藤本氏より ”ワードで作成した文章のテキストに変換する手順” についてのご質問がありましたので、説明をさせていただきます。
① ワードで作成した文章を全文「コピー」する。
② デジ青から新規投稿を選ぶ。
③ 画面の左下のスタートをクリックする。 ▲ 左側にPCにインストールされているソフトが表示されます。ソフトの順や名前は各自によって違っています。この中には「テキスト」は、みあたりません。
⑤ 下の枠内の「すべてのプログラム」を選択してクリックする
デジタル青信号(以下略;デジ青)に投稿者の皆様方、いつもご投稿をいただきましてありがとうございました。またご覧いただいておられます皆様方、ご覧いただきましてありがとうございます。
平成12年12月より立ち上げましたデジ青も早13年8ケ月を経過し、投稿者数と投稿記事が増えると共にアクセス数も増えて参りました。最近では1日平均1,300件あまり、多い日には2,000件を超える事もあり、当会員以外にも多くの方々がご覧になっていただいておられと感謝しております。
これからも多くの方々に見ていただくには、新規投稿者を増やして内容を豊富にしていただきたいと思っておりますのですが、今回投稿者の方々には困った問題が生じました。
このホームページ作成にはWordPressというソフトを使用しています。 WordPress は世界中で使われいます最新のHPソフトで、世界中ののSE達が参加して日々更新を続けています。より良くなっていくのは利用者にとっては素晴らしい事なのですが、その度に使用(投稿)方法が変わっていくのも現実です。Windowが定期的に変化して行くのと同様とお考えください。
予期せぬ変更があると投稿方法も変更していただかねばならないケースが出て参ります。今回は「Wordからの挿入が出来なくなった」という事です。 今まではWordで作成していただいた原稿をインポート(投稿に挿入)できるようになっていた(アイコンもあった)のですが、1ケ月ほど前から無くなりました。 無理に行うと、バグが発生します。ご覧になられている方々のブラウザによっては、全文が太文字表示となってしまいます。
ブラウザの種類は多く、Windows使用者が多く利用しているInternet Explorerでは表面的には出ていませんが、Google Chrome、Firefox、Macでお馴染みのSafariではバグが太文字表示となります。
バグが出てしまっているのは管理者としてあってはならない問題です。過去には投稿された原稿が消えてしまったという大きな事故が発生しました。復旧は完璧には行えず、無駄手間と時間も必要としました。こうした過去の事故から、バグと名付けられる、またそう思われる要因については最初から撲滅していかねば健全な運営が出来ない事を学びました。
長い文面になりましたが、以上の理由により今後はWordでの原稿挿入は禁止します。 Wordで原稿を作成されておられる方は、一旦アクセサリーからメモを開いてコピーして、テキストに変換してから挿入してください。または直接入力してください。 管理者として編集変更できない事はありませんが、作業途中での原稿内容の損失の危険性もあります。また手間もかかります。よって以後、Wordで挿入投稿された記事は一旦ゴミ箱に退避させる処置を取り、ご投稿者にはメールにてご報告させていただきます。ご投稿者はご面倒ですが再投稿をお願いします。
ご投稿者各位のご理解とご協力を切にお願い申しあげます。
これもまたタイミングを逸してしまったが、湖西線開業40周年関連の続きを。
昭和49年7月20日の開業日当日は、以前に記したとおり、開業式や各駅の祝賀の様子を撮ったが、その翌日も、日曜日とあって、F本さんとともに、走りの様子を収めるため、志賀、近江高島、安曇川へと向かった。
▲志賀で降りて蓬莱方へ戻り、琵琶湖沿いの区間で撮影する。この場所、江若で言えば近江木戸に当たる。湖西線の駅は、江若時代と同一地点または接近して駅が設けられた場合は、ほぼ江若の駅名を継承したが、この近江木戸のみは字名のため、より広範な当時の町名である志賀を採用した。田んぼのなかだけに、築堤が続く以外は、江若時代と大きな変化はない。ただ、近くにあった天井川の木戸川トンネルは埋められ、湖西線は高架で一挙に天井川を越えている。新旧の写真を対比すると、左側に見える2本の松の形が同じで、ほぼ同一地点と判る。
