小・中学校を宝塚で過ごした関係で鉄道写真を始めた昭和30年代後半の写真には福知山線のC11牽引旅客列車が多少残っている。これは大阪から篠山口まで2往復(昭和31年の時刻表によると1往復や気動車との2往復体制の時代もあったようだ)していた区間列車で現在の「丹波路快速」のルーツのように考えている。当時は国鉄吹田第一機関区のC11271、C11280、C11316、C11363の4両のC11が担当していた。
1963(昭和38)年1月2日、大阪駅8時37分発725列車篠山口行きのC11271で左はキハ82系の京都発1D特急「かもめ」長崎・宮崎行きが8時に出発したところをとらえたものである。左は8時22分に東京から到着した寝台専用急行15ㇾ「彗星」牽引のEF58169[浜松]である。▼
阪急宝塚線と並行して走る福知山線は宝塚を出ると軽い勾配を登り生瀬駅に到着する。ここまで来ると急にローカルな感じがしたものだ。1962(昭和37)年7月29日、盛夏の生瀬駅に停車する725列車C11363で生瀬駅出発後は今は廃線区間となっているトンネルあり鉄橋ありの武庫川渓谷に入る。▼
1965(昭和40)年3月5日、武田尾-道場間の同じ725列車のC11363で渓谷区間を終わり道場駅に近づくにつれ平坦な盆地が始まる。ピンボケですみません。▼
篠山口は転車台がないのでバック運転で折り返してくる。1961(昭和36)年4月2日、宝塚駅を出発する732列車C11316の牽く大阪行きで扉も窓も開けっぱなしのよき時代である。この角度から見ると戦時設計の機関車であることがわかる。▼
時代は変わって1986(昭和61)年に福知山線は全線電化され丹波路快速が2000(平成12)年3月に運行が開始された。2004(平成16)年10月1日、藍本-相野間のクモハ221₋78の上り丹波路快速で221系も2012(平成24)年3月に運用を終了している。▼
2019(平成31)年4月15日道場-三田間を行く225系快速篠山口行き。223系からステンレス(不錆鋼)の電車に変わったが車体の番号を確認できず走行中の列車は目を悪くするし見えないのでやめた。▼
三田から大阪方面に通う人は福知山線宝塚-尼崎間が単線であった時代は宝塚で阪急電車に乗り換えたという嘘か本当かよくわからない話を聞いたことがあったがとにかく蒸機時代のあの日からえらい年月が経ったのは事実である。
準特急様
福知山線のC11の写真が2枚ありました。
1枚目は、1965年5月5日の725列車です。場所は旧線の「武田尾-道場」間で駅を出発したところで力行しています。機関車は砂箱と蒸気ドームキセは工作の容易化のために角形(かまぼこ形)となった戦時設計型で、 たぶんC11 271です。今回、このような列車にも号車札が入れられていることを初めて確認しました。
2枚目は大阪駅に帰ってきた1967年4月29日の728列車で、 機関車はC11 363です。
快速つくばね様
コメントが前後して最近の頭の状態を表しているようですみません。6両という長い客車を引っ張ってシューシューと白い煙(水蒸気かな)をはいてくるのはC11の特徴ですね。
快速つくばね様
早速ありがとうございます。真横からもいいですね。同級生の友人と武田尾駅のすぐ近くの武庫川で飯盒炊飯をしたことを思い出しました。鉄道写真は一切撮らなかった中学生のころです。蒸気機関車は停車中は風がないと当然上に上がっていたこともおぼえています。空は青く水は清く澄んで公害やスモッグなどの心配のない時代でした。
準特急様
本題からまた外れますが、こんな写真がありました。入場券を収集するために門司港から長崎夜行に乗車し、下車した1971年5月1日の長崎本線(現:長与支線)の長与駅です。後続する佐世保発長崎行きの通勤列車ですが、牽引機のC57 158の吐き出す煙が無風状態であったのか機関車の何倍かの高さまで上がり、まるで『竜巻』のように見えました。
快速つくばね様
