スクラップブック 事件・事故編・第12回

1963,11,11,

鶴見事故の混乱のさなか、またしても重大事故が発生しました。
国鉄としては頭の痛い事が続きました。

1963,11,11,0001

さらに責任者の自殺騒ぎまで起こるとは、良きにつけ悪しきにつけ国鉄職員が確実に責任感を持っていたという時代の記録です。

駅名喫茶店(第101回:十干の漢字を含む駅名)

新年初のメニューです。最近は仕込み作業に力を注いでいるため、あまり投稿ができておりません。全国の駅の住所は約34.3%、駅の開業日は28.9 %、打ち込みが完了しました。まだまだですね。

今回は、頂戴していたリクエストにお応えし、「十干の漢字を含む駅名」です。以前よりまとめたかった「〇〇丁目」シリーズをこのタイミングで発表することができ、とりあえずはホッとした次第です。

続きを読む

広島から新聞ネタ3題

いつものように、中国新聞の記事のご紹介です。すべて令和6年1月27日の記事です。まずは錦川鉄道(旧岩日線)のキハ40です。

このキハ40は平成29年4月に宇都宮運転所で廃車になったキハ401009で、烏山線で使われていました。元のキハ402139で、トイレを撤去したりして1000番代になっていた1両です。廃車後に錦川鉄道に来たのですが、レールがつながっていても、廃車になった車両を甲種輸送はできないのか、陸路をトレーラーで運ばれてきました。

続きを読む

スクラップブック 事件・事故編・第11回

鶴見事故の続きです。
この事故をリアルタイムに見た世代はまだまだ多く居られるのではないでしょうか。
その時の感想など、書いては頂けませんか?
特に関東に居られた方々は大ショックだったのでは、と拝察します。

それにしても石田総裁は大変な役回りでした。
新幹線開通、三河島事故、そしてこの鶴見事故と、一番苦労された国鉄総裁だったのでは。

1963,11,10-13,0009

続きを読む

梅小路区を塒(ねぐら)としたC57達

東海道本線電化後の梅小路区では旅客用機関車として名機C51最後の活躍が見られたがその後継機として北陸本線富山電化による金沢区や他区からC57が転属してきた。C51と同じように京都-園部間の旅客列車を中心に活躍していたので京都在住や近郊の方々には最もなじみのあった機関車ではなかろうか。かく言う私も4年間の京都での下宿生活の中で山陰本線京都-馬堀間は授業の合間というより授業をさぼって撮影を楽しんだ場所である。特に京都駅から僅か30分のC57牽引オハ61系客車の旅で保津川の渓谷を楽しめるとは京都に縁のある蒸機ファンには最高の路線であった。

それでは[梅]の区名の入ったC57のラインアップを若い番号順に紹介する。

C575  金沢区からの転属で正面の形式入りナンバープレートが人気を集めた。

C5715  金沢区からの転属でC575と同様当初はツララ切りが残っていた。

C5739 金沢区から名古屋区を経ての転属である。

C5743 遠く羽越本線酒田区からの転属で梅小路区在籍期間は短かった。

C5789 これも金沢区から亀山区を経ての転属である。

C57127 常磐線平区からの転属である。

C57190   同じ関西の和歌山区からの転属で戦後製の異色スタイルであった。

それでは順に彼女達(貴婦人ではなくそこらのよく働くおばはんと思っていた)の在りし日を追ってみる。梅小路区からさらに他区へ転属した機関車は可能な限りその姿も紹介する。

 

C575   1937年7月 川崎製造 製造番号1800  新製後の配置は何と梅小路区でその後宮原区、姫路区を経て戦前に金沢区に配置され64年10月福知山区へ配属されるまでずっと金沢育ちである。福知山区の後66年9月に梅小路区に配属された。71年7月豊岡区を経て72年3月に浜田区へ転出し74年7月に同区で廃車となっている。この機関車は形式入りナンバープレートが見事で美形のC57であった。71年5月23日には京都-姫路間をC575+C5739の重連で「汽車ポッポの旅」として走行している。尚、廃車後は姫路市の御立交通公園に保存されている。

