昭和の電車 改訂版(84)ー阪神1001型ー

阪神電車もDRFCでの人気は高くありません。そもそも阪神で通ってくる学生はほとんどなく、記憶では津村さんがある程度です。

私事で恐縮ですが、所用のため月末まで留守をします。時節柄、遠出は憚られることですがお許しください。つきましては、その間の本欄原稿をまとめて投稿しますので反応の方をよろしくお願い致します。また、レスなどの書き込みが出来ませんが、ふてくされているとか、ボケてしまったのではありませんのでご安心ください。

昭和の電車 改訂版(83)ー阪急200系ー

学生時代の一時期、嵐山線の松尾と上桂の中間地点に住んだことがあります。
毎日この201のお世話になりました。わずか一駅では物足りない乗り心地で、楽しい通学の思い出があります。

下に藤本哲男さんから詳しい説明がありますのでご覧下さい。

阪急 251+201

客車廃車体訪問記 内地編69 茨城県-2

【個人の庭】 2000年6月10日撮影
スエ38 3


ここは一人で訪問したのではなく、この時に開催された東日本グループの真岡鐵道撮影会(?)に参加して、東大宮-蓮田(夢空間が通過した)から始まって真岡鐵道を撮影したがほとんど記憶がなく、道の駅もてぎで昼食を食べたこと位しか憶えていない。
そして時間に余裕ができたので半ば強引に連れて行ってもらったのである。参加された皆さんには得体の知れない客車にお付き合いいただきご迷惑をおかけしました。3軸ボギーに二重屋根と車体のリベットに免じてご勘弁ください。
個人に引き取られ(無償貸与らしい)、住宅の庭に当初上屋が無かったがその後上屋が付き大事に保存されて、地域の子ども図書館として親しまれているようだったが今も変わりないだろうか。
◆カニ39551(1930年新製 川車)→(1941年改番)カニ37 7→(1946年連合軍接収改造 大宮工)軍番号3201(郵便車)  カニ37 7→(1953年改番)カニ29 12→(1958年更新修繕Ⅰ 長野工)→(1962年改造 大宮工)スエ38 3→1980年廃車
※連合軍の指定解除は1957年なので、指定時はカニ37、解除時はカニ29ということになる。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑯

鹿児島機関区(3) B20 8620 C12 C56 C57

鹿児島機関区の残りの形式をご紹介。もうひとつ鹿児島区のアイドルは、何と言ってもB2010でした。いまでは、京都鉄道博物館に保存されている同機ですが、当時は、小樽築港区のB201とともに、国鉄の現役蒸機としては最小で、15両が製造されたうち、2両だけが残っていました。用途は、機関区限定の入換機で、大きな給炭槽に、石炭をベルトコンベアで搬入するため、石炭を積んだ無蓋車・石炭車を、給炭槽の真下まで移動することでした(以下、特記以外昭和42年3月)。区のアイドルにしては、無骨な産業用の機関車だった。扇形庫の横の定位置で止まったままだったが、ほかの撮影を終えて、戻って来ると、ほんの数メートルだけ移動していることが多かった。

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑮

鹿児島機関区(2)  C61

九州では唯一の配置となるC61でした。昭和24年に九州に配置されて以来、6両が揃って鹿児島本線全線電化まで働き続けました。C61は、戦後の旅客用蒸機の不足を補うため、戦時中の大量増備で余剰気味となった貨物用D51のボイラ、台枠をそのまま使って、下回りはC57と同じものを新製して組み合わせたもの。1号機が昭和22年に改造され、22両が昭和23年までに造られました。C60、C62も同様の改造で生まれていますが、数字の並びから、C60が最初の改造に思われがちですが、C61が戦後すぐの改造で、C60は、それから6年経過してからでした。鹿児島機関区でハドソン2形式が顔を揃える。C61 33 C60 34 いずれもヘッドマークを取り付けるステーが見える。C61のナンバープレートの取付位置が高いため、正面からの印象は、C61のほうが腰高の印象がする(昭和42年3月)。 続きを読む

客車準急「エルム」 時刻表でたどる運転時刻と編成

先般、西村さんの「福塩線のコロナ対策(続報)」から脱線して、準急「エルム」が話題になりました。客車時代の「エルム」を少し調べたついでに、デビューから36-10までの時刻・編成の変遷を交通公社の時刻表でたどってみました。「エルム」の写真もなく、ダラダラと長いだけの投稿になってしまいましたが、ご用とお急ぎでない方はご覧ください。

