【9414】新緑の北海道 余話-5-

北浜 今昔

根室本線の次に訪れた釧網本線も40年前に訪れた懐かしい線区です。中でも、原生花園の中にある北浜付近は、その当時から有名な撮影地でした。C58の牽く混合列車が残っていたこと、原野もあって、海沿いも走り、鉄橋もあると、変化に富んでいること、網走までの夜行列車もあってアプローチしやすいことが要因だったのでしょうか。
ぶんしゅうさんに無理を言って、北浜で時間を取って夕方まで撮れるよう、車を走らせてもらいました。

釧網本線では、無人になってしまった駅舎を観光資源の一つととらえ、各駅にレストランや売店を設けて活用している。客の多くは車で訪れるとは皮肉なことだが、無人駅で放置され荒廃していくよりはずっといい。北浜駅も、”オホーツク海にいちばん近い駅”として売り出し、喫茶”停車場”が設けられている。室内は客車を模した構造になっており、窓越しに望むオホーツクの眺めも乙なものだ。特筆すべきは、本格的な料理の内容で、時間潰しにと頼んだランチの味もなかなかのもの、予約すれば、本格的なフランス料理のフルコースもできるとのことだった。

北浜駅を有名にしたもうひとつは展望台だろう。ホームの横に木造の砦のような展望台がある。平坦地で高さのある写真を撮れなかったのが、展望台のお蔭で、高さを稼げるようになった。展望台からの夕陽は、残念ながら曇ってきたのと、方向も少し違っており、期待したものではなかったが、海を隔てた山々がほんのり赤くなった。

40年前の北浜駅に入線するC58の牽く混合列車。ホームから見えるオホーツク海は変わっていない。現在の駅構内は棒線化されているが、この当時は、ホーム一面ながらも側線があったことが判る。
C58の煙室扉に何やら紙が貼り付いている。実はこれ、当局と組合との争議で貼り付けられたアジビラだ。国鉄の争議はうんと以前からあり、アジビラは組合事務所などにはよく貼ってあったが、お客が乗る、いわば聖域とも言うべき鉄道車両を組合のアピールの場としたのは、ちょうどこの頃からだった。車両全体をデカデカと石灰で書き殴る、いわゆる団結列車も、動労の勢力が強い北海道ではもう見られ、その後各地に波及していく。これが来ると全く絵にならない。これから数年間、何度泣かされたことか。

当時の北浜の代表的な撮影地、トーフツ湖に架かる鉄橋を行くC58の貨物列車。貨物はこの当時、大部分はDE10化されていたが、一部はC58で残っていた。この鉄橋、駅から近く、横を並行する国道の橋から難なく撮れる。すぐ近くにはユースホステルもある。この日も、いったんユースで旅装を解いたあと、ユースのゲタを履いて、列車の時刻に合わせて鉄橋まで行ったものだ。

原生花園を行くC58の牽く混合列車。9月なので花はないが、原生花園を行く典型的なシーンと言えようか。ワム・トムを中心にした貨車数両、スハニ62を含む客車3両も、混合列車のスタンダードだった。この列車を写すため移動していると、余りにも同じ風景が続いているため、置き去りにしたリュックが分からなくなってしまった。今回も全く同じ経験をして青くなった。40年経っても、人間は変わっていないと苦笑した。このC58、まだデフは切り詰めておらず、原型のままだ。操車掛がデッキに乗る際のスペースを確保するため、この頃から道内の蒸機のデフが切り詰められていく。前述のアジビラ、落書きとともに、蒸機が醜くなっていく直前の最後の輝きを持っていた時期であった。

上は、40年前の原生花園の中を行く釧路発網走行急行「しれとこ2号」。当時、釧網本線には線内急行が4往復も設定されていた。車種のキハ22は、道内用に汎用気動車として製造された。デッキ付のオールクロスシートを買われて、道内ではローカル線の急行はほとんどキハ22で賄われていた。室内もさることながら、小さい窓の整ったスタイルは、大好きな気動車だった。
下は、現在のほぼ同位置。木造の電柱はそのままだ。キハ40は、道内の至る線区で使用されており、さすがに優等列車運用はないものの、現代版のキハ22と言えよう。

