時刻表とともに 想い出の列車を再見する (10)

九州の列車 〈10〉 盲腸線の終点で

前項の佐世保から、松浦半島に沿った路線が松浦線(現・松浦鉄道)でした。運輸上の中心は機関区のある佐々で、ここから分岐していたのが、今回紹介する臼ノ浦線です。周辺には、小規模な産炭地があり、積出港への運炭を目的に佐世保軽便鉄道によって昭和6年に建設された762mmで、国有化、改軌ののち、戦後に臼ノ浦線となりました。佐々~臼ノ浦間3.8km、中間に駅はなく、旅客も朝3往復、夕1往復で、国鉄のなかでも、最小部類の盲腸線でした。終点の先に石炭の積出港があり、訪問した昭和44年にもまだ石炭列車が走っていました。臼ノ浦駅で発車を待つ824D、門サキのキハ10 29単行、ホームは一面だけだが、石炭列車も運転されているため十分な側線があった。終端部は積出港と隣接していて、石炭を船に積み替えていた。折返し時間は4分だけで、慌ただしく発車、数人の乗客があったように覚えている(昭和44年3月)。

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駅名喫茶店(第127回:エキタグのある駅名(関西編))

最近、流行りつつあるのがデジタルスタンプラリーの「エキタグ」です。スマホにアプリをダウンロードし、駅備え付けのエキタグシールにスマホをタッチすることでデジタルスタンプを取得できる仕組みです。インクタイプの既存のスタンプももちろん好きですが、デジタルもアリだと感じた次第です。

今回は関西エリアで取得できるエキタグ設置駅をまとめてみました。

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (9)

九州の列車 〈9〉 佐世保のプッシュプル運転

長崎県には、もう一つの中核都市として佐世保があります。佐世保線の早岐~佐世保では、その線形によりプッシュプル運転が日常的に行われていた興味深い区間でした。肥前山口方面から佐世保へ向かう列車は、手前の早岐で進行が逆になるため、牽引機の機回しとなるところですが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロしかなく、機回しの手間を省くため、早岐に着いた列車の後部に別の機関車を付け、プッシュプルで佐世保へ向かいました。佐世保発の列車はその逆でした。

その代表が、特急「さくら」佐世保編成、写真は、C11 192牽引の東京行き「さくら」。DD51が本務牽引ではあるが、早岐で逆向になるため、本務機を機回しすることなく、C11が前部に付き、C11+20系+DD51のプッシュプル編成で同区間を走った。佐世保の構内は狭くて留置線もないため、早岐までの客扱い前後の回送を含めると、2往復のC11「さくら」が見られた。この光景は、昭和40年10月改正から、昭和43年10月改正までの3年間だけ見られた。C11 の次位は、旧型客車改造の簡易電源車マヤ20で、これもこの時代ならではの光景。

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (8)

九州の列車 〈8〉 長崎駅の不定期急行

長崎駅もすっかり変わりました。私は、まだ新幹線開通後の長崎へは行ったことがありませんが、駅は高架になって、在来線も一新され、駅前の風景も激変したようです。訪問した昭和42年当時、長崎本線はもちろん非電化、単線でした。旅客列車はDCが多かったものの、朝にC57の牽く列車が残っていて、貨物もD51が牽いていましたが、優等列車はDD51化が完了していました。ただ、多客時に運転される不定期列車は、まだ鳥栖区のC60が牽いていました。 C60 26[鳥]の牽く不定期急行、大阪行き「第二玄海」が長崎駅を発車する。夜行列車ながら、一等車1両で、あとはモノクラス編成であることが分かる。右手には、長崎機関区、客貨車区、貨物駅があり、広大な用地が広がっていた。この撮影位置まで、駅から行くのに、ずいぶん遠回りして行ったこと覚えている。長崎機関区には、配属車輌は無かったが、鳥栖、早岐の蒸機が盛んに出入りしていた。扇形庫はなく、機関車は広々した側線に停車するので、形式写真が撮りやすかった。長崎の先には、長崎港駅へのレールが伸びていて、駅は終端ホームもあったが、一部は通り抜けができる配線になっていた。

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広島短信

新規投稿やコメントを書き込もうとすると認証がうまくゆかず、10日が経ってしまいました。いつもお世話になっている管理者殿の手を煩わせて、ようやく投稿ができるようになりました。10日遅れの情報ですが悪しからず。

