追憶の旅(その4)

防府で泊まった翌朝は 徳山に向かう。途中 富海、戸田あたりの海岸線はかつて大型蒸機の撮影ポイントだったところだが、糸崎ー尾道間と同様 海岸の景色はあまり変わっていないように思えた。徳山で岩徳線に乗り換える。キハ40の単行である。乗客14人で発車、櫛ケ浜から岩徳線に入る。海岸を走る山陽線が艦砲射撃で不通になったときのバイパスとして作られたと聞いたことがあるが、そのため線路規格は幹線並み、途中の交換駅もDC1両には不似合いな長いホームや有効長がある。それ以外には特徴の少ないローカル線であった。意外だったのは 乗降客が多いことで、確かに高校生(もう夏休みに入っていたのでクラブ活動?)が多かったが、岩国に近づくほど乗客は増えて立っている人もいたほどだった。私以外に徳山から乗り通した人(鉄ちゃんではない)がいたのも驚き。西岩国で下車。西岩国の駅舎は昭和4年に建てられた洋風のしゃれた駅舎なので 錦川鉄道に乗り換えるのはこの駅と決めていた。乗り換えまでの12分ほどのあいだに 駅前に停まったバスが動いてくれず 駅舎だけの写真を撮り損ねたが これも時代の記録と思ってパチリ。駅正面玄関上や窓の上のアーチは錦帯橋をイメージしたデザインである。バスは各地で増えている コミュニティーの巡回バスである。無人駅のため広いコンコースは殺風景だが、非常に良い雰囲気の駅だった。立派な跨線橋を渡って 錦川鉄道に乗り換える。

やってきたのはNT3002 ひだまり号だった。錦川鉄道はかつての国鉄岩日線で錦川に沿って北上し 錦町まで約1時間の旅である。営業上の起点は岩徳線川西駅だが、実際の分岐点は川西駅から1.9Km先の森ケ原信号場である。信号場と言っても遠隔操作のポイントがあるだけで 詰所も何もない。

このトンネルを抜けると森ケ原信号場。場内信号機左上が岩徳線で赤、右下が錦川鉄道で青を現示している。

森ケ原信号場

 

この信号場を過ぎて 最初の駅が御庄(みしょう)である。車内では「山陽新幹線はお乗換え」とアナウンスはあるが 乗り換える人などいない。駅名が新岩国ではなく御庄であるように 全く別の駅である。無人駅で ホームにはヨ8000の車体が待合室になっている。駅の少し岩国寄りに新幹線の軌道基地に入ってゆく引込線が残っているが、途中 レールは撤去されて使われていない。

あとはただただ錦川を左手に見ながら川を遡ってゆくのみ。眺めの良い個所では徐行し、景色をお楽しみくださいとアナウンスがある。観光客には良いかもしれないが、いつも乗ってる地元の人にはありがた迷惑かも。ほぼ中間点の北河内で岩国行きと交換し 錦町へひた走る。

殆どこのような景色が続く。なぜか線路際に電柱がなく、非常にすっきりしている。錆止め色に塗られた線路際の柵が細いレールで作られているのが気になった。森林鉄道は無かったはずなので、岩日線建設当時のトロッコのレールか?

 

終点錦町から先にもトンネルや路盤は続いていて、「とことこトレイン」なるバッテリーカーというか遊園地のこども列車のような乗り物が雙津峡(そうづきょう)温泉まで運行されていて 観光客はほとんどそれに乗り換えるが、私はトロッコもどきに興味はないので 8分後に折り返し発車する岩国行きを撮るべく 錦川鉄橋まで駆け足で戻る。

 

錦川鉄道には現在NT3000型の4両しかなく このピンク色は桜をイメージした3002 ひだまり号、青はアユやヤマメをイメージしたせせらぎ号3001、薄みどりがカワセミをイメージしたこもれび号3003、黄色が蛍をイメージしたきらめき号3004で 殆んど単行で運用されている。

駅か駅前に食堂か店屋ぐらいあるだろうと何も食べ物を持たずに行ったのが間違いで、かつて営業していたであろう食堂や店屋はあっても 駅の売店にパンもなく 仕方なく少し離れた錦町の集落まで歩く。幸い農協が開いていて弁当を手に入れられたが 余計な時間を費やし 次の列車も同じ鉄橋で撮るハメになってしまった。今度は青い3001がやってきた。

