2014年 遥かなる東欧の旅 Part11  Sargan8 ナロー山岳鉄道( シャルガンスカ・オスミツァ)その4 ナローの車両たち

第6日目 2月20日 その2

12:38 8字形の大ループ線のフォトランを終えて、終点のシャルガン・ビタシ(Sargan-Vitasi)に到着しました。構内は大変広く、かつて活躍した車両たちが留置されていました。

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構内の車庫にはもう1台の83型蒸気機関車173号機が留置されていました。こちらも動態保存だそうです。2台あるのなら重連走行も出来ますね。
いつの日にか、かつて長大編成の混合列車を牽引していた時の再現をしてもらいたいと願いました。

それでは、構内に留置されていた車両たちを紹介させていただきます。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part10  Sargan8 ナロー山岳鉄道( シャルガンスカ・オスミツァ)その3  8字形の大ループ線を撮る

第6日目 2月20日 その1

5:00  昨夜は早めに就寝しましたので5時前には目覚めてしまいました。直ぐの用意をして三脚を持って、朝撮に出かける事にしました。

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▲ 絞り、シャッタースピード、露出補正、ホワイトバランスを替えては何カットも試しますが、良かったのはこれでした。特にナトリウム灯の照明でしたのでホワイトバランスを電球モードにしたので黄色がかなり抑えられました。
【DATA】 ズーム48㎜ F5.6 20秒 ISO200 露出補正+1.0段 ホワイトバランス;電球

02▲ 5:20 機関士が投炭作業を開始しますと、白煙が立ち上がり空に漂ってきました。後方に見えるのが我々が宿泊しているホテルです。
【DATA】 ズーム32㎜ F8 30秒 ISO320 露出補正+1.0段 ホワイトバランス;電球

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part9  Sargan8 ナロー山岳鉄道( シャルガンスカ・オスミツァ)その2 83-052号機を撮る

第5日目 2月19日 その2

10:05 ヴィシェグラード(Visegrad)を発車しました。これから、モクラ・ゴラ(Mokura gora)までの約27.6キロをフォトランしながら戻ります。

路線図02-1(圧縮)▲ 青数字は、今日のフォトランで撮った撮影場所です。
01[googlemap lat=”43.78156737531768″ lng=”19.3179988861084″ align=”left” width=”300px” height=”180px” zoom=”13″ type=”G_NORMAL_MAP”]43.78197,19.316669[/googlemap]
▲ 10:16 撮影地①
最初の撮影地はヴィシェグラードの街並みを抜けて直ぐの丘でした。標高は約340m、一旦バ  ックした列車は期待に応えて登り坂を駆け上がってきます。

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現役DRFC号は高き目標に向かって走行中です!

2014年も早2か月と少しが過ぎました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。

さて、現役鉄道同好会では1月に新体制が発足いたしました。なんといっても今回の注目すべきは、DRFC史上初の女性会長が誕生したことでしょう(内山会長(新 経済3))。専門分野は駅スタンプ押し。「“の”の字を描くように力を入れるときれいにスタンプが押せますよ。」とのアドバイスは今も私の心に残っています。たかが駅スタンプと思ったら大間違いで、なかなか奥深い分野なのです。

さて、新会長が駅スタンプ好きという縁もあり、この度、同志社大学鉄道同好会はモバイル鉄道スタンプラリーekiShさまとコラボ企画を行うことになりました。ekiShとはモバイル用アプリで、GPS機能付きのケータイ・スマートフォンを携え、駅に赴き位置情報を送ると、その駅のスタンプをモバイル上で集められるという仕組みになっています。ekiSh・コラボ企画の内容について、詳しくは以下のホームページをご覧ください。
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雪融けを待つ木次線

国鉄時代には考えられなかった冬季運休路線にJR木次線があります。北海道の深名線など あまりの積雪で除雪ができず、何日間か やむを得ず運休するという話はままありましたが、冬は運休するのが常態化しているのは 現在の地方閑散線区の置かれた環境を示しているように思います。スイッチバックで有名な出雲坂根をサミットとする備後落合-出雲横田間は昨年末から冬季運休していましたが、雪融けを待って3月22日から運行再開するそうです。

平成26年3月13日 中国新聞朝刊

平成26年3月13日 中国新聞朝刊

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鉄道展〈東北を旅して〉その6 開催中

佐竹保雄さんの鉄道展〈東北を旅して〉その6「3・11東北を忘れない」が、いま開かれています。会場は前回と同じ「ひと・まち交流館 京都」、1階展示室には、テーマ別の関連する写真・資料・グッズがところ狭しと展示されています。

