ティミシュアラのシンボルの1つ、ルーマニア正教会大聖堂(三成聖者大聖堂)をバックに行くトラム。ビザンチン様式とゴシック様式の折衷様式のちょっと変わった教会はトンガリハットの屋根が印象的です。トラムは城内から14世紀に掘削されたベガ運河に架かる橋を渡って、かつての馬車鉄道路線を行きます。
月別アーカイブ: 2015年4月
2015年 西方見聞録 ルーマニア鉄路の旅 Part29 Timişoara(ティミシュアラ)のトラム その1
ティミシュアラも教会の多い町で、トラム沿線の車窓からは常に目に入ってきます。ローマカトリック教会Iosefinをバックに交差点を渡るのは、2系統GT4d型の3511号編成。
GT4d型は1973年にWegmannで製造されて、ドイツのベルリンブレーメンで走っていました。その内の10編成が2002年から2007年にかけてティミシュアラへとやって来ました。
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北総開発鉄道7000系に寄せて
北総開発鉄道(平成16年7月1日北総鉄道に社名変更)7000系は、昭和54年3月9日小室~北初富間開業時に新製した電車である。
関 三平氏の解説文は「新鎌ヶ谷」となっているが、これは誤りで「北初富」が正しい。
開業時より新京成電鉄と相互乗入を行い松戸まで直行し、都心との連絡は、新京成電鉄、常磐線を介して行われた。
6両編成3本が新製され、両端が制御車7000形、中間が電動車7100形で、編成は下記の通りであった。車体メーカーは3編成ですべて異なっていた。
←北初富 →小室 製作
7002-7104-7103-7102-7101-7001 川重
7004-7108-7107-7106-7105-7003 日車
7006-7112-7111-7110-7109-7005 東急
昭和59年3月19日住宅・都市整備公団が小室~千葉ニュータウン間を開業し、その運営を受託した。 続きを読む
2015年 西方見聞録 ルーマニア鉄路の旅 Part28 Timişoara(ティミシュアラ)へ ティミシュアラ北駅
▲ 15:31 オラデア駅ホームで撮影していますと駅員さんから日本人は珍しいから写真を一緒に撮ってとせがまれました。ルーマニアを旅していますといつもの事で、気軽に応じました。ツーショットを撮ってからお返しにお二人も撮られせていただきました。この女性駅員さんは「どこまで行くんだい、ティミシュアラなら次に入る列車に乗れば良いよ、ここで待ってなさいよ。」と、やさしく案内もしてくださいました。
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「江若鉄道の思い出」 終了しました
2015年 西方見聞録 ルーマニア鉄路の旅 Part27 Oradea(オラデアのトラム) その3
▲ オラデアトラムOTL(Oradea Transport Local)は1435㎜ゲージ、DC550V(現在は600V)で1906年に電化開業、旅客扱いが開始されました。シーメンスの電装機器を装着した2軸ボギー車のトラムの他、電気機関車牽引の貨物列車も走りました。ボロボロになっていた凸型電気機関車を復元して8月23日公園(Parcul 23 August)前のT字形トラム交差点中央に展示されていました。
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トワイライトエクスプレスin本州Vol.2/2015.04.14/Posted by 893-2
2015年 西方見聞録 ルーマニア鉄路の旅 Part26 Oradea(オラデアのトラム) その1 超低床車
▲ オラデアのトラム、OTL(Oradea Transport Local)のご自慢は、ウィーンでも採用されていますシーメンス(Siemens)製の100%超低床車ULF (A1)型トラムです。
一般に言われる低床式トラムの床面高さは300~350㎜ですが、このトラムは180㎜と世界一の低床を誇ります。動力装置は床下に置かずご覧のように床上の車体側面に収納されています。屋根にも電気機器を置くといった徹底ぶりです。車輪の車軸はなく乗用車に見られる左右独立車輪式台車が採用されました。これらによって路面や低い電停ホームからのバリアフリーが可能となり車椅子でも容易に乗降できます。車体長24,200mm、幅2,400mm、車重30㌧、出力52kw×6=312kw、最高速度70km/h。OTLではこの超低床車10編成が2008年4月より運用についています。シーメンス社のパンフはこちらへ。
