今日はホワイトデーです。駅名喫茶店ではいつものごとく空気を読まず、「競艇場へ行ける駅名」を提供します。
子どもの頃、「尼崎センタープール前」には(レジャー施設としての)大きなプールがあるものだと思っておりましたから、競艇場と分かったときは少々驚いたものです。
今日はホワイトデーです。駅名喫茶店ではいつものごとく空気を読まず、「競艇場へ行ける駅名」を提供します。
子どもの頃、「尼崎センタープール前」には(レジャー施設としての)大きなプールがあるものだと思っておりましたから、競艇場と分かったときは少々驚いたものです。
永らくお休みしていましたが「スクラップブック」を再開します。家庭の事情でなかなか集中してスキャンなどの作業が出来ません。ボチボチと進めます。
当時では大きい事故とは言えないかもしれませんが、いまなら大事故でしょう。
昭和38年(1963年)ですが、まだまだ信号無視や居眠り運転が横行していました。
以前に阪堺電車を取り上げましたが、今回は同じ路面電車である嵐電です。難読駅名が多いのも特徴です。https://www.keifuku.co.jp/
京都市内にお住いの方は、意外と乗らない鉄道ではないでしょうか。
3月20日(水)~26日(火)11時~18時(最終日の26日は16時まで)京都祇園西利ギャラリーで第10回DRFCクローバー会写真展を開催いたします。従来の「鉄路輝く」のテーマに加え、今回は「まちとまちをつなぐローカルな鉄道」と題して地域に密着した鉄道にスポットを当ててみました。両テーマに82点の作品を展示いたします。また、近年物故された湯口徹さん、沖中忠順さん、吉田耕司さんを偲ぶコーナーも設けております。
多くの方のご来場をお待ち申し上げます。尚、24日(日)は15:00よりギャラリートークを予定しておりますので合わせてごらんください。
閏日の投稿は4年に1回しかできませんから、ここぞとばかりに登場させていただきました。
今回は全日本タワー協議会に属する全19タワーの最寄り駅名を一挙紹介いたします。スタンプラリーもあるとのことで、まずは京都タワーを訪ねてみたいと思った次第です。
最近は日本の人口が減少に向かい、特に地方では過疎化が進んで鉄道のローカル線や路線バスの廃止のニュースをよく見る。このような中でも東京だけは人口があまり減らないのか多くの駅で電車がひっきりなしに上下する風景が見られる。東京、新宿、渋谷、池袋、上野界隈がそうであるし先日も総本家さんが中央本線阿佐ヶ谷での複々線4列車総並びを発表されておりその一端がうかがえる。関東では私鉄に目を向けると関西の阪急十三、南海新今宮、近鉄鶴橋のような圧巻的風景は見られないが東急東横線の多摩川駅では実に多種の電車が見られる。特に最近は神奈川県内のみ(横浜-海老名間、支線の二俣川-湘南台間、厚木貨物線)の営業であった相模鉄道がJRや東急と相互乗り入れを実施して東京心部や埼玉県まで顔を出すようになったことで多摩川駅の車両のバラェティを深めている。
東急多摩川駅では東急の他、横浜高速鉄道(みなとみらい線)、東京メトロ、東武鉄道、西武鉄道、東京都、埼玉高速鉄道、そして相模鉄道が加わることにより8社の車両を見ることができる。各車両ほぼ同じ位置の単調で面白みに欠ける記録であるがこれだけの会社がそれぞれ2~3種類の車輛を投入してくるので飽きることはない。併走も含めて発表してみる。
まず最初に今回の定点多種車両撮影に至った起爆剤的な相模鉄道についても若干触れてみたいと思う。独特の単一カラーでよく目立つ相模鉄道通称相鉄は以前は準大手私鉄の位置づけであったが、1990(平成2)年4月にいずみ中央駅まで延伸されたのを機に同年5月31日正式に大手民営鉄道として認定を受けた。相模鉄道の歴史がややこしいのは相模鉄道とは現在のJR相模線のことで大正6(1917)年に創立され、現在の相模鉄道は当初神中軌道、後に神中鉄道となった鉄道でやはり同時期の創立である。昭和18年(1943)年には神中鉄道は相模鉄道に吸収合併され、元の相模鉄道自身は1944年に国有化され残った神中線が相模鉄道となって今日に至っている。その間相模鉄道は東急になったり小田急の干渉があったりして紆余曲折の歴史があったが横浜駅西口(相鉄ジョイナスや高島屋のある所)の土地買収により安定的な経営をするようになったと言われている。私が最初に見た相模鉄道には神中時代の汽車ポッポのムードが残っていた。駅の改札口は木製のラッチが多く海老名などは田圃に蛇が出てくるような田舎であった。1955年の流線形湘南窓ボディマウントの5000系や続いて登場した1961年の6000系20メートル車の導入で大手に近づいて来たように思う。5000系、6000系の写真である。
