私の好きな電気機関車たち   ⑮

懐かしの電蒸運転

この言葉もすっかり“死語”になった感があります。非電化区間の電化工事が進み、まもなく営業開始という頃、電機の試運転と乗務員訓練を兼ねて、電機+蒸機が牽引する列車がありました。電化に当たっては、“オイラン車”という建築限界・車両限界を測定する特別な列車もありましたが、電蒸運転は定期列車で行われていたことが特徴で、また蒸機は非常時の牽引用で、通常はブラ下がっていただけで、協調運転ではありませんでした。当時は、特別な関心もなく、来たら撮っていただけでしたが、いまとなっては、昭和の時代に限られた線区、限られた時期だけに見られた貴重な記録だと思っています。呉線小屋浦を行く電蒸運転、呉線は昭和45年10月に電化が完成、9月に最後のC59・C62の撮影に行くと、盛んに電蒸運転が行われていた。624レを牽くEF58 44+C62 17(昭和45年9月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑭

長岡、直江津、糸魚川で見た電機たち

何十年も昔の数時間、今から見れば一瞬の出来事ですが、妙に記憶に残っていることがあります。否、それは正確な表現ではなく、記憶は消え去っているのに、撮った写真が引き金になって記憶が蘇って来るのです。これも写真の持つチカラだと思います。そんな経験を電機でもしたことがあります。昭和47年2月、東北旅行の最終日、長岡、直江津、糸魚川と駅撮りしました。疲労蓄積と気力低下で、ほんの数枚撮っただけで、覚えも何もないのですが、改めて写真を並べて見ると、さまざまな電機に囲まれていた記憶が蘇ったような気になりました。撮影順に並べて、電機に限らず電車も見ていただきます。前日は米坂線で撮影し、坂町から満員の「鳥海3号」に立ち詰めで揺られて深夜の新津に到着、駅で寝て、翌朝、新津5:43発330レに乗って7:03に長岡に着いた。330レを牽いていたのはEF58 110〔岡〕、ヒサシ付き、スノウプロウ付きと関西では余り馴染みのないゴハチだった。左は上野行きの724Mで、クモニ83002+クモユ141-4+115系11連、当時は、長岡発の上越線経由の上野行き普通が3本あり、うち1本は夜行だった(昭和47年2月、以下同じ)。

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 私の好きな電気機関車たち   ⑬

ED電機の宝庫 中央東線②

では中央東線に沿って、飯田線との接続駅、辰野へ参ります。みどり湖経由の短絡線がまだ開通していなかった時代、辰野は中央東線のすべての列車が発着し、「アルプス」などの急行は全停車、一部の特急「あずさ」も停車するなど、賑わっていました。ただ、周辺は電化しているものの、構内の入換にはC12が煙を上げていました。接続する飯田線へも乗換客が多く、貨物も多く設定されていました。飯田線北部の貨物牽引を当時担当していたのが、伊那電鉄出自のED26と、国産電機で優美なスタイルのED19でした。

辰野の構内で発車を待つED26 11、ED26は、もと伊那電気鉄道のデキ20、昭和4年、輸入機のED11、ED14を模して、国産で造られた。国鉄に買収後に、ED33となり、そのあとED26(2代目)11、12となった。PS13がより無骨さを感じさせている。(昭和45年8月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑫

ED電機の宝庫 中央東線①

ED電機は両数も少なく、使用線区も限定的でしたが、こと中央東線の沿線に関しては縁が深いものがありました。もともと中央東線には、昭和6年に浅川(現・高尾)~甲府の電化完成によって電機運転を開始した長い歴史があります。東京寄りから挙げると、立川では、青梅線、五日市線、南武線のED16が発着し、八王子まで行くと、勾配区間で使われる甲府区のED61が見られました。足を伸ばして辰野まで行くと、そこはED電機の本場、飯田線の始発駅で、ED19、ED26の活躍が見られ、さらに中央東線の実質的な終点である松本まで行くと、大糸線のED21、ED60も見られました。2回に分けて、中央東線沿いのED電機を見ていきます。奥多摩から産出される石灰岩を、青梅線、南武線経由で浜川崎にあるセメント工場まで運ぶのが、立川機関区のED16のおもな仕事だった。5187レ ED16 17  軍畑付近(昭和53年8月)

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懐かしの野球選手の思い出(老人のたわごと)

オリンピックも野球は苦戦しながらも日本が金メダルをとったことはまずはめでたし。野球と言えば西武電車にライオンズの懐かしい選手、それも西鉄ライオンズ時代の選手がラッピング塗装車に出ているのに驚いた。ネットで調べてみると2020年3月9日から池袋線で運用されている「ライオンズ命名70周年号」でL-train3代目の20104編成である。過去の有名選手と現役選手が描かれており過去の有名選手は①号車東尾、②号車秋山、③号車石毛、④号車中西、⑤号車デストラーデ、⑥号車田淵、⑦号車郭、⑧号車渡辺、⑨号車辻、松井、⑩号車鹿取、稲尾である。

