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【1595】群馬県の私鉄を訪ねて
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/9/20(土) 22:50 -
  
9月9日、前日来の高崎での仕事が午前中に片付いたため、駆け足で群馬県下の私鉄を覘いてみた。

前橋駅から徒歩で上毛電鉄の中央前橋駅へ、この区間は上毛電鉄の発着に合わせてレトロ調のシャトルバスが結んでいるが、歩いても15分位である。ガラス張りの駅舎は掃除が行き届き、非常に明るく清潔な感じがした。到着電車を1本撮影後、改札口で一日乗車券を購入したが、女性の駅員の対応が非常に感じが良かった。元京王井の頭線のデハ714+クハ724に乗車すると乗客は10人程でちょっと寂しい。次の城東で早くもおばさん1人が下車、各駅の駐輪場には相当数の自転車が止められていたのでラッシュ時にはそれなりの利用があるものと思われる。車内は内装がマリンブルーで魚のシールが貼られており楽しい雰囲気である。途中駅で交換待ちの時、乗客のおばさんが初老の運転士に「綺麗な電車ですね」と声を掛けると「組合員がお金を出して水族館をイメージして作った。内装は専門業者に頼んだが、魚のシールは社員が貼った」と答えていた。20分で車庫のある大胡に到着、降りたのは私一人であった。西桐生寄りの鉄橋で上り電車を撮影し、次の電車で赤城まで乗車した。

わたらせ渓谷鉄道大間々駅には徒歩15分程で到着。12時16分発間藤行で足尾まで行き、日光市営バスで日光に出て東武で帰ろうと思ったが、足尾で待ち時間が2時間もあり中止、結局12時52分発の桐生行に乗車した。この列車は11月末までは間藤始発であるが、12月からの平日は大間々始発となり、間藤〜上神梅間の列車間隔は約3時間も空くことになる。到着した桐生行の乗客は8名で、大間々で乗車したのは私1人であった。次の運動公園で2名、相老で東武のりょうもう号から乗り換えのビジネスマン風の客が4名増えて桐生に到着した。昼食後、上毛電鉄のフリー切符で前橋に戻ろうと思ったが、上信電鉄に行きたいのでJRに乗った。107系の4連で、こちらも単行で間に合う位の乗車率であったが、伊勢崎で座席の3分の1位が埋まり、前橋で7割位塞がった。

高崎で上信電鉄のホームに行くと、デハ252+クハ1301が停車中であった。未撮影の車両であるが、終点の下仁田まで行かないと撮影できないので今回は諦めた。座席は3分の1以上埋まっており、今日乗った電車の中では最も車内が華やいでいた。以前から目を付けていた南高崎〜根小屋間の鉄橋で撮影するため根小屋で下車。おばさん駅員が乗客に「おかえりなさい」と声を掛けながら切符を受け取っていた。鉄橋に行く途中で上り電車(クモハ6001+クモハ6002)が通過、現地に到着すると順光側は電柱と電線がうるさいため手前で撮ることにした。程なく下り電車(先程の上りの折返し)が通過、上下あと一本ずつ撮影しようと思っていたが、疲れたので今回は下見と云うことにして駅に戻った。切符を買うと今時珍しい硬券であった。

今回は、駆け足で平日の昼間という最も乗客が少ない時間帯に乗車したが、3社に共通することは、状況が非常に厳しいということであった。この中でも各社それぞれに一人でも乗客を増やす努力をしていることが判った。特に上毛電鉄は社員がお金を出し合ってでも鉄道を守ろうとする姿勢には感動するものがあった。しかし、状況は厳しく、来年3月には大胡にある県立高校が少子化による統廃合で廃校となり、通学客の減少が予想されている。開業時に作られたモハ101を生かしたイベント、沿線の中高年を対象としたハイキング会の開催等を通して是非頑張っていただきたいと思った。

1.デハ711              中央前橋
元京王井の頭線の3000系で、平成11年から12年にかけて入線し、8編成在籍する。昼間の30分間隔は40年前と同じであるが、40年前は朝夕の20分間隔の時間帯が長かった。中央前橋駅は確かに前橋市の中心部にあるが、生活基盤が郊外に移ってしまったため周囲は閑散としている。JR前橋駅からここまで歩いたがシャッターが下りている店が目立った。JR前橋駅前の大型スーパーも撤退を検討しているとか。

2.デハ714の車内           中央前橋
従業員がお金を出して水族館をイメージした車内に改装した。

3.わ89−201            大間々
大間々駅を発車した間藤行であるが、乗客は10人程。休日は神戸(ごうど)にある冨弘美術館に行く人が結構乗るということである。
わ89−201は平成元年開業時に富士重工で作られた車両で3両在籍する。

4.クモハ6001+クモハ6002    根小屋〜南高崎
昭和56年新潟鐵工所で作られた車両で当初から冷房付きであった。

5.中央前橋駅〜前橋駅間のシャトルバス  JR前橋駅前
上毛電鉄の電車の発着に合わせてJR前橋駅間にシャトルバスが運行されている。運行会社は日本中央バスで運賃は100円である。写真のレトロ調のバスは、平成11年式日野KK−RJ1JJAAという型式で車体は東京特殊車体製である。

