新緑がまぶしい青梅線ハイク 2008.7.5
青梅線沿線の奥多摩地域は、東京都心から手軽に行け、ハイキングやレジャーを楽しむのにもってこいの場所です。私の住んでいた埼玉からだと武蔵野線を使うと西国分寺で中央本線に乗り換えができますので、直通の電車なら青梅まで1本で行けます。
青梅線は立川駅~奥多摩駅を結ぶ37.2キロの路線です。途中の青梅までは東京駅からの直通電車があり、都心や中央線沿線に勤める人たちのベッドタウンとなっていますが、青梅を境にして多摩川に沿って両側に山が見渡せる自然豊かな景観に一変します。通勤路線と観光路線との性格を併せ持った路線です。
電車も同じE233系ながら、青梅から先は6両編成しか入線できません。従って通常は御嶽・奥多摩方面は青梅で乗り換えとなります。青梅駅のホームからは遥かに奥多摩の山並みが遠望でき、気持ちが高ぶります。東青梅駅の手前から線路は単線になり、E233系はゆっくりと多摩川の左岸を走ります。時々車窓から見える多摩川の水がだんだん透明になり、岩が散見されます。自然がいっぱいの青梅線の旅です。
私が乗った土日運転の「ホリデー快速 おくたま号」は青梅から20分足らず、ノンストップで御嶽に到着しました。初夏の山並みがきれいです。今回は御嶽登山ケーブルに乗らず、文学・芸術散策ハイクです。吊り橋を渡って玉堂美術館へ行きました。日本画の巨匠、川合玉堂が都内から疎開し、御嶽に越してきたのは昭和19年。それから昭和32 (1957)年、84歳で亡くなるまで、多摩川の清流を聞きながら過ごした跡が整備されています。日本の原風景をたくさん描いた玉堂の人となりが感じられる静かな美術館でした。
次の目的地は下流にある吉川英治記念館です。2つのミュージアムは4キロ余り離れていますが、多摩川右岸に都営バスが走っています。青梅に都バスとは妙な組み合わせですが、最短距離を結ぶ「魔法の杖」の様でした。
吉川英治も昭和19年、都内から疎開し、庄屋を借りて家族で過ごしました。その庄屋が記念館となっており、庭の美しい整備された旧家で、国民的小説家の足跡をたどることが出来ました。

青梅線の帰りは二俣尾駅です。2キロ足らずの道のりですが、美術館も記念館も印象に残ったので、疲れませんでした。途中地元の材木屋があったり、田舎の本屋があったりと、妙にのんびりできる光景でした。
1991年 御嶽ケーブル乗車
青梅線の青梅から先へ行ったのは関東に住まいを構えてから2回目でした。平成3(1991)年7月14日、折からの雨の中、御嶽駅からバスで約10分の滝本から御嶽登山ケーブルに乗りました。御嶽山は古くから山岳信仰の対象で修験道の修行場として発展し、現在でも宿坊が残るスポットです。山頂近くの武蔵御嶽神社まで約30分でお参りができたのですが、生憎の雨模様で、「全線完乗」をノルマとしていたマニアには、次の便で下に降りることしか選択肢はありませんでした。

訪ねた時は昭和43年製造の2代目が走っていた
御嶽登山ケーブルは昭和9(1934)年12月に開業。昭和19年に不要不急路線として運行が休止されましたが、昭和26年に運転を再開。昭和47(1972)年には京王電鉄グループの一員となっています。滝本駅から御嶽駅まで約1.1キロ、標高差423メートルを6分で結んでいます。平成20(2008)年には車両が更新され、現在3代目が昇り降りしています。
















青梅線は買収国電でハイキング路線でもありますが、勘秀峰さんのように文学、芸術の郷のイメージを持って接することがなかったのは私にその方面に才能がなかっただけです。渓谷美とそこを走る旧型国電や石灰石輸送のED16が有名でした。青梅線は天気が悪くなると最近流行りの計画運休の最初にで出てくる対象路線です。平凡な写真ですが1~2枚用意しました。
2014.1.3川井付近233系青梅行き手前は多摩川。
準特急様
青梅線沿線の地形が分かる写真、ありがとうございます。当時は脳出血発症から5年あまりで、体力もカムバックして、きれいな景色や美術工芸品を鑑賞したら、脳が活性化される感覚になったものです。
多摩川流域にはさしたる段丘もなく、青梅線は一貫して川の左岸を走っていますね。御嶽駅を降りて対岸の玉堂美術館へは吊り橋が便利でした。上流ではカヌーの練習をしている姿もあって気分は上々でした。
青梅線は半世紀以上前に一度だけ訪ねています。軍畑の平溝川鉄橋での2枚をご紹介します。まだクモハ73やクハ16が活躍していた時代です。1970.4.3の撮影です。このあと氷川でED16を撮っています。
西村様
奥多摩を走る2両編成の旧型国電、いいですね。昭和45年のちょうど今頃の季節、鉄橋の手前に咲いている花は梅でしょうか?当時はサクラが咲く頃はもう少し後でした。
私が青梅線に初乗りしたのは昭和51年でしたが、その時にも旧型国電は走っていました。次回投稿で奥多摩駅の様子を紹介します。
