あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~37~

東京でも撮ってまっせ ④  東急渋谷駅を記録する  2008年2月22日 

東急東横線の渋谷駅が、東京メトロ副都心線との直通運転に伴い、地下化され、駅も地下に潜ったのが2013年3月のことで、もう10年以上経つことになります。撮影の合い間に、それまでの高架駅も記録したことがありました。いま駅の跡地周辺では、高層ビルが建ち再開発ラッシュが続いています。最近、会合で、年に1、2回、渋谷に行くことがあり、渋谷で都電を写していた世代にとっては、異次元の世界に戸惑うことばかりでした。9000系急行が終点の渋谷に到着、両側の扉が開いて降車客が吐き出される。2004年には、みなとみらい線との相互直通が始まっていて、9000系にとってはいちばん華やかな時代だった。

 

 

 

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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part5 南廻線を撮る

第5日目 1月27日

台湾ではもうじき小正月(2/5)を迎えます。各地でお祭りが開催され、ここ台東も
お祭りの一つとして
幻想的な光の祭典「台東光祭(台東ライトフェスティバル)」が予定されているそうです。

7:30 台北発23:58、台東着5:48の台鉄に残る週末だけ運行される夜行列車莒光666次で来られた893-2さんは暖房がなく寒くて寝られなかったと言われながらも無事に合流されました。宿泊しました台東の娜路彎花園酒店(フォルモサ ナルワン ガーデン ホテル)の1階ロビーに全員が集合したロビーの天井には従業員の手作りと思われるランタンが吊るされていました。

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東進続々

小湊鉄道は昼過ぎには切り上げて東京へ戻ります。五井からJRだけで速く戻れるのですが、せっかく東京まで来ていて、少しは時間もあるのでここは京成電鉄に乗ってみることにしました。泉北高速鉄道と同じく新京成電鉄も社名が消滅すると報じられているので、その前に乗ってみようとも思いました。またSNSにアップするような投稿ですがご覧ください。このような投稿なら日常フェイスブックに出しているものとほぼ同じですので簡単に出すことが出来ます。丁寧に過去の資料の下調べをして投稿をされる先輩からはお叱りを受けそうですが、ご容赦願います。

▲新京成電鉄8800型 京成津田沼 京成もそうですが標準軌で18メートル級車体3扉というのは関西では京阪や阪神もほぼ同様なので親しみを感じます。

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スクラップブック 事件・事故編・第13回

国鉄だけではありません。
我らが京福鞍馬線でも大事故が発生しました。
この事故は、この後続いた福井での事故と合わせて京福電鉄にとって取り返しのつかない大事件の序章となりました。

1964,1,6,0001

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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part4 南廻線を行く

第4日目 1月26日

今日はツアー参加の皆さんと合流する日です。各自の行程がLINEで送られてきていますが、殆どの方は台東のホテルへ着かれるのが夕刻以降です。私は既に高雄に居りますので午前中でも合流は可能です。誰か早くに合流できる方はおられないかと探していましたらブギウギさんが昨夜は花蓮に宿泊されて「花蓮6:35(莒光602次)⇒9:48台東、莒光701次到着を撮影後、台東10:17(新自強372次)⇒10:46金崙」という投稿が入っていました。私もほぼ同じ行程を立てていましたので金崙大橋でお会いできるだろうとホテルを出発しました。

① 高雄 6:40(莒光701次)⇒9:12 金崙

【 ドジ一発目 】
高雄車站へはMRTで向かわなければいけませんが、ホテルの最寄り駅「巨蚕站」始発は 6:12です。高雄車站までの所要時間は約14分ですので十分間に合います。
朝5時半には起き上がりチェックアウトをして巨蚕站へと向かいました。
5:45 ホームに下りましたが始発電車なのに待っておられる客が多いようです。直ぐに電車も入線してきましたが始発にしては多い感じがします。
6:00 台鉄高雄站に着きいつものようにきっぷ自動販売機に入力して莒光701次のきっぷを購入しようとしますがモニターには表示がされません。壊れているのかと隣の販売機に同じことをしますが同様です。腕時計を見ても間違いありません。
どうしてか聞こうと有人カウンターへ行って莒光701次のきっぷが欲しいと言いますと「明日のきっぷですね。発券しますか?」とトンチンカンな返答です。
ここで初めておかしいと気づき駅の時計を確認しますと、7:00が表示されています。腕時計は6:00と1時間違っています。
どおりでMRTの乗客が多かった訳です。
台湾に着く前に飛行機の中で台湾時間に合わせていました。昨日まで間違っていませんでしたがなぜか日本時間に変わっていました。これでは何度きっぷ販売機に入力しても希望する列車は表示されません。
改めて今からでも間に合う新自強 415次のきっぷを購入しました。