錦川鉄道の本社や車庫はここ錦町にあり、この日は3003と3004は車庫で休んでいた。これらも撮影して全車両を撮り終えて満足。岩国行きの発車まで駅で時間つぶしするが、駅の売店のおばさんが 弁当もパンもなくてゴメンとリンゴをむいてくれたのには恐縮してしまった。お礼に錦川鉄道の絵はがきを買う。

 

40Km弱の路線に4両のDC,全駅無人、保線も含め何人で運営されているのか聞きそびれたが、発車までの時間 若い運転士が洗車を始めた。ワンマン運転のため車内アナウンスなどは当たり前の仕事だろうが、このような弱小鉄道ではひとりで何役もこなしているのだろう、鉄道が好きでないと務まらないだろうと思いながら 若い運転士が頼もしく見えた。

岩徳線や錦川鉄道は初めての訪問で、追憶の旅ではなかったのですが、一応鉄道マニアとしての旅はここまでで、岩国から大畠経由周防大島に渡って 4日目は島の旅でしめくくることになります。

初めての汽車一人旅

 老人は同志社中学校2年(1952年)の夏休み、はじめて汽車による一人旅をしている。電車では小学校3年(1948年)以来、折に触れ奈良電、近鉄橿原線、同大阪線経由で父親の出生地(奈良県宇陀市古市場)往復を一人でしていた。汽車の旅となると母親の出生地(島根県吉賀町六日市)となり、小学2年の時の往路は父母同行、復路は9歳上の兄の迎えによるもので、以後なく寂しい思いがしていた。小学校の頃から地図を見るのが好きで、父の本棚にあった冨国書房・大日本帝国地理体系を引っ張り出していた。地方鉄道の電化線が赤線となっており、どんな電車が走っているのか、電車少年には興味そそられるものであった。中学2年の社会は地理中心で、フォッサマグナ(中央構造線)なる言葉を知った。その北端が北アルプスと知り日頃、標高1000m以下の山に囲まれての生活だけに高い山が見たかった。

この年は初めてアルバイトをしている。先のアイキャン屋の長女が従兄と結婚、縁類になることにより「たぁちゃん、みたらし団子づくり手伝って」となり、日給200円12日分、2,400円の大枚を手にしたのであった。これをどう使うか、かねて汽車の旅がしたいと願っていた老人は北アルプスと電車(松本電鉄と長野電鉄)、更に東京電車見物の旅の許可を父母に願い出た。父は即座にOK、長野で旅館を手配してくれた。善光寺参道東側”宮林旅館”であった。母は東急沿線大岡山駅近くの従兄に連絡してくれた。

さて中学2年生は盆明けに中央西線の夜行で先ず松本に早朝到着した。駅ホームで洗顔後、2食目の焼きおにぎりをほおばり、関西と違い丸味の少ない高床木造ボギー車で島々線往復をした。外部塗色は濃い茶色一色だった。次いで浅間線、ここは正面幕板(額)が広い高床木造ボギー車で、運転台を兼ねた出入口部が一段下がっているN電並みの車体構造であった。外部塗色は上高地線と同じ、この2線に乗ることが出来た。北アルプス連峰はどうだったか、全く覚えがない。昼飯は多分コッペパンを牛乳と共に腹へ流し込んだのであろう。午後は長野に移動、着いた善光寺の宿では米2合を差し出している。

松本で思い出したのはこの程度だが、実は結婚の翌年(1965年)盆休みに新婚夫婦は浅間線廃止を知らずに松本に来ている。野辺山荘で一泊、翌日は浅間線に乗って八方尾根を望見の後、上高地線で上高地帝国ホテル泊りのコースを画いて松本駅に到着した。駅前に松電の姿がない。この頃は今のように廃止と言って大騒ぎをしていなかった。ぼろ電に乗る楽しみが消えてギャフンとなった。上高地線は全て鋼製車体に更新され、上半薄いグレイ下半水色の塗り分けとなっていた。浅間線の外部塗色も末期は上高地線同様であったのだろう。

ところで老人は「鉄」復帰2年後(1988年)、河原町六角に移った駸々堂地方刊行物コーナーで信濃毎日新聞社・「信州の鉄道物語」を見付けた。趣味界の大御所、小林宇一郎監修とある。即座に買った。そこで松電島々線→浅間線→布引電鉄1~3号となった木造単車の布引時代の写真掲載【①】を見付けた。台車はブリル21E、写真に装着してみれば全体像は想像できる。浅間線時代は写真に見えるステップの下に更に1段、露出型のものがついていた。また別書では浅間線のダブルルーフ2,4号車の竣工時(ホデハ4,5)の図【②】も見付けたので紹介する。車体と台車は九州小倉にあった東洋車両(1924年7月)製で、台車は庄内交通1型と同型であった。いずれお目にかけることになるだろう。最盛期(昭和初期)の時刻表では、浅間温泉初発午前4時48分発から12分毎で終発午後11時48分まで、駅前初発は午前5時10分から12分毎で終発は午前0時10分まで、上り下り共に所要時分は22分、浅間温泉折り返し時分4分、駅前は着発のピストン運転となっていた。廃止直前は早朝、昼間、夜間は24分毎になっており、朝夕最混雑列車の前に横田-駅前間では続行車もあったようだ。