ぶんしゅうさんも書かれていたが、北浜駅レストラン”停車場”の女主人は話好きで、食事が終わっても話が続き、なかなか脱出できない。ホントは、近くで風呂に入り、宿泊予定のオハ47に予約時刻に着こうとしていたのに、とうに予約の時間をオーバーしてしまった。気の済むまで話を聞こうと2人で覚悟し、ようやく2時間後に解放された。
外へ出るとすっかり暮れてしまい、とうとう雨になってしまった。ホームへ出ると予期しなかった列車がやってきた。ここまで長引くとは思わず、時刻表も全くマークしていなかった。雨に濡れたホームに反射する赤いテールライトと、駅舎から漏れる白熱灯を見て、行き当たりの旅もいいものだと思った。


【9319】初夏の北海道 余話-4-

茶内 今昔

回の北海道訪問では、鉄道ファンを名乗る以上は、僅かでも鉄道に貢献すべく列車乗車も行いました。根室本線では、厚岸~根室間を往復乗車しましたが、列車に乗ってみると、北海道の鉄道の衰退ぶりが身を持って感じられます。
乗車したのはキハ54の単行、車内は廃車発生部品の転換クロスシートに改造され、座席定員は約50名。しかし実際乗っていたのは、20人程度です。このことから、厚岸~根室間での一日輸送量(片道)はせいぜい150~200人と想像されます。釧路~根室間は、花咲線の愛称が付され、同じ根室本線でありながら滝川~釧路間とは運転形態も区別されています。同区間でも釧路から厚岸までは、小さいながらも釧路の都市圏を形成し、通勤通学需要があるようですが、厚岸~根室間に至っては、超閑散路線となります。
実際、列車に乗って見ても、駅間には人家は見られず、ただ原野が広がるのみ。駅前ですら、かたまった人家があるのは、茶内、浜中、厚床、東根室程度で、あとは駅周辺にも人家すら見られません。乗車した日は濃霧の影響もあって、よりいっそうの寂寥感を覚えたものでした。
この区間は40年前にも乗りましたが、人家もあって、もっと活気がありました。沿線の過疎化は想像以上に進んでいるようです。途中、茶内駅で撮った列車交換シーンは、意識していなかったのですが、偶然40年前と同じ位置から撮っていたことが判明、図らずも時代の推移を感じたものです。

霧の立ち込める茶内駅に進入する5624D列車。この列車の釧路到着が8時24分のため、珍しく6人もの乗客がいて、高校生も見える。下の40年前と比べると構内の配線は変わっていないが、周囲の光景はすっかり寂しくなってしまった。
北海道は意外に都市間連絡のバスが発達している。釧路~根室間には札幌からの便も加えてバス6往復、所要時間3時間10分程度で設定されている。鉄道は7.5往復、快速で2時間、普通で2時間20分と優位にあるものの、運賃はバス2190円、鉄道2730円で、やはりJR北海道の割増運賃が大きなネックになっている。沿線の国道を走っても、通行量は極めて少ない。旅客、物流とも、この地はやはり最果ての地域なのだろう。

昭和463月、茶内駅に入ってくるのはキハ083+キハ2118の2両編成、先頭のキハ08はオハ62からの改造車で、車内は種車の客車そのもの。この日は、鉄道同好会の仲間と茶内~糸魚沢間で撮影し、この列車に乗って釧路へ戻るところ、ホームの中ほどに江若鉄道の模型復元に情熱を燃やす西村さん、鴨川鉄道社長を自任する津田君の姿も見える。当時はこれほどの乗客があったのだ。
根室本線の列車は、DCは2連、客車も混合列車として走っており、荷物・郵便車を含む4両編成だった。札幌からの急行列車も運転されていた。