クローバー会では、「個人のイベントにも、協力を行う」ルールのもと、会員応募の写真展を行ったほか、設営、受付、撤収時には、有志が協力して会場に詰めています。syP1020456

震災当日の3月11日には、“祈念の集い”も開かれ、多くの参加者が黙祷のあと、ギター演奏、そして、参加者が、3年を迎えた東北への思いを語り合いました。終盤を迎えた展示は、つぎの16日(日)まで。皆さんのご来場、お待ちしています。

 

今年の展示は、圧倒的な写真展示が見もの。週末はぜひ「ひと・まち交流館 京都」へ。

syP1020479クローバー会では、個人イベントへの協力の一環として、「東北の鉄道いま・むかし」と題した写真展を開催し20点を出品。また、故・天野克正さんの遺作、珠玉のモノクロ写真約50点を一挙に掲載している。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part8  Sargan8 ナロー山岳鉄道( シャルガンスカ・オスミツァ)その1

第5日目 2月19日 その1

5:30 標高約590m、山の夜が明け始めました。同室のHGさんは既に朝撮を終えて部屋に戻ってこられました。私も今日の支度をしてから三脚を持って外に出ました。昨夜は真っ暗で見えませんでしたが向こうに白い煙が上がっています。

11ループ地図03【 Sarganska Osmica ( シャルガンスカ・オスミツァ)】
この鉄道は、第一次世界大戦の終わった後の1921年にベオグラードサラエボ間の444キロを結ぶために、ボスニアンゲージと呼ばれている760㎜のナローゲージで建設が始まりました。
険しいSargan山を越える山岳鉄道とあって建設は難航しましたが、4年の歳月をかけて1925年2月2日に山岳区間を開業(全線開業は、1928年10月30日)しましたが、道路アクセスが進んだ1974年に廃止されました。
しかし、観光開発に熱心なボスニア政府の意向で、風光明媚なモクラ・ゴラ(Mokura gora)~シャルガン・ビタシ(Sargan-Vitasi)の15.4キロが、1999年に保存鉄道として復活しました。2010年8月にはモクラ・ゴラヴッシェグラード(Visegrad)も復活して、総延長は26.7Mile(約43キロ)となりました。復活にあたって、トンネル・橋梁は整備されて軌道は新たに敷設されています。運営はセルビア国鉄と本格的なものです。

「シャルガンスカ・オスミツア」は、セルビア語で「シャルガン山の8」という意味だそうで、山岳区間の路線は、8の字にループする雄大な絶景を見る事ができます。運行は定期的に行われ、土日には動態復元された2両の蒸気機関車のいずれかが牽引しているようです。今日と明日は、我々が特別に蒸気機関車をチャーターしてフォトランを行います。

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いいかげんな電車の現役時代

米手作市様のリクエストにお応えして いいかげんな電車が活躍していた時代の写真をご紹介します。訪問したのは昭和48年7月25日の1回だけで わずかな写真しか残っていません。まずは主役のデ7050型から。

当時は新高岡と称していた高岡駅前に到着した7051号

当時は新高岡と称していた高岡駅前に到着した7051号。
よく見ると窓際に立っている乗客がいる。多分座席のない
部分なのだろう。車体側面には「万葉閣」の広告ロゴが。当時から地元では万葉が身近にあったのだろうか。

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加越能鉄道デ7050型

この電車は知らないが、加越能鉄道と書かれた観光バスを京都市内でよく見かける。
加賀・越中・能登を中心にした鉄道だろうと推察されるが余り興味がなかったせいで乗る機会はついに来なかった。でも、今の万葉線だと言うことだから、今からでも乗ってみたい。
でも、こんないい加減な電車は一度写真でも見てみたい。
加越能デ7050_NEW 加越能デ7050(文)_NEW

2014年 遥かなる東欧の旅 Part7 戦火の癒えた町、サラエボへ その7 ボスニア国鉄を撮る、サラエボトラム、セルビアへ

第4日目 2月18日 その2
パシュチャルシア (Taxi)→15:20 サラエボ空港
サラエボ空港 15:35(チャーターBus)→20:04 Mokra Gora

今日は、ドイツからの本隊、そして日本からの3名の後続部隊と午後3時にサラエボ空港にて合流します。それまでは時間が十分ありますので、朝食後は昨日乗車したボスニア国鉄の撮り鉄もしようと出かける事にしました。