1967.12.3 保津峡-馬堀間を行くC575牽引の923列車敦賀・豊岡行き。▼

1969.2.25馬堀駅発車のC575牽引敦賀行き923列車。朝降った雪が少し残っている。▼

1972.8.24  出雲市-知井宮間を行く C575の浜田区へ転属後の姿で形式入りナンバープレートもなくなっている。左の線路は今は廃止された大社線。▼

 

C5715 1938年1月川崎製造 製造番号は1869 新製後の配置は名古屋区で2年後の 1940年9月に金沢区に転属し以降63年4月に梅小路区に転属するまでずっと金沢育ちである。71年6月に梅小路区で廃車となっている。

1965.6 京都 C5715の金沢区時代からのツララ切りをアップしてみた。蒸機の専門家にツララ切りはD51にない理由を訊いてみた。D51はデフステイが少し高いこととC57の方が速度が速く運転室の窓が割れやすいからではないかとの回答を得た。飯山線のC56にもツララ切りがあったと思うがどなたかツララ切りについてご存知の方はご教示願いたい。▼

1968.10.8  馬堀駅到着前のC5715牽引敦賀行き923列車。この時はツララ切りはなくなっていた。 ▼

1968.10.8  到着前の写真を撮った後に走って出発も撮ったがピンボケで二兎を追えずやはりうまくいかなかった。若い元気なころの思い出写真である。▼

1968.11.14  嵯峨付近を行く午後の園部発1832列車京都行き。 ▼

 

C5739 1938年1月日立製造 製造番号947 新製後金沢区に配属され一時米原区にあったが44年以降はずっと金沢区にあり北陸育ちである。64年9月に梅小路に配属され山陰本線京都近郊で活躍後の71年6月遠く鹿児島区へ転属となり74年4月同区で廃車となった。

1969.2.25  保津川渓谷を行く園部発1830列車京都行き。 ▼

C5739はC575と重連で71.5.23に京都・姫路間を記念列車として往復したが、記録された方がおられたら貼り付け願いたい。

1972.5.1  同区を訪問した際に庫の中にいる姿を発見。右は翌1973年4月9日お召し列車を牽引することになる門鉄デフのC57117[宮崎]。▼

 

C5743 1938.3三菱製造 製造番号227 新製後の配置は水戸区で以降宇都宮区、白河区、千葉区、尾久区、酒田区等東日本の各地を回り65年6月に梅小路区にやってきた。しかし同機は同年10月豊岡区に転属してしまった。その後68年10月には米子区に転属し69年12月同区で廃車となった。動輪が米子駅前に保存されている。

1965.6 C5743が梅小路区にいたのは65年6月より同年10月福知山区に転属するまでの僅か4か月。ターンテーブル(転車台)にのる同機はデフレクター(除煙板)下部の点検用開口部があることと正面のシールドビームの前明灯が特色。▼

65.6 C5743のキャブ(運転室)で区名札には確かに「梅」の表示が入っている。▼

梅小路区を4か月で追い出されたC5743は1965年10月に豊岡区に転属した。同年11月12日姫路駅を出発する播但線下り貨物牽引のC5743。前照灯がLP403に換装され見栄えが良くなったがこの後直ぐに長い煙突に集煙装置を装備し再び醜い姿になった。▼

 

C5789   1939年3月日立製造 製造番号1064 新製配置は名古屋区で41年9月には金沢区に転属。以降北陸線で長く活躍した後64年10月に亀山区、翌65年10月に梅小路区入りし以降園部等京都近郊区間を中心に活躍した。71年5月には宮崎区に転属し76年6月同区で廃車されるまで日豊本線で活躍した。5、15、39号機と同じく金沢育ちである。

1967.12.7   京都駅で出発待ちの元金沢組のC5789+C5715重連の1827列車園部行き。▼

1968.9.21  夏が終わり陽が早く傾くようになってきたころ馬堀駅出発するC5789牽引の1827列車園部行き。 ▼

1973.4.10  宮崎区に転出したC5789に再会したのは日豊本線青井岳。都城発宮崎行き列車を牽引して鉄橋を渡って行った。 ▼

 