◎客車時代の準急「エルム」
「エルム」といっても五所川原ではなく、北海道の室蘭と札幌を結んでいた準特急でもない準急行列車の愛称で、室蘭本線~千歳線を走る初めての優等列車として設定されました。当初は愛称がなく、昭和26年4月に「エルム」というかわいい親しみやすい愛称をもらいました。国鉄初のカタカナの愛称でした。終始、下りは室蘭を朝発車して札幌へ向かい、上りは昼過ぎに札幌を出て夕方に室蘭に帰るスジでした。34年9月22日時刻改正から「エルム」と同じ室蘭-札幌間に気動車による準急「ちとせ」が登場し、時代の流れでその後まもなく「ちとせ」が2往復に増加し、ついに36-10で「ちとせ」に統合され、客車準急「エルム」の愛称は惜しくも消えてしまいました。
続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑭

鹿児島機関区

機関区めぐり、熊本の次は、南端の鹿児島機関区へと参ります。熊本と鹿児島の間には、出水にも機関区がありましたが、貨物用のD51のみの配置で面白味はありませんでした。鹿児島機関区には、C61、C60、C57、C56、C12、B20、8620と、7形式もの蒸機が配置されて、形式数においては、日本一の機関区でした。初めて訪れた昭和42年3月、初めてC61、C60、B20を一度に見ることができて、夢を見ているようでした。通常、機関区の撮影は1~2時間で済ませますが、この時は、11時頃から区で写し始めて、昼食も忘れて延々と居続け、17時ごろにようやく市内のユースホステルに引き揚げるほどで、たっぷり区に浸っていました。撮影点数も多いため、何回かに分けて、まずはC60からご覧いただきましょう。

C60のラストナンバー、C60 107の牽く東京発西鹿児島行き不定期急行「桜島」。熊本以南の非電化区間、優等列車はDL化されていたが、不定期・臨時列車は、まだ蒸機牽引で残っていた。上伊集院~薩摩松元 昭和44年3月

▲▲鹿児島機関区からは、桜島がよく見えた。

 

続きを読む

昭和の電車 改訂版(81)ー京成電鉄1500型ー

柴又、寅さん、矢切の渡し、成田山新勝寺、成田空港と成田闘争、ぐらいしか思いつきません。

前回の投稿時、村樫四郎様から色の表現がちがう、とのご指摘を受けましたが、関先生のご説明では「色鉛筆での表現にはどうしても限界がある」とのことでした。

昭和の電車 改訂版(80)ー阪急電鉄802号+852号ー

この「アロハ特急」について前回は乙訓の長老から「小学校の遠足で乗ったけど写真はない」と書き込みがありました。

さらにマルーン会長からは阪急の機密情報を漏洩しての投稿がありましたので再度漏洩致します。
デービスさんのカラー写真を期待してお待ちします!
続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑬

熊本機関区

つぎは熊本区の蒸機を見ていきます。この機関区へ行ったのは、鳥栖と同じ昭和42年3月で、一度切りのことでした。この時点で、鹿児島本線の電化は熊本まで到達、翌年には川尻まで延長されます。熊本が電化、非電化の中継地に当たるのですが、鹿児島本線の蒸機の使用状況は、鳥栖と似ていて、優等列車は全部EL・DL化されていて、不定期・臨時急行、普通列車で、熊本・鹿児島区のC60、C61が使用されていました。機関区は、ホームに隣接した西側にありましたが、狭いところで、ラウンドハウスもなく、木造の矩形庫のなかに、多くの蒸機が押し込められていました。行ったのも、夕方の薄暗い時期でした。そのうちに電化も南進して、ついに熊本機関区へ行くことはありませんでした。熊本駅に到着するC60 37の牽く出水発熊本行き132レ、鹿児島本線の電化は熊本までで、鹿児島方面から来る列車は、優等列車を除いて蒸機牽引だった。ただ、駅の構内は、翌年の川尻までの電化に備えて架線が張られていた。狭い構内もあって、熊本駅、熊本機関区で写したのは、この一回切りだった(以下、昭和42年3月)。