私が最初に観戦したプロ野球は西宮球場での阪急-西鉄戦のナイトゲームで、贔屓にしていた阪急は西鉄に負けたのか暗い夜道を父親とトボトボ帰ったような記憶がある。黄金時代の西鉄は南海とともに大変強く、黄金期は監督は三原修で次のような打順であったと思う。一番センター高倉、二番ショート豊田、三番サード中西、四番ライト大下、五番レフト関口、六番ライト玉造、七番セカンド仰木、八番キャッチャー和田、九番ピッチャー稲尾。

特に印象に残ったのは中西太で豆タンクのような体つきで独特のフォームでバットをぐるぐる回し、見ていて楽しい選手であった。ホームランバッターであったが、三塁の守備も体に似合わず華麗であった。この頃は結構進学校出身の選手が多く、中西も名門高松一校出身である。高松一校と言えば同じ下宿にいて一時DRFCにも所属した琴電志度在住のTさんや今でも付き合いのある同じゼミで琴電羽床在住のNさんも同校の出身であるので高松一校に何となく親近感を持っていた。

あれからどれくらい経ったのであろうか。プロ野球の世界も産業構造の変化によるのか、その経営は電鉄、新聞社、映画会社等からIT産業等に変ってきたが、若しも阪神電車が西武電車のような企画をし、藤村、別当、土井垣や村山、小山あたりが出てくればそれを撮ってみたいと密かに思っている。もっとも古過ぎて宣伝誘客効果はないだろう。 お邪魔しました!

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昭和の電車 改訂版(200)ー京阪200型・近鉄モ200型ー

丹波橋での近鉄奈良電

なつかしい丹波橋

京阪・近鉄相互乗り入れ

前回掲載時の関連投稿記事は上記の通りです。

たぶんこれが近鉄モ200型のなれの果て?モ225

それともこれか?モ1801
京阪の200型は撮ってません!

【乗り鉄旅:近江鉄道】→延期します(8月7日)

*滋賀県にまん延防止等重点措置が発出されたため、今回の企画は延期とさせていただきます。悪しからず、ご了承ください。(8月7日加筆修正)

個人の持ち込み企画です。

8月9日(月・祝)に近江鉄道完乗旅を行う予定です。志を同じくする皆様のご参加をお待ちしております。参加をご希望の方は、コメント欄へのコメントをお願いします。

なお、今後のコロナ情勢の悪化や荒天が見込まれる場合は、中止させて頂くこともございます。悪しからずご了承ください。

行程案

貴生川 11:28発→高宮 12:37着→高宮12:47発→多賀大社前 12:53着→(昼食、自由散策)→多賀大社前 13:27発→高宮 13:33着→米原 14:07着→米原 14:22発→近江八幡 15:29着  解散

*近江鉄道1日フリーきっぷ:900円

*途中参加、途中離脱は構いません。

*若手会員の皆様の参加もお待ちしております。

 

 私の好きな電気機関車たち   ⑪

ED電機への憧れ① 阪和線のED60

電気機関車シリーズに戻ります。これまではEF級の電機の思い出でしたが、私はED級の電機にも憧れがありました。思い返すと、小・中学校に頃の鉄道模型に行き着きます。当時、模型化されていた電機は、EF級もありましたが、高価なうえに脱線しやすい欠点もありました。小遣いの範囲で買えるのは小型、と言ってもEB58では、それこそ子供だましで、やはりED級の電機に行き着きます。当時の売れ筋は、ED14、ED16、ED17あたりで、少し経つとED11あたりの少数機も出て来ます。牽くのはやはり客車が相応しく、マツモト模型のオハ31系数両を牽くのが適任でしょうが、結局、私はED14+オハ31だけの編成で終わってしまいました。後年、鉄道写真を撮るようになると、大型のEF級電機が長編成を牽く姿にも惹かれますが、心の中では、客車数両を牽く、ED級の電機を撮ってみたいと言う気持ちがありました。たとえば仙山線でED14、ED17が客車を牽くシーンを思い浮かべるものの、結局は間に合わず、その後の新型、ED60でやっと実現した。場所は阪和線、その頃、定期の客車列車はなかったものの、紀勢本線沿いの海水浴場へ向かう臨時急行「きのくに」が夏休みに多く運転されていた。牽引はEF52が多かったが、ED60が牽く列車もあった。客車は冷房付きの12系になっていて、思い描いたシーンでは無いものの、初めてのEDが牽く客車列車となった。「きのくに53号」 山中渓~紀伊 (昭和47年8月)