C57127   1940年3月三菱製造 製造番号277 新製配置は尾久区で54年9月に平区へ転属。常磐線育ちで63年6月に梅小路区に転属して金沢組と共に活躍した。71年4月26日園部発1828列車牽引を最後に定期列車運行を終えている。同機はさらに71年6月に宮崎区に転属し同年11月に鹿児島区へ再転し74年4月に同区で廃車となっている。

1964.5.4  京都を出発して東海道本線と分岐し梅小路区横の大カーブを行く923列車敦賀・豊岡行き。▼

1968.5.19  珍しく京都駅東海道本線ホームに到着したC57127牽引の列車。かつて東海道本線蒸機時代はこのような感じでなかったかと想像しながら夢中でシャッターを切った。臨時列車か回送ではないかと思うが詳細はわからない。▼

1972.5.1  川中さんの車で鉄鈍爺さんと九州横断旅行をしこの日の午後鹿児島入りした。鹿児島区には懐かしい梅小路から来たC5739とともに、C57127がいた。ボイラ端面が角形なのが特徴。右は宮崎区のC57117。▼

1972.5.1   C57127の斜め横のビューで三菱の銘板と[梅]から[鹿]に変わった区名表示が読み取れる。▼

 

C57190 1946年12月三菱三原製造 製造番号523 新製配置は門司港区で以降56年10月米子区、1959年10月伊勢区、61年2月和歌山区、65年10月梅小路区と前半九州、後半関西で活躍した。C57の第4次車(190~201号)は九州、北海道に多く配置され本州は当機190と亀山区の198の2両だけであった。別形式にしてもいい程のスタイルでC59似とも言われファンも多い。

1963年8月6日 C57190は梅小路区の前は和歌山区にあって準急列車なども牽引していた。この日は庫の中で休んでいたが何となくC59に似ている。左は同区の入れ換え用C50115。▼

1965.5.3  紀勢本線南部駅で交換する2106列車天王寺発白浜口行き準急「しらはま」牽引のC57190。▼

本題の梅小路時代に入る。ところで金沢区等から転属してきた梅小路区のC57は毎日やってくる福知山区のC57と外観上大きく異なるのは福知山区のC57はドーム後方に重油タンクが付いていることである。関西地区にはタンク付きが多い。これに対して梅小路区の他区からの転入車は重油タンクはなく比較的オリジナルな姿である。参考に64年5月4日梅小路区で撮った福知山区の重油タンク付きのC57128である。この機関車は大津に保存されており大津の86さんに案内していただいた。▼

一方、同じ関西の和歌山区から来たC57190は同区の他のC57と同様ドームの後ろに重油タンクがついている。さらに梅小路に来てから煙突に集煙装置を付けてしまった。写真は66年6月5日早朝の馬堀付近の園部発624列車京都行きC57190である。番号が見えなくてもその風貌で分かる。▼

続いて馬堀の定番撮影地。1968年10月8日園部発京都行き1830列車。▼

終わりに

阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震に続いて今年は元日の夕方能登半島で大地震が起こった。阪神・淡路や東日本と比べて死者は少ないが、3週間経っても復興が見えにくく趣味の投稿をやっていていいのかと思うことがある。私は多くの病気を抱えており整形外科、眼科、皮膚科等で通院し25日は要介護認定検査を控えているが一人住まいで気が滅入るのでデジ青を利用して投稿やコメントをすることが気晴らしにしているのも事実である。ただ最近は特に記憶が薄れ、何回読み直しても誤字や間違った表現が減らないのが気になる。「梅小路のC57」は今書店で販売されている「蒸機の時代No94」北陸線特集に掲載された諸先輩の金沢時代のC57等に触発されたのも事実である。蒸機を知らない方も多くなりそういう方々には迷惑をかけているような気がするがお付き合いいただき御礼申し上げる。今度はカラーでもう少し新しい車両を紹介したいと思う。

C57の履歴は交友社SLNo3を参考にした。

 

 

 

 

スクラップブック 事件・事故編・第9回

ここで少し災害ではない事件・事故をご覧頂きます。

1963,9,21

1963,9,21

⇩上の事故とはちがいますが、似た事故が多発していたのですね。キハ10系。

1963,10,3,

 