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【デハ711.jpg : 224.3KB】

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【上毛車内.jpg : 176.8KB】

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【わ89-201.jpg : 99.2KB】

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【シャトルバス.jpg : 173.7KB】
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【1594】おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-2
 湯口 徹  - 08/9/20(土) 12:17 -
  
マン島鉄道 その2

マン島は淡路島より少し狭く、人口はその半分―面積572平方キロ、約7万5,000人。勿論英語だが、かつて断絶したマンクス語も最近は文化として一部復活しているとか。元来がケルト系で、地域柄当然ヴァイキングの侵略・殖民も。

一般には100年も続く通常道路60kmでのモーターサイクルレースと、独特のマンクスキャット(尻尾がないかごく短く、後足が前足より長い。大昔ノアの箱舟に乗り遅れかけ、前足を扉にはさまれ折損したのが由来)が有名。この猫をデザインしたキャットコインも有名で、相棒も記念に銀行で両替しゲットした。

首都ダグラスの地形は南が崖のようにそそりたち、その高台に Douglas Steam Railway のダグラス駅がある。美しい煉瓦建の駅舎にさらに門があり、まるでテーマパークの入口である。勿論ショップがあり、本やグッズが買える。

列車は案外少なく1日4〜5往復。5〜11月のみ運行で、現在島の鉄軌道はすべて観光用。ダイヤ等もインターネットで知ることができる。
http://www.iomguide.com/transportation.php
かつてダグラスの町にはサンフランシスコのようなケーブルカーもあったらしい。

天気が悪いが、まずは2泊のリーズナブルホテル確保を。目の前に路上駐車可能で手ごろな宿だが、何と1人1泊60ポンドと抜かしくさった。これが実に15ポンドまで値切れたのだから、吹っかけにも程がある。雲助は世界中にいる。

鉄道線路の両側はことごとく、戦車でもない限り突破など絶対出来ない物々しい生垣で、列車の半分が完全に隠れてしまうから、撮影場所が殆ど得られず、開放的なのはわずかに駅構内のみ。これは先回にも書いた羊が線路に入り込まないためだが、どこでも撮影できる農業国は天国である。

踏切も先回紹介したが、普段は鉄柵で閉ざして羊の侵入を防ぎ、列車が来る時だけ90度回転させ道路を塞ぐ。その傍に建つ小屋は、かつて踏切警手の宿舎だったのだろう。道が狭いと扉は片開きだが、踏切の数だけ人手が必然だから、絶対数が極めて少なく、無人踏切は立体交差以外あり得ない。

放牧地も同様厳重に囲われているが、非牧畜農地・農家に接している線路だと有刺鉄線だけになる。とある農家で老夫婦に、撮影のため敷地に入らしてくれと頼んでみた。気軽にOKが出、やっと列車が撮影できたが、これ以上の横勝ち構図は高い足場がない限り無理である。

その後その農夫はティーか、カッフィーかと尋ね、お茶をご馳走してくれた。農家といっても、南側壁にはショーウインド顔負けの大きなガラス窓があり、居間でくつろぎながらからアイリッシュ海が見下ろせるのである。冬なら相当に厳しい風雨に曝されると見え、日本なら当然開閉できるところだが、分厚いガラスは嵌め殺しだった。

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【まるでテーマパーク入口.jpg : 312.0KB】

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【ダグラス駅.jpg : 316.2KB】

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【1593】京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ(4)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/17(水) 22:22 -
  
このシリーズは、過去の記録とおぼろげな記憶で書いていました。やはり現場を確認するのが取材の基本と、先週、久しぶりに現地を訪れてみました。やはり、認識に誤りがありましたので、ここに訂正しておきます。
【1568】【1570】で、田野城さんが紹介された油小路通から見える駐車場の石垣を、【1569】で旧線時代の石垣と認識していましたが、前者は少し南側にある南北の石垣で、旧線時代の石垣は当然東西を向いています。両者は接近していますが、別物でした。その際に撮った旧線時代の石垣の現状を載せておきます【写真7】。
【1566】で載せた写真と同一地点ですが、背の高い塀が取り除かれたことによって、背後の旧線跡(現 オムロン+自由通路)が、約1mの高さの微高地になっていることがより理解できるようになりました。

(4)寺の前を走っていた旧線の列車
今までは旧京都駅の西側ばかりの探索だったが、少し東側も見てみよう。
駅前広場の東側、ルネサンスビル・ぱるるプラザの裏側を走る東洞院通といえば、ちょうど日本最初の電車路線である京電伏見線の始発地点でもあり、少し離れたところには「我国電車発祥之地」記念碑も建てられている。東洞院通には官鉄線を渡る踏切があり、南には京電伏見線、北にはのちに京電木屋町線の乗り場ができた。乗客は、踏切を渡るだけで、伏見から京都中心部へ電車を乗り換えることができたのである。
東洞院通の中ほどに、京都駅の駅弁を作っている萩の家がある。ここから塩小路通と並行して、細い道が高倉通まで延びている【写真8】。この道こそが、大正3年までの旧線の跡地である。
道の途中に正行院という小さな寺があり、通称“さる寺”と言われている。境内には竹田街道で使用されていた輪形の石(車石)が保存されている。
以前に大西顧問から聞いた話では、この寺の先代の住職に聞き取りをされたところ、寺の真ん前を煙を吐いた列車が走っていたことをはっきり覚えていたという。
興味深いのは、この寺を境にして道路がわずかに鉤型になっていることだ【写真9】。想像するに、ここから西へは駅構内が広がり、道路も少し南へ振った状態になって残っているのではないだろうか。わずかな道路の変化も、それなりに理由があるものだ。