さて長野では長電乗り回し、「牛ではない電車に牽かれて善光寺参り」を果たし、夜行列車で早朝新宿到着となったのである。待合室で少憩後、西口から出て東京で最初に見た私鉄電車が京王電車であった。この時の印象は強烈で今に至るも残っている。25年ばかり前、高橋弘師匠にこの話をしたら師匠も同じ印象を持たれたようで、次にお伺いしたとき、1950年5月撮影の甲州街道上の写真をプリント【③】して待っていて下さった。その時貰った一景を紹介しよう。最古参車2000型である。「京王電車は2扉が似合う」とおっしゃった。

その京王電車の現在の姿、本年7月2日ふと思い立ち中央特快、高尾で下車した。跨線橋から見える京王線ホームには4扉20m車10連が見える。北野から奥は始めてでその昔、中央線から見えた時は確か2連だった記憶がある。長い連絡道?を急いでみたが発車した後のまつり。時刻表を見れば10連は「準特急」であった。次発は10分後の高幡不動行普通。北野で八王子発準特急に連絡とあり、山下りは7000系6連。次いで10連の9000系準特急で調布へ。乗り換えた普通8000系8連で下高井戸へ。いずれも20m4扉車。14m弱の車体に2扉が似合う姿ははるか彼方の物語。この「準特急」は如何なる列車か京都人には分らない。「準特急」氏の解説を待つ。

最後に須磨の大人出題のクイズ、3人は旦那、トオルちゃん、新兵の3人である。わっちゃらは同行していない。浅間線廃止(1964年3月31日)以前のことで、野辺山集合とならずだから3人は木曽森林辺りに行った時ではないだろうか。

おまけに恥ずかしながら自家現像失敗の巻。準特急さん笑ってやって下さい、1959年9月の庄内電鉄モハ7号の姿【④】である。初めての汽車一人旅ではカメラなしであった。

①松電島々線→左同浅間線→布引電鉄と流転

①松電島々線→左同浅間線→布引電鉄と流転

②ホデハ4,5の竣工時の型式図
②ホデハ4,5の竣工時の型式図
③高橋弘さんから貰った61年前の京王電車
③高橋弘さんから貰った61年前の京王電車
④あっと驚いた7年ぶりの再会
④あっと驚いた7年ぶりの再会

追憶の旅(その3)

早朝から一畑電車で昔をなつかしんだあとは 出雲市から一路益田へ乗り鉄である。当初 乗ったことがない美祢線で厚狭に出ようと計画したところ、現在美祢線は全線バス代行ということで やむなく山口線で瀬戸内へ出ることにしたので まずは益田へ向かう。かつて 夜行の鈍行や急行さんべで石見路に入り C57,D51、DF50を追いかけたなつかしい路線である。当時はDCもあったがまだまだ客レも残っていて 客車の窓から日本海の風景を堪能したものだった。今回はキハ126なる軽快なDC,それも快速アクアライナーと称して 浜田まではかつての急行か準急並みの韋駄天ぶりである。海側の席に陣取って この駅間を歩いたナアと思い出にひたる。唯一 昔と景色が一変してしまっていたのは岡見の三保三隅寄りで 中国電力三隅火力発電所ができて 海岸線を走っていた線路はショートカットのトンネルになってしまったのである。石見路の線路は水面からかなり高い位置を走っているのに 岡見のあたりはめずらしく浜辺を走っていたので ここが気に入って多くの写真を撮ったのだが 埋め立てられて発電所の敷地と化していた。中国電力管内はこの三隅発電所のおかげで 関西電力に融通できるほどの発電能力があって 停電の心配もなく安気に暮らせているので文句は言えないのですが、「今は山中、今は浜・・・」という原風景が損なわれてゆくことについては どうも抵抗があるのは私だけでしょうか・・・・。そう言えば 海岸線に立ち並ぶ風力発電機群も どうもなじめない・・・。