国鉄クハ6210
桜と鯉のぼり
2015年 西方見聞録 ルーマニア鉄路の旅 Part25 Stație Oradea(オラデア駅)
▲ オラデア(Oradea)駅の留置線で静態保存されていた142-044号蒸気機関車。動輪は4軸の1D2軸配置、最高速度110km/h、長距離の高速旅客用としてブカレストのN.Malaxaで36台、RESITAでは43台が1937~1940年に製造されています。設計はオーストリアで、オーストリア連邦鉄道(BBO)Class214をコピーしたものです。煙突横に付けられた長いデフレクターが印象的です。前照灯にも車両番号が取り付けられているのは初めて見ました。屋外とは言え綺麗に保存され、いつでも走れる(?)ように留置線に置かれているのも良いですね。
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樽見鉄道と桜
樹齢 推定1500余年と言われる 世界的に有名な「淡墨桜」のある岐阜県本巣市の「樽見駅」へは「大垣駅」から樽見鉄道で一時間余りの旅になります。沿線の各駅や線路沿いには多くの桜が植えられていてこの季節はきれいです。特に「谷汲口駅」の周辺は多くの桜が植えられて多くの人たちが集まります。
4月9日はすでに満開を過ぎ少し葉桜となりかかっていましたが 何とかまだ絵になる状況でした。
↓ 大垣行 ハイモ295-516 唯一の樽見鉄道色塗装車です。
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2015年 西方見聞録 ルーマニア鉄路の旅 Part24 Cluj-Napoca(クルージ・ナポカのトラム)、夜のクルージ・ナポカ駅
▲ 夕闇迫った中世時代から続く街並みを行くトラム。この路線にはかつて、煙を噴き上げながら蒸気トラムが走りました。今日は重い靴にもめげずに鉄路・トラム沿線を歩いての撮り鉄でした。
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2015年 西方見聞録 ルーマニア鉄路の旅 Part23 Stație Cluj-Napoca(クルージ・ナポカ駅)と列車
代用急電
関センセの「代用食時代の急電」を見て、確かこの老人も撮って居る筈と、限りなくかすれ果てた記憶を絞り出して探すと、あった。1954年9月27日撮影京都とあるから、老人が高校3年の時である。この時代食料不足は解決しており、学校でも2玉うどんが15円だったか。国鉄初乗り10円、市電も8円だったか10円だったか、今なら300円か350円に相当し、けして安くはないことになる。
本当に食い物が乏しかったのは1946、47年だった。センセお書きの通り、米糠やフスマの方が多い「パンにやや近い代物」でもあればいい方。インフレの最中で、ズンドコ節で半世紀ぶりに思い出したが、「米は遅配で物価は高い/たまの日曜に買い出し行けば/駅に着いたらポリスが待ってて/お手々つないでブタ箱へ/トコズンドコズンドコ」というのもあった。京都では米の代わりにタケノコ(というより「やや軟い竹」に近かった=我々はパンダではない)やお茶まで配給されたが、「茶腹も一時」との洒落だったのか。老人が高校生になり背丈がやや伸びたのは、幼少のみぎり食い物がなく、致し方なくタケノコや土筆を食せざるを得なかったかららしい。
その後小学校で給食が始まったが、最初は米軍放出の果物ジュースや、脱脂粉乳だった。ジュースは今思えばホテル用クラスの高級品で、余り甘くない上、名前さえ知らないグレープフルーツがあって、ジュースといえば甘いものと思い込んでいる敗戦国の憐れな小学生からは、苦いという苦情すらあった。ララ物資での脱脂粉乳も実態は家畜のエサ用だった由で、これは当時でもうまくはなかった。旧日本陸軍の退蔵牛缶は味が濃く流石に美味かったが、余程古いとみえ、こんな食糧事情の悪い時ですらジンマシンが出る児童も少なくなかった。海草がたっぷり入ったパン(のごときもの)も、腹を空かしきっていた当時でもうまいもんじゃなかった。
甘味といえばサッカリンかズルチンと称す、人工甘味材しかなかった折、キューバ糖が配給になり、国中が沸いたことがある。これも砂糖とは言え実態は工業用の低質糖で真茶色、しかも貨物船にバルク―砂利並に船倉に直積されていたのである。そんなことは知らぬ敗戦国民は国中挙げて大喜びし、NHK(しかなかった)では「甘い砂糖はキュッバー キュッバー キュッバー」なる歌を放送した。カルメ焼きが大流行したが、我が家ではついにふくらましに成功しなかった。