▲続いての撮影地は、京福電鉄叡山線(現・叡山電鉄)に移る。住まわれていた左京区内だけを走り、身近な鉄道へは以後もよく訪れることになる。最初に撮ったのが、京都市電1000型が叡山線を走るシーンだ。ご存じのように、宝ヶ池競輪場で開かれた競輪の開催日にあわせて、元田中駅にあった渡り線を通って、京都市電が山端(現・宝ヶ池)まで運転されていた。前年の昭和24年12月から運転を始め、羽村さんも、そのニュースを聞いて、行かれたのだろうか。ただ、低感度のフィルムのため、晴れていても走行中の車両を写し止めるのは難しい。そこで、羽村さんは、流し撮りで車両を止められている。偶然の所産なのかは分からないが(私も技量もないのに写したら流し撮りになっていたことがあった)、背後を空で抜いて、市電のポールが強調されている。撮影場所は、修学院の南方と思われる(昭和25年3月)。
戦後、地方自治体では復興財源の捻出のため、公営の競輪、競馬、競艇の事業を始めた。京都市でも、京福電鉄宝ヶ池駅西側に宝ヶ池競輪場を開場した。観客を乗り換えなしで運ぶため、市電「叡電前」(京福は元田中駅)に渡り線を設置、昭和24年12月17日から、レース開催日に、京都駅前、四条大宮から山端まで、競輪場行き直通電車の乗り入れを始めた。車両は新造間もない1000型が専用に用いられた。京都市電と京福電鉄線は、レール幅・電圧が同じため、乗り入れが可能だった。京都市電の営業車両が、ほかの鉄道に乗り入れた唯一の例で、叡電は鉄道法による鉄道であり、路面電車が鉄道線に乗り入れた点が特筆される。
経路はつぎのとおりで、開催時刻に合わせ両系統とも20分ヘッドの運転だった。
京都駅前(東乗り場)~七条河原町~東山七条~祇園~百万遍~叡電前~宝ヶ池(山端)
壬生車庫前~四条大宮~祇園~叡電前~宝ヶ池(山端)
翌25年4月から、百万遍の西-北の渡り線が完成したことにより、京都駅前発は経路変更され、河原町線で北上、河原町今出川から百万遍ルートに変更されている。
▲運転日は競輪開催日に限られ、月に10日余りだった。運賃は市電・京福を合算したものだが、切符は一枚ものが用意された。市電区間は各停留場に停車し、京福線内は無停車だったが、各駅に停車して時間調整をしたと言う。修学院駅で写したと思われる写真には「宝ヶ池競輪」と書かれた円板が取り付けられている。
さらに、昭和29月7月13日、同30年7月12日には宝ヶ池で花火大会があり、この2日間は18時30分から23時に、京都駅前、壬生車庫前から臨時系統が運転されたことが記録に残されている。直通乗り入れは昭和30年9月1日をもって中止されている。これは、市電のビューゲル化に伴うもので、叡山線の架線がポール集電のまま残ったためである。ポイント部はすぐ撤去されたものの、渡り部分のレールや敷石は、後年まで残っていた。