1972.2.20 大和付近を行く急行海老名行き5011。湘南窓に車体下部を覆ったスタイルに人気があったが直ぐに更新改造されて消えて行きそのスタイルが惜しまれる車両である。▼
昭和44(1969)年3月29~31日 DRFCメンバーとともに撮影
広島のユースで一泊した翌日3月29日は、DRFC春の狂化合宿が、呉市の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく行われる日、九州で泥池にはまって風邪気味で体調は万全でないものの、メンバーとの再会を楽しみにして、ユース前からバスに乗り込み、広島駅へと向かいました。▲合宿の最終日の「安芸」狙いは、煙が期待できる安登~安浦の勾配区間へメンバーとともに向かった。と言うものの今まで、この区間で煙に恵まれたことは無かったが、今度は違った。北海道ヤマ線のC62重連も顔負けの凄い爆煙だ。見始めは違和感を覚えた「あき」のヘッドマークも、見慣れて来ると必須のアイテムとなった。体調は最悪だったが、それを吹き飛ばすシーンとなった。
第8日目 1月30日
① 新竹 8:15( 普悠瑪 278次) ⇒ 9:16 台北
② 台北 9:30(空港MRT) ⇒ 10:09 桃園空港T2
【 普悠瑪号のきっぷがない 】
8日間の厳冬の冬の台湾旅も今日は帰るのみです。桃園空港のJALカウンターでのチェックインは10:55からで余裕はあります。前回12/7は桃園MRTの台北側とは逆の老街渓を見てみたいと臺鐵中壢から老街渓までの未開通区間を歩きましたが今日は疲れてもいるとの実感がありましたので台北へ出て空港MRTに乗車する行程を選びました。
8:10 新竹駅の自動きっぷ販売機で発券手続きをしますが普悠瑪号は満席です。8:36 次発の自強号も同様です。
今回の旅では満席は経験していなかったので取れるものだと油断していました。朝の混み合うラッシュ時の列車です。前夜は駅構内にいましたので確認して確保しておくべきでしたね。またPPの自強号なら先頭の12号車には桟敷席がありました。これに挑戦してみる方法もありましたね。
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昭和44(1969)年3月28日 DRFC合宿を前に一人で足慣らし
前記のように、ポールが建ち始めた呉線で丸一日撮った後は、九州各地へ転戦しました。DRFCメンバーとも要所で顔合わせしながら、17日間に渡って各地で蒸機を撮影。最終日は筑豊でたっぷり写したあと、夜行で広島へ向かいました。DRFCの春の合宿が開かれる前日であり、まずは一人で呉線撮影となりました。▲折尾から夜行の座席急行「桜島」に乗って、広島に4時30分に到着、呉線の一番列車622レが発車する7番ホームへ行く。外はまだ暗いが、ホームは明るく照らし出され、C62が堂々と待機していた。ほんの数年前、まだ山陽本線の蒸機が華やかな時代、次つぎに夜行列車が発着していた広島駅の昔日を思い起こさせるような雰囲気だった。C62 41[糸]
第7日目 1月29日
① 台中 8:46(区間車 2604次)⇒9:33 台中港
▲ 8:04 今日は前回12/2にも訪問しました台中港線へと参ります。その前にまだ保存改装が終わった台中站をまだ見ておられない方々とご一緒しましたがまだ開店前で外から見るにとどまりました。
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さらにこの事件が「京福電鉄」の終焉を決定的なものにしました。
第6日目 1月28日
① 高雄 6:10(MTR)⇒6:22 左営