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【写真7 旧線石垣現況.JPG : 267.8KB】

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【写真8 京都駅東部の旧線跡.JPG : 216.9KB】

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【写真9 寺の前の旧線跡.JPG : 176.5KB】
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【1592】50年前のこの日
 乙訓の老人  - 08/9/17(水) 11:04 -
  
【1468】こだま試運転でモハ20系が、須摩の大人から紹介された。この日に残しておいたネタだったが、慌て物の大人は先に掲載したため2番煎じとなった。老人は50年前に試運転に乗車できたという幸運に恵まれた。
この年は氷屋のアルバイトを9月初めに切り上げ、四国→九州への旅に出掛けた。また四国かいなと思う御仁もいらっしゃるかもしれないが、土佐電鉄に電車台帳筆写を前年申し出ておいたのに対し、許可するとの葉書があったからである。出掛ける前にO師匠宅に行ったら「沖中君、“こだま”の試運転に乗せてやるからなにがなんでも16日には帰っておいで・・・・・・」と言われた。高知では義兄の実家である南与力町教会に泊めて頂き、念願の電車台帳筆写を果した。まとめたものは、国鉄話ではないからデ元青では遠慮しておく。関心ある人は連絡されたし。
それからだが、国鉄バスの山越えで松山へ行こうとしたら、義兄の弟(3才年長)に台風が来ているから山越えは止めるように言われた。やむなく多度津まわりで松山へ、別府航路で九州に上陸できたのだが、足摺岬沖に台風2個居座ってしまい、上陸後、行けども行けども雨中を汽車に乗ってぼんやり窓外を眺めるだけとなった。やっと16日朝、京都帰着となりO師匠宅へ伺ったら「大阪駅下り線ホーム(5,6番線だったかな)上り方先端にX時においで、弟と前川君がいるから・・・・・・」と申し渡された。
当日、ホームへ行ったら師匠以下2人は老人を待っていてくれた。やがて20系が上り方より入線である。ホームは喧噪の渦の中、最後尾の運転台小窓が開き「O君、いま乗務員扉開けるからな」との声がした。眼鏡のおじさんであった。話に聞いていた設計者の一人、H技師さんであった。こうして試運転に乗せて頂くことができた。そして走りだしたのだが、車内は報道陣や関係者でごったがえしていた。師匠は技師さんと何処かに姿を消してしまい、取り残された3人は自由に車内をうろついた。車内設備では、それまで食堂車など利用したことなく、ビュッフェの設備やビジネスコーナーに目をいった。2等車といえども特ロ以上のシート、はたしてこのようシートに何時になったら乗れるのか、期待に胸を膨らませた。それが実現したのは5年後、京阪新1900系が登場した時であった。京阪特急は1700系新造の時、シート地に特ロ同等品を採用した。12年後には国鉄特急電車の2等車同等品としたのである。
窓外を眺めていると各駅を通過する時、ホームの人達の表情は驚きの眼差しであった。どんよりとした曇天の下、須摩海岸を走るとき、やけにヘリコプターがうるさかったのを今も覚えている。試運転列車は西明石電車区折り返しで、吹田工場に入庫すると知らされ、老人は2人と別れ山陽電車を訪ねることにした。
ところで九州を雨漬けにしたツィン台風はその後、伊豆半島に向け移動し狩野川台風と名付けられ、大変な災害を現地にもたらした。今年の神出鬼没のゲリラ豪雨、50年前はこんなに酷いものではなかった。被害に遭われたクローバー会会員がいらっしゃったら、
心よりお見舞い申し上げます。
トレランス1号の時、山科の人間国宝はH技師、Oさんを招待された。歓談されている人間国宝グループの中に入れていただいた時、「こだまの試運転に乗せていただいたのは、一生忘れられない思い出です。」と、H技師さんにお礼を申しあげた。

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【1591】仙台市電 '61
 tsurukame E-MAILWEB  - 08/9/15(月) 14:43 -
  
藤本哲男様、5回にわたる仙台市電の紹介をご苦労様でした。いつもながらの豊富なデータに基づく解説と、写真を、懐かしく拝読いたしました。

しかし、いかな藤本さまにも如何ともし難たかったのが、訪問時既に廃車もしくは廃車が始まっていた1型と30型の事ではないでしょうか。

そこは、先達の、いや後期高齢者の出番とばかり、後追いながら紹介するものであります。写真もあまり良いものではありませんが。

1型 製造年代順に、3つのタイプに分けられる。
 No.1-10  1926(大正15)年川崎造船製造、木造四輪単車、台車は川崎造船
          Brill21E。同年11月25日創業時の10両である。       
 No.11-23 1927(昭和2)年製造、仕業、製造所は同上。上記より窓の丸味が無
         くなったとの事だが、写真ではよくは判らない。
 No.24-30 1928(昭和3)年製造、仕業、製造所は同上。窓が一段式で、上記車
         両の二段式とは異なる。この内から、24、25、28,30の4両を
      1955(昭和30)年、連節車300型に改造。残った29を25に、27を24に
         改番。以降このグループの車は24-26の3両となる。
 
