鉄道少年の時代に戻ってみる  〈3〉

開館した交通科学館へ

昭和37(1962)年1月、大阪環状線弁天町駅前に、交通科学館が開館しました。小さい頃から、東京には交通博物館があるのに、なぜ関西には無いのかと、いつも恨めしく思っていた私にとっては待望の開館で、その直後に見に行きました。当初の予定では、昭和36年に開館と新聞で知り、勇んで行ったものの、工事中で見ることができませんでした。あとで分かったことは、この年の第二室戸台風の被害で、工期が遅れていたとのこと、それだけに待望の開館でした。中庭に展示されたC5345、最終のC53廃車機に当たり、解体予定のところが変更されて、教習用として国鉄吹田教習所に展示されていた。交通科学館の構想が上がり、同館の目玉として展示することになり、鷹取工場で、自走可能な状態に復元工事が行われた。しかも本線で客車を牽いて、鷹取~吹田で二日間公開運転された。そのあと、龍華から大阪臨港線の大阪港まで自走し、そこから陸送で、交通科学館に収まったと言う。ただ現役時代のC53を知らない小学校6年生にとっては、三気筒の歴史的な名機と言われても理解できず、デフが無いのは、日頃見るC51やC57と決定的に違い、どうしても馴染めなかった。

大阪環状線の弁天町駅のすぐ横にできた交通科学館、高架のホームから眺めることができた。同館は、未来の交通がコンセプトで、歴史的な車両展示は最小限で、C53 45と、手前の展望車マロテ492(のちのマイテ492)など客車3両だけだった。閉館直前のような、保存車両で館内外があふれることは無かった。大阪環状線に直角に交差するように、大阪地下鉄4号線(現・中央線)の高架上を折り返す6000形の単行が望めた。弁天町~大阪港が開通したばかりで、まだ本町方面へは工事中だったが、それでも鉄道の無かった大阪港へ地下鉄が通じた意義は大きかった。6000形は両運で6両のみ、クリーム、オレンジの2色塗りに白線の入った、粋な塗装だった。

 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈3〉」への11件のフィードバック

  1. 開館当初の屋外展示はC53と3両の客車だけでしたか! 昭和37年には新幹線もなく、蒸気機関車はいたるところで見られ、古典期もまだまだ現役で働いていましたから、保存の機運はまだまだだったのですね。展示の主体が「未来」だったのも、「夢の新幹線」開業に向かって、国鉄が輝いていた時代らしく思います。それにしても小学6年生にして、新聞に目を通されていたとは! こちらにも驚きます。
    鉄道車両の好みにも偏りがなく、地下鉄もしっかり記録されていたのですね。見習わなくてはと思っても、すでに時遅しです。
    私は昭和46年7月、友人に誘われて訪問しました。実はあまり興味がなく、イヤイヤついて行ったのを覚えています。C53を見て変な機関車やなあなどと、罰当たりなことを言った記憶も…。添付の画像は適当にシャッターを切ったところ、たまたま高架線に地下鉄の車両も写っていました。

    • 紫の1863様
      私の投稿が午前1時、紫さんのコメントが午前3時、その前のクローバー会サロンで話していたことを、地で行くような、絶妙なタイミングでした。いつも、お気遣い、ありがとうございます。鉄道系博物館では、東京は歴史、大阪は未来と、明確に分けられていました。蒸機好きの小学生にとっては、1号機関車ほかの蒸機が所狭しと保存されている神田のほうが、それでも羨ましく思ったもので、C53も紫さんがお書きのように、ケッタイな蒸機と言う印象しかなく、むしろ館内の「こだま」のモックアップや101系に、未来の鉄道を感じたものでした。ここで撮ったのは、この3枚だけです。玩具のようなレンズで、周辺ボケが逆に面白い効果を出しているでしょ。

  2. 総本家青信号特派員様
     交通科学館、今になれば懐かしいですね。
    鉄道好きからみれば別天地でした。総本家さん撮影の写真は交通科学館出来たてほやほやの頃、展示車両がピカピカですね!
     確かクローバー会の写真展もここで開催されましたね。受付に乙訓の大老が居られ、ニコニコとご対応頂いたことが思い出されてきました。
     地下鉄の写真は歴史を感じます。両運単行ですか!来年は大阪万博。新型を含め沢山のお客さんを乗せて地下鉄が走るのですね。

    • マルーン様
      いつも暖かいコメント、ありがとうございます。まだその当時は、鉄道趣味など認知されていず、変わり者の小学生は肩身の狭い思いでしたが、いったん交通科学館の中に入ると、無罪放免、誰に遠慮することもなく写真を撮り、展示を見られました。ここのギャラリーで、写真展もやりましたね、2009年のことでした。沖中さんはじめ、湯口さんにも来ていただき、打ち上げも弁天町でやりました。写真を見ると、なつかしいです。

