備後路の新緑を追う 2016年 Part4 朝の福塩線・芸備線を撮る

第3日目 5月7日 その1

今日は朝に福塩線・福塩線を撮ります。時刻表をご覧のとおり、昼間は運行が少ない両線ですが、5:00~8:30には上下計7本が撮れますので頑張って4時半起きです。
01_福塩線ダイヤグラム_100 01_三江線・福塩線ダイヤグラム_100▲ 上は西村さん作成の福塩線ダイヤグラムです。西村さんは、初めての撮影地に赴く時にはダイヤグラムを作成した後、地図やGoogleの航空写真とストリートビュを見ながら仮想撮影ポイントを見つけていかれるそうです。私も初めての地で撮影する際は、列車乗車でロケハンとダイヤグラムを作成する事を常としていますがダイヤグラム作成だけでも1日はたっぷりと必要です。今回は西村さんにお任せして、事前に撮影候補地をリストアップしていただけました。ご面倒をおかけしていますが助かります。ありがとうございます。

今日の最初の撮影地は、三良坂~吉舎です。朝食はホテルで食べられる時間ではありませんので途中のコンビニで買うことにして出発しました。
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ぶらっと能勢電御報告

5月14日少し暑すぎるくらいの好天の元、ぶらっと能勢電ツアーが催行されました。参加したのは23名、川西能勢口に集合の後、平野で下車、まずは能勢電本社にお邪魔し、お話をお聞きしてから車庫の見学をさせて頂きました。一昨年阪急電鉄より譲渡された5000系などを思い思いに撮影、乗車しての洗車体験もありました。    IMG_5691  続きを読む

出雲坂根今昔

71661で湯口大先輩が見事に察知されたように、ここのところ木次線で盛り上がっています。湯口氏、東ウラ氏、どですかでん氏から貴重な俯瞰写真や新旧の案内図が次々と紹介され デジ青らしい盛り上がりを楽しませて頂いております。米手作市氏からは貸切列車で煽られておりますが、それは宿題にさせて頂くとして、もう少し火に油を注いでみたいと思います。手元にあります 昭和53年3月発行の「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇」の木次線の項を開いてみました。すると開通直後と思われる スイッチバックの俯瞰写真が載っていました。

開通当時の出雲坂根

開通当時の出雲坂根

出雲坂根駅で交換したと思われる上下2列車がとらえられています。

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出雲坂根の周辺案内板

小生の投稿で、「クリック拡大してご覧あれ」と記しながら、その実拡大できないではないかとのご苦情が。自分でやってみたら確かにそうだ。要はデジ青掲載に際し、ファイルを小さくし過ぎたことによるドジである。よって再度案内板だけご覧に入れ直す。
木次線出雲坂根周辺図1973.8.13
真中辺、「近道」とあるのが件の「旧道」=「湯口徹氏受難之地」である。県道4kmを40分とあるが、若い時でも1km10分はかなりきつい。かつて街中でも歩いていて抜かれかけると、張り合ったものだが、今では「お急ぎですねえ、どうぞお先に」という心境。
「平家」跡というのは、平家落武者が住み着いたところだろうが、これも鉄道が敷かれる前は文字通りの山間僻地であった証左であろう。

 

出雲坂根の案内板

 湯口先輩の「木次線2」を見ていると出雲坂根の案内板がありました。私も撮っていましたがちょっと?と思ったのです。なぜかというと私の撮った案内板の写真には「貝の化石」と書かれてあったのが湯口先輩の案内板には書かれていなかったのです。しかも全体的にちょっと違うようです。さてその案内板というのは

MN01916-木次線

これは1973年12月に撮ったものです。

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木次線2

さて三井野原でのステホは暑からず寒からず、気持ちよく寝させていただいたが、何やら周囲がおかしく、むっくり起き上がって一驚。このさして広からぬ三井野原無人駅のプラットホームが、何と夏休みラジオ体操会場と化し、開拓部落の子供たちと、世話役の大人が20人ばかり、体操をしていた。その真ん中の待合室で若者が一人、炊事道具をおっ拡げて安眠をむさぼっていたのだから、皆の衆気が散って体操に身が入らない。これには恐縮し、世話役さんに会釈して早々に荷物と、我ながら美味ならざる夕食(の食い残し)を片付け、リュックを担いで撮影に。先ずは上り初発の備後落合6時42分発416D出雲横田行き、キハ025で、乗客はそれでも数人あった。木次線上り一番列車416D 三井野原 続きを読む