当時、茶内駅を出ると、右手には、簡易軌道の乗り場があった。茶内駅前から西円朱別、上風蓮、別寒辺牛へ向かっていた浜中町営軌道で、その当時残っていた簡易軌道では最大規模だった。小規模ながらも旅客営業を行っており、茶内駅は簡易軌道からの乗換客もあって賑わっていたのだろう。中央に見えるのが「自走客車」と呼ばれる無番号のDC、左手には、この軌道の主要な輸送であるミルクの運搬車が見える。現在この場所に立っても、それを偲ぶものは何もなかったが、茶内駅の事務室に、写真や資料が展示されていた。

 


【9187】初夏の北海道 余話-3-

最後の運炭鉄道

今回の北海道行きの楽しみの一つに、釧路の太平洋石炭販売輸送の訪問がありました。日本最後の炭鉱、釧路コールマインの運炭部門として、採炭地の春採から、積出港の知人までの4.0kmを結んでいます。ただ、JR線と連絡しない自社線完結の路線とあっては、今まで訪れる機会もありませんでした。
ぶんしゅう号で釧路市内へ入り、地図と見比べながら行っても目的地が分からず、ぶんしゅうさんに叱咤されながら、ようやく機関区のある春採駅にたどり着きました。
ぶんしゅうさんのレポートと重複しますが、車両を中心に報告します。

この鉄道は、大正14年に釧路臨港鉄道として春採~知人間が開業。釧路川の左岸で路線を延伸し、石炭・一般貨物だけでなく、旅客営業も行なっていた。内燃動車も導入されたが、昭和38年に旅客営業を廃止、昭和54年には太平洋石炭販売輸送に吸収され、石炭輸送の専業となった。
釧路市沖の太平洋の海底から採炭していた太平洋炭鉱は、平成14年に採炭を中止し、以降の事業は釧路コールマンに継承されるが、事業規模は大幅に縮小された。写真は、機関区のある春採駅の全景、背後にある丘の上から太平洋の海底に向けて坑道が伸びている。以前は、この丘の上に、610mm軌間の専用線があり、三笠鉄道記念館に保存されているヒョロ長い電機が使われていた。

春採駅に待機している編成がシャトルトレインだ。DLが前後に付くプッシュプルとなって連接式の石炭車を牽引する。最盛期は機回しの時間もないぐらい忙しくて編み出された運転手段だろうが、大幅に事業が縮小された現在では、意味を成していない。事実、訪問した日も、午前の1便だけで当日の列車は終了しており、念のためと思って再訪問した翌日も同様であった。

シャトルトレインの先頭に立つのがDE601、日本ではたいへん珍しくなった電気式のディーゼル機関車。片運転台式で車体の背の高い日本離れしたデザイン、それもそのはず、GE社製のライセンスで日本車輌により製造された。ライトブルーに黄色のライン、”ShuttleTrain”と書かれた英文字も実によく効いている。DEとは言うものの、軸配置はB-Bであり、Eは電気式を指すようだ。

D401 昭和39年製で、車体はDD13後期型と同じだが、珍しいロッド式。赤白く塗られたロッドはよく目立つ。予備機扱いのようだが、訪れた日は、ロッドの音が響かせながら入換に励んでいた。ぶんしゅうさんが尋ねられていたボンネット部にある覆いは、石炭積込時にホッパーから漏れてくる選鉱液がファンの中に入り込まないようにする覆いとのことだ。

D701 昭和52年製、日本車輌の私鉄向けDD型で、DD13と類似している。軸バネ台車が特徴。防寒のためボンネット端部が密閉式になっている。通常は、シャトルトレインの春採側に付く。


