【89089】大阪駅の100式鉄道牽引車

乙訓ご老人が、大阪駅北西にEF52が常に1輌待機していたことを記しておられる。お待ちなされ、そのそばに旧鉄道聯隊の100式鉄道牽引車もいたのをご記憶であろう。それともそんな代物に興味はなかった?

この車輌は陸軍が将来対ソ聯戦に備え、1524mmから1435、1067、1000mm各軌間に対応する、今でいう「軌陸車」として、通常の軍用貨物自動車(陸軍では「貨車」と称した)をベースに設計したものである。路面を走行する時は荷台サイドのゴムタイヤを鉄輪の外側に装着し、鉄路上では路面用タイヤより直径の小さい鉄輪で走行する。その着脱時は車端4か所にあるジャッキで車体を持ち上げるのだが、それが油圧かと思いきや、何と手回しウォームギヤなので、陸路⇔鉄路の切り替え(「転路」という)は、踏切を利用しても優に30分以上要したとは、かつて鉄道聯隊に居られた故田中鎈市氏から教わった。蛇足だが現在自衛隊が保管している100式鉄道牽引車の説明板には、数分で転路可能とある由だが、とんでもない。

なおこの車輌はいすゞ空冷ディーゼル機関搭載で、陸軍では戦車が全部空冷だった。満州や北支では寒冷時の始動に苦労し、待機時オイルパンの下で練炭や木炭を焚き続けたそうだが、この100式の現実の活躍は、皮肉にも大方が1000mm軌間のマレーシアやタイで、逆に機関のオーバーヒートに悩まされたと聞いた。

敗戦後国鉄の保線区や機械軌道区に何輌かが再起し、大阪もその内である。敗戦時のドサクサに横領されたものも少なからずあり、西武農業鉄道や菊池電気軌道(変電所が空襲で焼失し、陸軍が放棄していた100式車を4~5輌?横領して緊急避難的に旅客輸送に充当。後上熊本線建設にも)などが知られているが、常磐線沿線の炭鉱でも要員輸送車に使っていて、ファン撮影の写真が残る。正式に譲り受けたわけでない「横領」だから、かような車輌は設計認可が受けられないのである。事のついでに記せば「100式」とは皇紀2600年(1940年)に制式化されたことの陸軍式表示で、同じ年でも海軍ならゼロ戦の如く「零式」となる。


【88891】犬見鉱山での加悦C160

限りなく薄れゆく記憶だが、高校1年の時、3人で京都-舞鶴-敦賀-米原-京都と一周したことがある。1953年1月7日=天気が極めて悪く、おまけに当時写真で売っている得体のしれない35mmフイルム(太秦の映画会社カメラマンが半端に残った「残尺」を写真屋に売って飲み代にする)だったので、散々だが、1人はセミ版カメラで、彼がこの写真を撮っていたのを想い出した。紛れもなく加悦鉄道C160である。ここは高井薫平『小型蒸気機関車全記録』にも掲載がない。今回の総本家青信号特派員氏の投稿で、俄かに64年前の記憶が蘇った次第である。一昨日の夕食のオカズ(というより晩酌のアテ)は思い出せないが。


【88796】1958年2月神戸

まさか神戸に就職し、はては神戸の住人になるなど露想像もしていなかった学生時代―59年前に、何思ったか神戸に撮影に来たことがあった。綺麗に忘却の彼方であったネガが、家人からの「終活」圧力が原因で見つかり、今回ご披露申し上げる。ネガが傷だらけで、従前プリントしようという気も起こさなかったが、デジタルのお蔭で、まあデジアオでご笑覧戴けるぐらいにはなった。撮影は1958年2月27日である。

現在の山陽本線は複々線で、この写真でなら防波堤の海側を埋め立てて上下複線を貼り付けたものである。写真でD6214牽引上り貨物が走る線と、その左側は現在列車線で、新快速とコンテナ貨物列車、特急が走っている。なおこの当時台風等で海が荒れると、しぶきが防波堤を越し電車は須磨で打ち切りになり、以西明石(地平駅だった)までは加古川線からC11と客車が応援に入って往復していた。 記事の続きを読む