昭和47年3月29日 1896レ D511091     冷蔵車が必ず数両入っていた     (退色、変色が進んでいます) 

 

益田からは山口線で一気に新山口まで行き、防府に降り立つ。 泊りを防府にしたのは 防石鉄道の保存車両を見るためである。防府駅の少し西の高架下に小公園があって 2号機、ハ6、ハニフ1が保存されていた。かつては宮市駅にあったのが 今は防府駅近くに移されて メンテもまずまずの状態である。石碑によれば防石鉄道OB会が保存活動をされている由。ハ、ハニフとも車体に車番の標記がないので違和感を感じるが、こうして手を加えられて保存されているのは 結構なことである。

 

錦川鉄道に行き着くまえに 今回はここまでとします。 アアしんど。                       

“市電の記憶、昭和の京都”展

地下鉄の御池駅ギャラリーで福田さんの写真展が開かれています。

今日の午後、市内へ出かける用事があったので足をのばしてみました。あいにくカメラを持っていなかったためお見せできないのが残念ですが上手くまとめられていて説明と写真の配置もよく、見やすいのがいいと感じました。この手の写真展は市電の車両に偏りがちなのがさすがは福田さん、湯口先輩を彷彿とさせるような人々と市電の係わりように目を向けた作品ばかりで懐かしさで長居をしてしまいました。その間、中年以上の見るから市電世代の方々が熱心に眺めたり、携帯で気に入りの作品を撮ったりメモをする人もいました。

少し残念なのは作者の年代による制約のせいでワンマン化後がほとんどで、ツーマン時代の写真があまり無かったのはやむを得ないことと納得しています。かなうならこの次は諸先輩も交えて戦後の市電写真を並べてみたらいいなと思いました。

御池ギャラリーはまもなく廃止されるそうです。黒字を求める余りどこでも金儲け用に作り替えるのでしょうか。おそらく最後の作品展になるでしょうから皆様もぜひ行って見てください。

8月2日~19日(金)※19日のみ13時閉場

追憶の旅(その2)

旅の初日の泊りは 一畑電車の車庫のある雲州平田のビジネスホテルにしていたので、木次線をあとに松江に向かった。松江駅は高架になっていて 昔の面影はない。宍道湖大橋北詰の末次公園内にある筈のC56131を撮ろうと行ってみたが、どこにも見当たらず、雨も降り出し、暗くなってきたのでC56探しはやめて、一畑の松江しんじ湖温泉駅に向かう。一畑の駅もすっかり変貌していて驚く。

バスが停まっているのが駅正面

京王5000系の生まれ変わりの2100系に揺られて 宍道湖北岸を雲州平田に向かう。途中 一畑口ではスイッチバックとなる。昭和48年12月(あるいは49年1月)に訪れたときには ここ一畑口で下車してバスで廃線跡を一畑まで往復したのを思い出す。

スイッチバックの一畑口駅終端

昭和19年12月10日に営業休止した一畑駅。昭和20年8月に廃止区間3.3Kmのレールは名古屋鉄道に送られたが 発送1週間後に終戦となった。一畑駅の駅舎はしっかり残っていた。

平田のホテルを早朝に出発。平田には車庫があり、以前訪れたときにはED22が健在だったし、多くの貨車も留置されていた。

 

 洗車機が新しい他は変化少

始発電車で川跡へ向かう。川跡は出雲市行きと出雲大社前行きの分岐駅である。

左から 川跡と出雲大社前を往復している3015+3005、中央は松江から来た特急出雲市行き 旧京王の5000系4連、右は松江行きの3018+3008、 丸いヘッドマークは「しんじ湖ラムサール号」。線路配置は昔のままで、左手にあった貨物ホームがなくなっている程度。ちなみに3000系は旧南海ズームカー。乗り換えのための踏切には遮断機、警報機がなく 駅員がトラロープを張る光景には驚いた。発車しようとしている特急の前を ゆっくりと乗客が渡ってゆくのも のんびりした光景だった。全線にわたって架線柱は今も一畑軽便鉄道時代の14Kgレールを3本組み合わせたものが使われており 歴史を感じさせる。

 この日は遠足の小学生で賑う

大社線の途中 高浜駅付近のさとがた保育園にデハ3とデハ6が保存されているので 保育園を訪ねる。声をかけて園内に入ったが、電車を見に来る人が多いのか どうぞどうぞという感じ。

