やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑧

D52の往くところ① ~駒ヶ岳を見て~

北海道に渡った蒸機の撮影者が、まず訪れるのは、やはり大沼付近でしょう。函館から一時間足らずで到着でき、すべての列車がボトルネックのようになって、函館に向かいますから、何でもありの夢のような区間でした。しかも優れた風景が続き、なかでも大沼から国道沿いを歩いてすぐ、函館本線を見下ろす小高い丘の上から、正面に駒ヶ岳、左手には小沼と、絵葉書のような光景が広がっていて、私もクローバー会会員と一緒に訪れたものでした。D52の走るところ、まずは大沼付近から。

春浅き小沼畔を行くD52の牽く下り貨物。これには後日譚があって、学鉄連の打ち合わせで交通科学館へ行って、図書室の西尾克三郎さんに、この写真を見せていたところへ、東京からマツケンさんが来られ、ちょうど編集中の豪華本「D52・D62・E10」にぜひ使いたいとなり、写真を差し上げた。後日、50年前の価格で4500円也の豪華本と写真料が送られて来た。一枚の写真で、おいしい目ができた、古き良き時代だった(昭和46年3月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑦

ラストナンバー468    D52(2)

“3年持てばいい”のD52でしたが、製造から2年後に戦争は終わってしまい、製造計画は中断します。粗悪なうえに、整備不良も加わって、戦後はボイラー破裂などの事故を多発します。山科の大築堤状で大音響とともにボイラーが破裂したのを、身を持って体験されたのが、大築堤の近くにお住まいだった須磨の長老で、その様子は「青信号64号」に詳説されています。さて戦後になって、状態不良のD52は廃車を進め、良好なカマは、長期の使用を見越し、戦時設計から改良が加えられました。一部のカマは、従台車を2軸にしてD62に、ボイラーを利用して旅客用のC62に改造されました。いっぽう、北海道へは、東海道、山陽の電化の進展で、余剰が生じたD52が昭和35年から順次、転属しました。軌道強化された函館本線の函館~長万部、室蘭本線の長万部~鷲別で貨物列車、一部で旅客列車を牽くことになりました。今回は、最大15両を擁した五稜郭機関区のD52のなかで、現在では京都鉄道博物館に保存され、ラストナンバーに当たる468号にスポットを当てました。

D52 468は、昭和21年の製造だから、戦争が終わってからの就役だった。三菱三原製作所の製造で、もともと同所では、468~492を製造する予定だったが、結局468のみ製造して、以降は中止となり、たまたま468がラストナンバーとなった。国縫(昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑥

D52 五稜郭機関区 (1)

太平洋戦争のさなか、“3年持てばよい”の考えのもと、徹底した戦時設計で建造されたのがD52でした。当時、最重要資源の石炭輸送は、鉄路だけでなく、航路もありましたが、攻撃の標的になることが多く、鉄路による重量物の輸送に変更され、急遽、当時の主力D51を上回る牽引能力を持った貨物用機が製造されることになり、昭和18年から300両近くが製造されました。計画ではさらに、増備の予定でしたが、終戦とともに中止、最終ナンバーは468号ですが、183両の欠番があり、実質の製造は285両となりました。しかし戦争末期の資材不足の約2年間で300両近くの大型機を製造したことは驚きに値します。その強力パワーで、東海道・山陽の二大幹線がその中心でしたが、昭和40年代にも、五稜郭機関区に10両のD52が配属されていました。夜の五稜郭機関区、扇形線に顔を揃えたD52136 D52468、昭和40年代、同区には最大15両のD52が配属され、函館~長万部~鷲別で、貨物列車、一部では旅客列車も牽いていた(昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る北海道の蒸機 ⑤