9時前にパシュチャルシア電停前からTaxiに乗車して向かいますが、運転手は英語があまり分かりません。市内地図を出して指さしで目的地を告げますが、地図自体をあまり見たことがないようで、分かってもらえません。とにかく空港への大通りを走ってもらってから、右の国鉄線方向へ曲がるのはこちらから指示を出しました。

[googlemap lat=”43.851999271388266″ lng=”18.359463214874268″ align=”left” width=”250px” height=”180px” zoom=”15″ type=”G_NORMAL_MAP”]国鉄 横断歩道橋[/googlemap]9:15 何とか目指す国鉄線を跨ぐ歩道橋にたどり着きました。問題は、撮りたい9:32着と9:46着の定期列車が何時に通過するかです。
まず時間通りには来ないだろうと気長に待つ事にしました。眼下には3線がありましたが、左側は錆びています。真ん中と右側は光っていますが、さてどちらに来るものか分かりません。どちらに来ても良いように左側から狙う事にしました。
0304
9:37 何とDLに牽引された3両編成の電車がやってきました。電車は自力走行ができないようです。

サラエボから西へ約80キロ先のゼニツァ(Zenica)からのローカル2153次(7:47→9:32)です。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part6 戦火の癒えた町、サラエボへ その6 朝のサラエボのトラム 

第4日目 2月18日 その1

6:40 同室のHGさんと朝のサラエボのトラムも撮ってみたいと、夜明けにホテルを出ました。
撮影ポイントは、旧市内の古い街並みが続く一方通行のループ線。撮影するにも車と重なる日中よりは早朝の方が撮りやすいだろう、また朝の街を行くトラムが撮れればとの希望でした。
0102▲ 6:42 ホテル前のパシュチャルシア電停では、朝のラッシュが始まろうとしていました。チェコのブルノ(Brno)からの中古車、真っ白なSatra-Ⅲ(K2)型601号は最後部の大きな曲面ガラスが素敵で上品に見えるトラムです。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part5 戦火の癒えた町、サラエボへ その5 サラエボのトラム

第3日目 2月17日 その2

14:25 Kakanjiからはバスに乗ってサラエボに戻ってきました。着いたバスターミナル(BT)は、国鉄サラエボ駅に隣接していました。ここで初めてBTの場所が分かりました。
バスを降りられた方がトラム電停へと向かわれます。市内移動はトラム利用が定着化しているようです。我々も一緒に向かいました。
0114:30 サラエボ駅前電停に停車するのは、サラエボトラムの過半数の勢力を誇るTatra社製K2YU型258号200形は80編成余り?が在籍しています。
全長20,400㎜、全幅2,500㎜、出力40w×4、最高速度は不明ですが専用軌道区間が多く、実感では60km/h前後で走行していました。

タトラ(Tatra)は、チェコで生まれ世界各国の共産圏へと輸出されました。ライセンス生産した国もあり、各種10,000両余りが製造されています。

20【サラエボトラム】
当初は760㎜(ボスニアンゲージ)の馬車鉄道として運行されていましたが、1885年にトラムが導入されて開業しました。
60年代に1,435㎜に改軌され、現在10.7キロの本線と、0.4キロのサラエボ駅支線が運行されています。
在籍編成は、2両連接車と3両連接車を合わせると150編成あまりあるはずですが、勃発したボスニア紛争(1992年~1995年)で被災した車両もあり、確認できていません。

しばらくサラエボ駅前でトラムを撮ってからは、各自別々での撮影ポイントとなりました。当初は分岐電停からループ線側を狙っていたのですが、ちっとも走行してこないので何かあったのかと頻繁に走るイリジャ側に場所を代えました。
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火事や!火事や!十三駅のそばが燃えた!

昔の十三駅前

3月7日朝6時すぎ、阪急電鉄の十三駅神戸線側の駅前で火災が発生した。36店1500平方米が焼失し、NHK夜の全国ニュースでトップで放送された。添付の古地図の神戸行きプラットホームと夜店通りの間にある安西呉服のあたりが焼け落ちた。夜店通りはションベン横丁と言われたとこで、火事の一報もトイレから火が出てるとのことで皮肉なものだ。十三は阪急電車の扇の要をなす駅で、大騒ぎとなり朝のラッシュと重なるも駅西口は閉鎖となりごったがえした。煙が吹き付けるなか列車の運行は続けられたが、一時は神戸線の列車は通過となった。一角は大阪でも残り少ない戦後の香りが残る飲み屋街である。十三で飲んだ方も多いだろうが、十三のねぇちゃんや十三ミュージックを思い出す方もおられるはず。十三駅は1963年発行の同志社大学鉄道同会の機関誌「青信号」の13号の表紙を飾ろうとしたが、駅はあかんと京阪電車石坂線13号にとって代わったという思い出がある。通信員二回生のときで手を取り足を取りお金は取られなかったが、先輩方々に機関誌づくりを強要されたものである。

