事件や事故も続くと飽きてくるらしい。
反応もイマイチだが、読んでは頂いているようで気を取り直している。
今回は1961年のダイヤ改正から年末へと進める。
この年は「36.10」で新DC特急が走り出す年である。しかし・・・
⇧台風18号が関西を襲い、大阪の海岸地域は浸水被害があった。写真は浸水地域に橋代わりにチキを並べて歩道の代用としている。
⇧さて、鳴り物入りでスタートした36.10.1改正は、全国的にDC特急が走り出す国鉄にとって記念すべき日のはずだった。ところが主役の82系が故障続出で、遅延・運休、挙げ句の果ては特急停車駅の取り消しなど大恥スタートとなった。
⇧大分交通別大線で土砂崩れ。マラソンの中継時に、横を走っている電車程度にしか知らなかった。
⇧同じ日に東西で列車事故。特に急行「いわて」の事故はショックを受けた。写真の真ん中で白い線がみえる客車はマロネ29のWルーフ車である。京都では見られないWルーフのマロネ29はぜひ見たかった車両であったが、廃車されたのが残念でならなかった。(続く)
米手作市さま
白鳥試運転時の作見事故、ありましたねえ。高校生が一人亡くなったと記憶していましたが、3人も亡くなっていたとは知りませんでした。
初日まつかぜは福知山から先は後部運転台が無い状態で走ったのでしょうね。当然折返しの上りはまさか推進運転もできず運休になったと思われます。これに類したことを昭和48年頃に米子で目撃しています。何かの旅行の帰りに米子駅で待っていたところ、上り岡山行181系DC特急「やくも」の到着前に車庫の奥から付属編成の181・180・180の3両が出区してきました。次の「やくも」に増結は無いはずなのにと思っていると、案内放送が「岡山寄りの3両(付属編成)に不具合が発生したため車両を取替えます」とアナウンスしました。おかげで本線上ではまずみられない車両取替シーンを見ることができました。到着後不具合編成が伯耆大山方に引き上げ、代わりに引き上げ線からソロソロと取替編成がバックしてきて連結、およそ15分遅れて発車していきました。
能生の珍事も覚えていますが、私は長い間、能生村(町?)が早とちりで勝手に「運転停車」=営業停車と勘違いした、との当時の報道を鵜呑みにしていました。駅で歓迎行事をするなら当然駅と調整もしたでしょうし、なんとも奇怪千万な出来事ですね。国鉄内部でも本社、中部支社、金鉄局のそれぞれが言うことが食い違い、責任のなすり合いの様相を呈しているのは滑稽です。それと特急券の謎です。旅客が手に入れたのなら発売したことになり、金鉄局以外がウソをついたことになります。昔のお役所仕事の典型みたいな話に思えます。
大分交通別大線の事故も覚えていますが、こんなに多くの方が亡くなられた大惨事だったとは知りませんでした。
準急「あきよし」の追突事故は年末だったと記憶します。新聞の日付けが29日ですから12月29日でしょう。家族と年末の買い物で河原町へ出ていた時に店のラジオが伝えていました。追突されたのはさくらでしたか。あさかぜだとばかり記憶していました。ブルトレ=あさかぜと短絡したのかもしれません。
「いわて」の事故は映画「ある機関助士」を想い出させてくれました。亡くなった助士が気の毒でした。
こうして振り返ると大まかなところは覚えていても、やはり細かい部分は遠隔地での事故や興味がない等の理由でいい加減にしか覚えていないものですね。
米手作市様
1961年10月1日、宝塚駅を通過する初日の「まつかぜ」の後ろから写した姿です。この約1時間半後の福知山でダウンして最後部車両がちょん切れた状態で走ったとのことです。前の車両にお客を移動させるなどしばらく車内もゴタゴタしたことでしょう。
先頭車が落ちた状態で走った「まつかぜ」を見たかった。どなたかお持ちではないでしょうか?