⇩この事故は特急「ひびき」の窓が開けられたことで発生した事象であります。当時157系は非冷房で窓が下降式で開けられました。不心得者がその窓から空き瓶か何かを線路に投げ捨てたのが運悪く対向車に当たったものです。157系は、この年から冷房か工事が始まっており、当該車両が未施工だったのではと思います。

1963,11,2,

1963,11,7,

この後に大事故が発生します。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~33~

2008年1月19日 紀州鉄道へ

取材の依頼で、紀州鉄道へ行ったことがありました。いまも発行されている「50代からの旅と暮らし発見マガジン」がキャッチの月刊誌で、創刊まもない頃、まだ編集体制が手探りの時期で、私のような人間にも声が掛かりました。「春を探して、身近なローカル線散歩」が与えられたテーマ、関西圏からの日帰り先として、選んだのが紀州鉄道と御坊市内の街散歩でした。雑誌のテーマどおり、春を思わせる日差しに誘われるように、カーブの向こうから列車が現れた。この時の車両はキハ603、大分交通から移って来た同番号車で、耶馬渓線で使われていたが、同線の廃止で紀州鉄道に来た。この時は、金土日は収容力の大きいキハ603、そのほかの平日は、北条鉄道から来たレールバスのキテツ1が使われていた。

続きを読む

スクラップブック 事件・事故編・第8回

昭和38年(1963年)は鉄道史上希有な年となりました。
三河島事故の記憶も真新しいのに大きな事故が続きました。
多難な昭和38年の幕開きです。
因みに私はこの年高校三年生です。

この年最初に起こった大事件は、世に言う「38豪雪」です。
沖中さんも勤務地の北陸で閉じ込められたと言っていました。

続きを読む

 西のC59・C62全記録  (8)

昭和43年3月 再び安登へ 

広島機関区でC59・C62の形式写真を撮影して、広島10:36発の糸崎行きに乗車、呉線の撮影に向かいました。この頃になると、鉄道雑誌の撮影地ガイドにもたびたび呉線が登場するようになります。新規の撮影地へも行きたいところですが、往きに寄った安登付近に再び行くことにして、その際に撮れなかったリベンジ撮影としました。往きに紹介したカットと、ほぼ同じようなシーンばかり続きますが、“全記録”として、ご了承ください。広島から、呉線に乗って安登へ向かった。乗車列車が呉に到着すると、17分の停車アナウンスがあり、ホームの先頭に行ってみる。3番ホームには上り、貨物も待機するなか、下り「安芸」の到着だ。やって来たのは、常磐線から転属したばかりのC6246で、さっそく急行を牽いての登板だった。C62以上に興味深いのは、次位に側面総シャッターの荷物車、三軸ボギーのカニ38が連結されていること。昭和34年に、マロネフ37を種車として、手小荷物をパレットごと搭載できる試作車として誕生した一形式一両、翌年の昭和44年には救援車スエ38に改造されるが、この時期は「安芸」専用のように連結されていた。そして、続く編成にはオロネ10が2両も連結されている。まだ等級制の時代だから、“一等寝台”となる。黒いC62+茶色の3軸荷物車+黄緑帯を巻いた青色の一等寝台2両‥の編成は、当時、数多く走っていた急行列車のなかでも、「安芸」だけに見られた異色の豪華編成だった。▲▲現在の呉駅同一地点、周囲は大きな建物に囲まれてしまった。 続きを読む

 西のC59・C62全記録  (7)

 広島で常磐線のC62と再会  昭和42年3月

では、通常投稿に戻ります。高齢者の脳の活性化には、昔話が一番、今年も性懲りなく昔話を続けます。さて、前回(6)のC59、C62の記録は、昭和43年3月、高校3年生の終わり、北九州へ撮影に行く際に写したものでした。今回は、その北九州からの帰り、初めて広島機関区へ寄った時の記録です。前回、書き漏らしましたが、この昭和43年に、呉線のC62に大きな変化が起こりました。前年の昭和42年10月、常磐線の平~岩沼の電化完成により、平機関区で使われていたC62のうち、状態の良い5両が糸崎機関区へ転属、それに対応する糸崎区の5両が廃車と、半数の顔ぶれが入れ替わりました。