① 高雄 7:48(新自強 415次)9:36 台東 
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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part3 もう一度高雄トラム全線開通区間を撮る

昨日は高雄トラムの新線区間 約5㌔強を歩き、疲れました。高齢者ですので今日は安息日として無理をせずに行動することにします。高雄の宿は常宿となった「ロンシャンホテル」を予約していますのでゆっくりと過ごします。

第3日目 1月25日

連泊しました嘉冠大飯店の朝食は 6:30からと早く鉄ちゃん向きです。起床後直ぐに朝食会場に参りいただきました。
献立はご覧のように台湾のビジネスホテルにある一般的なものです。

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東進続

東武鉄道を撮った翌日、あいにくの雨でしたが小湊鉄道へ向かいました。小湊鉄道はJR東日本からキハ40を導入し、さらに魅力がアップしたように思います。もちろんキハ200も車体の造形だけでなくDMH17エンジンを搭載し貴重な存在ですが、今や原型に近いキハ40が走るのはとても素晴らしいことです。午後には東京に戻らねばならなかったので、昼からは雨も上がるとの予報だったのですが、消化不良な撮影になってしまいました。こちらも次回以降再訪の宿題です。それにしても首都圏には面白い非電化私鉄がいくつもあり羨ましい、と思います。他にも数を減らしていますが関東鉄道には在来車のキハ0系やキハ532、鹿島臨海鉄道には6000系が最後の活躍を見せています。さよなら運転とかですと、人が殺到し激パ状態となり一気に戦意喪失してしまいます。そうならないうちに行くのです。行くのなら今です。

▲キハ401 五井 もとの番号はキハ402021 コイルサスなので暖地仕様です。

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東進

先日2月のはじめ、久しぶりに東京へ行って参りました。特別な列車が走るとかさよなら運転があるとかではありません。ただの日常です。東武鉄道は、車両や線区のバリエーションが広くなかなか興味深い存在だと思っています。本当は、奥地に行ってSLやうまく行けば野岩鉄道に残る6050系も、と考えていたのですが都合により叶いませんでした。次回以降の宿題です。その代わりと言っては何ですが、大師線と亀戸線に初めて乗ることが出来ました。SNSに載せる写真日記のようですが、ご笑覧ください。

▲新鋭スペーシアX、思っていたよりも白が映えます 獨協大学前

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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part2 高雄トラム全線開通区間に乗る・撮る

第2日目 1月24日

① 嘉義 8:10(新自強 371)⇒9:14 新左営
今日は高雄で今年1月1日に全線開業しました高雄LRT(軽軌)の乗車と撮影に参ります。2月25日まではIC利用に限り、無料だそうです。

2015年10月16日 、 籬仔内(C1)~凱旋中華(C4) 2.2キロで体験乗車のみのプレ開業(運賃は無料)以来少しずつ延伸されて、8年と1ケ月半ぶりに予定された全線 22.1キロが繋がり環状線となりました。

7:45 ホテルで朝食を済ませて台鐵嘉義駅へと参り新左営への切符購入です。嘉義駅駅舎は正面が改装されてスッキリとした姿で迎えてくれました。
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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part1 旅立ち 嘉義へ

台湾に行く時にいつもご一緒させていただいておりますDRFC-OB会の台湾大好きメンバーから1月末にツアーを予定しているが参加されますかとのお誘いが来ました。
11月末に行ったばかりですが、まだまだ撮り足りません。二つ返事で参加を伝えました。参加者は一日Taxiをチャーターして撮影場所を回りますので1台当たり4人が限界と言う事で東京方面から参加のクモハ73106さん、千住のヤスベイさん、不銹鋼號さん、デカンショまつり号さん、関西からは大津の86さん、893-2さん、ブギウキさん、そして私を含めた8人となりました。
全員が一緒に行動しますのは1月27日だけで前後はそれぞれの希望と都合を考慮してバラバラで、いつものように現地集合現地解散です。

