糸崎と鉄道連絡船

キハニ5000の話題に対して戦後撮影の貴重なお宝画像をご披露頂き、感謝に堪えません。もうひとつだけ糸崎関連の話題を凝りもせずにご紹介させてください。昭和14年8月26日の中国新聞備後版の記事です。

昭和14年8月26日 中国新聞備後版

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阪堺線天王寺駅前

以前にINUBUSE氏が阪堺線天王寺駅前の工事状況を載せられていましたが天王寺駅前はほぼ完成しているようです。周辺の道路はまだまだ工事中ですが軌道内はグリーン化され電柱もセンターとなり阿倍野筋もかなり近代化されてきました。

天王寺駅前には歩道橋からも直接アクセスできるようになっています。駅舎そのものも新しくなっており見違えます。※「縦」の写真を入れたのですがこの前はひっくり返っていました、今回は「プレビュー」で見る限り大丈夫なようですが寝ていたらスミマセン。
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2016年 西方見聞録 Part28 ウクライナの蒸気機関車を撮る③

第13日目 9月30日 

▲ 6:35 撮影地②
今日も夜明け前の出発です。
ボロフタ駅(Vorokhta)に参りますと始発列車が発車していきました。
ホームには降りられたおばさんたちが大きな荷物を持って出口へ向かわれておられます。何か仕入れてこられたのでしょうか。

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 京都で最後の583を見送る 

583系天理臨が、青森から長躯、京都まで運転されました。唯一生き延びた編成も、そろそろ先が見えて来たようで、とくに天理臨で京都まで顔を見せるのは最後のようです。25日の京都着は午前5時台で、これは鉄鈍爺さんが驚異の早起きで捕獲されています(No.81136)。583は数日、吹総京都支所に留置され、27日(金)の晩に帰ることになりました。発時刻が不明だったものの、そこは、クローバー会のネットワーク。直前の時変まで共有することができました。到着の2時間ぐらい前からは、京都駅は劇パ状態となりましたが、示し合わせた鉄鈍爺さんとともに撮影場所を変えて撮影することができました。発車の際は、例の中高生の“長い間ありがとう”の絶叫の声に見送られて京都を去って行きました。

京都駅構内へ進入する583系(鉄鈍爺さん撮影)

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 50年前の撮影地を歩く -12-

D61を訪ねて

先日、別の鉄道趣味の会合で、私とほぼ同年代の方と、北海道の話をすることがありました。昨年末に廃止された留萌線の留萌~増毛に話が及ぶと、お互いに訪れたのは、つい最近であることが分かりました。若い時代に何度か北海道へ行ったものの、9600しか走らない同区間は訪問する対象ではありませんでした。その点、同じ留萌線でも深川~留萌には、当時の蒸機ではいちばん希少なD61が走っていて何度か訪れたものでした。
今回は、現在も留萌線の残存区間として営業中の留萌~深川の50年前をたどってみます。

留萌だけに配置のD61、前照灯を保護するツララ切りがあった。

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あれから半世紀

私の1日は朝食後にデジ青を見ることから始まります。今朝は驚きました。準特急氏が「少し前の三原、糸崎駅界隈」と題して6枚の写真を投稿されているではありませんか! 撮影が1964年、65年ですから もう半世紀以上が経過しています。でも感覚的には 私も「少し前」と感じます。ここのところ雪が舞う寒い日が続いている当地ですが、今日は快晴の穏やかな日和なのを幸いに 準特急氏が撮影された6ヶ所の今を巡ってこようと 早速出かけることにしました。準特急殿の記事の順に「あれから半世紀後の三原、糸崎駅界隈」をご紹介し、準特急殿への御礼に代えさせて頂きます。

まずは三原駅に到着の急行安芸 C59161のカットからです。1975年(昭和50年)に山陽新幹線三原駅が開業します。その時点では新幹線は山側に高架、在来線は地上のままでした。1989年(平成元年)9月になって 在来線上り線が高架となり、翌1990年に下り線も高架となって 現在の姿になりました。従ってC59を撮影されたと同じ位置での撮影はもうできません。C59の背景にパチンコ屋と「みつわ」という看板が見えます。下の写真で 屋上に赤い看板が載っているのがパチンコ屋の位置です。昔の写真ではパチンコ屋と仕出し屋「みつわ」は接していますが現在は駐車場をはさんで白い5階建ての細いビルが「みつわ」さんです。急行安芸の3両目 オロネ10の位置に踏切がありますが 当時は「東1番踏切」と呼ばれていた開かずの踏切で 丁度「みつわ」さんの前でした。踏切跡の道路は今もあります。また 高架が邪魔していますが、バックの山の形は変わっていません。

