準特急さんにより各地で活躍したDF50の記事が続いていて楽しませてもらっています。DF50機関車はキハ55系気動車と同じように国鉄車輛近代化転換期に登場しましたが地味な存在でした。端正な車体でED70とともに好きな機関車でした。塗色が変わったころは客車もブルーに変わったころでともに亀山駅で初めて見たのを思い出します。
50号の表紙は題が「なごり雪」で1981(昭和56)年3月2日土讃本線雪の坪尻駅となっています。ガリ版刷りからタイプ印刷にグレードアップしたと中島禎孝会長が巻頭に書いておらqれ1983(昭和58年)11月26日の発行でした。
大阪通信員様
有難うございます。これはいい写真ですね。雪国かなと思っていましたが何と坪尻なんですね。御世話になった新入生歓迎旅行で通っていますね。SGの吹き出す蒸気が素晴らしいです。ED707を貼り付けます。1964.3.19田村駅到着の泊り発米原行きです。
準特急 さま
ED70の画像さっそく有難うございます。懐かしいですね。
DF50の続き楽しみにしています。同時に連結されている旧型客車や二軸貨車の画像が見られるのもいいですね。
大阪通信員様
早速有難うございます。毎週水曜日のチャペルアワーの時間に行われる例会が楽しみでした。その時間のスライド撮影で何時ぞや先輩の動画による力作急行「大和」を拝見しましたがいまだに記憶に残っています。まだ真っ暗な名古屋でEF58からバトンを受けたC57が牽引する湊町行き急行を何日間か通われて撮影されたものと思われます。西条凡児さんもダンボール入りオロナイン軟膏をどうぞと言ってくれそうです。ところで先輩の言われる通りDF50やED70、さらにED60、ED61、ED71、EF30等皆いい顔していました。それに続く客車や貨車も個性がありました。DF50ももう少し続けて行きますので宜しくお願いします。
大阪通信員様、
49号以前までは号数に関連する車両のイラストでした。私の学生時代にはM君という会員がイラストを担当しており、私のように絵心のない者にとっては、この才能を羨ましく思ったものです。
50号で印刷することとなり、青信号初の表紙写真(たぶん)に私の写真を使っていただき、名誉なことと密かに思っています。
神戸の結婚式場でカメラマンの屋上から転落される事故があったようですが、50号の表紙写真は貼付写真左側の元通票授受を行っていた小さなホーム上からで、ファインダーを覗きながら後退、物のみごとに転落いたしました。SGの効いた運転席では、機関士、助士ともに大笑いされているのがハッキリとわかりましたが、神戸とは高さが全然違うこと、積雪があったことで、痛いと感じることもなく、再度この小さなホームから何事もなかったのかのように撮影したというウラ話でした。
撮影の際には細心の注意を払え、と肝に銘じた日でした。
四方誠様
いろいろあったようですが、この写真は見事ですね。DF50の車体が雪の白さと2筋の立ち上る蒸機の白さで停車中の姿がよくわかるいい写真だと思います。
準特急様、
過分なお褒めの言葉、痛み入ります。
今更なのですが、50号の表紙写真を見ていると、懐かしさがこみ上げてきます。力余って、この225レに関連する1981年2月27付局報をご紹介いたします。
上の表は、DF50からDE10への形式変更に伴い、225レの速度記号の変更(暫定速度F4からF3へ)を指示するものです。速度記号が変わったからと言って他に何が変わるわけでもなく、あくまでも1980年10月改正で発出した速度記号の一覧表の暫定扱いを取り消す、という至ってお役所的なものです。
下の運用表は、225レを牽引する動力車運用ですが、この改正をもってDE10の仕業である225仕業(改正前は暫205仕業)に変更となっていますが、3月1日~3月5日(高松運転所出区基準)はDF50牽引とすることになっています。1日~3日については機号も判明しているので赤字で記載しておきましたが、4日及び5日は不明です。