【88646】オハ30の話

当会には客車ファンも多いが、このオハ30なる形式を見た人は少ないだろう。1937年12月27日、鹿児島発門司行準急12レが小倉付近で3両目から出火し、3両の客車が全焼する事故があった。乗客が車内に持ち込んでいたセルロイドの玩具材料に、タバコの火が引火したのが原因という。

このとき焼失したのはナハ22985、23049、ナハフ25029で、1940年7月小倉工場で旧台枠、台車を再用し、半鋼車体を新製。各オハ31980、38981、オハフ34180を経て、オハ301、302、オハフ311となったものである。

窓配置は旧木製車時代を彷彿させる3個セットで、どうせなら台湾のように広窓にすりゃよさそうなものだが、窓高はスハ32並。特筆すべきはノーシル・ノーヘッダーで、オハ35にもノーシル・ヘッダー車が、しかも長柱(張り上げ屋根)車もあったが。

国鉄オハ302 1955.3.18吉塚 高校卒業直後(2浪開始)の撮影である。

国鉄は17m級木製省電を鋼体化した電車を大量に送り出していたから、恐らくは木製客車の半鋼化テストだったと思われる。現実に客車の半鋼化(20m化)は敗戦後のご存じオハ60、61系であり、当初はやはり窓が3個セットだった。

この17mノーシル・ヘッダー車は終始北九州を出なかったはずである。序に記せば、やはり半鋼製17mのオハフ361なる、一形式一両の客車が田川線にいた。これは産業セメント鉄道が1932年12月田中車輌で新製したホハフ1で、1943年7月1日買収により、買収客車では唯一制式車の仲間入りして、オハフ361となったもの。この車輌については、小生が鉄道友の会会誌「RAILFAN」にシコシコ―その余りといえば余りの長い連載に顰蹙を買っている「私鉄のボギー客車」でいずれ紹介に及ぶ。

なお本稿は先人(渡辺俊夫氏)が、関西鉄道同好会会誌「CLUB CAR」6号(1947年4月)に書いておられるものを参考にしている。


【84913】大井川でのSL+DL


異形式連結やら、電蒸やら、SL+ELやらと、盛り上がっているので須磨老人からもご愛嬌をおひとつ。撮影は1984年3月25日。この頃大井川鉄道は蒸機―それも本線ではなく、小型機を井川線に走らせて客寄せに頑張っていた。この日は旧一畑のコッペル1号機(とはいっても改装激しく原型ではないが)に火を入れた。しかし牽引力思わしからず、後尾にDLを連結し、実際はこれが推進していたのと同然なのは、1号機の煙の具合が至って気楽でまるで気迫に欠け、暢気な焚火のような状態から察知できるが。 記事の続きを読む


【84664】水没橋修整

#84524西村雅幸氏「三重。岐阜の旅(3)」に出てきた可動橋に関し、80.6歳老人が禿筆を以ってコメントしたギリシャの水没橋が、メーターゲージの鉄道橋と記したのは全くの記憶違いで、単なるケチな道路橋でありました。TVアナではないが、「謹んでお詫びし訂正致します」。

ギリシャは間違いなくヨーロッパ大陸だが、その南部ペロポネソス半島は、6キロ足らずだけでつながっているため、コリントス運河が掘削され、東のミルトア海と、西のイオニア海を結んでいる。上の写真のように切り立った崖で有名で、これだけ掘り下げるのは大変だったろうが、メーターゲージの国鉄線がこの鉄橋を渡り、国道と高速自動車道路がそのすぐ横で渡っている。運河の幅はさして広くないから、当然通過できる船もそう大きくはない。
この運河の西端は全くの平地で、シケた地方道がその河口(運河だから河口とは言わないか。要は西口)を渡っているのだが、その橋の中央桁を船の通行時水没させるのである。

これが完全水没直前の件の橋桁。



その通過時間中―詳しくは忘れたたが、1時間以上待たされたか。何しろここで渡らないと、国道まで戻らなければならないし、結構面白かった記憶がある。
何分河口?だから、ここだけ運河底を掘り下げたと思われるが、確かに安上がり工法ではあろう。しかしあんまり他では見られない景色であった。
という訳で、鉄道とは全く関係ない橋でスンマヘン。