D801 元は雄別鉄道YD1301で、昭和41年製。雄別鉄道の廃止後、釧路開発埠頭のKD1301となり、ここも廃止となって平成12年に入線、D801とした。

廃車のD101 昭和33年製で、北海道としては初の大型DL。ロッド式の台車が特徴、DD13と似ているが、細部は異なる。前照灯は1灯だったが、2灯に改造された。10年以上前に廃車となったが、錆びを浮かべながらも、留置されていた。

連接式の石炭車セキ6000 昭和41年から製造され14組28両ある。現役の貨車としてはわが国唯一の連接式。機関車からの遠隔操作により、側扉開閉、連結解放を行う。

春採駅の奥にある石炭ホッパー。海底から採掘された石炭は選炭のうえ、ここで石炭車に積み込まれる。ただ現状は、海外からの採炭技術者の研修を兼ねた採炭を細々と続けている程度に過ぎず、行く末が心配されている。


【9093】新緑の北海道 余話-2-

懐かしい車両と出会う

北海道には、国私鉄の廃止後に造られた鉄道博物館・資料館が数多くあり、ぶんしゅうさんが紹介された三笠鉄道記念館はその代表です。幌内線の廃止後、三笠駅跡と幌内駅跡の2ヵ所に造られた、ゆかりの車輌が50両近く保存される、全国でも最大規模の鉄道博物館です。
北海道ではその後も多くの保存車両に接することになるのですが、そのいずれも、定期的な塗り替えなどのメンテナンスが行われ、野外展示でもたいへん美しい姿で保存されています。保守に携わる関係者の熱意には心打たれました。

ここに鉄道記念館が造られた理由を、よく理解しないまま訪れたのですが、北海道で初めての鉄道である幌内鉄道が開通したのが、1882年の手宮~札幌~幌内間で、おもに幌内で発見された良質の石炭を小樽・手宮港へ運び出すのが主目的でした。廃止前の幌内線は、岩見沢から三笠を経て幾春別までと、三笠から分岐して幌内まで、計20キロ余りのローカル線に過ぎませんでしたが、元を正せば、札幌・小樽へ通じる、明治の幹線でした。三笠鉄道記念館は、言わば北海道鉄道発祥の地にある、由緒正しき鉄道資料館と言えるでしょう。
保存車両を見ていると、ぶんしゅうさんから「このDD51、御召を牽いている」と聞かせてもらいました。説明板を見ると、展示のDD51548は確かに昭和43年に御召牽引と書いてあり、その時にも撮っていたことを思い出しました。他も見ていくと、現役時代にも撮っていた車両があり、思わず40年前にワープしていました。

旧三笠駅跡にある、クロフォード公園と呼ばれる一番目の保存場所に置かれたDD51548。ここには、三笠駅の旧称である幌内太駅を模した駅構内が復元されている。その中に貨車を牽くDD51548が置かれている。ホームや跨線橋も復元され、現役時代を髣髴させている。

以前の掲示板でも記したが、DD51548は昭和43年9月、開道100周年に際して、千歳線・函館本線・石北本線で御召列車を牽いている。写真は旭川四条~新旭川間で旭川発上川行の御召を牽くDD51548。真夏のような陽射しの中、ロギング太郎さんと一緒に撮りに行ったことを覚えている。
この頃、北海道ではDD51が釧路・旭川区に配置され始め、次第に蒸機を駆逐して行った。同機は、言わば北海道のDD51の生え抜きでもあり、御召牽引の実績とともに、保存にふさわしい車両であろう。

2番目の会場である幌内駅跡には、多くの保存車両があり、その大部分は野外だが、一部は庫の中に保存されている。そこにいたのが、北海道最初の電気機関車のうちの1両、ED76505である。腐食もなく、美しい姿で保存され、運転室への立ち入りもできる

北海道の鉄道で、初めての電化区間は、昭和43年8月に開業した小樽~滝川間であった。電車は711系、電機はED76 500番台がいずれも新造された。写真は、電化直後、まだ地上時代の札幌駅で421列車を牽くED76505だ。421列車は函館発釧路行の普通列車で、延々680キロを通す普通列車として、その当時も名を馳せていた。