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夜汽車の情景 暁の急行能登号

 前回の寝台特急北陸の富山到着の8分後に本命のこだま型電車の急行能登号が到着する。まだ、暗いがわずかに立山連峰あたりから夜明けの気配が。わずかな時間のタイミングを逃さないようにしなければならない。夜明けの時間と列車の通過時間とうまく合うのか心配である。今回はラッキーだったのかもしれない。撮影日は2010年3月12日、定期運行最終の急行能登号は上野を3月12日発で富山到着が13日の朝である。天気予報を見ると富山の13日の朝は雨であった。それで1日前の3月12日の撮影となったのである。そしてこの日はドンピシャのええ天気。

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ここはどこ?私はだれ?ー夏休み臨時列車ー

暑さとヒマで身をもてあましている諸兄を、夏休み臨時列車『ホームステイ』号へご招待致します。

と言っても、乙訓の長老様からお預かりしている写真の整理をお手伝い頂くのが目的です。
長老様は、永年撮りためた写真を箱に入れてしまい込んでおられますが、ジャマになったから整理・処分してくれ、と私に依頼されたのです。
ところが箱の表記と中身はバラバラ!概ね会社毎にまとめたのですが私鉄の知識の無い悲しさで分からないものが出てきます。それを、どこか?いつ頃か?を「デジ青探偵団」の皆様に教えて頂きたいのです。私も手が空いた時にボチボチやっているのでまだ道半ばです。いくらでも出てきますが、少しずつご覧に入れるので教えてください。探偵の皆さん!よろしくお願い致します。

では、どうぞ⇩

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昭和の電車 改訂版(199)ー信貴生駒電鉄デハ1型ー

前回の時、どですかでんさんがコメントを下さいましたので再録致します。

信貴生駒電鉄がついに出てきました。さて米手作市さんが交野線との連絡の計画と書かれていますが、信貴生駒電鉄の社史によると大正10年に設立された生駒電気鉄道によって生駒・枚方間が施工認可を受けていたので、連絡ではなく最初から枚方から生駒への路線として計画されていました。生駒電気鉄道は開業できずに信貴生駒電気鉄道に買収され、その後に建設が容易であった私市まで開業したのですが、私市・生駒間は山間部の為に難工事となり、建設費がかさむために建設されずにつながらなかったのです。ちょうど今の国道168号線のルートです。この道は北田原から北上して私市までの道はカーブが多い山間部で、車を運転していても楽しいというかスリルがあるというか・・・・ 鉄道でつなぐとなるとちょっとした山岳鉄道になったかもしれません。このルートの目的は京都から生駒山参詣者の利便性を図る目的であったようです。信貴電にはもう1つ路線延長の計画があって許可申請をしたのですが、不許可となった路線があります。それは信貴山下駅から鉄道省関西線柏原駅までの延長線です。これも信貴山参詣者の利便性を考えたものらしいが、却下となりました。まだ、亀の瀬崩落前に計画したものなので、もし開業していたら大損害を受けて今の生駒線は廃業していたかもしれません。不許可なってラッキーであったのかもしれません。》

 

山形交通廃線跡を訪ねる(高畠線)

三山線を訪れた後は米沢で泊まり、翌朝早く、米坂線今泉から山形鉄道フラワー長井線(旧長井線)を完乗し、赤湯経由で高畠に行きました。高畠は山形新幹線の「つばさ」も停まる駅で、この日は閉館でしたが、駅には温泉が併設されています。近くにはワイナリーもあり、観光客も多く見かけます。山形新幹線が開通する以前は糠ノ目と呼ばれており、駅の周辺は人家も少なく、高畠の中心と結ぶために1922年高畠鉄道が開業しました。その後1924年に二井宿まで延長されましたが、1965年ころになると輸送実績が減少し、1966年の水害で高畠-二井宿がバス代行輸送になって、そのまま1968年にこの区間が廃止、1974年に残りの糠ノ目-高畠間も廃止となりました。
↑ 1974年8月山形交通糠ノ目駅、1面のホームに3線、左側に奥羽本線糠ノ目駅がありました。

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夜汽車の情景 寝台特急「北陸」

 テレビ番組で「沁みる夜汽車」がある。番組の題名からさぞかし「夜汽車」という言うからには「夜行列車」が出てくるのだろうと思っていたら、列車は出てくるが違っていた。しかし、列車にまつわる「沁みる」話が出てくる。ああ~そういうことなのかと納得。ところで何で「夜汽車」?夜に見るから?

 まず最初は寝台特急北陸の写真である。本当はこの列車の写真を撮るのが本命でなかった。本命はこだま型ボンネットの489系で走っていた「急行能登」である。能登号は富山駅に5時41分着である。その前に「寝台特急北陸」が5時33分に到着である。本命の「急行能登」を撮るための試し撮りなのだ。ついでに平行して走っている富山地鉄も試し撮りをしている。カメラはキャノンのフィルムカメラでISO800のフィルムを使った。ストロボなしは当然のことである。すべてマニュアル設定。しかし、この話はかなりおかしい。フィルムによる撮影なので試し撮りは成立しないのである。フィルムは現像しないと、うまく写っているかわからないのである。しかしこれは試し撮りなのだ。

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