「レイル」119号に会員が登場!

「レイル」の最新号・EF65500番代特集を手にとって驚いた。
会員の準特急さんの力作『誕生から間もない頃 / その後の活躍』と題する記録写真と文が目に飛び込んできた。彼の得意とするきれいな型式写真が白黒、カラーで紙面を飾っている。詳細は読んで頂きたいが、改めて感心させられた。

もう一つはデジ青にたびたび貴重な写真と知識を載せて“会員以上”にご協力を下さっている宮崎繁幹氏が「レイル116号」の補追としてGordonDavis氏撮影のN電、それも現役時代の写真がないと言われていた「2号」の新たな写真を発掘して掲載されている。
いずれもDRFC関係の方の書かれたもので、特に宮崎繁幹氏の写真には旧N2号が北野下の森付近のカーブを通過中と思われる(私の推察)写真が、撮影時期・場所ともに不明と出ていたので会員諸氏の検証をお願いしたい。

この話は会員伝言板に載せようか、掲示板にしようか迷ったが、宮崎繁幹氏の原稿が前回のN電特集に関連することから氏にもご覧いただける掲示板を利用した。

 街並みとともに ~京都のバス~  〈9〉

こんな通りを走っていた(2) 本町通を走った16号系統

“こんな道を走っていた”市バス続けます。「16」のバスが昭和の時代には走っていました。よく知られているのは、「上賀茂神社前-稲荷・藤ノ森神社」の方向幕の時代です。京都の市街地を北から南まで縦断し、とてつも長い距離を走っていた系統でした。しかも狭隘区間があって、遅くまで中扉のみのツーマン車で残り、車掌を乗せて繁華街の四条通を行く姿は、市民からも怪訝な顔で見られていたものでした。正月の祇園石段下、右折する16号系統の稲荷・藤ノ森神社行き、ほとんどがワンマン化されていた時代、初詣客のなかへ、いきなり現れた古いツーマン車。16号系統は、上賀茂神社前から、千本通、四条通、東山通を通り、稲荷・藤ノ森神社方面に向かって行った。昭和45年8月に一部径路を46号系統と統合し、終端部の藤ノ森付近がさらに複雑な径路になった。師団街道を南下して、聖母女学院、京都教育大学の東側を半周して、藤ノ森神社前へ出て、帰りは本町通を北上して行き、ちょうど「8」の字に一方循環していった(昭和49年1月)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈8〉

こんな通りを走っていた(1)

バスは系統の改廃も多いうえ、同じ系統でも、需要の変動や、交通事情、また地下鉄開業など基幹交通の変化によって、途中の径路もよく変わっています。また、市電が健在だった時代は、市電網から取り残された地域に、バス路線を設けることもありました。バスは、あくまで市電を補完する立場だったのです。今回は、昭和の時代、“こんな通りにもバスが走っていた”と思わせるシーンを集めてみました。

四条烏丸を行く7号系統の東寺西門行き、車両は京都22か2670、昭和55年式、いすゞK-CLM470、NSKボデー

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈7〉

初めてのマイクロバス

いま京都市バスには、小型、中型、大型と、さまざまなサイズの車両が走っていますが、かつては、すべて大型車のみでした。初めて小型のマイクロバスが走ったのは、昭和51年4月、衣笠(現・立命館大学前)~ 原谷のM1系統でした。原谷は、しだれ桜で有名な原谷苑もありますが、京都東北部の山あいを開発した新興住宅地で、公共交通は一切ありませんでした。急勾配、狭隘区間もあり、大きな需要も見込めないところから、初めてのマイクロバスの導入となりました。Mはマイクロの頭文字で、市バス系統に英文字が付けられるのも初めてでした。昭和51年4月に、京都市バスに初めて登場したマイクロバスを使ったM1系統、車両は、京22あ‥17、‥18の2両で、いすゞBY31、北村ボディだった(昭和50年4月、以下同じ)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈6〉

洛西ニュータウンの電気バス

“京都のバス”再開します。シリーズが途絶えている間に、私の住環境もすっかり変わり、二階の窓から見ると大通りを続々と市バスが走って行くのが眺められるスポットとなりました。良くも悪くも、京都の公共交通は市バスが中心であることを実感します。そんな京都とバス、昭和の時代を断片的に見ていきます。