  3. 総本家特派員さま
    いやあ色々なネタをお持ちですね。対象の幅の広さにいつもながら感服します。私も同館にはいささか想い出があります。展示車両は皆さま触れておられますので、体験談を少々。学鉄連が同館を借りて模型運転会を催したことがありましたが、たまたま学鉄連の委員を担当していた関係から、運営の全てに亘って参画した時のことです。クラブの模型班が準備から設営~運転~撤収まで行いました。レイアウトの運搬は1年上のM田さんがレンタ軽トラを運転、私が添乗しました。設営のため写真の地下鉄単行6000型に初めて乗車して通いました。ある日の準備を米手さん鉄鈍爺さんと3人で担当したものの、時間内に完了せず、同館に無理をお願いして徹夜で調整したものです。しかしさすがに夜半になると睡魔に襲われ、仕方なく展示のナハネ20(だと思っていましたが、この時代にナハ20が展示されていたかなと疑問符が付きました)の下段で仮眠をとったことを覚えています。余談ですが翌日に調整を終えて地下鉄~京阪で半眠状態で帰りましたが、同好会きっての奇人・変人のお二方が各停で帰ると言い出し、仕方なくうつらうつらしながらお供をしたことでした。レイアウトは大勢の人にみてもらって大盛会でしたが、見物の子供が会員のC62を投げて壊してしまうというハプニングがあり、事情を説明してマツモト模型のおじさんに修理してもらったこともありました。撤収時にレイアウトを積んで名神を走行中に、風圧でバタバタと動き出したので、速度を落とすとともに最寄りのサービスエリアで締め直して、落下に至ることはありませんでした。懐かしい想い出を蘇らせて下さいました。青春の1ページですね。

    • 1900生様
      交通科学館の思い出、ありがとうございます。“幅の広さ”とお褒めの言葉をいただいていますが、ただ古い写真を思い付きで並べただけですが、時として、緻密に計算して投稿したものより、思い付きのほうが、良い結果を生むこと、日頃感じています。1900生さんの交通科学館の思い出が模型運転会なら、私は学鉄連の会議のあとに行った図書室の思い出です。室長が、かの有名な西尾克三郎さんで、西尾さんを慕って、全国からファンや編集者が訪れていました。当時、私と同年齢ながら、飛ぶ鳥落とす勢いで、豪華写真集を出版していたMさん、また、今も交流が続いて、つい先週も東京で打ち合わせした編集者のMさんとの出会いも、交通科学館の図書室でした。

  4. 総本家青信号特派員様
    またまた懐かしい鉄道拠点ですね。交通科学館は所属していた学鉄連(確か正式名称は関西学生鉄道研究会連盟でしたか)とも関係が深く、当番校になった時に軽飛行機のシミュレーターの運営の手伝いに行きました。現在のIT技術を駆使したシミュレーターと比べると遊園地の遊具に毛の生えたようなちゃちなものでしたが、子供たちは喜んでのってくれました。
    国鉄だけでなく、20分の1の関西私鉄の最新鋭のオートカー、スーパーカー、ジェットカー、ラビットカーの通勤車両が置いていましたが、どういう訳か南海電鉄のみ20000系こうや号でした。入り口左手横に図書室があり、ここで鉄道関係の図書を借りて卒業論文を完成させました。
    社会人になって初任地が秋葉原でしたので、憧れの交通博物館へは10分ほどで行けましたが、ここは戦前からの岡多線を走った省営バス(国鉄バスの前身:現在はリニア・鉄道館に所蔵)、4本煙突の青函連絡船や関釜連絡船の模型までおいてあり、いかにも歴史のある博物館でした。シアターで「ある機関助士」の映像を定期的に映写していたのは両館共通でした。

    • 快速つくばね様
      つくばねさんからも、交通科学館や学鉄連の思い出を聞かせていただき、ありがとうございました。私も高学年になると学鉄連の用事で交通科学館へよく行きました。つくばねさんとは学年が少しだけ違い、その時のニアミスは無かったかもしれませんが、飛行機のシュミレーターのアルバイトのことは、先輩からよく聞きました。数年前ですが、京都鉄博へ行くと、私の名前を呼ぶものがいて、見ると現役の会員でした。彼らも鉄博でアルバイトしているとのことで、時代は変わっても、同じなんだと思いました。私も書きましたが、高校三年生の時に初めて神田の交通博物館へ行きましたが、大阪と違って、歴史を感じさせる展示物に圧倒されました。

  5. 総本家青信号特派員様

    交通科学博物館は見所満載で楽しい場所でしたね。とくに語りありの鉄道ジオラマは見ごたえがあり、今でも記憶に残っています。あとは国鉄のドリーム号。

    DRFC時代には、京都から大回りをして閉館が決まっていた交通科学博物館を訪ねたこともありました。

    大阪地下鉄4号線(現・中央線)に単行が走っていたとは驚きでした。

    • 2009年のクローバー会の第2回鉄道写真展の会場が交通科学館でした。みんなで設営、受付、撤収をしたこと、思い出します。館のほうでも、こんな立派な看板を作ってもらい、感激しました。会場費も無料で、当時の館の厚意には感謝しています。

  6. 1980年5月25日の学鉄連行事に参加の際に写したキハ81連結面側です。

    個人的に近年関心が高いのは、駅の竣工と前後して付近の安治川岸に出来た短い運命だった航路の弁天町桟橋(跡)です。加藤汽船と関西汽船の共同保有連棟ビルでしたが、近年関汽側はビルも壊されて撤去され、周囲の風景が大きく変わりました。
    モータリゼーションの急速な到来にフェリー就航が読めてなく、南港に役割を取られて華やかな港の時代は短かったそうです。
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