スクラップブック 事件・事故編・第9回

ここで少し災害ではない事件・事故をご覧頂きます。

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⇩上の事故とはちがいますが、似た事故が多発していたのですね。キハ10系。

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⇩この事故は特急「ひびき」の窓が開けられたことで発生した事象であります。当時157系は非冷房で窓が下降式で開けられました。不心得者がその窓から空き瓶か何かを線路に投げ捨てたのが運悪く対向車に当たったものです。157系は、この年から冷房か工事が始まっており、当該車両が未施工だったのではと思います。

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この後に大事故が発生します。

スクラップブック 事件・事故編・第9回」への9件のフィードバック

  1. 米手作市さま
    今回の記事は全て知らなかったものばかりです。最初の香椎~箱崎間の事故は警報機・遮断機付きでさえこうした事故が起きていたとは、当時の自動車ドライバーの横着ぶりや意識の程度がわかりますね。記事中ちょっと気になったのがディーゼルカー運転士の「国電(交直電車を国電といわれると違和感を感じます)が脱線したら赤信号になるはず」という証言です。現在はこの種事故を防止するため、三河島や鶴見事故を契機に開発された非常発報装置がありますが、当時からあったのでしょうか。あったにしても乗務員が操作して発報するものであり、この証言の意味がよくわかりません。
    現在では近隣を運転中の列車が巻き添えで停まることがありますが、対向列車事故の防止という観点からやむを得ないですね。
    一時期東海道新幹線で氷塊落下による窓ガラスの破損事故がありましたが、「ひびき」でも同種の事故がありましたか。旅客の投げ捨てらしいですが悪質なイタズラかもしれませんね。在来線でも投棄物で砂利が巻き上げられての同種事故がありました。36.10改正以降、列車の運転速度向上に伴って生じるようになった種類の事故かと思います。
    次回ご投稿の大事故は余り知りたくないと思う一方で、知りたいという好奇心が高まります。

    • 今回の記事の中で、一番興味を感じたのが特急「ひびき」の事故です。乗客の投棄物が原因というのが今の人には理解が出来ないのでは?と思ったからです。
      157系は特急用ですが、そもそもは準急「日光」型で非冷房だったので窓が開きました。それを東海道線の「こだま」の補強用に特急として投入したことが原因です。
      証拠を添付しますのでご覧下さい。

      • 157系は登場当時はデラックス準急と呼ばれたらしいですね。準急から急行を飛び越えて特急に出世したわけです。さすがに撮っておられますね。私はこの当時、東寺の西に住んでいて放課後はよく東海道線の線路傍で行き交う列車を眺めていたものですが、157系「ひびき」を見た記憶がありません。恐らく中学生になって毎日御所近くまで通学するようになり、時間が無くなったのではと思っています。
        最近は窓の開かない車両が多くなってきましたから、仰る通り若い方たちには窓から捨てることを含めてピンとこないでしょうね。当時は「窓から顔や手をだすな、物を捨てるな」は注意の常套文でした。

  2. 彦根にあるサンライズ出版が平成19年に出版された淡海文庫「信楽汽車土瓶」という本があります。これによると西日本は主として信楽焼が、東日本は益子焼の汽車土瓶が駅弁と共に売られていたようです。窓が開く時代、車窓の風景を楽しみながら駅弁を食べ終わり、土瓶のお茶も飲み終わると、さてその土瓶をどうしたかです。①大事に家に持ち帰えって何かに使おうとする人②座席の下に弁当ガラと一緒に置いておく人③窓から投げ捨てる人の3パターンがあるようです。この本の筆者は文化財保護分野の方で、遺跡の発掘などにも関わっておられるのですが、線路脇の遺跡を発掘していると汽車土瓶が出て来たり、鉄橋近くの川底から汽車土瓶が出て来たりするそうで、その破片からどこで作られて、何駅で売られていた土瓶なのかを追跡できたりするそうです。それはさておき、日本人の悪い習性とでも言いましょうか、汚い物、いらない物は川に流す、水に流すという意識が未だにあって、私の住む地域の人家もまばらな川土手にゴミが投げ捨てられている光景が見られます。窓から不要な物を投げ捨てることに罪悪感の無い人が多かったのではないでしょうか。

    • 西村雅幸さま
      仰る通りだったと思います。私は「窓から物を捨てるな」という厳しい躾で育った(笑)ので、土瓶を捨てるなどと言う発想は全くありませんでした。その意味では眼から鱗でしたが、よくよく考えてみると、列車の窓から捨てられるやや重い物といえば土瓶くらいでしょうから、なぜ考え付かなかったのか、もう少し思い巡らすべきでした。
      土瓶の産地が関西では信楽、東日本では益子だったことを初めて知りました。土瓶茶時代に関東圏へ行くことがなかったこともありますが、仮に手にしていたとしても土瓶=信楽焼と思い込んでいたので、産地までは気にしなかったのではと思います。
      注意を払うべきポイントが多くあったのですね。
      楽しい情報を有難うございました。

      • 土瓶の産地が東西で異なりますが、釜めしの容器も然り。横川駅「峠の釜めし」の釜も益子焼ですね。

        • 大ヒットになり蛸壺のデザインも多岐にわたる現在も同じかどうかは未調査ですが、淡路屋の「ひっぱりだこ飯」は多治見焼で始まっています。

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