脱線していただきかえって嬉しく思います。キリがないとお叱りなさらないでください。地域的にもあちこちに飛ぶのはまとまりが欠ける面があるかもしれませんが歓迎したいと思います。さて、長与駅の『大竜巻』に対してそれに似たものを探すというよりも頭の中を古い時代に遡りましたが記憶の中にありません。しかし、こういうのがありました。1964年4月2日鳥栖付近の上り特急「みずほ」の様子がおかしいのです。C591[熊本]が場内信号機の手前で止まってしまったのですが在来型客車4両を連ねて煙は停車中の機関車そのものでがっかりでした。因みにこの日の下り「みずほ」は20系客車をC59129[熊本]が逆行運転で牽っぱって行きました。何があったのか真相はわかりません。
快速つくばね様
しつこいようですが翌4月3日糸崎で出発する下り貨物のD52348[広島]のもう少し猛煙です。
準特急様
お言葉に甘え、調子の乗って同じ九州ですが久大本線にワープします。
昨日も湯布院で降雪があったようですが、この写真を撮った1969年2月24日も早朝から積雪がありました。前日、由布院-南由布間で由布岳を入れた写真を撮ったのですが、長い下り勾配で煙は殆どはかず面白くありませんでした。それならばと湯布院温泉で1泊し、水分峠を登る列車を撮ろうと野矢方向に歩き出したときに撮った由布院を出発するD60 21が牽引する上り列車です。当時の湯布院温泉は、現在では想像もできませんが学生でも泊まれる鄙びた温泉でした。
準特急様
季節と場所が変わりますが、1968年4月7日の桜満開の夜明駅です。左はC11が牽引する日田彦山線の下り列車、右は78627が牽引する久大本線の上り列車です。
快速つくばね様
久大本線の煙を満喫させていただき有難うございます。若いころには宮原線で合宿し久大本線のD60や8620を撮ったことを思い出します。もう15年くらい前ですが会社の同期4人と久住登山を試み途中で豪雨に遭遇したので登山をあきらめて下山中に後ろから来た友人と接触事故を起こしました。仰向けに倒れて痛みが激しく翌日は山小屋で休息しました。その翌々日は今度は由布岳登山をする3人を湯布院の大カーブで見送ってから1日DCを撮りました。帰りは竹田の友人の車でピックアップしてもらいました。東京に戻り整形で再度診てもらったら骨折でした。
電化迫る旧線時代の1983年6月に武田尾の撮影時に、ディーゼル時代の快速列車を写しています。
歴史的には昭和40年代後半から気動車化されて、長距離列車の多い客車列車の間で、なかなかの俊足だったようです。使用車両も雑型寄せ集めでなく、最新の40系4連固定です。まだ急行列車は58系でかなりの本数が鳥取や島根方面まで走っていて、電化とJR以降はすっかり性格の変わったこの区間を思うと、遠い年月を感じます。
k.H.生様
武田尾の雰囲気を感じます。福知山線は蒸機がいなくなって以降、また、蒸機がいた頃でも普通列車の気動車の写真を撮ったことがほとんどありません。そのような中で1962年12月16日に和田山へC55を撮りに行った時、一番列車岩見大田行き711列車の最後部から石生駅で交換して出発する422D8時38分発の後部キハ1018福フチを撮ったのがありました。この列車の大阪着は11時24分です。気動車の活躍をよく知らない時代の快速列車の記録をありがとうございます。
準特急様
長崎本線、久大本線に方向転換させてしまいましたので福知山線に戻します。
1965年5月5日の旧線の武田尾-道場間で大茂山トンネルを出て、第三武庫川橋梁を渡るキハ17を先頭とする上り気動車普通列車です。時間から見て準特急様が撮られた422D列車と思うのですが、この時点で列車番号が変わっているかどうかは確認できていません。
快速つくばね様
長崎、久大本線からの変更郷帰り有難うございます。63、64年度の時刻表では422Dですが、65年年度のそれでは424Dと変わっております。お写真の大茂山トンネルを出た第三武庫川橋梁も好ポイントですね。私は旧線跡のハイキングコースを歩いたことはありますが、この好撮影地の現役時代は行ったことがありません。当時は普通列車は板張り椅子のオハ61系か屋根が低くて背ずりの低い17系が多かったです。それでも10・17系はきちんと撮って置きたかったと思います。