 1965(昭和40)年、この1型は全車廃車される。

30型
 No.31-36 1934(昭和9)年日本車両製造、半鋼四輪単車、台車は日本車両
      Brill21E。
 No.37-42 1935(昭和10)年製造、仕業、製造所は同上。

 1965(昭和40)年より、順次廃車が始まる。

以上の参考文献は、
沖中忠順氏、急電101号38頁、1960年6月、京都鉄道趣味同好会。
筆者、青信号12号、1962年、などです。

写真は、上記の形式と製造年の順に上から並べる
 1. No.6  北四番丁交差点と思われる、1961年8月31日撮影
 2. No.10 花京院通交差点と思われる、同日撮影
 3. No.14 仙台駅前、1961年8月26日撮影
 4. No.25 仙台駅前、同日撮影、製造時はNo.29であった車両
 5. No.33 北四番丁付近、1961年8月31日撮影

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【1590】仙台市電X
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/9/14(日) 0:20 -
  
引続き、第5回目(最終回)は、昭和42年12月17日廃止になった呉市電から譲り受けたモハ2000形とモハ3000形を紹介する。
両形式とも昭和43年4月に入線した。ワンマンカー仕様のため、塗装変更をした程度でほぼそのままの形で使用された。

1.モハ2000形(2002・2003)
昭和36年ナニワ工機製で当初からワンマンカー仕様で作られ、台車はエアサスのNK52を履いていた。車体はバスの製造工法で作られた軽量車であった。車号は呉市電時代のままで、2001が欠番になっているのは呉市で保存されたためである。(但し、現在は撤去されている)市電廃止に先立ちに北二番丁車庫を他用途に転用するため、全車長町車庫に収容することなった時、収容能力の関係で一足早く廃車となった。

[写真1]モハ2002       昭和43年9月4日    仙台駅前

[写真2]モハ2003       昭和43年9月4日    仙台駅前
Zパンタの向きがモハ2002と逆になっていた。

2.モハ3000形(3001〜3007)
昭和18年木南車両製で、前述のモハ2000形より数字が大きいのは、ワンマン改造時に改番したためである。呉市時代の当初の形式は60形60〜66、昭和27年の改番で600形601〜607、昭和36年ワンマン改造で3000形3001〜3007となった。
この車の経歴は少し複雑で昭和18年に10両作られたものの、呉市に入ったのは60・62・63の3両で残り7両は注文流れとなり名古屋市に行ってしまった。(名古屋市では呉市の注文流れということで形式を900形とした。後に豊橋鉄道に譲渡)あとの4両は戦後昭和20年になって入線した。書類上は20年10月認可で、竣工は60・62・63が21年11月、64が22年8月、65・66が22年11月、61が23年1月となっており、現車と書類上に相違が見られるのは戦中、戦後の混乱期であったためであろう。
本来3扉車であったが、ツーマン時代から後部扉は使用しておらず、ワンマン改造時に廃止して窓にした。改造は阿賀工場で行われた。ラスト2両のモハ3006・3007は昭和49年2月に廃車、モハ3001〜3005はモハ2000形と同じ理由で全線廃止の少し前に廃車された。

[写真3]モハ3001       昭和50年9月3日    仙台駅前

[写真4]モハ3006       昭和43年9月4日    仙台駅前
この車は前述の通り一足早く昭和49年2月に廃車となったので仙台での活躍は僅か6年であった。また、この車だけZパンタの向きが逆になっていた。

[写真5]モハ1          昭和50年8月31日   大町西公園
大町西公園で保存されていた頃のモハ1であるが、心無い人の破壊活動により窓ガラスは全部割られてしまい悲惨な状況であった。再度復元工事が実施され、現在は仙台市電保存館で保存展示されている。
モハ1形は大正15年11月開業時に川崎造船作られた木製単車で、当初1〜10の10両が作られた。翌昭和2年に11〜23が、3年に24〜30が作られ30両出揃った。

5回に亘り仙台市電を紹介したが、撮影、乗車経験のある方は廃止時期から考えると前期高齢者以上の方であろう。これらの方には在りし日のことを思い出していただき、仙台を訪れる機会があれば市電保存館に足を向けていただければ幸いに思う。また、年齢の若い方にはかつて仙台にも市電があり、画像のような車両が走っていたことをご認識いただければ幸いである。

仙台市電を紹介した書籍は、最近のものとしてネコ・パブ社のRM LIBRARY90「仙台市電」が挙げられる。今回紹介できていない古い車両を含め貴重な写真や資料が満載であるが、スペースの関係からかも知れないが、元琴平参宮電鉄のモハ180形と元茨城交通のモハ130形の写真と解説が完全でないのが悔やまれる。