第1日目 1月23日

① 長岡京 6:15(快速)⇒6:23 高槻 6:34(はるか3号)⇒7:41 関空
② 関西空港 10:00(JL8667)⇒12:15 桃園空港 ( 搭乗;3時間15分 )

7:41 前回11/28に参りました時は 8:19 到着でしたがセキュリティチェックが行われる出発口にたどり着くまで長蛇の列が出来ていて約1時間を要しました。これに懲りて今回は1本早いはるかに乗車しての到着でしたが今日はガラガラです。待ち時間は、なしでした。

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 NYで話題になった戦前の「参宮快速」のポスター

旧twitterであるXのタイムラインを眺めていると、ある方の投稿された写真に、複数の鉄道好事家の方が集まって議論している場面に出くわした。

写真はニューヨークの美術館で開催されたアールデコの時代のポスター展に出されていた、日本のポスターに米国在住の日本人写真家が惹きつけられて、このような短い文章と写真を投稿された。

>「先日アールデコのポスター特別展を見に行ったら日本の鉄道ポスターが一枚展示されていた。1935年の黒住豊之助という方の作品だとか。説明によると京阪神から伊勢神宮までの快速列車開通の広告らしい。」

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~36~

東京でも撮ってまっせ ③ 中央線複々線区間で撮る  2007(平成19)年1月8日 

首都圏の多くの通勤路線のなかで、都心部と多摩地域を結ぶ中央線の近郊区間、なかでも御茶ノ水~三鷹は緩行線・急行線の複々線区間で、ラッシュ時の通勤電車は、緩行・快速あわせて一時間に40本程度が走り、圧倒的な輸送量を誇っています。急行線を走る快速・特急は、その後、車両も世代交代していますが、訪れた十数年前は、快速は201系、一部でE233系が運転を開始した頃です。また特急列車も、ひと世代、ふた世代の前の車両が走っていました。中央線複々線区間の駅撮りとして有名なのは、高円寺か阿佐ヶ谷だろう。今回は阿佐ヶ谷の下り方ホーム端から順光下の列車を狙った。平日の午前8時、「中央特快」が次つぎ通過して行く。これは、クハ201-1先頭のH1編成、量産化の第一編成であり、総数1000両余りの201系のトップナンバー車。この車両、201系が無くなってからも保管され、ネットで見ると、いま改修中の青梅鉄道公園に展示されるようだ。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~35~

東京でも撮ってまっせ ② 朝も夜も583系  平成20(2008)年2月22日 

583系はこの時代、定期運用から離脱し、波動輸送、団体輸送に使われていました。JR西日本の京都車は、JR西日本の独自色に変更されたのに対して、JR東日本の仙台車(当時)は国鉄色を堅持していて、先の485系とともに、東は国鉄スタイル・カラーを纏っていることが魅力的でした。冬のこの時期、583系季節運転としては、まだ盛んだったスキー臨や、さらにディズニーランドへ向けて団体臨も多く運転されていました。

583系の「ゲレンデ蔵王」、クハネ583-8ほかの583系6連、大船が始発で、埼京、東北、仙山線経由、山形行きの快速列車、JR東の「びゅう」の旅行商品としてのツアー専用列車だった。寝台も設営がなく、全車“ゴロンとシート”での運転。 続きを読む

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~34~

東京でも撮ってまっせ ① 「能登」を撮る 平成19(2007)年1月 

デジ青誌上であまり紹介のできなかった首都圏の撮影、今回、集中的に10~20年前のデジカメ撮影分を紹介します。元日に石川県能登地方を襲った能登半島地震の発生から、ちょうど1ヵ月が経ちました。改めてお見舞いを申し上げますが、「能登」を冠する列車が、かつて走っていたことを思い出しました。早朝の上野駅16番ホーム、6時05分、憧れの489系ボンネットの急行「能登」が姿を見せた。485系のボンネットは関西でも「雷鳥」で馴染みはあったが、先頭が原型の正調ボンネットは、定期列車では上野発着の「能登」「白山」でしか見られず、しかも夜間で撮影が限られていて、関西からも憧れがあった。この日は、最後の鹿島鉄道を撮るため、「ムーンライトながら」で東上し、乗り換えの間に上野駅で姿をとらえることができた。