今はなくなってしまった「急行」の看板がなつかしい。雨ざらしはかわいそうだが よく手入れされている。

出雲大社前駅に進入する3000系

出雲大社前駅(以前は大社神門駅だった)も殆ど変っていない。上の写真では 右手の側線が機回し線のような配線になっているが今は単純な配線になっている。映画で一躍有名になって 日本最古の電車をウリにしているデハニ52が留置され、社内見学(但し 駅入場券か乗車券が必要)ができるようになっている。平田車庫にもデハニ53が動態保存され 平田駅構内の専用線を体験乗車できるようになっていて、デハニ50は今の一畑にとっては目玉商品になっている。有人駅では記念入場券やキーホルダーをはじめ いろいろなグッズが売られていたり、毎日全線で自転車持ち込み可(300円)だったり イベント電車を走らせたりと集客、売上増への涙ぐましい経営が見て取れる。山陰唯一の私鉄として頑張ってほしいと思いながら 一畑の旅を終えた。

次回は錦川鉄道をご紹介します。

お待たせしました、N電

やぼ用で、少し掲載が遅れました。お詫びします。

さて、N電と言われた北野線の市電ですがOBの中で実際に乗ったことがある人は何人いることでしょうか。戦後、酔っぱらった進駐軍の兵隊が無理やり運転して、速度超過で堀川中立売のカーブから堀川へ転落したとか聞いたことがあります。

この絵の背景は西洞院六条あたりで、薮之内千家の土塀です。

笠岡にて

笠岡駅西方の高架道路下のホジ9を確認してきました。

投稿記事の撮影時から35年以上が経っていますが、雨水と直射日光に曝されていないのか、保存状態はかなり良好な部類ではないでしょうか。

2011年7月30日午後撮影

なお、保存地点の周囲には、笠岡港が荷物の出荷で栄えた頃の、かなり貴重な近代建築群が残っています。

これらの町並みは、今の機会のうちに是非ご覧になられてください。

さいごに、現在の鬮場(くじば)付近の街角風景をお見せします。

追憶の旅(その1)

初めて青春18キップを使った旅に出ました。普通列車だけで どこをどのように巡ろうかと思案しましたが まずは地元からということで 三原を起点に福山から福塩線、芸備線、木次線、山陰線、一畑電車、山陰線、山口線、山陽線、岩徳線、錦川鉄道と巡り、三原に戻るプランを立てました。勿論夜行列車などは無いので ビジネスホテルや民宿で3泊4日の旅です。初めて訪れる岩徳線や錦川鉄道もありますが、その他の線区は40年前に旅した思い出の鉄路であり、40年前を想いおこす旅となりました。そんななかで特に写真で対比できるポイントを中心にご紹介します。まずは 芸備線備後落合駅のスナップから。

No.4790 米手作市さんの「こんなんあるでぇ」を開いて ご覧ください。昭和39年2月の風景です。ハチロクとC58の重連貨物のスナップです。私が初めて備後落合を訪ねたのは昭和47年3月で 山陰旅行の途中で立ち寄ったというか、夜行のちどりで深夜 備後西条で折り返すところ 寝入ってしまって備後西条を過ぎ 仕方なく広島まで行って また引き返してきた時です。貨物列車はDE10になっていましたが、バラエティに富んだ貨車たちが活躍していた時代でした。

 

当時の車両配置表によると広島機関区には 写真のDE101075をはじめ32両ものDE10が配置され、芸備線や各駅の入れ替えに活躍していたようです。気動車は芸備線管理所のキハ20のようです。米手作市さんが手にされた二段重ねの幕の内弁当があったかどうかは定かではありませんが、山間の小駅ながら乗り換え客や駅員も多く、詰所の煙突からは煙が上がり 人の気配が感じられ 活気のある乗り換え駅でした。

さて今回の旅では 木次線を通り抜けるには 臨時列車の奥出雲おろち号を使わざるを得ず、幸い指定席券510円を足せば青春18きっぷでも乗れるので 出雲坂根のスイッチバックをトロッコ列車で堪能しました。この列車には以前にも乗っているのであくせくせず、ゆったりとした時間を楽しむことができました。下の写真は スハフ13801の車窓から、三次から乗ってきたキハ120320を見たひとこまです。駅構内には 詰所や駐泊所の庫など当時の面影を残すものは何もなく かつての賑わいがウソのようでした。

木次では保存されているはずのC56108を見ようと雲南市役所を訪ねました。

確かに保存されてはいましたが、雨ざらしで相当痛んでいました。説明看板には 木次機関区のOBが手入れしているとありましたが、高齢のOBにたよるような保存なら 一考を要するのではと感じた次第です。

では次回は一畑電車をご紹介します。