青梅線では旧型国電に代わって103系(101系?)が長く活躍していました。添付は平成3(1991)年、御嶽ケーブルに乗車の折、御嶽駅で撮った1枚です。側線には石灰石輸送の貨物が停まっています。青梅線の貨物輸送は1999年ごろに終わったそうです。
もう1枚
青梅線も青梅から先は中央本線の短くなった通勤型車両ばかりで面白みに欠けますがそこは都心にないに自然美がカバーしてくれます。そしてたまには珍しいお客さんも顔を出してくれます。青梅線の余部鉄橋と言ったら笑われるとは思いますが、2012年11月23日二俣尾-軍畑間の有名な鉄橋を行く横須賀色の大宮発臨時列車快速「奥多摩」号奥多摩行きクハ115-398です。
準特急様
青梅線の臨時電車115系のスカ色が山の緑に映えますね。大宮発奥多摩行と言いますと、大宮を出発後貨物線を通って西浦和付近で武蔵野線と合流し、さらに西国分寺手前の貨物線を西へトンネルのまま進み、国立付近で地上に出て中央線へと結ぶ便利なルートです。
私が御嶽ケーブルに乗った1991年には、同じ経路で「ホリデー快速むさしの号」が走っていました(添付写真は立川駅)立川から大月、さらに富士急行で河口湖までの運転でした。車両は165系4連で、オリジナル塗装、ヘッドマーク付きでワクワク感がいっぱいの臨時快速でした。
もう一つ同じ臨時列車を撮りに行きました。どなたかご一緒して教えていただいた場所は青梅から宮ノ平に向かって歩いた踏切だったと思います。奥多摩に着いた列車は青梅で休んだ後に再びにハイキング客を迎えに奥多摩に向かいます。その時の回送列車と思います。2012年8月18日、この時は湘南色のクハ115-1087でした。青梅は映画の街で駅には古いポスターが一杯です。青梅と言えば隣の東青梅には鉄道公園があり行かれた方も多いと思います。夏の暑い日に悪友が突然車で青梅に現れて電話があり私が暇であることを伝えると「そうか、ほな今から会おう」と言われどこかに行ったことがあります。
準特急様
コメントにありました「青梅・駅・映画」の写真です。改札からホームに行く通路は、あたかも映画館の様な雰囲気です。残念ながら1枚1枚手書きしたものではありませんが、往年の映画の隆盛を感じさせてくたました。2010年に青梅を訪ねた時は、駅近辺にある4つのミュージアムで昭和のエキスを満喫しました。
勘秀峰様
青梅線沿線は静養を兼ねて散策するにはよい路線かかもしれませんね。西村雅幸さんが旧型国電等をよせてくれました。私が青梅線の撮影を始めた頃は20m級の72系がいましたがその後101系、103系に置き換わっていきました。南武線は17m級の11系が長く残っていたように思います。電機は長い間ED16の天下で末期にはEF15やEF64も入ってきました。写真は1983(昭和58)年3月8日、古里-川井間を立川方向に向かうED163です。
旧型電機はいいね!
音と匂いまで思い出します。阪和線でしたが。
はい、旧型電機はいいですね。青梅線の終点氷川(現在は奥多摩)で撮ったED16です。
西村様
青梅線終着駅氷川でのED16、ありがとうございます。旧型電機2両の間に、入れ替え用の小柄の機関車があり活況が感じられます。青梅線の貨物は多くが石灰石輸送でした。
同じ様に石灰石輸送を行っている、秩父鉄道のデキ100形です。2014年11月、寄居です。
勘秀峰様 コメントありがとうございます。小型の機関車は奥多摩鉱業のDLで、ホッパーの下に潜り込むせいか、低く作られています。
米手様
阪和線のED16の写真、ありがとうございます。昭和30年代に鳳機関区に配属されたED16は、その後立川に移動して青梅・南武線で活躍した様です。
私が阪和線に初めて乗ったのは高1の正月でした。天王寺から和歌山まで旧型国電の快速に乗った所、木の床がところどころ隙間があいて車輪が見えました。車内では酔っ払いのオッサンがわめきだし「なんとコワい電車だろう」と思ったものでした。昭和47年のことです。
添付の写真は父のコレクションから飯田線の旧型電機ED19。伊那松島、昭和51(1976)年4月撮影です。
準特急様
私はED16が走っていたのを見たことがありませんが、なかなか重厚でりりしい姿ですね。先のコメントで仰ったように、青梅には鉄道公園があります。平成14(2002)年8月に訪ねた時のネガをスキャンしていたら、ED16が保存されていました。鉄道公園も次回の投稿で紹介したいと思います。
添付の1号機は昭和55(1980)年に廃車となった後、青梅鉄道公園に保存され、平成30(2018)年には重要文化財の指定を受けています。
勘秀峰様
青梅線、過去に一度だけ訪れていました。まだED16、101系の走っている昭和52年でした。都心からそれほどの時間も要しないのに、自然豊かな風景に見張りました。当時は、バスも撮っていましたから、奥多摩駅のログハウス風駅舎をバックに、西東京バス、ふそう、クレハボデーが撮れたことラッキーでした。ほかにも隘路を走るための狭幅バスもいました。