【9020】宵山の京都から

北海道余話、ぶんしゅうさんと連携しながら書き進める必要もあり、その調整として、別テーマでちょっと横道にそれることにしました。
きょう7月16日、京都は祇園祭の宵山で賑わっていました。
以前は、電車と祇園祭を組み合わせを写すために、京阪四条駅や、古くは市電四条河原町新京極へよく行ったものでした。
今では、鉾町から離れたJR京都駅で、それをかろうじて叶えることができます。
毎年、烏丸口改札の上に駒形提灯が掲げられ、コンコースに祇園囃子が流れ、祭りへの高揚感を演出しています。
そんな中、今や1往復にまで減ってしまった485系「雷鳥」が0番ホームに到着します。折からの、急な夕立落雷でホームが混雑する中、懐かしい国鉄色はひときわ存在感を持っていました。

今年が最後? 485系「雷鳥」と祇園祭


【8988】初夏の北海道 余話-1-

旧白滝を訪ねる

待望の連載”ぶんしゅう旅日記 初夏・北海道編”、今回は、当特派員も同行させていただいての二人旅となりました。特派員にとっての北海道は、社会人時代に観光や仕事で行ったことはあるものの、鉄道写真の撮影となると、実に学生時代以来、約40年ぶりとなりました。
それだけに、見るもの、写すもの、すべてが新鮮で驚きの連続でした。詳細な旅行記は、今後もぶんしゅうさんが記されますので、当特派員は、印象に残った事象を採り上げ、昔話も交えながら綴っていくこととしました。
北海道へ上陸して、まず向かったのは、丸瀬布の「いこいの森」ですが、開場前の時間を利用して石北本線旧白滝を訪れました。この駅の存在が、以前から気掛かりで、この眼でまず確認しておきたかったのです。


この世に”新”を冠する駅名はゴマンとあるが、”旧”が付くのは、ここ旧白滝だけだ。しかも、石北本線には、奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と”白滝”の付く駅のオンパレード(奥白滝はのちに廃止)。
この謎は
、現場へ行ってみて氷解した。もともとこの地域、地名すらないような人跡未踏の地であった。地域を流れる湧別川に大きな滝があり、飛瀑で付近は白く見え、いつしか”白滝”が地名となり、村名も白滝になったという。事実、石北本線の撮影名所地になっている旧白滝~下白滝間には、「白滝発祥の地」の碑があり、この由来を説明している。

旧白滝は、この地域で真っ先に入植が行われ、のちに集落の中心が現在の白滝へ移ったため、その後に建設された石北本線の駅名には「旧白滝」の名が採用されたようだ。駅への昇格は1987年のことで、それまでは乗降場扱いであった。駅はホーム一面の棒線駅で、典型的な北海道の無人駅スタイルだ。もっと山深いところかと想像したが、意外に開けたところに駅は所在し、国道からも容易にアプローチできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、旧白滝を有名にしたのは、発着本数の少なさだ。上りこそ午後に3本あるものの、下りに至っては7時16分発の1本のみ。始発列車が終列車と揶揄されたものだ。どうしてこのような偏った列車ダイヤになったのか。おそらく1人か2人はいたはずの通学生の利便を考えたものだろう。朝に丸瀬布・遠軽方面への列車を停車させ、午後は選択できるように3本設定している。この需要以外にこの駅での乗降客は考えられず、それ以外の普通列車はすべて通過扱いだ。 

待合室をのぞいて見ると、他の駅にも見られる備え付けのノートが一冊置かれていた。それを見ると”秘境駅”にも認定されたこの駅には、毎日のように訪問者がいるようだ。「いこいの森」で撮影の後、16時53分発の上り旭川行きを迎えた。ホームには旅行者が一名待っていた。彼は約3時間前の上り列車で来たのだろうか。キハ40の2両編成が、35度を超す暑い空に、紫煙を上げて、まっすぐな線路に消えて行った。