瀬野にあったスカイレールの解体工事が始まりました。

令和7年4月3日 中国新聞朝刊

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (7)

九州の列車 〈7〉 佐賀駅に発着する蒸機列車

佐賀は、昔から目立たない県庁所在地でした。いまも長崎新幹線は“佐賀飛ばし”しています。昭和の時代も、たしかに規模としては、ほかと較べて小さなものでしたが、駅には、長崎本線、佐賀線、唐津線が集まり、幹線の中枢駅らしい雰囲気を醸し出していました。朝の佐賀駅、C57が朝陽を浴びて、佐世保発鳥栖行き426レを牽いて到着する。磨き込まれた早岐区のC57、この124号機は、ナンバープレートの取付位置がやや高い。打ち水されたホーム、2番線ホームの表示、木造の柱、ホームの売店、左手には、手小荷物も積まれている。左の広告を見ると、佐賀県らしく「サロンパス」の広告も。昭和ムードいっぱいの駅に、“シューシュー”とドレーンを吐きながらC57が到着するのが、眼に浮かぶ。乗車列車をホームで撮っただけの写真だが、こんな雰囲気の写真は大好きだ。なお、佐賀駅は昭和51年に高架化されている(昭和42年4月5日)。

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越南(ベトナム)統一鉄道の旅 Part 18 ハロン湾ツアー 帰国

第11日目 2月26日

今日はべトナム滞在最後の日です。正確には翌日早朝1時40分発の夜行便で帰国します。11泊12日の初めてのベトナムの旅が終わります。
最後は行ってみたかったハロン湾ツアーです。KKday企画の『【日本人専用ラグジュアリークルーズ(6時間乗船・冷房エアコン付き・豪華な海鮮ランチ・フォーの夕食付き)』4,808円を申し込んでいました。「当日の朝のピックアップ時刻: 8 時 00分、ガイドがホテルまでお迎えにまいりますのでホテルロビーにてお待ちください。」との連絡が届いていました。
少し遅れてバスは宿泊していますホテルに到着しました。2+1の豪華なバスでした。▲ GoogleMapで検索しますとハノイ市内からは167km、高速道路を通っての
所要時間は2時間23分と出ました。結構な距離です。 続きを読む

 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (6)

九州の列車 〈6〉 宮崎駅の“遜色急行”

九州の県庁所在地駅で見た各種の列車、つぎは宮崎駅です。先の熊本でも少し触れましたが、廃止された山野線を走る「からくに」という急行がありました。語源は、鹿児島・宮崎の県境にある霧島連峰の最高峰「韓国岳」に由来しますが、そのルートは今は無き廃止路線を経由するもので、車両については、一般型車両を使った“遜色急行”にふさわしいキハ52単行でした。C55の煙が渦巻いている宮崎を発車するDC編成。当時はよく見られた併結編成だが、最後部の1両に注目、キハ52 52(鹿カコ)で、この車両のみ山野線を経由して出水に向かう急行「からくに」。途中から分割されて単行で走る。1両だけの急行は、九州では唯一だった。山野線は規格の低いローカル線で、途中にループ線があることで有名だった。山野線と宮崎との結びつきは希薄で、単行でもガラガラだったと言い、昭和45年に単独区間が快速に格下げされ、「からくに」の愛称も消え、山野線そのものも昭和63年に廃止されている(昭和42年3月29日)。

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越南(ベトナム)統一鉄道の旅 Part 17 ハノイMRT3号線視察

第10日目 2月25日 後編

15:56 2A号線の始発駅カットリンに戻りました。これから2A号線とはまだ接続ができていない3号線のカウゼイ駅へ向かうのですがどう行けばいいのか分かりません。駅員に聞いてみますと付いてくるようにと言われました。バス停まで案内してくれて乗車する系統を教えてくれるのかと思っておりましたら、何と停車していたバイクTaxiに乗るようにと指示が出ました。
バイクには乗りたくはなかったのですが既に運転手に目的地を言っています。親切に案内していただいていますので断れません。雨が降っていますのでリックから雨ガッパを取り出して着用、駅員にいくら出せばいいかを聞くと50,000ドン(300円)との返答です。地元民相場はこんなものかと駅員が見ている前で運転手に渡しました。
駅員にお礼を申し上げてバイクに乗りました。車とバイクで混み合う道路を約20分走り3号線カウゼイ駅に到着です。
15:23 お礼を言って下車しましたが運転手は20,000ドン(120円)の追加を言い出します。大した額ではありませんが最初の約束とは違うのは一番嫌なことです。「NO」と強く言って別れました。
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駅名喫茶店(第126回:特急しらゆきの停車する駅名)