この夏、往路夜行バス、復路「青春18」の組み合わせで仙石線の103系と市電保存館の見学を計画した。ところが出発の当日、大雨のため夜行バスの仙台到着時刻が大幅に遅れる可能性があるとの連絡があった。仙石線の103系は平日の朝、青葉通〜小鶴新田、青葉通〜東塩釜間を各1往復するだけで、バスの到着が遅れると撮影できなくなるため止むを得ず中止した。しかし、この計画は近々実行に移したいと思っている。

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【1589】仙台市電W
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/9/14(日) 0:06 -
  
第4回目は、モハ300形とモハ400形を紹介する。

1.モハ300形(301・302)
昭和30年東洋工機で2編成作られた連接車で、車体と主電動機は木製モハ1形のものを流用したが、台車、その他の機器は新製した。前代未聞の木製連接車であったが、車体は乗せ換える予定であった。大き過ぎてダイヤを乱すためラッシュ時、多客時に以外は使用されず、昭和41年5月に廃車となった。

[写真1]モハ302        昭和40年3月22日    仙台駅前

2.モハ400形(401〜415)
昭和34年から38年にかけて仙台市電最後の新車として15両作られた。昭和34年に401〜404がナニワ工機、36年に405〜407が新潟鉄工所、37年に408〜410がナニワ工機、38年に411〜415が日本車両で作られた。36年と37年製は仙台市が独自に開発設計した異径車輪を使用する台車を履き、直角カルダン駆動を採用した。車体のモデルは都電の8000形とされている。昭和42年にワンマン改造されたが、モハ100形、モハ200形と異なり、スタイルの変化は少なかった。仙台市電保存館にモハ415及びモハ410の台車(ナニワ工機製NK71)が保存展示されている。

[写真2]モハ401        昭和43年9月4日    仙台駅前
昭和34年ナニワ工機製で、台車はナニワ工機NK22で、ヘッドライト、方向指示器等に自動車部品を多用してコストダウンを諮っている。

[写真3]モハ407        昭和43年9月4日    仙台駅前
昭和36年新潟鉄工所製で、台車はNP103と呼ばれる仙台市が独自に開発設計したもので、その特徴は動輪と従輪の大きさが異なる異径車輪を使用していることと、センターピンの位置が内側になっていることである。制御装置は直接制御であるが、駆動装置は直角カルダン駆動である。中扉の中桟が無くなり1枚ガラスとなった。

[写真4]モハ411        昭和40年3月22日   仙台駅前
昭和38年日本車両製の最終グループである。台車は通常の日車NP107となり、駆動装置も吊掛式に戻ったのは、保守の簡素化のためであろう。スタイル的には屋根上のマーカーランプが無くなった。画像はワンマン改造前であるが、改造に伴う変化は、バックミラーの設置と前扉の前の窓が手が加えられた程度である。

[写真5]【参考 都電8029】  昭和42年3月26日    品川駅前
都電8000形は、都電の将来を見越し、耐用年数を10年〜12年程度として、工作方法を極力簡素化し、低価格の車両という発想で、昭和31年から32年にかけて131両作られた。路線の縮小に伴い昭和44年から47年にかけて廃車となった。
車体を短くして、前扉を2枚引戸にすると仙台市のモハ400形のスタイルになる。富山地方鉄道デ7000形、万葉線のデ7050形、デ7070形も同系で、こちらは車体更新を重ねつつ現在も使用されている。

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【モハ401(ワンマン).jpg : 75.4KB】

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【1588】おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-1
 湯口 徹  - 08/9/13(土) 11:12 -
  
マン島の鉄道 その1

この島の訪問は9年前の1999年で、今まで出さなかったのは、この時のフイルムが全部、カブリというか、発色もヌケもピントも悪く、諸兄のご高覧に供すには余りにも恥ずかしかったから。理由は分からず、空港でのレントゲン検査でカブったのではとも考えたが、相棒は被害なし。

結局当時使っていたコストパフォーマンス抜群の無銘ズームレンズ(モノクロではよく写ったが、カラーネガはこれが最初)の欠陥しか考えられない。デジタルで少しは明るく修正したが、見苦しいのは変わりなく、最初にお詫び申し上げておく。

例により選んだ格安フライトはKEで、酒類サービスが極めて悪かったが、缶ビールは栓を抜かずに渡してくれ、若干の取込隠匿に成功してしのぐ。ヒースロー空港でターミナルが増えており、少しオタオタし、やたら歩いた。

地下鉄でラッセル・スクェエアーまで約1時間。Royal National Hotel を予約しており、ご大層な名前からの期待は、大きさだけが応えてくれた。猛烈にだだっ広いYMCAか学生寮並の、質実剛健そのものの安宿舎で、かつての松本・信州会館を髣髴させる。ソーホーまで出てイタ飯屋に入り、ぐちゃぐちゃのゆですぎパスタを辛抱して食す。イギリスのメシが極めて不味い常識を見事裏切らなかった。