「ゆうづる」牽引で有名だったC6223、平区のC62のなかで特に状態が良く、特急「ゆうづる」の専用機のようにして常磐線仙台~平で使われた。私の唯一の「ゆうづる」撮影も23号機だった。同線の電化後、昭和42年10月に糸崎区に転属した。前の年に“東”で見た同機が、翌年には“西”へ来ていて、人生になぞらえた蒸機の一生を思ったものだった。

続きを読む

DF50の思い出写真(9)土讃線・予讃線 

世界の恐ろしい戦争に加えて新年早々いろいろな悲しいニュースが飛び込んできた。さらに政治の世界はどうなっているのか嫌な年のスタートとなった。この様な中で正月もあっという間に1週間が過ぎてしまった。デジ青もなかなか気分的に進まないが、私のヘボシリーズが残っているのでこれを片付けないといけないと思いDF50の思い出写真シリーズを始める。

今回は四国のささやかな思い出である。確か快速つくばねさんからご指摘があったかと思うが、当時の時刻表には土讃本線、予算本線とあるが、最近の時刻表にはなし表示であることを確認しそれに従った。

1977.8.27  松山から高知までバスで山越えし、南国土佐の高知駅12時41分発のDF50517[高知]牽引226列車高松行きの最後部オハフ332392四コチに乗車。メモにはこの日は酷暑とあるがDF50の正面貫通ドアはだらしなく開けっ放しで男前台無しである。このDF50517~520は1958年新製当初から四国に配置され78~79年の廃車まで基本的に高知区から他区へ出ることがなかったのも珍しい。▼

DF50517を再度撮ろうと思い土佐山田でキハ58128の急行「あしずり3号」に乗り換え大歩危で降りて追い抜いた226列車を山間部で待つも現れたのはまたドア開けっ放しのだらしない姿のまま。諦めて次の急行「土佐5号」で阿波池田に向った。夕方の225列車高松発高知行きDF5012[高松]を撮影。この日は阿波池田で泊まった。▼ 続きを読む

癒しの島 台湾鉄道2023年初冬の旅 Part11 新竹からの帰国

第10日目 12月7日

今日は帰宅するだけの行程です。いつもは高雄から直接関空経由、または北海道や九州に東京経由で向かっていましたが今回は久しぶりに台北の桃園空港から関空経由です。
宿泊しています新竹から桃園空港へは、鉄路で行くなら下記等々のルートがあります。

① 新竹(在来線)⇒高鐵新竹(新幹線)⇒桃園(空港MRT)⇒桃園空港
② 新竹(在来線)⇒台北(空港MRT)⇒桃園空港
③ 新竹(在来線)⇒中壢(徒歩)⇒老街渓(空港MRT)⇒桃園空港

▲ ちょっと悩みましたが①と②は既に乗車していますルートです。③は多分、一番時間がかかるルートですが、今回は時間に余裕がありますので桃園MRTの未乗車区間も残る③を選ぶことにしました。 続きを読む

今年、やります! 第10回写真展 

 DEFCクローバー会の最大のイベントの一つ。写真展を今年の3月に開催。場所は花の都の京都は四条通り祇園にある「西利ぎゃらりい」で。

 ところで、

 クローバー会会員諸氏に告ぐ!貴殿のこれでどや!という「どや顔写真」を・・・皆さんの応募をお待ちしていますぞ!

 どんな写真でもいいの?という声が聞こえてきそうだが、そう、公序良俗に反していなければよし!とりあえずは「鉄路輝く」と「まちとまちをつなぐローカルな鉄道」というテーマで。まあ、ちょっと二番目のテーマはわかりにくいが、このように考えてみたらどうだろうか。「ローカルな鉄道」は人間の体で例えると毛細血管のような鉄道。太い動脈があっても毛細血管がないと人間の体の維持ができないのだ。そのようなイメージでこのテーマを考えれば何のことはない。撮りためた写真から、また最新作までどんどん応募を。特に新作をお待ちしておりますぞ!