米手作市様
いつも貴重なスクラップをお見せいただき有難うございます。
昭和36年は、大阪府内の中学生でしたが、遠く離れた常磐線「東海」の事故を全く知りませんでした。ホームに剪定された黒松が一列に植栽された「東海」は、常磐線の駅の中でも好きな駅のひとつですが、このような事故があったことは驚きです。急客「いわて」1210列車を牽引していたC6221は、1962年2月2日にC62の廃車1号機になってしまいました。
余談ですが、広域合併を積極的に進めてきた茨城県の中で東海村と美浦村が未だ「村」として残っています。前者は1957年に日本原子力研究所が設置されて以来、多くの原子力関連施設が集積し、後者は1978年に開場された日本中央競馬会の美浦トレーニングセンターがあり、どちらも固定資産税の税収が多いようです。
快速つくばね様
読んでいただきましてありがとうございます。
遠く離れた京都の中学生には「東海村」の名前は原子力研究所という未来を感じさせる施設がある駅とインプットされていました。鉄腕アトムが産まれた所か?と本気で思っていました。未だに「村」だとは思いませんでした。
米手作市様
60 年以上も昔の新聞記事、興味深く拝見しております。現在より明らかに保安度の低かった鉄道ですが、天災・人災に拘らずできるだけ短時間で復旧させようとしていた当時の関係者の熱意と、それだけ鉄道が貨客とも輸送の重責を担っていた様子がわかりますね。
西九条駅のチキ利用の「通路」ですが、このときの台風は、のち「第2室戸台風」と呼ばれた台風ですね。
能生駅の「白鳥」運転停車時の顛末は、「運転停車」なる鉄道用語の解説にはよく引き合いに出される例ですが、新聞記事によればそれほど単純なことではなく、1900生様のコメントどおり、国鉄本社、支社、管理局間の情報伝達の行き違いも含まれているようです。通信手段が現在では想像もつかないほどのレベルで、指定券にしてもマルス登場前とあっては、死傷者多数を出した重大事故同様、さまざまな原因が複合的に絡んで起こったことと言えるのかもしれません。
ほかにも、「白鳥」試運転時の死亡事故の紙面片隅にある「列車から転落死」の小さな記事内容は、旧型客車の乗客が走行中にデッキの開放されたドアから線路に落ちたのでしょうか。いずれにせよ、60年以上の歳月を感じさせる事故ですね。
まほろばの鉄趣味住人様
あの台風が「第2室戸台風」でしたか!
覚えています。幼少の頃のジェーン台風と、この第2室戸台風は本当に怖かったです。
鉄道事故も60年以上も昔から比べると少なくなったものです。改めて古い記事を読み返すのも感慨深いものがあります。
まだまだすごい事件事故が続きますので、思い出などコメントをお待ちしております。
まほろばの鉄趣味住人さま
転落死はあの頃旧客でよく発生していました。近くでは山陰線吉富駅を京都発下関行夜行(のちの「山陰」号)が通過する際、デッキから足を垂らして涼んでいた若者がホームに足を取られて転落した事故を覚えています。お盆の帰省列車で満員のためデッキに居たそうです。運悪くいくつかの駅を通過する快速運転だったため通過の同駅で事故に遭ったようでした。のちに全国各地の通学客レで高校生による同種事故が多発し、国鉄はその対策として電車の付随車のようなドアが閉まる50・51系客車を新造したという話を聞きました。動力近代化でそのうち機関車牽引列車が無くなるのに無駄なことという声もあったようですが、人命には代えられなかったのでしょう。
1900生さん、
当時はこれぐらいは当たり前でしたね。全て自己責任で乗っていました。
いまなら、社長が記者会見で頭を深々と下げるニュースが放送されることでしょう。おかげで二段窓、ドアエンジン付きのプレスドア、気動車まがいの赤い客車に嫌気が差したものです。