総本家様
奥多摩駅前のハイカーたちの賑わいが感じられる写真ですね。次回の投稿では丹波方面の奥多摩湖を訪ねたレポートを紹介したいと思います。
何となく京都の丹波を連想させる行先を調べると、奥多摩から約50分の山梨県丹波山(たばやま)村でした。山岳地帯で冬期には降雪や凍結の心配があるので、バスの運行管理は今でも大変でしょう。
昭和51(1976)年の奥多摩駅のスタンプを添付します。「鍾乳洞」は奥多摩湖とは別の道をバスで40分あまり、日原(にっぱら)鍾乳洞です。
勘秀峰 さま
フライングコメントでしたが、私も「丹波」の行き先が気になっていました。なんと、東京都ではなく、山梨県の丹波山村とは‥。改めて西東京バスの路線図を見ると、今は途中の奥多摩湖止まりになっていました。
総本家さんが西東京バスを入れた奥多摩駅舎を発表されていますが、私もバス抜きで同じ奥多摩駅舎を発表します。撮影は2015(平成27)年8月5日です。同一内容で申し訳ありません。
準特急様
最近の奥多摩駅の様子、ありがとうございます。外装も一新され、駅名看板も大型の木製に変わっています。驚いたことに、郵便ポストが旧式にされています。ハイカーや観光客受けを狙ったのでしょうか。
駅舎は昭和19年7月の開業時からのものです。戦時中物資不足の中で、意匠性に優れたロッジスタイルの建築は大変だったことでしょう。
添付の駅舎は御嶽駅。こちらは純和風で、入口の破風が銭湯を連想させます。
気になっていましたが青梅電鉄時代の車両が小湊鉄道で気動車として存在していました。詳細は藤本哲男さんがデジ青2011.10.25「昭和45年の小湊鉄道」に発表されています。尚、私のおぼろげな記憶では相模鉄道にもいたと思いますが藤本さんおわかりでしたらご教示ください。
写真は1970(昭和45)年3月14日小湊鉄道五井車庫のクハ6100で1926(大正15)年日本車両東京で製造されたデハ100→モハ100でもう1両クハ6101(元青梅モハ102)が電車から気動車化されて存在していました。横の窓の形などに青梅らしさが残っていました。
横から失礼します。
青梅電気鉄道のデハ100形ですね。101~106の6両が製造された両運車でした。102と104が国鉄クハ6100形(6100、6101)と改番され1950年に廃車後、小湊鉄道に移っています。106は戦後、南武線を経て1949年に相模鉄道のモハ2014になりました。因みに青梅電鉄のモハ500形は相鉄と上毛に移り、501、502、506が相鉄のモハ2011~モハ2013になりました。
乙訓の老人の甥様
早速ありがとうございます。相鉄の2000系はかろうじて撮っていますが元青梅は撮っておりません。
青梅線には、ED16以外の旧型電機も走っていたことがあるので、紹介しましょう。と言っても、省型ではなく、私鉄買収機です。写っているのは、ED2714ですが、この機関車、14輌もありません。旧南武鉄道の1000型で、南武が国鉄に買収された後、ED34を経てED27(の10番台)となりました。全機がこの地を離れることなく廃車となり、1輌だけ岳南に譲渡されました。この場所は、青梅駅の立川よりで、左の丘を登って行くと、青梅鉄道公園です。撮影は、昭和41.1.16です。
宮崎様
青梅線のED27の写真、ありがとうございます。不勉強ながら同型の電機を見たのは初めてじゃないかと思います。小型ながらパワーがありそうな旧型私鉄電機ですね。今回は皆さんのコメント、写真のお陰で、昔の青梅線の片りんを知ることが出来、とても感謝しています。
勘秀峰 さま、とんでもございません。感謝申し上げるのは、こちらの方です。関東地方の話題が少ないデジ青で、青梅線を取上げて頂けたからこそ、掲せられた写真ですから。調子に乗って、短い期間ながら青梅線にもう1輌居た、珍しい機関車をお目にかけます。青梅線は、青梅電気鉄道が戦時買収によって国鉄線になりましたが、正確には少し違います。青梅の先、御嶽までは確かにその通り。しかし、御嶽~奥多摩(当時は氷川)は、奥多摩電気鉄道が建設、開業と同時に国鉄に買収となったものです。青梅が買収された昭和19年4月1日から、3ヶ月経った7月1日のことでした。奥多摩は、青梅とは別会社ではあるが、路線の性格としては、青梅の延長線であり、車輌は青梅の乗り入れで賄う前提でした。この電機は、その例外で奥多摩が独自に東芝へ発注していたもの。しかし国鉄買収時には完成しておらず、買収後に完成して国鉄機となったものです。デキ1021(買収時)→ED371(昭和27年改番)→ED2911(昭和36年改番)→廃車(昭和38年11月)と云う車歴。写真は、早大鉄研の先輩、渡辺淳一さんの撮影です。