平成29年1月26日 三原駅東

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東海道の電車を楽しむ-その5-

正月はゆっくり過ごしたが、昔の旅人は正月をどんな思いで歩いていたのだろうか? 日本は地震国で、それに伴う地殻変動による津波の発生や到来は事前通告がないだけに旅人を惑わせるものであった。29宿浜松から西へ辿るには、30宿舞阪から渡船によるものであった。15世紀末まで浜名湖は淡水湖であったが、大津波を受けことにより塩水湖に様変わりしていた。1699年高潮、1707年宝永地震には津波、1854年安政東海地震の津波で宿場や渡船場の位置は変動していた。幕府にとって大きな事業は関所の維持で、今も遺構が残る今切(・いまきり)の関所もその一つであった。宿場(31宿新居・あらい)とは離れた位置だが往年の姿が再現されている。これとは別に津波のために浜名湖を渡ることが出来ない時のため、湖岸を北に辿る道(姫街道)が整備されたのは、非常時の代替となり重要なものであった。

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48年前の1月26日

 

身辺整理をしていると正方形の古い天然色のコダック印画紙がでてきた。1969年昭和44年1月26日に撮影されたものである。通信員が結婚式披露宴を済ませ日本国有鉄道大阪駅4番ホームにて新婚旅行出発のときの一齣である。列車の窓が開けられなくなり、駅弁の立ち売りと共にホームで見られなくなった新婚旅行見送り風景である。

この印画紙が貴重なのは写っている当会員の方々です。中央で同志社チェアの音頭をとっておられるのは長岡京の長老で、祇園石段で鍛えた美声が聞こえてくるようである。左下の後頭部は特徴的な板状の耳殻を持つ軽便鉄道の第一人者であらせられる須磨の長老です。ともに身体の修繕をされお元気にこの掲示板に秘話や昔話また押入れの秘蔵写真を投稿されているのは喜ばしいことである。右端は名古屋の和尚さんで名鉄谷汲美濃町線など600V区間を追い続けた方です。禿頭の人は会員ではありませんがボレックスの8mmフィルムカメラを操っています。この画像をゼンザブロニカで撮影されたのはローズ山下氏で各地の大型蒸機の雄姿を中型カメラに収められられました。大勢の先輩にお見送りいただいた果報者の通信員であります。

列車は大阪17:05始発の気動車急行「丹波3号」豊岡行きで宝塚までの乗車であった。画像はキロ28で、窓下に淡緑6号の帯が入っているのが見える。4ケ月後の5月には等級制の変更でグリーン車と呼ばれるようになり窓下帯は無くなりクローバーのマークに変わった。キロ28は1961~1963年に製造された一等座席の気動車である。東海型電車サロ152で採用された二連下降窓を採用し更に張り上げ屋根なのでべっぴんさんである。急行たかやま号として99年12月まで同じ大阪駅に顔を見せていた。

一年後に大阪万国博覧会を迎える日本も国鉄も三波春夫も元気な頃でした。

少し昔の三原、糸崎駅界隈

山陽鉄道の遺構や広島地区の情報で大活躍の西村雅幸さんのお住まいの三原駅付近で撮影したものが少々ありましたので御笑覧下さい。

まず、最初は糸崎区のC59161が牽引して三原駅に進入する東京発寝台急行23列車呉線経由広島行き「安芸」。1965年4月4日の撮影。先頭は座席指定の2等でオハニ36、2両目はマロネ41、3両目の大柄な車体はオロネ10、6両目は遠くて分かり難いがマシ38と思われる。客車の大家に判定をいただきたいが要するにこういう列車が最も輝いて見えたように私には思われた。「安芸」は三原を出ると車窓左手に瀬戸内海を見て広島までの2時間近くを走る。ワイドビューとかオーシャンビューとか言われる特急列車よりも豪快な汽笛を聞きながらの蒸機急行の旅の方がずっとよかったと思うのは私だけか。なお。このC59161は広島市内に保存されている。▼

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2016年 西方見聞録 Part27 ウクライナの蒸気機関車を撮る②

第12日目 9月29日 その2

▲ 10:57 撮影地② Google座標; 48.268067, 24.373678
ヤシン( Ясіня )からからはチャーター列車に連結された1両の作業車に乗って移動です。両側石橋に真ん中は鉄橋を組み合わせた橋を行く列車の撮影シーンのようです。
今まで経験した海外鉄道撮影ではリーダーがあらかじめ調査の上で決めたお薦め撮影地を回るようになっています。撮影地についてからは参加者各自に気に入ったアングルを探し求めて決めます。参加者からもう一度とアンコールがあった時は、再度繰り返しをしてもらえます。そ
して今回もアンコール要望がありました。
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2016年 西方見聞録 Part26 ウクライナの蒸気機関車を撮る①