翌早朝、朝食は7時からで、無人のパントリーに侵入しパン(しかなかった)を窃取、部屋のインスタントコーヒーで流し込み、50分を要したヒースロー空港ではマンクスのチェックインブースを探し回り、長蛇の列にあせりまくる。何とか間に合ったが、食いさしのハンバーガーとコーヒーを手に搭乗する羽目に。

ところが1時間足らずのフライトなのに、何と本格的な食事が出たのである。後で知ったが、マン島は英王室属領(Crown Dependency)で、独自の政府・議会、法律、通貨を持ち、軍事外交は英国に委託。従ってこの短いフライトも国際線扱いなのであろう。飛行機は3席×2列の96人乗り、シートが立派な革張りだった。

喰いすぎの腹をかかえ、ロナルズウエイ空港でレンタカーを借り出し、島の地図を求め、先ずは終点のポート・エリン=挿入イラスト図左下=へ。Maitland のプレートを付けた11号機(ベイヤー・ピーコック1905年製)がおり、軸配置は1B、先台車が日本では見られない形状である。

この鉄道は英国圏では珍しい軌間914mm(3フィート)で、連結器もインドやマレーシア=植民地並みドロップフック。大昔16番模型で全盛を極めたベーカー式が同じ原理で、ゆっくり突き当てると連結し、開放時はフックを人手で持ち上げる。ここでは反対側車両に安全装置(外れ止め)がある。大井川鉄道にタイから帰還したC56の装着品が展示されている筈。

客車も実に美しく整備された側戸式。日本での側戸式は殆どが車内座席背もたれ以上の空間が一体(加悦SL広場保存のハ4995のように)=仕切りが無く、これはランプの数の節約(あるいは防犯?)かと思われる。

本場英国では完全コンパートが多く、当然その数だけランプがいる。ここの客車は本来ガス灯だったと見え、屋根上にランプケースはない。このボギー客車車掌室がサイドキューポラー式で、我国にも明治期2軸車に存在したが、この出っ張りで一体どれだけ前が良く見えるというのだろう。

天気は良くなかったが終点の一つ手前、Port St.Mary での踏切でまず最初のカルチャーショックを。白い鉄柵扉を閉めて道路交通を閉ざすのだが、列車が通過すると今度は90度回して線路を閉鎖する。動力化されているところもあるが、大方は人力で、ボランティアが列車ごとに車でやってくる。

これは羊が線路に入リ込まないための工夫であることがその後判明した。このマン島だけでなく、次のウェールズでも、カウ・カントリーならぬ、シープ・カントリーである(あった)ことを体感することになる。西洋史で習った「囲い込み運動」(Enclosure Movement)も痛感。

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【マン島略図.jpg : 332.1KB】

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【1587】少し前の土佐電鉄高知市内線
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/9/11(木) 23:01 -
  
【1461】で今出川浄福寺さんが土佐電鉄について書込みされておられるが、昭和45年7月11日に撮影した土佐電鉄高知市内線の画像をご覧いただきたい。実のところ、土佐電鉄を撮影したのはこの時一度だけで、しかも勤務先の社内旅行の時である。宿泊したホテルが「上町一丁目」電停の前で、到着から夕食までの間、約40分撮影した。東京から高知までは飛行機を利用すれば1時間半で行くことは可能であるが、やはり遠く、数年先のリタイヤ後、高松琴平電鉄、伊予鉄道と併せてゆっくり訪れたいと思っている。

1.313(300形)
昭和28年から30年にかけて木製単車を自社若松町工場で鋼体化したもので、301〜326の26両在籍した。車体が新しいため、昭和40年代後半まで市内線で活躍した。
この時期まで活躍した単車は珍しいが、車体が新しく廃車するのが勿体なかったからであろう。

2.102(100形)
元琴平参宮電鉄の60形で、昭和39年56〜58の3両を譲受け、自社工場で急カーブで接触しないよう顔の部分を改造した。旧番対称は57・58・56→101〜103である。80形8両は遠く仙台市電に行ったが、60形3両は隣の高知で働き場所を見付けた訳である。しかし仙台市と同様活躍した期間は長くなかった。

3.205(200形)
昭和25年から32年にかけて、都電3000形をモデルに201〜221まで21両作られた。画像の205は第一次車で帝国車両製である。昭和29年製214までは日立製作所と帝国車両で作られたが、30年製215からラストの32年製221までは自社若松工場で作られた。一部の車両は間接非自動制御で連結器を持ち鉄道線との直通運転に使用されていたが、600形と交替して元に戻された。

4.604 (600形)
昭和32年から38年にかけて、都電7000形をモデルに601〜631まで31両作られ現在も主力として活躍している。都電と比較すると顔の部分を絞っていないので、こちらの方が堂々とした感じがする。画像の604は第2次車で、601から35年製621までは自社若松工場で、最終増備の38年製622〜631の10両はナニワ工機で作られた。鉄道線乗入車は間接非自動制御で連結器を持っていた。

5.622+623(600形)
鉄道線安芸始発の直通電車である。安芸線は昭和49年4月1日に廃止され、平成14年7月1日、第3セクターの土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が非電化で新規開業した。