倶知安区 9600

北海道を代表する蒸機と言えば、スタイルは別としても9600でしょう。数こそD51より少ないものの、昭和43年時点では、北海道の蒸機の約3割、145両を占めていて、ほとんどの機関区に配属され、ローカル線の客貨牽引、入換えに活躍していました。デフの切り詰め、警戒色など、北海道らしい改造がされて、その好みは分かれるところですが、そのなかで最も特徴的なのは、倶知安区の二つ目の9600でしょう。

倶知安区9600の運用は、岩内線(倶知安~小沢~岩内)、胆振線(倶知安~伊達紋別)の貨物牽引、倶知安の入換用でした。二つ目は、カーブなど見通し不良区間での警戒のため、前照灯を二個にしたとの解釈が多いようですが、これは倶知安だけの理由とはならず、倶知安周辺では、冬期、前照灯に氷雪が付着して、前方の確認に支障があったと言います。そこで、風の流れができる、デフのステー上に前照灯を置くことによって、付着を防ぐ目的があったのではと言われています。

 

夕闇に二つ目が輝く倶知安区の79616

 

 

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ④

室蘭区 C55

“北海道のシゴゴ”と言えば、急行「利尻」も牽いた旭川区のC55が有名ですが、もうひとつ、室蘭区にもC55がいました。ただ撮影したのは、昭和43年の一回だけで、在籍もわずか3両、翌年にはC57に置き換えられ、一部は旭川へ転属しました。昭和49年まで宗谷本線で活躍した旭川区のC55と比べると、知名度としては低いものでした。しかし舞台となった室蘭本線はほぼ複線、大カーブ、日本一長い直線と、スケールの大きな区間を、スポーク動輪をカシャカシャ回転させながら走り去る姿は、なかなか魅力的でした。(以下、昭和43年9月)

室蘭区のC55のなかには、トップナンバーのC55 1がいたこと特筆される。白老~社台を行く小樽発札幌経由の室蘭行き722レ ゆるくカーブしているが、ここから沼ノ端まで、日本一長い直線区間28.7キロが続くことになる。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ③

D61 京都に現る

それはちょうど50年前、昭和46年11月のことでした。どこからともなく「梅小路にようけ蒸機が集まっとる」のウワサが流れてきました。BOXでも、その話で持ちきりとなり、ある日の午前、BOXにいたメンバーで実際に見に行くことになったのです。約10人で梅小路機関区のラウンドハウスへ行ってみると、な、なんと北海道のC622、C551、D52140、9633、九州のC612、D50140、D6031と、彼の地で夢中になって写していた蒸機がそろっているではありませんか。そのなかに、昨年に留萌で見たはずのD612も含まれて、横にはあのC622と並んでいるのです。なにか夢を見ているような瞬間でした。

突如、梅小路機関区に現れたD61 2、左に「梅小路」のネオンの一部も見える、ここは間違いなく京都、まだ蒸気機関車館が開業する前で、現業部門の機関区に、北海道、九州から人気の蒸機が集まって来たのか、この時はよく理解できなかったが、あとで理由を聞いて氷解した。(昭和46年11月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ②

留萌区 D61 〈2〉

D61の働き場所は、深川~留萌~築別であり、留萌本線、羽幌線の両方の区間で使われていました。当時は、築別から羽幌炭砿鉄道が分岐していて、終点付近には、良質炭の採れる羽幌炭坑があり、石炭を増毛、深川まで運ぶのがD61の役割でした。運用表を見ると、ほとんどが留萌~築別であり、D61の目的である、丙線での運用に合致していました。D61は二軸従台車のためキャブの揺れが少なく、D51より乗り心地が良かったと言われますが、軸重軽減のため空転が多く、途中には20‰勾配もあるため、補機が付く場合が多く見られました。今回は、今は無き羽幌線留萌~築別で撮ったD61の活躍です。

留萌に向かう872レが、D61 5+D51 543の重連で夕方の築別を発車。この日は鉄鈍爺さんと一緒だった。築別に着くとD61が蒸気を吹き上げて満を持している。聞くとまもなく発車だと言う。二人で必死になって線路上を走って駅の外れまで来ると、発車の汽笛が聞こえて来た。枕木を井桁に組んだ高台が見つかり、とっさによじ登って連写した。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き!《区名板》で巡る北海道の蒸機 ①