特急しらゆきが運行を開始して10周年となりました。私にとって新潟は未履修の地でありますので、近々完乗の旅に出かけたいところです。新潟、万代橋のカレーを食べてみたいですね。

↑写真はDRFCの後輩会員より頂戴したものです。

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リハビリを兼ねた関東からの日帰り旅 10

<青梅線アーカイブス 1976年奥多摩・2002年鉄道公園>

青梅線に初めて乗ったのは昭和51(1976)年、大学3回生の時でした。春と秋に東京に小旅行に出かけ、春は立川→拝島→高麗川→川越→大宮と周り、秋には立川から終点の奥多摩まで全線を乗車しました。
前日、名古屋で高校の同級生と会って、ドリーム号で朝6時に東京駅に着きました。この日は夜に友人と人気男性フォークデュオのコンサートを見るまでは予定がなかったので、東京ミニ周遊券で行ける、遠くの奥多摩を選びました。

奥多摩駅は山小屋を連想させる趣きのある駅舎だった
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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (5)

九州の列車 〈5〉 大分駅の蒸機列車

前項の「熊本駅 2」で、K.H.生さんから大分駅は3L共存の汽水域であるとの言葉をもらいました。今回は、その大分駅を昭和42年3月の時刻表とともに見て行きます。この時点で日豊本線の電化は新田原まで、この年の10月改正で、新田原~大分~幸崎が電化開業するため、構内には、すでに架線が張り巡らされていましたが、まだ電機の入線はなく、3L以前の地上駅であり、熊本駅とよく似た状況にありました。大分10:42発、西鹿児島行き2523レが大分駅を出る。牽引のC57 196[大]は、C57四次型の1両で門デフを装備、右手は入換中の8620、その奥に貨物駅があり、左手には大分機関区があって、何でもありの総合駅だった。機関区には、日豊本線の旅客を牽くC57、豊肥線のC58、久大線のD60、入換の8620と、顔ぶれが賑やかだった。まだ地上駅、高架化されるのは2012年と最近のこと(昭和42年3月30日)。

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (4)

九州の列車 〈4〉 熊本駅の発着列車 2

当時の熊本駅は、1番ホームの鹿児島方は切り欠きホームになっていて、豊肥線の列車が発着していました。日中の列車はすべてDCですが、ローカル線の常で、朝夕ラッシュ時には客車列車が運転されていました。夕方の客車列車は、熊本17:32発の宮地行き729レ、牽引するのは9600重連で、ホームからはみ出して発車待ちしている。黒煙を吐き、安全弁から蒸気を噴き上げて、今にも発車しそうな勢いだった。39688[熊]+69616[熊]+オハニ61 188ほか客車8両(昭和42年4月2日)

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (3)

九州の列車 〈3〉 熊本駅の発着列車 1

しばらく九州の県庁所在駅に発着する列車を見て行きます。58年前の昭和42年に訪れた際、高架駅は前回の博多だけで、ほかの駅はすべて地上駅でした。今はいずれも高架化されています。その変化ぶりも対比できると思います。熊本駅に進入するのは出水発熊本行きの132列車 C60 37[熊]が客車5両を牽いて16:34に到着する。まだ熊本以南が非電化の時代で、急行こそDD51牽引だったが、普通列車は鹿児島・熊本区のC60、C61が牽いていた。電化は昭和45年10月改正で鹿児島まで完成するが、ひと駅先の川尻までは、撮影の翌年に部分電化するため、構内にはもう架線が張り巡らされていた。とにかく周囲が狭いところで、裏手には機関区があるが、まともな写真も撮れなかったのが心残りだった。現在は、新幹線ホームと一体で在来線も高架化されている。

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越南(ベトナム)統一鉄道の旅 Part 16 ハノイMRT視察

第10日目 2月25日 前編

今日はホーチミンより早く開業したハノイMRTとどう違っているのか乗ってみての視察です。この旅の直前まで中国の支援にて開業したと思いこんでいました。日中のMRT開発の一騎打ちが見られると期待していましたが、フランスのアルストムが支援したMRTも既に走っていると知りびっくりしました。

