昭和44年9月30日、京都市交通局のトロリーバスが廃止された。
当時を偲び、最終日の様子等を振り返ってみた。
(1)歴史
昭和7年4月1日、四条大宮~西大路四条間1.6kmを開業した。都市交通としてのトロリーバスは日本初であった。
33年7月1日、市電梅津線西大路四条~梅津間2.1kmをトロリーバスに置換え、四条大宮~梅津間を直通運転とした。梅津は後日高畝町に改称した。
37年5月1日、高畝町~松尾橋間1.5kmを開業した。
44年9月30日に廃止され、翌10月1日より同区間を市バス77系統が運行された。
停留所は、四条大宮、四条坊城、四条中新道、四条御前通、西大路四条、西院巽町、四条中学前、梅津車庫前、南広町、高畝町、段町、北浦町、西浦町、梅ノ宮、松尾橋の15箇所で、平日の朝7時~9時までの急行運転中(37年3月27日から市電全廃まで実施)は四条坊城、四条御前通、西院巽町、北浦町は通過となっていた。
交通局では市電と同一の扱いで、運賃は市電と同額であった。
(2)戦後新製された車両
100形6両(101~106)、200形2両(201・202)、300形18両(301~318)の26両在籍した。
100形(101~106)
戦前製の1形の代替に27年4月に101~104、28年7月に105、106が作られた。車体はナニワ工機、車台(シャーシ)は日野ディーゼル製であった。
扉は中1扉で、当初は通常のバスと同じサイズの幅の狭い2枚折戸であったが、後に4枚折戸に改造した。
廃止1年前の43年9月に廃車され、105のみ大宮交通公園で展示保存されたが、50年頃解体されてしまった。
105/(45-1-4) 大宮交通公園
200形(201・202)
30年に2両新製された。車体はナニワ工機、車台は日野ディーゼル製であった。
2枚折戸の前中扉で、41年にワンマン運転用に改造されたが、ワンマンで使用されることはなかった。
201/上 (44-9-28) 下 (44-9-30) 梅津車庫
300形(301~318)
33年12月から40年3月にかけて作られ、主力として最終日まで活躍した。
301~309が33年12月、310~314が34年4月~36年4月、315~317が37年3月、ラストの318は40年3月に作られた。
車体はナニワ工機、車台は301~305が日野ディーゼル、306以降は三菱ふそう製であった。スタイルは大きく変わり、前後扉となり前扉は3枚折戸、後扉は4枚折戸になった。301~317は40年から41年にワンマン改造、318は当初からワンマン仕様であったがワンマンで運転されたことはなかった。
318が交通局で保存されていたが、47年に電気バスの試験車として改造され、試験終了後解体されてしまい、トロリーバスの保存車はなくなってしまった。
301/ (44-9-30) 梅津車庫
33年製第1次車のトップナンバー
306/ (44-9-28) 梅津車庫
33年製の1次車。この車両以降は車台が三菱ふそう製になった。
バンパーのヘッドマークは「鉄道友の会」のものである。
313/ (44-9-30) 梅津車庫
隣の市バス3系統もツーマンであったことが判る。
318/ (44-9-28) 梅津車庫
40年製のラストナンバー。僅か4年の活躍であった。
(3)廃止間際の沿線風景
301/ (44-9-30) 松尾橋
305 /(44-9-30) 西大路四条
305 /(44-9-30) 松尾橋
役目を終えた車両を架線のない場所に格納する際に使用したボンネットバス/ (44-9-30) 梅津車庫
電停の表示/(44-9-30) 西院巽町
基本的に市電と同じデザインのものを使用していたが、このようなものも存在した。
(4)トロリーバス318号改造の電気バス(京22か 689)
自動車の排気ガスによる環境汚染が問題視されはじめた昭和47年から48年にかけて、横浜市を除く政令都市では競って電気バスを導入したが、いずれも試作の域を出ず、十分な成果が上がらないまま、そのほとんどが僅かな期間で姿を消してしまった。大阪市だけは例外で他の車両と同じ10年間使用後廃車になった。
車両は他の都市は新製されたが、京都市は保存中のトロリーバス318号を活用することになり、48年に日本電池㈱で改造され、トロリーバス改造の電気バスという前代未聞のバスが誕生した。
「みどり号」と愛称が付けられ、形式は「TB13」と称された。
八条営業所(八条口のホテル京阪の場所にあった)に配置され、4系統(京都駅八条口~深泥池)で使用され、京都駅八条口6時16分発の始発便と9時6分発の便で深泥池を往復し、10時45分頃入庫する運用で、入庫後は専用の駐車場で翌朝まで充電されていた。車内はロングシートで、後部に機器室がかなりの面積を占め、大変狭く感じられた。(事実狭く定員は56名であった)
そのためラッシュ時を避けて使用されたが、9時6分発の折返し便は、都心への買い物客等で混雑し、乗客の評判は必ずしも良いものではなかった。
52年夏頃廃車されたが、翌々年に洛西地区に導入された電気バスのテストカーとして大きな役割を果たした。
八条車庫を出発/ (49-6-16)
京都市からトロリーバスが姿を消して45年が経過した。昨日急にトロリーバスのことを思い出したので書き込みした。若い世代の方は存在すら知らないだろうし、保存車両がないため、人々の記憶から消え去ろうとしている。
今一度京都に都市交通としては日本初のトロリーバスが走っていたことを思い出していただければ幸いである。
藤本様
大変ご無沙汰しております。
毎回すごい情報を拝見し、唯々驚愕、感心するばかりです。
コメントを書くにも憚られておりましたが、今回の記事で学生時代を思い出し、このコメントを書かせて頂いています。
学生時代は、錦林車庫から2番の市電、22番が来ればラッキー、最後の一年は3番のバスでという時代でしたが、写真の中にボンネットバスがありました。5番のバスを利用するときもそうでしたが、このバスを確か「犬バス」と行っていたように思います。愛嬌のある型でしたが、大型の新しいバスとの差は歴然とし、正直このバスが来たらがっかりしたものでした。ましてラッシュの時、車掌さんが横手で合図「満員通過」と遣られたときには・・・
今になっては風情があるバスだったのにと思いますが、勝手なものです。
田舎者の私は、梅津車庫の方に縁もなく、せっかくトロリーバスが走っているときに
乗れておりません。写真を拝見し、トロリーバスの乗り心地は、運転方法はと今になって
残念なことをしたなあーと感じ入っている次第です。
トロバスを改造した市バスのことなどお教えを頂きました。また京の懐かしい町並み
時の経過を感じ入りました。
先日の「しまかぜ」の際には、元陸自一佐と久しぶりの鉄鈍爺氏とご一緒出来ました。
お互い高齢者になってしまいましたが、体を大切に頑張っていきましょう!
お会い出来る日を楽しみにさせて頂きます。お元気で!
追伸、OB会を通じ、上述の各氏以外にM本、Y室、K中、K林氏達とお会いすることが出来ています。有り難いことです。
藤本様
間違いがありました。追伸のM本さんはM尾さんの間違いです。修正します。