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【1586】京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (3)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/11(木) 22:59 -
  
あるブログで、明治期の荷役用の小規模な転車台が横浜港で発掘されたニュースが紹介されていました。転車台のように地表に設置された施設が廃棄される場合、撤去せずに埋め戻されることが多く、その上に別の施設が建て直される際に、発掘されるケースが見られます。京都駅付近でも、同様に建設現場から明治期の転車台が発掘されニュースになりました。

(3)発掘された煉瓦積みの転車台
平成8年、地元新聞に京都駅付近で転車台の遺構発掘のニュースが流れた。今回の桂川ほどの大きな記事ではなかったが、写真入りで紹介されている。その後、鉄道友の会による現地説明会が開かれた。もう大西顧問は天国に召されており、代わって支部長のT山さんが説明役となられた。
その場所は、(2)で紹介の国鉄バス京都営業所の東に当たる。ホテルハトヤの南側、現アパホテル京都駅前の建設の際、埋蔵文化財調査のために地中を発掘調査したところ、地下1mの地点から煉瓦積みの転車台が出土したのである。
説明会に行ってみると、テーブル部はないものの、煉瓦を巻いた内壁が、半分は土砂に埋まりながらも、円状にキレイに残っている【写真5】。車長14m級の機関車が乗れる直径でかなりの規模である。円内のピットも掘り下げられ、まるで遺跡発掘現場を見る思いである【写真6】。

『梅小路90年史』によると、「明治9年の京都〜大阪間の開業に当たり、旧京都駅の北西に当たる三哲通西洞院東の地に収容線2線の煉瓦造りの機関車庫を新設し、これを京都機関庫と称した。これが梅小路機関区の前身である。明治30年、さらに100m南に収容線3本の煉瓦造り車庫を新設し、同地に移転した」とある。発掘された転車台は、この移転後の機関庫の施設と推定される。説明会によると、その後さらにそこから南側に移転したと言われている。
時代が前後するが、現在ハローワーク京都のある場所、すなわち前記の転車台の発掘現場から真南に行った地点には、国鉄職員のアパートが建っていた。大西顧問に案内していただいた昭和58年、その前庭に、なぜか無数の煉瓦が散乱しているのを見ている。その中には、台形をした煉瓦や、「S」と刻印された煉瓦が散見された。
付近はまもなく再開発事業が始まり、国鉄アパートも撤去されたため、以後の調査も行われていないが、地図と照合すると、この地点は再移転後の転車台位置とも符号する。
また、地下鉄東西線の二条駅開業に伴う、付近の再開発工事の際にも、旧京都鉄道二条駅にあった転車台も同様に発掘されている。この二条駅の機関区設備は、明治30年の京都鉄道二条〜嵯峨間の開業に際して開設されたもので、大正3年の現在の梅小路機関区が開設されるまで使用されたものである。

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【1585】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/10(水) 23:33 -
  
▼田野城喬さま&米手作市さま
京都駅付近の秘蔵の写真を惜しげもなく披露していただき、ありがとうございます。
【1580】の昭和30年代前半の西大路駅西の写真、鉄道少年時代の米手作市さまの様子がよく伝わってきます。危険を顧みない性格は、昔も今も変わらないのですね。下を流れるのは天神川ですか。ここは開業時代以来の区間であり、本来なら、開業時の煉瓦橋台があっても良さそうなのですが、昭和初期には写真に見られるコンクリート製に変えられています。ただし、ここから少し西へ行った箇所には、現在も開業時の煉瓦橋台が残っています。これは後日またご報告いたします。

【1583】の堀川塩小路付近の旧安寧小学校の写真も興味深く拝見しました。今の交差点のド真ん中にあったのですね。
それに関連して、戦後すぐの京都駅付近の航空写真を載せておきます。この航空写真は、昭和21年に米軍が日本全国を空撮したもので、国土地理院や地域の図書館で閲覧ができ、一部はネットでも閲覧することができます。戦前の廃線跡のように地上からではなかなか把握しにくいものでも、航空写真なら非常によく掴めます。
【1566】のように旧線時代の京都駅は、現在の駅前広場にありました。写真では駅前広場のちょうど中央を東西に横切っていたことになります。その左、写真ではちょうど真ん中にある白い用地(現在の中央郵便局用地)の南端をかすめて旧線は西へ延びています。旧線上に建てられた民家はきれいな方形になって横並びになっているのが分かります。【1570】の石垣もその線に沿っていることが、この写真からも理解できます。そして行き着くのが、南に振った塩小路通りとなり、田野城さまのアルバム写真の下辺に相当することになります。両者の写真を照らし合わせると、この付近の変化がより理解できますね。

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【昭和21年京都駅付近.jpg : 0.6MB】
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【1584】Re:作並機関区の今
 西村雅幸 E-MAILWEB  - 08/9/10(水) 22:19 -
  