古地図は今里あんやきと記される十三焼餅の案内にあったもので、いつの頃の地図か解らないが1921年大正10年に北大阪電鉄として十三~千里山で開通した北大阪電鉄の終点だったことは解る。その後1959年昭和34年に線路は梅田まで延ばされ、楽しい三複線となっている。

 

 

窓から写した駅・列車 -3- 

中国地方の交換駅

昭和40年代初頭の中国地方、山陽本線は昭和39年に全線電化したものの、電気機関車の不足から、一部では蒸機列車がまだ残っていましたが、この時期、C62などの大型蒸機の働き場所は、呉線へ移って行きます。初めて呉線を訪れたのは、昭和41年3月、高校2年の時でした。

 

syIMG_0016夜行鈍行に乗って、早朝の広島に着き、駅で出入りする列車を撮ったあと、広島8時24分発の呉線の客車列車で糸崎へ向かった。途中の忠海で停車、通過列車を待つ。やって来たのは東京発広島行き急行「安芸」、そして牽引機は待望のC59だった。C62はその前の広島でも撮ったが、C59は初めてだ。C62は、まだ電化後の山陽本線でも見られたし、北海道や常磐線でも見られた。しかし、このC59こそ、呉線でしか見られない、最後の3両だった。一瞬の通過だったが、C62とは対照的な優美な、日本の蒸気機関車の完成形を見るような優美なスタイルが、一瞬で見て取れた。

当会でも、準特急さんをはじめ、乙訓老人さん、米手作市さんと言った錚々たる方がたが、本欄で蒸機の中ではC59がいちばん好きと仰っている。とくに戦後型の船底テンダーがお気に入りのようだ。しかし、私がそれを理解するには、少しだけ年齢が若かった。写真ではよく分からないが、次位には三軸ボギーのカニ38を連結している。「安芸」に通常連結されていた、側面が総シャッターになった試作車だった(昭和41年3月)。

syIMG_0027呉線へはその後も年に一回は必ず行っていた。その多くは、九州旅行の行き掛けに寄った。この時も、尾道のユースに泊まったあと、呉線の安登で走行中を撮ってから九州へ向かう計画だった。風早、という風雅な名前の駅で、C62の牽く624列車と交換した。何気ない写真だが、ホームに立つ赤ん坊を背負った母親の着た“ねんねこ”も、もうすっかり見かけなくなった。背後の民家と柵も何もないような構造も、以前はよく見られたが、さすがに今は見られない(昭和43年3月)

 

窓から写した駅・列車 -2-

 中国地方の駅交換

「窓から写した」シリーズ、はじめます。まずは、中国地方の駅交換シーンから。時代は、昭和40年代初頭、高校生の頃で、家族旅行でも撮影旅行でも、行き易い中国地方へはよく行ったものでした。まずは宇野線から。今でこそ宇野線は盲腸線に成り下がってしまいましたが、当時は、四国連絡のすべて担っていた一大幹線でした。syIMG_0013終点、宇野駅。跨線橋の向こうには瀬戸内海が広がっていた。宇野発のゲタ電の窓から見ていると、宇野線のピカイチ、下り特急「うずしお」が入線してきた。「うずしお」は、大阪を始終発とする四国連絡特急で、昭和36年10月改正で登場した。当時、関西~宇野は準急(のち急行)の「鷲羽」が主力で、いきなりの151系特急の誕生だった。特急は500キロ以上運転が相場のなか、200キロ余りは異例の特急設定だった。

列車は、折り返し新大阪行き「ゆうなぎ」となるため、ホームにはヘッドマークが用意されていた。左の客車編成は、「うずしお」より一足先に到着した東京発の急行「さぬき」(昭和40年3月)。 

syIMG_0014宇野から乗ったゲタ電が、岡山到着を前にした妹尾で10分余りの停車、なにせ宇野線は単線のところ、すべての四国連絡列車が通るから、列車交換が頻繁にある。やがて通過したのは東京発の急行「瀬戸」、この前の「さぬき」は寝台夜行列車だが、「瀬戸」は2等車(当時)が主体の夜行列車。その先頭に立つのは、新製まもない宮原区のEF61だった。パノラマウインドゥ、1個ライトの顔もなかなか魅力的だが、よく似たEF60と比べると、SGを積んでいるぶん1.6メートル車体が長い。側面の鎧戸・小窓が横長にまとめられているため、さらに長く見える。その特徴ある側面を見せながら旅客列車の先頭に立つ姿は、たいへん魅力的だった。妹尾駅は、地上駅のまま残り、駅舎は橋上化されている。