▲ 13:05 Putbusに入線してくる99-1781号機牽引のP104 列車。到着すると最後部にDL251-901号機が連結されて先頭となり、スイッチバックでLauterbach Moleに向けて発車しました。我々も予定を変えて乗車しました。
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どですかでんさま。残念でしたね。1968年3月18日撮影の鉄道線サハ4の車体写真をご覧に供します。台車、聯結器、ブレーキを新製サハに分捕られた残骸です。
実は行ったとき既に廃止済だったという経験は小生にもありまして、かつてデジ青にも掲載しましたが鞆鉄道がそうでした。高校修学旅行(1954年3月11日)時急行「筑紫」で山陽線を西下、福山でデッキから必死で車両を探し求めたら、ボワ6がポツンと1両だけ。実は2月末日で運行を停止し、3月1日廃止していたのでした。その後5月29日にバスで鞆まで行き、動力車はキハ1を除く全部が鞆に集結、客車は全部三ノ丸に集結し、子供の格好な遊び場になってはいましたが、残存はしていました。さらに1950年気動車3両は静岡鉄道駿遠線に売却され、その3月藤枝新で旧キハ3であるキハD11の再起下姿に再見したのですが。
また1957年はるばる訪ねた十勝鉄道でしたが、川西以南=大方が廃止されたのは、小生が訪ねた8月20日のたった2日前に廃止されていたのです。その分車両が工場前に集結していたのは有難かったのですが、悔しかったですねぇ。っですかでんさんのお気持ち、よーく分かります。
あれは1972年2月であった。2回生の時に東北の私鉄めぐりの旅を計画し、南部縦貫鉄道、弘前電鉄、津軽鉄道、羽後交通雄勝線、そして運命の花巻電鉄を訪ねる旅に出発した。それは2月25日23時を大阪駅発の東京行ドリーム号での旅立ちである。題名からすでにお察しされた方もおられるであろう。すでに、花巻電鉄は廃止されていたのだ。
報告が遅れたが、佐竹保雄さんが、このたび発行の「レイル」91号に、今年4月に運転を再開した三陸鉄道南リアス線の開業レポートを、写真とともに載せられている。
▲佐竹さんは昭和50年12月の室蘭本線で、最後の蒸機客車列車を撮ってから、日本の鉄道の撮影をしていない。運転再開の撮影は、40年ぶりの日本の鉄道の撮影となった。雪の残る肌寒い吉浜駅で、大漁旗で迎えられた祝賀列車を撮影するため、奥さまらとともに、2時間も前から場所取りをされたと言う。
三陸鉄道南リアス線の開業に立ち会うこととなった契機は、クローバー会も後援して、ことし3月に開かれた「東北を旅して その6」。奥さまらが被災地訪問を続けられているなかで、三陸鉄道の運転士と知り合いになり、このイベントでも、運転士撮影の優れた写真を多数展示し、来場客からも大きな反応があった。そして、以前にも本欄で紹介した、山田線大槌駅付近の写真が、大槌町長の目に止まり、奥さまが大槌町へ贈呈され、元気だった時代を偲ぶ大槌のシンボルにしたいと地元で大きな話題になった。
この二つが起因となって、佐竹さん自身が、三陸鉄道全線開業の日に、開業の立会いと、大槌町訪問の旅に出られることになった。夜行バスに初めて揺られるなど、過酷な7日間の旅だったが、佐竹さんは元気で旅を続けられた。この内容が、真摯な佐竹さんらしい文脈で綴られている。また第二章として、昭和43年に初めて佐竹さんが山田線を訪れて撮られた記録も写真ページで構成されている。
まだ鉄道への情熱を持ち続けられている佐竹さんの一端を知ることになった。また、同号には、伊香保電車27号の復元、顛末記も載せられている。伊香保電車27号と言えば、本欄で、乙訓老人や西村さんが紹介された渋川市の医院の庭に保存されていた車両で、このたびブリル製の単台車も付けて完全復元され、市内の公園に保存されている。
▲記事のなかには、鉄道復興のシンボルとして、大槌町役場に飾られたクローバー会会員の撮影した大槌駅付近の写真も載せられている。