準特急さま
大幅遅れのコメント、失礼します。私も大阪駅で福知山線のC11を撮っていました。休日の10時台に運転されていた臨時列車で、時刻表には載っていません。武庫川の渓谷など、臨時を出すほど、行楽客が多かった時代です。京都駅ではC11は見られず、もっと大きな大阪駅に、なぜ小型のC11が出入りしていたのか、訝ったものでした。昭和40年10月のことでした。
総本家青信号特派員様
C11の篠山口行きの臨時列車にはスハ43系の豪華列車もありました。私は山陰本線の京都口と福知山線を対比してみていました。どちらも都市近郊に武田尾渓谷や保津川渓谷があり、沿線にお城があったり関西はいいなと思っていました。両線とも福知山区のC57(もっと前はC54やC55)が京都、大阪に連日来ていました。そして区間列車は京都口は園部まで梅小路のC57(その前はC51もっと前は8620もいたかもしれません。)大阪口は篠山口に転車台がないので吹田1区タンク機関車C11が長大列車を牽いていました。
準特急様
臨時列車にはスハ43系も使われていたとのこと、大阪発着の夜行列車の間合い運用かもしれませんね。準特急さんから、山陰線京都口と福知山線は、似ているとよく聞いていました。途中の折り返し駅、園部までは35キロ、篠山口までは68キロあり、タンク機とテンダー機の使い方が真逆になっていて、なんでやねんの思いがありましたが、なるほど篠山口には転車台が無かったのですか。
C11は山陰線を走ったことが無かったと書きましたが、唯一、山陰線の京都~二条の高架化を記念して、梅小路蒸気機関車館で動態保存中のC1164が記念列車を牽いた例があります。昭和51年3月のことでした。また、梅小路機関区には、もともとC1196が配置されていました。何をしているかさっぱり分からないカマで、いつも扇形線に休んでいました。
C1196居ましたね。正面のプレートが形式入りのもので、風格がありました。また戦前、紀勢中線に配属されバッファとねじ式連結器を装備した、C1196-98号の1輌でした。バッファー・ビームに、バッファーを除去して埋めた跡が見られたと憶えています。写真は昭和43.11.21撮影。高校の修学旅行で、京都滞在中に自由研究名目で梅小路区へ行った折のものです。
大阪駅で撮影したC11の牽く臨時は、時刻表にも記載がなく、時間帯など不明のままでした。ところが、いま時刻表のことをデジ青に載せているところから、仔細に調べたところ、「春の臨時列車」ページに写真のような記載がありました。大阪を8時台に出る篠山口行きの臨時がありました。こんな早い時間帯だったのかなと言う思いもありますが、やはり、C11の牽く臨時は走っていたのですね。この右端に、なんと夜行の「サイクリング列車」たる臨時もあります。行き先は鳥取で、夜行でサイクリングに行くとは、なんともモーレツ時代を象徴する列車です。
総本家青信号特派員様
京都-園部間と大阪-篠山口間の距離に差が結構あることに気づきました。2区間それぞれに興味を持っていたのは私だけでないこともわかりました。関西学院大学の同好会の方はどうなのかなと思うこともあります。総本家さんの独壇場でした宮津線の海水浴臨時列車に急行列車の間合い運用があったことまでは考えていませんでした。写真はネガ紛失で残っていたプリントの再生ですが1963(昭和38)年9月24日福知山線中山寺-宝塚間の篠山口行き臨時3725列車の客車の台車がTR47のスハ43系であるようです。これが通常のオハ61系と異なるので印象に残っていたC11の豪華列車です。なお、吹田一区の4両のC11以外に総本家さんお撮りのC11164がいたことも始めて知りました。調べてみますと竜華区からの転属機であることもわかりました。いろいろと発見するに至るコメント有難うございます。