2014年 遥かなる東欧の旅 Part4 戦火の癒えた町、サラエボへ その4 サラエボからの国鉄初乗車

第3日目 2月17日
① パシュチャルシア 10:46(国鉄396次)→11:41 Kakanji
② Kakanji BT13:30→14:25 サラエボBusBT

当初今日は、サラエボ市内を観光する予定でした。しかし来て見たサラエボは思っていたほど広くはなく、昨日にだいたい歩きました。団長のO氏から今日は、国鉄線に乗ってみようかとの提案が出されました。
ザグレブに向かう私以外は、国鉄線の乗車予定は皆さんありません。駅を見たのだから乗っても見たいなあと、賛同されました。
01宿泊していますMotel Bejturanの朝食時間は観光地とあって遅く、8時からです。こじんまりとまとめられた食堂で朝食後、徒歩5分もかからないパシュチャルシア電停からトラムに乗ってサラエボ駅へと向かうことにしました。

029:30 電停で待っていますと、昨日見なかった真っ白な3連接車の601号が来ました。
シュコダŠkoda Transportation製のTramway-Satra-III (K2)です。

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「出羽三山東麓・電車とバス」に寄せて/昭和40年代の三山線

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羽前高松に到着した朝の3両編成(モハ105+モハ106+モハ111)/(43-8-31)

乙訓の長老より2月17日【44556】にて昭和34年9月15日訪問された時の状況を画像と共に報告いただいき感激している。
電車も貴重であるが、当時のバスの記録は非常に珍しく「超貴重」で本当によく撮影されたと思う。
私自身三山線は現役時代の昭和41年9月2日、43年8月31日、社会人になってから46年5月27日と3回訪れている。

1回目は、上野22時45分発奥羽本線経由青森行(411レ)に乗車、ほぼ全駅に停車し、最終列車、一番列車、朝刊配達等を兼ねた列車であった。
糠ノ目で降りて高畠線を往復後、羽前高松から間沢を往復した。間沢の車庫は電車の停車位置が悪く良い写真は撮れなかった。

2回目は、朝のラッシュ時に羽前高松で三山線と左沢線の両方撮影しようと思い、上野駅21時30分発急行「おが」に乗車、山形で左沢線の初発列車に乗換え羽前高松で撮影した。
両線の発着時刻が接近してあり中途半端な撮影になってしまったが、左沢線、三山線双方の通勤通学列車を撮影した。
その後左沢に行き入場券購入後、羽前高松に戻り間沢を往復して次の目的地尾花沢線に向かった。

3回目は、社会人になってからで、仕事を終えて新大阪20時頃の新幹線で東京に向かい、上野駅23時54発急行「あずま2号」に乗車、福島で奥羽本線初発の普通列車に乗換え糠ノ目で降り、高畠線を往復後三山線に向かったのであるが、ダイヤ改正(改悪)で昼間の運行本数が大幅に減少したため羽前高松での接続がなく、寒河江で降りて駅から少し離れたバスターミナルから間沢行のバスに乗車した。

バスは山形始発でほぼ満席であった。 要するに昼間バスを増発する代わりに電車を減便して鉄道廃止の布石を築いていたのであった。

三山線沿線の乗客の流れは、寒河江、山形に向かっており、羽前高松で乗換えを要する電車より寒河江、山形に直行するバスの方が沿線住民にとっては利便性が高いのも事実で、運賃は羽前高松~間沢間はバスの方が高いが、国鉄に乗り換えると新たに国鉄運賃が加算されることになり、バス運賃と変わらなくなるのと、目的地が駅前ならともかく、市街地に入るとバスはこまめに停車するため、この点でもバスの方が有利であった。

以前梯子付きのモハ103を撮影した羽前宮内で降りて再度撮影する予定であったが、この日は間沢で入庫していたため撮影できず、40分待って電車で間沢に行った。
間沢では前回、前々回とは異なり、車両はまずまずの位置に停まっていた。 長老の解説と重複する部分があるが、訪れた時に在籍した車両を紹介する
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