木次線 出雲坂根のスイッチバック

いつもコメントをいただいておりますクモハ73106東ウラさんから出雲坂根のスイッチバックでC56形が活躍した当時の貴重な写真をいただきましたので掲載させていただきます。カラーでいただきましたが退色劣化激しく、私の技術ではどうやっても復元不可能でしたのでモノクロにてなりました。

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三井野原今昔

湯口先輩から木次線の貴重な写真が多数紹介されました。国鉄が唯一の交通手段だったことを如実に物語る写真の数々です。その中に三井野原駅に停車中のキハ024の写真があります。撮影日が昭和38年8月12日のようですが、それから47年後に偶然同じようなアングルで撮っていたカットがありました。

2010年5月3日 三井野原駅にて 1450D キハ120206

2010年5月3日 三井野原駅にて 1450D キハ120206

よく見ると ステホされたという右側の待合室の壁や屋根や縦樋は当時のままのように見えます。約半世紀前は出力60馬力のキハ02、そして現在は250馬力のキハ120です。レールバスがいかに非力だったのかを再認識しました。ひと駅走ってオーバーヒートはさもありなんです。ところで私の写真で 三井野原駅のホームに行列ができているのは団体客です。団体客と言ってもバスツアー客で 三井野原駅から出雲坂根駅間のひと駅だけ木次線に乗車し、スイッチバックを体験するという団体客です。開拓農家の方が乗り降りされ、冬だけはスキー客でにぎわった駅に 半世紀後には観光バスが横付けされてガヤガヤと多くの中高年が乗り込むことになろうとは地元の方は思いもよらなかったことでしょう。またこの待合室で寝泊まりした若者がいたことも。湯口先輩 貴重な写真をありがとうございました。続報を楽しみにしております。

木次線1

ついこの間倉吉線で盛り上がったばかりが、今度はどうやら木次線の同様兆しが察知されるので、「兵庫・鷹取工・高砂工・姫路」はひとまず中休みして木次線を。
倉吉線でも参加させて頂いたが、その前の日は木次線を撮影していたのである。1963年8月11日姫新線東觜崎でキハ04やC11牽引ローカル列車等を撮り、備後落合の名物駅長モンクマこと、門田熊太郎氏の宿舎にわらじならぬキャラバンシューズを脱ぐ。面識はなかったが、何かの関わりから泊って結構とのことで、一宿ニ飯に甘えさせて頂いた次第であった。業務用ダイヤを芸備線、木次線とも頂戴し、大いに助けられた。

木次線備後落合発車待ちのキハ024S

備後落合で発車待ちの432レキハ024

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東武鉄道1700型

米手作市様の[71488]16.5.12「東武鉄道モハ1700型」の写真である。1700型は1956年製造のカルダン車で、1971年12月までにこの車両は消えてしまい後継車の1720型と同じ車体の車両となった。さらに1991年までに1720型と共に現在「りょうもう」に使用されている200型に機器が流用されて生き続けている。

写真は東武日光発浅草行き特急「さち」で撮影は1968年7月26日松原団地-草加間で列車名「さち」とは中禅寺湖の別名「幸ノ湖」にちなんだ名前である。現在このあたりは高架複々線で風景は一変しており定点対比撮影はできない。製造はナニワ、日車、汽車の3社であるが写真の先頭車両1701はナニワ工機製。関先生のお描きになった1700型の姿からヘッドマークの位置が正面に変更されたり、窓下にライトがつけられたり多少顔に変化はあるが、ハンサムボーイのイメージはそのままで、機器流用で生まれ変わった200型や快速や下今市方面で活躍中の2ドアクロス6050系と比べても断然男前である。これはこの時代、このような顔、スタイルの車両を見て育った私の印象からかもしれないが。

s-68.7.26草加1701さち