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スクラップブック 事件・事故編・第12回

1963,11,11,

鶴見事故の混乱のさなか、またしても重大事故が発生しました。
国鉄としては頭の痛い事が続きました。

1963,11,11,0001

さらに責任者の自殺騒ぎまで起こるとは、良きにつけ悪しきにつけ国鉄職員が確実に責任感を持っていたという時代の記録です。

駅名喫茶店(第101回:十干の漢字を含む駅名)

新年初のメニューです。最近は仕込み作業に力を注いでいるため、あまり投稿ができておりません。全国の駅の住所は約34.3%、駅の開業日は28.9 %、打ち込みが完了しました。まだまだですね。

今回は、頂戴していたリクエストにお応えし、「十干の漢字を含む駅名」です。以前よりまとめたかった「〇〇丁目」シリーズをこのタイミングで発表することができ、とりあえずはホッとした次第です。

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広島から新聞ネタ3題

いつものように、中国新聞の記事のご紹介です。すべて令和6年1月27日の記事です。まずは錦川鉄道(旧岩日線)のキハ40です。

このキハ40は平成29年4月に宇都宮運転所で廃車になったキハ401009で、烏山線で使われていました。元のキハ402139で、トイレを撤去したりして1000番代になっていた1両です。廃車後に錦川鉄道に来たのですが、レールがつながっていても、廃車になった車両を甲種輸送はできないのか、陸路をトレーラーで運ばれてきました。

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スクラップブック 事件・事故編・第11回

鶴見事故の続きです。
この事故をリアルタイムに見た世代はまだまだ多く居られるのではないでしょうか。
その時の感想など、書いては頂けませんか?
特に関東に居られた方々は大ショックだったのでは、と拝察します。

それにしても石田総裁は大変な役回りでした。
新幹線開通、三河島事故、そしてこの鶴見事故と、一番苦労された国鉄総裁だったのでは。

1963,11,10-13,0009

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梅小路区を塒(ねぐら)としたC57達

東海道本線電化後の梅小路区では旅客用機関車として名機C51最後の活躍が見られたがその後継機として北陸本線富山電化による金沢区や他区からC57が転属してきた。C51と同じように京都-園部間の旅客列車を中心に活躍していたので京都在住や近郊の方々には最もなじみのあった機関車ではなかろうか。かく言う私も4年間の京都での下宿生活の中で山陰本線京都-馬堀間は授業の合間というより授業をさぼって撮影を楽しんだ場所である。特に京都駅から僅か30分のC57牽引オハ61系客車の旅で保津川の渓谷を楽しめるとは京都に縁のある蒸機ファンには最高の路線であった。

それでは[梅]の区名の入ったC57のラインアップを若い番号順に紹介する。

C575  金沢区からの転属で正面の形式入りナンバープレートが人気を集めた。

C5715  金沢区からの転属でC575と同様当初はツララ切りが残っていた。

C5739 金沢区から名古屋区を経ての転属である。

C5743 遠く羽越本線酒田区からの転属で梅小路区在籍期間は短かった。

C5789 これも金沢区から亀山区を経ての転属である。

C57127 常磐線平区からの転属である。

C57190   同じ関西の和歌山区からの転属で戦後製の異色スタイルであった。

それでは順に彼女達(貴婦人ではなくそこらのよく働くおばはんと思っていた)の在りし日を追ってみる。梅小路区からさらに他区へ転属した機関車は可能な限りその姿も紹介する。

 

C575   1937年7月 川崎製造 製造番号1800  新製後の配置は何と梅小路区でその後宮原区、姫路区を経て戦前に金沢区に配置され64年10月福知山区へ配属されるまでずっと金沢育ちである。福知山区の後66年9月に梅小路区に配属された。71年7月豊岡区を経て72年3月に浜田区へ転出し74年7月に同区で廃車となっている。この機関車は形式入りナンバープレートが見事で美形のC57であった。71年5月23日には京都-姫路間をC575+C5739の重連で「汽車ポッポの旅」として走行している。尚、廃車後は姫路市の御立交通公園に保存されている。