▲ 中国、フランス、日本の3か国が支援して開業なったハノイMRTの2路線とホーチミンのMRTのざっとした違いの紹介です。詳細についてホーチミンMRTはPart 5で紹介しておりますので今回はハノイ2路線を紹介させていただきます。
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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (2)

九州の列車 〈2〉博多駅の特急「はやぶさ」

夕方のラッシュ時を迎えた博多駅の上りホーム。今まで地上だった旧の博多駅は、新築移転し、高架駅ができたのが昭和38年、訪問の4年前のことで、まだ新駅の雰囲気が感じられました。帰宅者でにぎわうホームに、あざやかなブルーの20系寝台特急が発着します。いずれも東京行きの「あさかぜ」「はやぶさ」「みずほ」「さくら」の4本、うち「あさかぜ」は博多発ですが、あとは、西鹿児島、熊本、長崎・佐世保発で、到着、発車のシーンが見られました。うち「はやぶさ」「みずほ」は、博多で付属編成を増結、フルの15両編成になって発車して行くシーンが見られました。

 

17:10 ED75 303に牽かれた、熊本発の「はやぶさ」が20系8両で到着する。九州のED75は300番台で、蒸気発生装置のないED73の増備として11両が製造された(昭和42年3月26日)。

客車を残してED75が離れると、まもなく門司方からED73 19+付属編成が推進運転で連結され、15両のフル編成になる。少し湾曲した博多駅の長いホームで発車待ちする赤い電機に青い客車は、堂々として貫禄十分だった。停車時間は8分、ホイッスルを鳴らして発車して行った。

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (1)

やっとデジ青に復帰します。今年になってから、ある業務に追われていましたが、3月末の締め切りに何とかやり終えることができました。外出もせず、閉じこもったままの生活でしたが、昨日、書店を覗くと、JTB時刻表100周年号が出ていました。そうか今年は昭和100年であるとともに、大正15年の「汽車時間表」発行以来100年なのです。言うまでもなく、鉄道輸送の実態を見るには第一級の資料です。何しろ全国2万キロを走る列車の動きが1分刻みで記載されているのですから、これほど有用な資料はありません。今回の業務でも、原稿作成、校正では、まず当時の時刻表に当たりました。

私もデジ青に多くの列車の写真を載せてきました。キャプションには、機号だけでなく、運転区間や撮影日を載せてきましたが、それだけで周辺の様子が分かってもらえたのか疑問でした。そこに時刻表を添えることによって、運転区間の駅や、前後の列車も分かり、より立体的に俯瞰できます。列車写真と時刻表をクロスオーバーすれば、使い古したネタでも、あらたな有効活用ができるのではと思いました。

時刻表は、実際に使ったものを保存して来た。廃棄したり、足りないものもは、古書で購入したり、人から貰い受けたりまた復刻版も加えると、戦後の時刻表は、毎年保存している。戦前分も加えると相当数になる。

 

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四国総局管内の荷物輸送(客車編)

昨年、ヤフオクに四国総局報号外(昭和54年春季荷物輸送)が出品されていた。旅客や貨物の輸送計画の号外は知っていたが、荷物輸送については全く知らず驚いた。

これによると、高知発3/21~4/9の228レに臨南東荷83(マニ、汐留~高知)が増結されており(南東荷3仕業を2車にしたようなもの?)、2024年8月4日に投稿した「讃岐財田駅」(id=153890)での車掌さんの話とも符合してくる。

また、以前に「DF50 18号(その1)」(id=153477)で、1981(昭和56)年10月(正確には同月13日)以降、DF50は貨物列車専用機となったと書いた。DF50の引退イベントである臨時列車以外の旅客列車をけん引していないのは事実なのだが、不定期ながら工場入出場や転配属する客車、あるいは線路検測のためのマヤ34を貨物列車に連結し、客車そのものはけん引していた。 続きを読む

 美祢線の半世紀を回顧する

2023年の水害以来復旧の目処の立たない山口県下を南北に貫く美祢線について、過去の記録もあるので、遅筆であるが先月書きかけた記事を進めてみる。

写真は昨年2024年8月27日に目撃した、美祢線の中間駅於福の運休中の現状である。
線路は1年以上の休止で錆びて、駅の建物内では地元の人たちの会合が開かれていた。話の内容は聞けなかったが、無人駅になり長い時間も過ぎて、諦めムードも強いと思った。


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