【84576】スイスのカートレイン

この老人も我が家の実力者(ヨメ様)のお供で、スイスツアーに参加し、行程にカートレイン乗車があるのがウリの一つだった。団体旅行だから勿論大型バスで、サイドミラーを畳み、そのまま貨車に乗り込むだけでなく、連結した貨車を何両も走り続けるのは結構迫力があった。時は2002年8月で、もう15年前になる。

これは貨車に乗る入口。やっぱりランプというのかな

これは下車する車。こに1枚だけ色補正を誤り、乞うご容赦


別段貨車の内側サイドにプロテクターの類はなく、幅は標準軌間とはいえぎりぎりで、よく車体を擦らないもんだと、運転手の技量に感心した記憶がある。下の写真では、当方のバスは下車するが、左側にこれから乗り込む乗用車が列をなしている。


【84488】またまた山科

また山科でっかいな、ええ加減にしなはらんかいな、との「うんざり」声が少なからず?聞こえそうだが、今回はひと味違った山科である、と最初に言い訳しておこう。東海道本線は1956年11月19日全線電化が成り、当然に蒸機の姿が消えた。しばらくは特急やらモハ80系、貨物のEH10なども珍しかったが、そのうち見飽き?て大築堤にも上らなくなった。

しかし待てよ、ここに住んでいる以上、誰にも撮れない写真が撮れないか。折角カメラのレンズがf2なのだから、夕景あるいは未明の写真が撮ってみようじゃないの、と考えたのである。

今のデジタルカメラなら、感度がいくらでも挙げられ、多少画面は荒れたとしても知れているだけでなく、感度を上げることによって画面コントラストが上がらない。既に京都駅未明に足を運ばれ、ご苦労なさった写真も紹介されている。

アナログ写真では、当時ネオパンSSSが感度200で、現像により800ぐらい。無理すれば1600までは上げられても、粒子の荒れとコントラストのきつさが不可避。つまり列車写真では空が完全に飛んでしまうのである。それを感度はさほど上げずに、普段滅多に使うことのない開放絞り=f2で撮ってみようという訳だ。

以上が前置きで、早速やってみた。先ずは夕刻ヘッドライト点燈後を狙う。焦点深度が浅いし、シャッター速度もせいぜい1/125ぐらい、貨物なら1/60でもいけるか。あんまり寄れないのが残念だが、先ずは撮ってみるしかない。

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【84456】特急ひびきの先頭クロ

ある友人から写真を頼まれ、限りなく忘却の彼方とあって空しく探し回っていたら、肝心のものは見つからず、こんなどうでもいい写真があった。本来なら一顧だにしないところだが、偶々「ひびき」だの「クロ」だのと、タイミングが合致したのでご高覧に供する。モハ63系と70系ならバッチリ?見分けられる小生は、かような電車に全く興味がなく、先頭車がもし「クロ」なら、その旨ご教示を賜りたい。ネガは憎っくきヴィネガー・シンドロームにコテンパンにやられ、見る気もしないが、幸いキャビネにプリントしていた。撮影は確かでないが1959年頃か。


【84453】特急「ひびき」


山科での「特急ひびき」1959年1月?

山科の住人であったから、こんな写真も撮ってはいる。ただそれだけで思い入れ等はない。確か田口のキューさん(本名は啓己だが、余りにも趣味?の幅が広く、当時TVドラマの「何でも屋の久助」というキャラクターに倣って「キュースケ」と呼んでいた)は「特急いびき」と称していた。のちの「特急こだま」の代用時は「にせだま」と呼んでいた。


【84439】こんなもんが

「こんなもんありまっせ」というより、「こんなとこにも行ってましたで」という古い写真をいくつか。先ずはこの名刺をご覧あれ。

甲斐大泉駅前とあるからには、小海線甲斐大泉駅前、それもどんな誇大広告でもせいぜい10分以内であろうとは、だれしも思うだろう。処がそうじゃないから世の中は難解である。大泉駅前なら必ず電話番号が書かれているはず。話は1962年にさかのぼり、この年1月重澤旦那と小生のコンビが真冬の小海線で野宿し、凍死こそしなかったが零下30度以下でひどい目にあった?話は以前にした。
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