1967.12.3 保津峡-馬堀間を行くC575牽引の923列車敦賀・豊岡行き。▼

1969.2.25馬堀駅発車のC575牽引敦賀行き923列車。朝降った雪が少し残っている。▼

1972.8.24  出雲市-知井宮間を行く C575の浜田区へ転属後の姿で形式入りナンバープレートもなくなっている。左の線路は今は廃止された大社線。▼

 

C5715 1938年1月川崎製造 製造番号は1869 新製後の配置は名古屋区で2年後の 1940年9月に金沢区に転属し以降63年4月に梅小路区に転属するまでずっと金沢育ちである。71年6月に梅小路区で廃車となっている。

1965.6 京都 C5715の金沢区時代からのツララ切りをアップしてみた。蒸機の専門家にツララ切りはD51にない理由を訊いてみた。D51はデフステイが少し高いこととC57の方が速度が速く運転室の窓が割れやすいからではないかとの回答を得た。飯山線のC56にもツララ切りがあったと思うがどなたかツララ切りについてご存知の方はご教示願いたい。▼

1968.10.8  馬堀駅到着前のC5715牽引敦賀行き923列車。この時はツララ切りはなくなっていた。 ▼

1968.10.8  到着前の写真を撮った後に走って出発も撮ったがピンボケで二兎を追えずやはりうまくいかなかった。若い元気なころの思い出写真である。▼

1968.11.14  嵯峨付近を行く午後の園部発1832列車京都行き。 ▼

 

C5739 1938年1月日立製造 製造番号947 新製後金沢区に配属され一時米原区にあったが44年以降はずっと金沢区にあり北陸育ちである。64年9月に梅小路に配属され山陰本線京都近郊で活躍後の71年6月遠く鹿児島区へ転属となり74年4月同区で廃車となった。

1969.2.25  保津川渓谷を行く園部発1830列車京都行き。 ▼

C5739はC575と重連で71.5.23に京都・姫路間を記念列車として往復したが、記録された方がおられたら貼り付け願いたい。

1972.5.1  同区を訪問した際に庫の中にいる姿を発見。右は翌1973年4月9日お召し列車を牽引することになる門鉄デフのC57117[宮崎]。▼

 

C5743 1938.3三菱製造 製造番号227 新製後の配置は水戸区で以降宇都宮区、白河区、千葉区、尾久区、酒田区等東日本の各地を回り65年6月に梅小路区にやってきた。しかし同機は同年10月豊岡区に転属してしまった。その後68年10月には米子区に転属し69年12月同区で廃車となった。動輪が米子駅前に保存されている。

1965.6 C5743が梅小路区にいたのは65年6月より同年10月福知山区に転属するまでの僅か4か月。ターンテーブル(転車台)にのる同機はデフレクター(除煙板)下部の点検用開口部があることと正面のシールドビームの前明灯が特色。▼

65.6 C5743のキャブ(運転室)で区名札には確かに「梅」の表示が入っている。▼

梅小路区を4か月で追い出されたC5743は1965年10月に豊岡区に転属した。同年11月12日姫路駅を出発する播但線下り貨物牽引のC5743。前照灯がLP403に換装され見栄えが良くなったがこの後直ぐに長い煙突に集煙装置を装備し再び醜い姿になった。▼

 

C5789   1939年3月日立製造 製造番号1064 新製配置は名古屋区で41年9月には金沢区に転属。以降北陸線で長く活躍した後64年10月に亀山区、翌65年10月に梅小路区入りし以降園部等京都近郊区間を中心に活躍した。71年5月には宮崎区に転属し76年6月同区で廃車されるまで日豊本線で活躍した。5、15、39号機と同じく金沢育ちである。