② 左営 7:25(高鐵 806次)⇒8:11 雲林
今日は台湾で唯一現役で残るシュガートレインを撮るため虎尾へと向かいます。いつもは斗南站から路線バスで向かうのですが極力早く着きたいと今回は新幹線で雲林まで行きTaxiをチャーターする行程です。
▲ 8:11 高鐵雲林に降り立ちましたが裏站Taxi乗り場には何も停まってはいません。しばらく待ちましたが来る様子はありません。どうする事も出来ませんでしたがTaxi乗り場とは違って送迎車が停まる表站一角に黄色のTaxiが入る姿が見えましたのでダッシュして捕まえました。どうやら裏站のTaxi乗り場の方は近距離利用者が多くTaxi運転手からは不評だったようです。
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昭和44(1969)年3月 1年ぶりの呉線へ
ふたたび呉線に移ります。前回は昭和43年3月の呉線行きでしたが、この年の10月にはヨンサントオ改正がありました。呉線には大きな変更はなく、列車番号の変更や、一部ダイヤの手直しで交換駅の変更が行われた程度でした。いっぽうで、昭和45年10月を目指して行われている電化工事は着実に進み、全区間でポールの建植が進んで来ました。DRFCでは、ちょうど昭和44年春の“狂化合宿”が呉の音戸ロッジで行われることになり、絶好の機会と、例によって九州方面との撮影と兼ねて、1年ぶりの呉線入りとなりました。
▲「安芸」にヘッドマークが付いた! 何の予告もなく、雑誌に掲載されて驚いたことを覚えている。蒸機牽引の優等列車は、特急にはヘッドマークが付き、急行には無いのが、われわれ世代の常識で、“ヤラセ”っぽくて違和感を感じたものだった。「あき」とかな書きしたのも気になる。改めて写真を見ると、ヘッドマークより、続く客車に眼が奪われた。ヨンサントオでカニ38などの荷物車の連結はなくなり、機関車+ハネフ+ロネ2両+ハネ‥が通常編成だが、なんとオロネ10が3両、間に挟まっているのは、10系ではなく、青色に塗られたスハネ30のようだ。安芸幸崎~忠海
東急東横線の渋谷駅が、東京メトロ副都心線との直通運転に伴い、地下化され、駅も地下に潜ったのが2013年3月のことで、もう10年以上経つことになります。撮影の合い間に、それまでの高架駅も記録したことがありました。いま駅の跡地周辺では、高層ビルが建ち再開発ラッシュが続いています。最近、会合で、年に1、2回、渋谷に行くことがあり、渋谷で都電を写していた世代にとっては、異次元の世界に戸惑うことばかりでした。▲9000系急行が終点の渋谷に到着、両側の扉が開いて降車客が吐き出される。2004年には、みなとみらい線との相互直通が始まっていて、9000系にとってはいちばん華やかな時代だった。
第5日目 1月27日
台湾ではもうじき小正月(2/5)を迎えます。各地でお祭りが開催され、ここ台東も
お祭りの一つとして幻想的な光の祭典「台東光祭(台東ライトフェスティバル)」が予定されているそうです。
7:30 台北発23:58、台東着5:48の台鉄に残る週末だけ運行される夜行列車莒光666次で来られた893-2さんは暖房がなく寒くて寝られなかったと言われながらも無事に合流されました。宿泊しました台東の娜路彎花園酒店(フォルモサ ナルワン ガーデン ホテル)の1階ロビーに全員が集合したロビーの天井には従業員の手作りと思われるランタンが吊るされていました。
小湊鉄道は昼過ぎには切り上げて東京へ戻ります。五井からJRだけで速く戻れるのですが、せっかく東京まで来ていて、少しは時間もあるのでここは京成電鉄に乗ってみることにしました。泉北高速鉄道と同じく新京成電鉄も社名が消滅すると報じられているので、その前に乗ってみようとも思いました。またSNSにアップするような投稿ですがご覧ください。このような投稿なら日常フェイスブックに出しているものとほぼ同じですので簡単に出すことが出来ます。丁寧に過去の資料の下調べをして投稿をされる先輩からはお叱りを受けそうですが、ご容赦願います。
▲新京成電鉄8800型 京成津田沼 京成もそうですが標準軌で18メートル級車体3扉というのは関西では京阪や阪神もほぼ同様なので親しみを感じます。