留萌区 D61  〈1〉

「やっぱり好き!」シリーズ、昨年に掲載の九州から、今年は北海道へ移ります。北海道で蒸機が活躍していた昭和40年代には、夏冬に計4回行っています。そのうち半分近くは、今まで紹介したC62に費やしましたが、そのほかにもクローバー会会員ととも、各地で撮影をしています。昭和43年時点で、九州には458両、北海道には536両もの蒸機がいました。ただ、九州と比べると、手入れが悪いうえに、醜い改造があったり、後年になると“団結列車”も出現して、美しい形式写真など望むべくもありません。勢い、機関区でじっくり形式写真を狙うより、駅での編成写真や、駅間で北海道らしい走行写真を撮ることが多くなりました。

そこで今回は、九州編のように、機関区別に形式ごとに紹介するのを止めて、特徴的な蒸機を採り上げます。編成写真や走行写真を中心に紹介して行くことにして、今まで紹介のC62は除外しました。第1回は、北海道だけにいたD61、所属は、深川機関区留萌支区です。以下の写真を見ると、キャブの区名板は本区の〔深〕となっています。支区の〔留〕が掲げられていたかは不詳ですが、所属先を明確にするために、〔留〕とします。

留萌本線の峠下を通過するD61 6〔留〕の牽く石炭列車774レ、留萌本線が増毛まであって、留萌から日本海沿いに幌延まで羽幌線が伸びていた時代、沿線には、まだ炭砿が多くあって、両線には石炭列車が多く運転されていた。峠下は、深川と留萌の中間付近、文字どおり峠のすぐ近くにあって列車交換も盛んに行われていた。当時から人家は少なかったが、駅員もちゃんと配置されていた。転轍機を操作するため、広い構内に必要な自転車が置かれていたのも、当時らしいアイテム、4年前に、約50年ぶりに峠下を列車で通ると、ちゃんと列車交換があった。駅はとうの昔に無人化されていたが、保線要員の基地として駅舎もそのまま残っていて、50年前の既視感にとらわれたものだ。(昭和44年9月)

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近くに行こうよ! 平群谷をゆく 竜田川駅から平群駅へ

 新型コロナウイルス(いつまで新型?)は収まるような気配がない。あまり家の中に引っ込んでいる訳にも行かないし、だからと言って遠くに行くには気が引けるのである。それなら近くをウロウロすることに。出かける時はいつもカメラをお伴に。ただ歩くだけでは楽しくないので、写真を撮りながらとなるとちょっといい。

 近いがあまり行ったことがないところがある。平群の道の駅によく行くのであるが、そこから東側に見える「椿井城」があった山のふもとは行ったことがないので歩いてみることにした。近鉄生駒線竜田川駅から歩くことに・・・

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 さよなら 近鉄特急色 〈3〉

勾配区間の12200系

近鉄の路線延長は約500キロあって、前回〈3〉で紹介のように見どころは多いのですが、私が特急に乗って、いちばんワクワクするのは、桜井から始まって、伊勢中川付近まで延々と続く山岳区間です。33‰の連続勾配をものともせず、最高速度を維持しながら、グイグイと上がって行きます。以前、本の取材時でしたが、暮れゆく頃、駅のコンビニで買った100円コーヒーを飲みながら、流れ行く夕景を眺めたのは至福の時間でした。