1967.12.7   京都駅で出発待ちの元金沢組のC5789+C5715重連の1827列車園部行き。▼

1968.9.21  夏が終わり陽が早く傾くようになってきたころ馬堀駅出発するC5789牽引の1827列車園部行き。 ▼

1973.4.10  宮崎区に転出したC5789に再会したのは日豊本線青井岳。都城発宮崎行き列車を牽引して鉄橋を渡って行った。 ▼

 

C57127   1940年3月三菱製造 製造番号277 新製配置は尾久区で54年9月に平区へ転属。常磐線育ちで63年6月に梅小路区に転属して金沢組と共に活躍した。71年4月26日園部発1828列車牽引を最後に定期列車運行を終えている。同機はさらに71年6月に宮崎区に転属し同年11月に鹿児島区へ再転し74年4月に同区で廃車となっている。

1964.5.4  京都を出発して東海道本線と分岐し梅小路区横の大カーブを行く923列車敦賀・豊岡行き。▼

1968.5.19  珍しく京都駅東海道本線ホームに到着したC57127牽引の列車。かつて東海道本線蒸機時代はこのような感じでなかったかと想像しながら夢中でシャッターを切った。臨時列車か回送ではないかと思うが詳細はわからない。▼

1972.5.1  川中さんの車で鉄鈍爺さんと九州横断旅行をしこの日の午後鹿児島入りした。鹿児島区には懐かしい梅小路から来たC5739とともに、C57127がいた。ボイラ端面が角形なのが特徴。右は宮崎区のC57117。▼

1972.5.1   C57127の斜め横のビューで三菱の銘板と[梅]から[鹿]に変わった区名表示が読み取れる。▼

 

C57190 1946年12月三菱三原製造 製造番号523 新製配置は門司港区で以降56年10月米子区、1959年10月伊勢区、61年2月和歌山区、65年10月梅小路区と前半九州、後半関西で活躍した。C57の第4次車(190~201号)は九州、北海道に多く配置され本州は当機190と亀山区の198の2両だけであった。別形式にしてもいい程のスタイルでC59似とも言われファンも多い。

1963年8月6日 C57190は梅小路区の前は和歌山区にあって準急列車なども牽引していた。この日は庫の中で休んでいたが何となくC59に似ている。左は同区の入れ換え用C50115。▼

1965.5.3  紀勢本線南部駅で交換する2106列車天王寺発白浜口行き準急「しらはま」牽引のC57190。▼

本題の梅小路時代に入る。ところで金沢区等から転属してきた梅小路区のC57は毎日やってくる福知山区のC57と外観上大きく異なるのは福知山区のC57はドーム後方に重油タンクが付いていることである。関西地区にはタンク付きが多い。これに対して梅小路区の他区からの転入車は重油タンクはなく比較的オリジナルな姿である。参考に64年5月4日梅小路区で撮った福知山区の重油タンク付きのC57128である。この機関車は大津に保存されており大津の86さんに案内していただいた。▼

一方、同じ関西の和歌山区から来たC57190は同区の他のC57と同様ドームの後ろに重油タンクがついている。さらに梅小路に来てから煙突に集煙装置を付けてしまった。写真は66年6月5日早朝の馬堀付近の園部発624列車京都行きC57190である。番号が見えなくてもその風貌で分かる。▼

続いて馬堀の定番撮影地。1968年10月8日園部発京都行き1830列車。▼

終わりに

阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震に続いて今年は元日の夕方能登半島で大地震が起こった。阪神・淡路や東日本と比べて死者は少ないが、3週間経っても復興が見えにくく趣味の投稿をやっていていいのかと思うことがある。私は多くの病気を抱えており整形外科、眼科、皮膚科等で通院し25日は要介護認定検査を控えているが一人住まいで気が滅入るのでデジ青を利用して投稿やコメントをすることが気晴らしにしているのも事実である。ただ最近は特に記憶が薄れ、何回読み直しても誤字や間違った表現が減らないのが気になる。「梅小路のC57」は今書店で販売されている「蒸機の時代No94」北陸線特集に掲載された諸先輩の金沢時代のC57等に触発されたのも事実である。蒸機を知らない方も多くなりそういう方々には迷惑をかけているような気がするがお付き合いいただき御礼申し上げる。今度はカラーでもう少し新しい車両を紹介したいと思う。

C57の履歴は交友社SLNo3を参考にした。