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑫

鳥栖機関区

筑豊地区の機関区巡りを終えて、鹿児島本線を南下していくと、まず鳥栖に着きます。長崎本線を分岐するジャンクションであり、蒸機時代には、駅の南東側に鳥栖機関区がありました。とにかく規模の大きな機関区で、驚いたのは、転車台+ラウンドハウスが2組あり、ラウンドハウスも半周分はある規模の大きなものでした。ただ、初めて行った昭和42年には、鹿児島本線は熊本まで電化していて、長崎本線は非電化ながらも、少し前まで走っていたC60の牽く寝台特急「さくら」「あかつき」はDD51に置き換わっていて、定期の特急・急行はすべてDD51で、わずかに不定期・臨時列車に、C60の牽引の活路が残されているだけでした。ただ、普通列車は早岐区C57、貨物はD51、ほかにも、筑豊本線、久大本線から通しで蒸機が来るなど、以前のような幹線の大型蒸機の活躍は見られなかったものの、まだまだ活気のある風景が展開されていました(以下すべて昭和42年3月)。

鹿児島本線から長崎本線が分岐するY字形の間に、建築現場のプレハブ小屋があった。中を覗いても誰も居ず、勝手に外階段を上がって二階へ行くと、長崎本線がゆるくカーブして俯瞰できる。背景は家が建て込んでいるが、ちょうど順光で撮れる。まだC60で残っていた優等列車は、この時期、不定期・臨時急行だけで、ちょうど長崎行きの「第二玄海」がC60 38に牽かれて鳥栖を発車して行った。

続きを読む

風通し対策(続報)

米手作市様より「エルム」のご紹介があったところで、飯田線で見かけた風通し対策をご紹介します。今を去ること約46年前の7月、DRFCの飯田線合宿の際のひとコマです。まずは飯田駅で追い越したED196です。

昭和49年7月27日 飯田駅にて ED196

デッキ付き電機の場合、正面扉は貫通扉ではなく運転室扉ですから、駅で停車中に入換えなどもあるので 扉が開いていても不思議ではないのです。

続きを読む

 Stay Homeを楽しむ  ~風景印を集めてみた ⑤~

こだわりの風景印

鉄道テーマからは外れますが、ちょっとこだわりのある風景印を集めてみて、StayHomeの楽しみを閉めることにします。

前にも述べましたが、全国の郵便局は、JR・民鉄の駅より多い、2万4000局ほどあります。駅に東西南北の最端があるように、郵便局にも、最端の局があって風景印を常備しています。

(左)最北の宗谷岬局(稚内市) 宗谷岬のすぐそば、路線バスも走るところにある。絵柄は間宮林蔵の像、最北端の碑を描く。 (右)最東の珸瑤瑁局(根室市) 「ごようまい」とよむ難読名で、かつての根室拓殖鉄道の終点、歯舞のまだ先、納沙布岬の手前にある。珍しい、ベタ白ヌキ、白マドの印になっている。

(左)最南端の波照間局(八重山町波照間島) (右)最西端の与那国局(八重山町与那国島) 与那国島は那覇から空便もあるが、波照間島へは石垣島から船便しかない離島、さすがに郵頼しても、戻って来るのに、一週間以上を要した。それでも片道84円で届くのだから、郵便制度の有り難さを改めて感じる。

続きを読む

福塩線のコロナ対策(続報)

5月23日と29日に「単行キハ120の3密問題」を話題にしました。広島県内では三次市の福祉施設でクラスターが発生したこともあって県北住民の関心は高く、JR広島支社や三次鉄道部は最大顧客の高校生の声を早速聞き入れて対応してくれました。住民からも歓迎の読者投稿も載りました。

令和2年6月1日 中国新聞朝刊

続きを読む

『三井化学専用線』の終焉

2005年前後に使っていたHDD内のネタ、第3弾です。
と言うか、893-2 さんの『三井化学専用線/2020.5.29/Posted by 893-2』へのコメントに対し、某氏から督促の教育的ご指導もあり、掲載する次第です。 (汗)

遂に廃止となるのですね。「お疲れ様」と労います。
なにぶん1972年春に撮影したもので、誤謬や錯誤の、ご指摘など、宜しくお願い申し上げます。

【三井三池の車輌達】
正式な名称は「三井三池港務所」(当時)です。
舊くは“黒いダイヤ”のヤード集積に、高度経済成長期には大牟田コンビナートの産業路線として、“三井”と 共に歩んで来ました。

凸電機2号

20t、シーメンス機
カワユイ凸電です。COPY機として、菱造・三作製などが有ります。

続きを読む