大阪線の前身となる参宮急行電鉄は、昭和5年に上本町~山田が開通しました。長谷寺~榛原の約10キロに33‰の連続勾配が続き、榛原~三本松、伊賀上津~伊勢石橋にも33‰の勾配があります。トンネルも、最長の新青山トンネルをはじめ、12のトンネルがあり、鉄橋、大規模な築堤も連続する、日本最初となる山岳区間を走る電気鉄道でした。当時の2200系の最高速度は110キロであり、当時としてはまさに新幹線の出現でした。今回は、この山岳区間を行く12200系を眺めてみました。山岳区間では、昔から撮影地として有名だったのは、長谷寺から榛原寄りへ行った大築堤だろう。高橋弘さんのビスタカーが代表的な写真だ。手前が段々畑になっていて、高さが自由に変えられるのも魅力だった。その後、耕作がされなくなり、荒れ邦題、樹木も伸び放題になり、撮影ができなくなった。(2001年11月)

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2021年 丹後路への旅 Part2

今回の旅は北陸で締めくくろうと雪害解消を願っておりましたが、コロナ騒動同様に悪化するばかりで好転しません。福井鉄道・えちぜん鉄道とも軌道が雪でうずもれて除雪作業が追い付かない状況です。明日10日の運行は難しそうです。


▲ えちぜん鉄道のブログを見ているととんでもない状況です。前回行った時も1m近い積雪がありましたがホームより上まで来ているとは・・・。
行っても無理と諦めました。仕方なく明日は丹後路のリベンジと決めました。
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2021年 丹後路への旅 

青春18きっぷの残った2回分はどこへ行こうかと姫路からの帰路に悩みました。コロナ騒動のこの時期です。混み合う場所や列車の選択はNGです。悩みぬいた結果は、第1希望は福井鉄道・えちぜん鉄道、第2希望は丹後路をぐるっと回ることにしました。いずれも雪の車窓を見ながら飲み鉄旅が楽しめます。

ただ、天気予報では両方とも大雪です。列車の遅延や運休が予想されます。18きっぷは2回分残っていますので最悪現地で一泊もありかなと覚悟しました。どちらにするかは明日朝の運行情報を見たうえで決めることにしました。

 

1月7日

6時前には目覚めました。顔を洗ってからはコーヒーを入れてTVを付けます。朝の情報番組を見ながらパソコンを立ち上げて運行情報のチェックをします。
福井鉄道・えちぜん鉄道は動いているようですが、天気予報どおり降雪が続くと運行停止が考えられます。前回冬に行ったときは運休と途中で運行停止にあいました。ヤバそうです。一方の丹後路は城崎温泉辺りまでは積雪もなく通常運行していますが、問題は余部鉄橋辺りで今後天候が悪化してくると運行停止が予想されるとの事です。

どちらを選択してもリスクはありそうです。昨年に東方面の雪景色は見ましたので今回は西方面にするかと丹後路に決めました。
朝食を済ませて7時には自宅を出発しました。

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 年末年始 臨時列車で賑わっていた時代へ 〈4〉

東北本線の普通列車、貨物列車

本テーマの最後として、東北本線の普通列車、貨物列車と参りましょう。優等列車の影で、日常の足としての普通列車も多く運転されていました。多くは115系電車ですが、この時期にはまだ長距離鈍行が走っていた時代で、「一ノ関」のサボを下げた旧型客車を、デッキ付きのEF57が牽く列車も残っていました。また、年末年始は、荷物、貨物輸送が激減するものの、そこは、大動脈の東北本線のこと、何本かの荷物列車、貨物列車を見ることができました。

123レを牽くEF57 13 123レはもともと上野~青森の長距離鈍行だった。昭和43年10月で短縮されて、上野~一ノ関になった。やや低い位置から構えて、突き出たパンタを強調してみた。栗橋付近(昭和50年1月)

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2021年最初の鉄旅 新快速のAシートに乗る

2020年暮れに上越、奥三河と久しぶりの鉄旅を楽しみました。移動には青春18きっぷを使いましたが 、”トホホ”になりました。買って2回分しか使用していない18きっぷを宴会場で紛失していました。
翌日まで紛失を全く分からず、たまたまW田さんと今日の予定を話している途中で判明しました。しかし幸運なことに拾得された方がおられ手元に戻るはずだったのですが、預かっておられた方があろうことか紛失されるという二重の紛失事件になりました。