京都市バスにも、以前には電気バスが走っていました。初代の実用車は、本欄でも紹介したトロバス改造の「みどり号」で、そのあとに登場するのが、これから紹介する、昭和54年にデビューした、洛西ニュータウンを走る6両の電気バスでした。

洛西ニュータウンのなかを行く京都市バスの電気バス、洛西営業所に配属された、ふそう製で、ボディは京都市バスとしては珍しい三菱ボデー、通称ブルドッグバス、洛西ニュータウンから阪急桂駅に向かう系統に使われた。写真の「梅津車庫」は誤表示(昭和61年2月、以下同じ)。

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昭和の電車 改訂版(193)ー国鉄117系ー

西村雅幸さんの投稿
備後路の117系

どですかでんさんの投稿
青色の117系もあるよ~

準特急さんの投稿
私も青色117撮りました

このシリーズを見てくると、諸氏の反応に大きな波があることが分かります。
それが地方の違いによるものか、車両の人気によるものかよく解りません。
地方でも反応の多い記事もあれば、地元近畿であってもほとんど無視もあります。

今回の117系は関東の185系と共通性があり、さらには最近『銀河』として夜行列車で復活したこともあり、皆様の反応を楽しみに見たいと思っています。

1973夏 筑豊 追憶の初撮影行

今年の夏で62歳を迎える私が、本格的に鉄道の写真にのめり込むようになったのは、この年昭和48年からである。理由はずばり環境の変化で、転校して行った南小倉中学の友人の影響である。
大分市に住んでいた小学校6年頃から、鉄道写真は撮り始めていたが、北九州市に3年ぶりに戻ると、おとなしい大分の同級生らと違い、親の目を盗んで、宮崎・鹿児島まで中1で行く猛者たちが小倉にはいた。これはカルチャーショックだった。中学2年だった48年の夏、エラそうにする”先輩”に引かれて、7月8日、日曜日の明け方から、私は念願のSL撮影旅行に出かけることになった。

38629の牽く香月線125レ


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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉑

ちょっと変わったD51

北海道で229両(昭和44年)が配置されていたD51ですが、“ナメクジ”のように製造当初からの変形機以外にも、北海道ならではの改造を受けた独自のスタイルや、個体差のあるD51がいました。いままで紹介した、“ナメクジ”なのに標準型になった54号機や、デフの端部が全くRのない、突き刺さりそうな942号機なども紹介しました。それ以外にも北海道ならではの改造を施した機です。

北海道と東北の一部に見られた長円形の煙突を持ったD51、「ギースル・エジェクタ」と呼ばれる煙突で、横から見ると逆台形に見える。単機で1200トンの石炭列車を牽く追分区に21両が配置され、旭川、岩見沢にもいて、北海道には最盛期27両が配置されていた。D51 167〔旭〕 旭川 (昭和43年9月)

 

 

 

 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑳

雪の常紋を行くD51

常紋には雪のあった季節に、一度だけ行っています。昭和47年3月のことで、もうヤマ線のC62はなく、常紋は北海道を代表する撮影地となって、撮影者も多く見られるようになります。蒸機は、北見区D51、遠軽区9600が健在で、客貨の本務、補機を務めていましたが、旭川区にはDD51が配属されて、一部の客貨を牽き始めていました。今までの常紋は、DRFCメンバーとの撮影でしたが、今回は、自分一人の気ままな撮影でした。

この撮影で試みたことがある。この少し前の国鉄主催の鉄道写真コンクールで、大賞になったのが、降雪のなかの蒸機のタブレット交換だった。“これしかない”と、常紋では歩くこともせずに、もっぱら信号場でスナップ撮影を試みた。ホームのないところでの交換になので、助役が背伸びをして、タブレットを交換する瞬間だけに狙いを定めた。(以下、昭和47年3月)

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昭和の電車 改訂版(190)ー京王帝都デハ2700型ー

以前、準特急さんが2600型のレポートを投稿されています。この2700型についても話題が出てきますのでリンクを張っておきます。
京王2600系

なお、関先生文中の「Oゲージの2700型を作った同級生N君」とは、準特急さんの京王時代の先輩社員だったNさんの事です。