(1)北丹鉄道 福知山~河守
京都北部を走っていた二つのローカル私鉄、前回までは加悦鉄道、今回からは、もうひとつの北丹(ほくたん)鉄道です。加悦と北丹、両社の終点は、12キロ程度しか離れておらず、京都の北部限定で、特徴あるローカル私鉄が接近して、二つ存在していたこと自身、今から考えると信じられない気持ちになります。加悦鉄道は、昭和60年まで現役で、古典蒸機・客車がいることでも知られていて、比較的、記録もありますが、その陰にあって、北丹鉄道は特に特徴のある車両でもなく、しかも昭和46年に廃止されてしまい、
人びとの記憶も薄れてしまった鉄道でもあるのです。
▲初めて北丹に接したのは、昭和43/1968年の3月だった。それまで、何度も福知山へ行っているものの車庫が隣の福知山西にあるため、福知山駅で北丹に接する機会がなかった。この時は福知山駅の構内に5枚窓のハニ11がポツンと置かれていた。この当時は、ラッシュ時、DC+ハニ11の2両編成で運転があり、DCは車庫へ引き上げたあともハニ11だけは夕方ラッシュ時まで留め置かれていた。大正13年製の南海モハユ751で昭和32年に電装解除のうえ北丹に来た。典型的なタマゴ型の車体で、もう1両、同型のハ10とともに北丹初のボギー車となった。
北丹鉄道は、福知山~河守(こうもり)の12.5㎞を結び、由良川沿いを走っていた典型的なローカル私鉄だった。由良川はもともと水運が発達していた地域であったが、福知山を通る阪鶴鉄道が全線開通すると、由良川沿いの鉄道建設の機運が高まり、大正7年(1918)に北丹軽便鉄道が設立され、翌年には、福知山から官鉄宮津線を結ぶ鉄道敷設免許を取得した。ところが、接続する官鉄の由良川架橋地点が決定せず、河守以北の工事施工ができなかった。このため、福知山~河守の第一期線と、河守~由良の第二期線に分けて敷設工事を行うこととして、大正12年(1923)9月、まず竣工した第一期の福知山~河守間が営業を開始、社名を北丹鉄道と改称した。いっぽう、第二期線は、第一次世界大戦の恐慌による資金難などが重なって、建設を断念せざるを得なくなった。
営業開始後の北丹鉄道は、旅客とともに沿線にあった河守鉱山などで産出される鉱産物や、下天津付近の砂利輸送にも当たった。しかし、戦後になると、付近の鉱山も閉山となり、由良川の氾濫による水害にも、たびたび見舞われた。やがて自動車の発達や、地域の過疎化が進み、昭和44年には河守鉱山も閉山になり、いよいよ経営の悪化した北丹鉄道は、昭和45年に廃止を決定、昭和46年3月31日に休止され、のちに正式廃止となった。▲Nさんから預かったネガの中にあった、昭和33年、今から70年前の北丹鉄道福知山、国鉄福知山駅に切欠きホームがあった。手前にハ12、向こうにDB2と、その後、DFRCで貸し切り列車に仕立てられる車両が置かれていた。
▲目立たず静かに消えた北丹だが、形容しがたい乗り心地や、野趣豊かな車窓の風景は、北丹ならではのものがあった。その北丹の良さに高校生の頃から気づいたのが同学年のTさんで、北丹〝命〟のあまり、北丹に関する短歌、俳句、都都逸、そしてフォークソングまで自作自演し、周囲を啓蒙していった。そして、北丹の歴史始まって以来の貸切乗車を実現するなど、多大な功績を残した。私もTさんの薫陶を受け、機会あるごとに北丹を訪ねたものだが、昭和45年9月、Tさんのクルマに乗せてもらい、初めて本格的に北丹を訪れた。







