157/紙屋町 
(44-3-29)

200形(201~210)
昭和5年日本車輌で10両作られた。原爆で全車被災したが昭和23年までに復旧した。150形と異なり、車体更新されることなく使用され、昭和38年から41年にかけて廃車された。

 
209/広島駅 
(40-3-27)

400形(401~430)
大正11年から昭和2年にかけて大阪市交通局の前身、大阪市交通局から購入した木製車100形を、昭和13年に17両、17年に13両自社製の半鋼製車体で鋼体化した。扉間5枚の大きな窓とノーシル、ノーベッダーの軽快な外観で、次の450形と共に戦前の広電を代表する車両であったが、足回りは旧車のものを流用したため、150形や200形よりも古かった。
原爆では宮島駅にいた417以外被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和31年に420~430の11両が廃車され1部は工作車となった。残りの車両も昭和40年から44年にかけて廃車された。
大きいなガラスの調達が困難なため、窓に桟が入っている車両が少なからず存在した。

 
409/広島駅 
(40-3-27) 1枚ガラス入手難のため、窓に中桟が入っている。

450形(451~465)
昭和12年11月千田車庫の火災で被災した100形11両を昭和14年から15年にかけて自社製の半鋼製車体で鋼体化した。車体は前述の400形と同型であるが車輪径が異なり、床が高くなっている。当初450~460を付番されていたが、450を461に改番した。原爆では全車被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和24年原爆で被災した100形の復旧を兼ねて462~465の車体を新製した。この4両は扉が引戸になった。400形と共に活躍していたが昭和40年に2両、44年に残り13両が廃車となった。

 
453
/八丁堀 
(44-3-29) 白島線で使用

 
455/広島駅 
(44-3-29)

 
460/八丁堀 
(44-3-29) 中桟入りの窓

 
462/広島駅 
(40-3-27) 昭和24年製で扉が引戸になっている。 

650形(651~655)
被爆電車654についてのコラムが掲載されているので、こちらについても解説する。昭和17年木南車輌で651~655の5両新製。原爆で5両共被災したが昭和23年までに復旧した。655は昭和42年事故で廃車、残る4両は昭和50年にワンマン改造、昭和61年には冷房改造と方向幕の大型化が実施された。654は平成18年老朽化により廃車となり広島市交通科学館で保存、653は休車扱いで千田車庫に保存されている。651と652は現役で朝夕ラッシュ時に使用されており、歴史の生き証人としていつまでも走り続けて欲しいと願っている。また、撮影された方がおられたら是非発表していただきたい。

 
652/広島駅 
(44-3-29) 冷房化、方向幕の大型化が実施され、現在も健在である。

 
654/広島駅 
(44-3-29) この時代でも窓に中桟が入っていた。