続きを読む

 阪堺電車に詣でる ~路面電車あれこれ噺⑦

「デジ青」読者の皆様、新しい年もお健やかにお迎えのことと思います。正月早々、地震・事故で、気も滅入りますが、今年も、外へ出て大いに写し、昔話もたっぷりして投稿に励みます。今年も、 事始めは 阪堺線としました。正月に必ず阪堺線に行かれていた沖中忠順さんの思いを引き継ぎ、初めて阪堺線に行ったのが2010年で、路面電車を見直す契機ともなりました。以来、ほとんどの正月に、阪堺線を訪れるようになりましたが、少しずつ変化していく初詣風景や車両に、時代の推移を感じました。

明るいうちは、住吉、大和川、浜寺で撮り、暮れて来ると、いちばん手軽なブルーモーメントスポットの「松虫」へ寄ってみた。あべのハルカスをバックに、停留場の佇まいと堺トラムの組み合わせとした。

続きを読む

芸備線の行く末はいかに・・・

デジ青読者の皆様、明けましておめでとうございます。新年早々、能登、羽田、小倉と惨事が続いていて、遠く離れているとは言え 何だか落着かない新年です。こちらは穏やかな新年を迎えた広島ではありますが、鉄道の世界では芸備線の行く末に注目が集まっています。従来、ローカル線の存続は地元自治体と鉄道事業者との協議で存廃が決まってきましたが、初めて国が加わった3者で芸備線の行く末についての議論が始まります。中国新聞は以前から「鉄路のあす」と題した特集記事を不定期で連載していますが、この度の元旦朝刊では2面を割いた特集記事が掲載されましたので、ご紹介致します。広い紙面なので、8分割でスキャンしました。重複部分も多いのですが悪しからず。では本年もよろしくお願い致します。

令和6年1月1日 中国新聞朝刊(以下すべて同紙)

続きを読む

癒しの島 台湾鉄道2023年初冬の旅 Part10 花蓮⇒新竹

皆様、あけましておめでとうございます。年末は正月準備で何かと忙しいものです。医療に従事する子供たちが珍しく正月に休みが取れたと来ますので美味しいお雑煮を食べさせたいと絶品の出汁を取って歓待、午後4時過ぎにようやく親の務めを終えたと旅日記を再開しましたらグラグラと大きく揺れ出します。TVでは能登で地震発生と番組が代わってしまいました。京都でこの揺れでしたので現地では相当だと思えます。見入ってしまいました。

能登には忘れえぬ思い出があります。丁度20歳を迎える誕生日が近付いた日、何か記念に残ることをしたいと、行ってみたいと思っていました能登の突端「禄剛埼灯台」へ向けて京都三条大橋から歩き始めました。距離は約400㌔、徒歩だと10日以上はかかります。雨の降る日もありましたが旅の途中での地元の方々との触れ合いもあって記憶に残る楽しい二十歳の旅ができました。
そんな思いで残る能登の街が大きな地震に見舞われて悲惨な状況になっています。まだまだ被災全容が不明ですが復旧への支援が早急に行われますように祈るばかりです。 続きを読む

とさでん交通近況

魚梁瀬森林鉄道跡訪問記と土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の乗り鉄記をご紹介しましたが、旅の最後に後免町から高知市内までお世話になったとさでん交通について簡単にご紹介します。とさでん交通の路線は十字型をなしていて、縦の路線が桟橋線、クロスポイントが「はりまや橋」、はりまや橋から西に向かって伊野線、東に向かった後免線と、非常にわかりやすい路線です。3路線の合計距離が25.3Kmで、現在では国内で最も長い営業距離の路面電車だそうです。広電は市内線が19.0Km、宮島線が16.1Kmと合計するととさでんより長いのですが、併用軌道の路面電車では最長です。

さて今回は、後免町から高知市内までと桟橋線に乗車し、伊野線の大半は未乗車で高知をあとにしましたが、車両も多様で、また訪ねてみたい路線でした。

令和5年12月2日 とさでん後免町停留所の様子  電車が止まっていないのでわかりにくいですが単線の終端駅

続きを読む