南千里折り返し運転

もう随分前のことですが、昭和58年、1983年の9月28日、阪急千里線山田ー北千里間が、台風10号による大雨のため、築堤の土砂が流出し、一時不通となりました。山田駅は交換ができないため、南千里で折り返し運転を行い、南千里ー北千里間は復旧までの時間、バス代行輸送となりました。阪急にはとんだとばっちりでしたが、割と早く復旧したと記憶しています。南千里折り返しは、昭和38年に新千里山(現南千里)が延伸開業し、昭和42年に北千里まで開通するまでの4年間になるのではないでしょうか。話しは脱線しますが、昭和40年の日活映画「青春のお通り」では、新千里山からP6に乗り込む吉永小百合が映っていました。

南千里駅改札での対応状況 

行先表示板の北千里の文字の上から「南」を貼って急遽対応、2300系

行先表示板の北千里の文字の上から「南」を貼って急遽対応、1300系

 

昨今、台風被害は激甚化の傾向にあり、全国では今なお台風の影響で不通区間となっている箇所がいくつもあります。最近では、鞍馬線が復旧したのが記憶に新しいところですが、他の地域での一日も早い復旧を願うばかりです。災害への備えの大切さも込めて、古いですが居住地に近い千里線の記録を出させていただきました。

南千里折り返し運転」への20件のフィードバック

  1. 行き先表示板、貼り付けた紙がきちんと四角に切られていないように見え、急遽作ったというのがうかがえます。そんな長い期間ではなかったのによく記録に残されましたね。私は昭和53年から吹田に住んでいて、当時南千里の阪急オアシスと南千里公園が休日の買い出しと子供の遊び場でした。昭和58年の水害は記憶にありませんがそんなことがあったのですね。もっとも、頻繁に南千里界隈に行っていましたが、阪急に乗ることがなく、千里線完乗したのは「スルッとKANSAI 3daysパス」で行った数年前のことでした。

    • 大津の86様
      子どもの頃、千里ニュータウンに親戚が住んでおり、南千里に行ったことがあるのですが、同じ吹田市でも農村が急に開発されたような我がまちと違い、南千里はハイカラな場所でした。駅周辺は、その当時のままの佇まいが残り、昭和レトロ感が漂っていたのですが、平成の終わり頃に今風に新しくなったようです。

    • 藤本様
      P6の現役時代は知りませんが、釣り懸け車なら700、710、1600なら覚えています。1600は、通学でも乗っていました。夏、窓全開のまま千里トンネルに入り、P6由来のモーターが唸ると、誰しも会話を諦めて沈黙したのはなつかしい思い出です。

  2. ブギウギ様
    新千里山駅名最後の日(1967年2月28日)のP-6です。吉永小百合は今でもJR東日本の大人の休日俱楽部のイメージキャラクターでよく見かけます。私と同じ年の生まれですが相変わらず綺麗ですね。

    • 準特急さん
      吉永小百合さん、同感です。Uチューブに「あぁ上野駅」というのがあり、井沢八郎の歌をバックに上野駅に到着した集団就職列車のシーンに、吉永小百合がBG姿で登場します。EF57の客車列車やスハ43客車また113系電車も映ります。歌も小百合さんも鉄道も素敵で何度も楽しんでいます。
      お身体ご自愛ください。

      • 大阪通信員さんの東京上野の画像情報有難うございます。もう集団就職列車という言葉も死語になるつつありますが、私の町内には廃線となったくりこま電鉄の若柳車庫の近くや山形新庄出身の女性で集団就職列車で上京した方もおられます。

  3. ブギウギ様
    もう一つ。新千里山駅名最後の日の駅名板で、既に南千里となっていますが隣駅の表示がありません。柱の駅名は新千里山のままで翌日から南千里に変更されたことでしょう。

    • 準特急様
      P6は乗れるものなら乗って見たかったです。吊り掛け愛好者として自分は遅れてきた青年?でした。吉永小百合の青春のお通りは、ネット上では宣材とか出ていますが、著作権の関係でここでは出せません。DVDはあるので何かの機会に、触りの部分だけでもご覧頂ければ、と思います。