 

その方からは申し訳ないと未使用分相当額を返却頂きましたが、青春18きっぷの旅を確定していた私は、新たに購入せざるをえなくなってしまいました。当初は次の予定もあって1回分だけ残るはずだったのに新たに買ったので3回分が残ってしまう結果となりました。
コロナ感染状況が拡大化してきた中、ステイホームに心掛けないといけません。いつもなら未使用きっぷを買ってでも行くところですが、今回はまだ使用できる期間も長いので売れるだろうと市内中心の四条烏丸にあるチケットショップに電話しますと、今日なら6,620円で買い取らせていただきますと提示されましたので早速車を飛ばして行きましたら、店員の方より「すみません、間違っていました。コロナ騒動できっぷの需要が低くなって格安になっていました。先ほど提示させていただいた買取価格は通常価格で、今は半値以下です。私の勘違いで申し訳ありません。」と謝罪されました。
電話で聞いた段階で商談は成立しています。それはおかしいとするところですが若い人がミスを正直に詫びているのを追求するのは人生の先輩としては出来ません。間違いは誰しもありますと言い残して売らずに引き上げました。
しかし、3回分残、使用期間残3週間もあるが価値のなくなったきっぷをどうするかです。捨ててしまうのももったいないが、使用するには感染拡大化の現在、リスクが大きいと思案を重ねました。

検討を重ねた結果は、空いていて3密にならなくソーシャルディスタンスは保てる乗車方法としては、2019年3月16日から運用されていますがまだ乗っていない新快速のAシート車両初乗車でした。

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 年末年始 臨時列車で賑わっていた時代へ 〈3〉

東北本線 特急・急行列車

臨時列車で賑わっていた年末年始の東北本線ですが、もちろん定期列車も数多く運転されていました。東北新幹線の開業前、昭和50年3月改正で見ますと、東北本線の上野口では、特急33往復、急行18往復程度の定期優等列車が運転されていて(途中、日光線、磐越西線など分岐を含む)、在来線としては、いちばんの特急・急行の頻発線区でした。この改正では、急行列車を格上げして、24系25形客車の新造による、寝台特急の増発もあり、特急が主役へと代わっていきます。撮影したのは昼間の時間帯で、寝台特急の撮影はできていませんが、昼行の特急・急行、夜行急行を数多く撮ることができました。東北本線の特急の中で、本数から言っても代表格は上野~仙台の「ひばり」だろう。昭和36年に誕生以来、増発、編成増強を続けて、ピーク時の昭和53年10月改正では15往復に達して、エル特急の代表にもなった。栗橋付近(昭和50年1月)

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 年末年始 臨時列車で賑わっていた時代へ 〈2〉

昭和の時代 東北本線の臨時列車

新年のご祝詞を申し上げます。穏やかな天候で明けて、昨日も、恒例の阪堺線撮影に出掛けました。電車は大増発ですが、肝心の乗客は、ざっと見て昨年の半分程度で、座って行ける状況に拍子抜けしました。鉄道を取り巻く状況は年が明けても厳しいようですが、鉄道はなやかなりし頃の年末年始の様子を見ていきます。昭和50年、51年と、2年連続で東北本線へ写しに行っています。約45年前で、いずれも、Fさんに連れって行ってもらい、当時、熱中していたボンネットバスや、廃止予定の仙台市電の撮影の帰途に撮影したものです。東北新幹線が開業するのは、昭和57年6月の大宮~盛岡の先行開業まで待たなければならず、在来線である東北本線には多くの列車が運転され、列車輸送のピークを迎えていた時代です。EF57が牽く、座席車ばかりの臨時急行は、年末年始の東北本線を代表するシーンだろう。上り「八甲田56号」「おが53号」EF57 8牽引 栗橋付近(昭和50年1月)