K.H生さま。作並機関区の写真 ありがとうございます。小生も40年前 高校を卒業しDRFCに入学する直前の春休みに作並を訪れています。K.Hさんの現状写真と比べられる写真を選んでみました。3月下旬ですから機関車にはスノウプロウがついています。
1.ED931+リム+リム+ワフ+・・・が到着。先頭にED1721が連結されたところ。山形方面を望む。
2.庫にED1721がED93を押し込んでいるところ。隣にはつららよけがアクセントのED1728,スエ3028。庫の右手妻面には 作並機関「庫」と縦書きされている。妻面の明り取り窓は 現在では波板で塞がれている。ED1728の左手には事務所に登る階段が見える。
3.ED1728のうしろに庫の扉がしっかりと写っている。トラ塗りも。
4.庫の横にはED911が留置されている。
5.キ196も配置されていた。
短時間に多くの車両に会えて、大変満足して作並をあとにしたことを覚えています。40年前の記憶をよみがえらせて頂き、私も再び訪ねてみたい思いにかられます。広島空港からは日に1往復仙台便が飛んでおり、一昨年はこれを利用してくりはら田園鉄道に行っておりまして、仙台への距離感は京都より近いものがあります。作並バンザイ。 

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【1583】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 田野城 喬  - 08/9/10(水) 12:22 -
  
手持ち最後の資料です。
昭和32年5月16日撮影の旧安寧小学校の全景です。
現在の堀川通りの七条からJR線間で、左に蛇行しているのは堀川です。人文字の書かれているのがグランドで右の校舎との間にある縦の細い道が堀川通りです。南側に東西へ延びてやや北へ振っているのが塩小路通り、右下に木が見えるのが道祖神社で今は東へ50mほど移動しています。
この旧堀川通りが今の堀川通りの西歩道あたりで、旧校舎から東へ現堀川通りが広がりました。グランドの南側に屋根の見えるあたりが今のリーガロイヤルホテルで旧東海道線は写真が切れる当たりを横切っていたのでしょうか。右上に少し見える通りが油小路通りです。
京都駅から塩小路通りを堀川方面へ向かうと交差点の正面に見える市営住宅はこのグランドに建っています。グランドの北側には現安寧校(廃校)校舎の新築工事が始まっています。

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【1582】青春18で北海道にいく
 K.H.生  - 08/9/10(水) 11:20 -
  
詳しく書くと大変なことになりますが、おおざっぱに

    
4日:新大阪ー敦賀(東海道ー湖西ー北陸、新快速)
ー福井ー富山(北陸線)
富山ー仙台(夜行バス)

5日:仙台ー作並ー山形(仙山線)
ー新庄(奥羽線)ー酒田(陸羽西線)
ー羽後本荘(羽越線)
ー曲沢(由利高原鉄道、一部往復)
ー秋田ー大館ー弘前(奥羽線)
ー青森ー札幌(急行「はまなす」)

6日:札幌ー石狩月形(札沼線)ー岩見沢(バス)
ー札幌(函館本線)
ー西28丁目(地下鉄)〜小樽、サッポロ周辺周遊(友人の旧車にて)
〜(白石ホテル泊)

7日:白石ー札幌ー小樽築港
ー札幌ー南千歳(千歳線)ー新夕張ー新得(石勝線特急スーパーとかち)
ー南千歳(スーパーおおぞら)
ー千歳空港ー大阪空港(JAL)

写真説明1
鯖江で681系特急に追い抜かれる元583系の各停418、高い天井、重厚な乗り
心地は旅行中の白眉

2 新庄には蒸汽用の機関庫が残る。1435-1067接続の実に変わった駅

3 ローカル線情緒あふれる由利高原鉄道曲沢

4 岩見沢で見かけた北海道電化のパイオニア711系

5 函館本線札幌ー小樽間、今でも湾に沿い、SL写真の頃を思い浮かべ

何でこんな旅をしようと思ったか
この掲示板に書かれる諸先輩の、大昔の下駄を履いて蝦夷へ
みたいな旅があってもいいのでは。

ところで京都駅付近の旧構築物の情報を教えていただいた
宗安先輩にも会ってきました。
この掲示板の宣伝もしておきましたので、きっとこれからは
読んでもらえることでしょう。

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【DSC04212.JPG : 146.2KB】

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【1581】そうだ!奈良行こう!
 大阪通信員  - 08/9/9(火) 23:41 -
  
 tsurukame様 鹿の特急ヘッドマークを付けた近鉄特急の写真ありがとうございます。懐かしい塗色と路面走行、思い出します。皆様からモ800型の写真もいろいろ掲示いただきましたが、鹿の特急マークを付けた写真がひとつも無かったのが以外でした。
 奈良では今、入江泰吉記念写真美術館で「奈良の鉄道−明治・大正・昭和への旅−」なる写真展が開催されています。9月28日までの開催です。また大仏殿近くにできた商業ビルの一角には鉄道ビュッフェ「シルクロードの終着駅」なるものが営業しています。レイアウトを走り回る模型列車を見ながら飲食するという流行の施設です。また、遙か昔の関西鉄道大仏駅跡にある「大仏鉄道記念公園」も近くにあります。関西鉄道廃線跡にはいろいろと遺跡が残っていて、政府管掌社会保険事務所の天下り先が主催する廃線跡ハイキングの案内があったこともあります。

 今月は祝日が二日もあります。そうだ、奈良行こう。
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