  4. 準特急さん
    この映画は、以前紹介した鉄道の出てくる日本映画を解説する下記のサイトでスチール写真が見られます。
    左側の柱にある鉄道名、「阪急電鉄」をクリックして下へ下がると出てきますのでご覧下さい。下記のリンクがうまくいっているかは保証の限りではありません。
    http://tetueizuki.blog.fc2.com/blog-category-32.html

    • 米手作市様
      これは面白く懐かしいですね。車両もそうですが古い時代の阪急の駅名等の色や字体に懐かしさを感じます。C59や都電もありますね。有難うございます。

    • 米手作市先輩

      細雪の下記のコメントの前後で車両が変わってますね。

      雪子はホームへの階段を上がり、ホームで二人を見つけて閉じられたドアへ近寄ると「東京の姉ちゃんも賛成してくれてる 部屋が決まったら直ぐ戻ってくるんやで わかった?」

      乗るところは、1010系か1100系。神戸線ですから1010系だと思いますが・・
      追いかけて、ドア閉められたら900系か920系。リベットまで写っています。
      もう少し丁寧に作ってほしいです。

      • デカンショまつり号さん、
        お怒りはごもっともですが映画とはそんなもんでしょう。電車に乗り込んだら車内はオハ61というのはザラでした。ま、同じ阪急でまとまっていたら許してあげませんか?
        もっとも、私が撮ればちゃんと撮りますよ!

        • 米手作市先輩
          是非、新1000系で撮り直してください!
          新900系・920系は、まだ登場していませんので、今のうちです(笑)。

          • わかりました!任せてください。
            問題は俳優を誰にするか、と言うことでしょう。でもその前に私を使ってくれる映画会社があるか?心配です。

  5. ブギウギ様
    乗りたかったでしょうね。P-6は一目見た時からリベットだらけで独特の正面貫通幌とともに忘れられない電車でした。窓も縦長でよかったですが正直言いまして乗り心地は悪かったです。(マルーンさんに怒られるかな) P-6は高速運転が自慢でしたが、台車なのか、そのスピードのせいか、はたまた路盤なのか、とにかく口の悪い仲間からは本が読めないとか痔になるとか言われたものです。P-6の近代版1600は台車もゲルリッツとかアルストームを履いていて乗り心地は向上し、編成美も相俟って急行運用に就いている時は見とれたものです。700は不細工そのものでした。710は綺麗な特急車でしたが、晩年のライトの2灯化は見てられないものでした。国電がお好きな河さん、阪急京都線車両やPー6にもお一言如何でしょうか。

    • 準特急様
      お声がけ、ありがとうございま~す。
      生粋の関西人だった小生がP-6を知ったのは1958年(だったと思う)に阪神間の立花から京阪間の高槻・総持寺に転居した時でした。
      何よりも、あの重厚で角ばった無骨な車体に目を奪われ、更には急行運用では阪急スタイルの1550を引き摺りながらダダ~ッと轟音?を響かせて走り去る姿に惚れ込んだものでした。
      スタイルと言えば、特殊なバネ付きで重々しい前幌スタイルが又最高でした!
      もとより国電オタクだった小生が、私鉄に心を惹かれたのはP-6と阪和形のみで、その阪和形は当時既に国鉄に編入されていました。そんな訳で国電以外に唯一心を惹かれたのはP-6で、その後「不幸にも?」関東に帰化(転居)せざるを得なかった小生の脳裏に焼き付いたまま、未だに離れず、折に触れ思い出しては「関西」と共に懐かしんでおります。
      惚れ惚れするP-6を1枚貼っておきます。

      • 河さん! 有難うございます! これです! 独特の緩衝幌付きの姿、しかも綺麗な順光線の急行列車で全く惚れ惚れするような写真です。P-6はいくらでも撮ったり、乗ったりしましたが、やはりこの顔でないと納得が行きませんでした。ダダッとした轟音はp-6の特徴を表した表現だと思います。ホームに入ってくる時にレールの継ぎ目を52.4tの車体が通過する時のドンドンドンドンという音が気にいってました。MGの大きな音も思い出です。阪和はクモハ20050ですか、元モヨ100の晩年の姿しかありません。

  6. 千里線の関連で昭和43年8月7日、吹田駅に進入する703+752+753+708の天神橋行です。地味な存在でしたが、千里線には縁の深い電車で、ひっそり姿を消しました。

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