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2020年 奥三河に残る絹雲母鉱山トロッコ鉄道訪問

皆様、明けまして:おめでとうございます。年末までに2020年の旅日記は投稿しておこうと頑張っていましたがいろいろと都合が発生して年を越してしまいました。遅くになり誠に申し訳ありませんが、只今より投稿させていただきます。よろしくお願い申し上げます。

上越鉄路から帰ってから6日後、今度は奥三河に残る絹雲母鉱山トロッコ鉄道を訪問します。案内講師は神谷さんですが今回はクラブツーリズムが主催されています。従って申し込みはネットからでした。当初申し込み人数は20人だったそうですが、コロナ感染拡大に伴い各地で緊急事態宣言が発出され、GoTo キャンペーンが全国一斉に12月28日~1月11日まで中止される事態となってからはキャンセルが相次ぎ15人になっていました。
参加費用は豊橋駅集合で日帰りの28,000円、旅行代金への給付金は7
,000円で差引の支払い額は21,000円、地域クーポンは3,000円で紙クーポンを受けとりました。実質の支払額は 18,000円ですね。 続きを読む

 年末年始  臨時列車で賑わっていた時代へ 〈1〉

大阪駅で夜行列車を撮る

誰もが想像すらしなかった一年が終わろうとしています。最大の書き入れ時である年末年始の鉄道界も、普段よりも空席が目立つとニュースが伝えています。臨時はもちろん定期列車ですら運休、終夜運転の取りやめと、長く鉄道に接してきた我々にとっては、信じられないような年末となりました。

少し前までは違いました。長距離移動は、新幹線、航空機、夜行バスに移行し、在来線の長距離列車はほぼ絶滅していたものの、年末年始になると、帰省客、スキー客のために、JR在来線に多数の夜行列車が運転され、国鉄時代の再来を思わせました。夜間の短時間に集中して発着するため撮影効率が良く、年末の恒例として、三脚持参で、始発駅の大阪駅へ向かったものでした。今から約20年前、年末の状況を振り返ってみました。スキーが絶頂期の時代、スキー場まで寝て行ける「シュプール」号が多数運転されていた。興味深い車輌ばかりだったが、これは正調ボンネットの485系で運転されていた神戸発「シュプール妙高・志賀11号」、ヘッドマークも愛らしい(1993年12月29日)。

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2020年冬 上越鉄路見聞録 Part7 青春18きっぷで駅そば食い鉄、日本酒飲み鉄旅

第4日目 12月14日

今日は帰宅しますが、久しぶりの鈍行列車の乗っての旅です。12月になって今年初めて青春18きっぷを買いました。ただ北陸新幹線開通後は長野までは第3セクターになってしまったので使えません。1,520円の別途運賃が必要になりました。
朝6時前には起きてホテルの温泉に入浴しましたが昨夜とは違ってヌリヌル感はありません。改めて昨夜の銭湯「天然温泉 釜ぶたの湯」は良かったですね。

▲ 6:40 健康朝食が売りのスーパーホテルの無料朝食です。若い時のようにガッチリと食べる事はありませんがこれだけ品数が多いと見るだけで大満足です。コロナ対策に入場するとビニール手袋が提供されてトングでの感染を防ぎます。座席も半分が撤去されてアクリ版で仕切って対策されています。
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 やっぱり蒸機が好き! 《九州》列車・線区編 8 高森線

続いて高森線の後編です。この紀行文のもととなった旅行は、学生生活を終えて、社会人の一年生の時でした。たしか、当時の有給制度は、入社半年後にしか取得できず、7ヵ月後に2日の有給を使って、上司の反対を押し切って、行ったものでした。まだ土曜日はすべて出社していた時代、日曜と組み合わせて、三日間の旅行となりました。馴れない仕事に忙殺されていた時期、何とも貴重な時間となったこと、いまも思い出します。

晩秋の南阿蘇を行く立野行き、C12+貨車+客車の列車。長陽付近(特記以外、昭和47年11月)。

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