第12日目 9月29日 その1
5:30 まだ夜明け前の早朝にボロフタ駅前Vorokhta)に集合です。列車に乗って行くのかと思いきやチャーターバスに乗車でした。

どこを走っているのかさっぱりわからない山間の道を約49㌔、約1時間余りを走り、ようやく薄明るくなった7時前に目的地に着きました。
行きましょうと向かったのは苦手な山の斜面です。朝から上り坂とは辛い1日の始まりでした。
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2016年 西方見聞録 Part25 スイス(チューリッヒ)からウクライナ(リヴィウ)への搭乗記

第11日目 9月28日

今回の旅ではフィンランド⇒スイス⇒オーストリア⇒ドイツと4ケ国を訪問してきましたが次は5番目の国、ウクライナです。

【 ウクライナ 】
長い間ソビエト連邦の国でしたが1991年ソ連崩壊に伴い独立しました。1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故で有名になっている国ですが今回は反対側の南寄りのルーマニア国境に近い地方を訪ねます。
全体の国土は日本の約1.6倍ですが人口は約4,520万人、ウクライナ人が人口の約78%を占めてロシア人は約17%、在留邦人は193名(2015年10月1日)とわずかな現状です。
独占する国営のウクライナ国鉄は、ロシアと同じ1,524㎜ゲージ路線が23,350㌔(電化率約39%)、1,435㎜ゲージ路線が201㌔(全線電化)と、そこそこはあります。しかし、欧州各国の鉄道とはゲージ幅が違っていますので直通する国際列車はなく、同じゲージのキエフ・モスクワ間の1日1本だけしかありません。運行されている列車はソ連時代の年代物ばかりのようで高速化もされてもいません。どんな古い車両と会えるのかも楽しみでした。私にとっては世界で24番目の訪問国です。
▲ チューリッヒからウクライナリヴィウまで直行するフライトはありません。オーストリアウイーンでトランジットして向かいましたが、丸1日を要しました。

チューリッヒZRH7:40(OS568)⇒9:30ウイーンVIE13:00(OS381)⇒15:15リヴィウLWD
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四日市の雪

先日は京都でも大雪となり叡電や超のつくすごい投稿がありましたが、当地名張(特に美旗は)殆んど雪がふらずちらついた程度で、期待外れの感もありました(自分がどこまでやれるかは別として)。今年一番の雪景色は諦めていたのですが、近鉄の新春限定の三日間フリー切符の一日分を手に入れることになり、一番効率(?)の良い名古屋の「リニア鉄道館」へ行こうとしたところ、途中四日市辺りでまだ雪が残っていました。名前も替わった「四日市あすなろう鉄道」の「日永」の様子です。 続きを読む

京阪800型


我々の年代が知っている京阪800型とは、パンタを付し京阪本線ローカルや、支線に働く姿である。小生がお預かりしている故西尾克三郎氏アルバムに、谷川義春氏撮影の名刺版プリントがあったので、諸兄のご高覧に供するが、ポールに換えられてはいるが、まだ石坂線に働く姿で、カウキャッチャースタイルの排障器がいいねぇ。関センセお書きの通り、800型はその後全部が本線及び支線に引き上げられた。小生は1950年代半ばごろだったか、天満橋で800型3連を見た記憶がある。

宇島鉄道廃線跡訪問

平成29年1月19日

昭和11年に廃止された宇島鉄道。この線の存在を知ったのは最近でした。タイミング良く前職の同期が退職後故郷の豊前市観光協会に就職、豊前市の観光素材を訪ねるとともに廃線跡でそれと解るポイントに案内していただきました。

中唐原駅跡 農家の農機具等の倉庫として使われていたと思われる朽ちた小屋が残っています。遠方からでも見える山裾に立つ小屋、近づくと看板立っていました。

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2016年 西方見聞録 Part24 ゴッタルゴ峠を撮る④

第10日目 9月27日

今日は終日Cで撮った後明日のウクライナ行きに備えてチューリッヒ空港近くのホテルに移動します。ゴッタルゴ峠の撮影場所は前日までとは違ってループの真ん中で撮ることにしましたが午前中はチュウリッヒ側のエルストフェルト駅近くまで下りて狙うことにしました。ゲシェネンからは約19㌔の下山です。
▲ 10:19 撮影地① Google座標; 46.804670, 8.665620
最初に来たのはイタリア方面行のRe420-269-3が牽引するタンク車編成の貨物列車です。

Re420型電気機関車 】
戦後増大して来た鉄道輸送に対して輸送力不足となり1964年に新たな次世代本線用として設計され試作機が登場した交流電気機関車。軸配置Bo’Bo’、定格出力は4650kW、1969年から量産機が生産開始されて1985年まで276機が製造されています。

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