【101602】 羽村さんが遺したアルバムから 〈9〉

奈良電鉄
羽村さんシリーズ、阪急、京阪、叡電と京都周辺の私鉄が続いて、最後は奈良電です。と言っても撮られた写真は4点だけ、羽村さんにとって、奈良電は近くて遠い存在だったようです。私も、同じようなイメージで見ていました。奈良電時代は、沿線に行くような用事はなく、唯一、学校の遠足や町内の行楽で、大久保あたりの芋掘りに行った記憶しか残っていません。“芋掘りに行く時だけの電車”のイメージしかなく、現在の近鉄京都線と比べて、沿線人口も少なく、田舎電車そのものでした。
芋掘り以外にもうひとつ、行楽客を集めたのは木津川の水泳場だった。海のない京都では、川の中州を利用した水泳場が何ヵ所かあった。中でも奈良電木津川鉄橋付近の水泳場は、新聞社の後援もあったりして人を集めた。奈良電は、鉄橋の上に木組みの臨時ホームを設けて開催期間は乗降扱いをした。写真のように、1両まるごと広告電車も現われてPRにつとめた。この臨時ホームは、昭和43年のDRFC時代、車庫見学に行った時にも残っていた。電車は、昭和23年に登場したデハボ1100形で、運輸省の規格型、同年に登場した近鉄の規格型600形とほぼ同じである(奈良電京都、昭和26年)。


広告電車1103の側面を見る。地色はよく分からないが、クリーム系統の一色塗りに、イラストや文字を書いたもののようだ。開催期間が7月7日から8月26日と書かれており、期間が過ぎると、また塗り直したのだろうか。いまのようなラッピングではなく、まるごと色の塗り替えはたいへんな作業だったと思う。ロングシートの車内の様子も見えるが、この1103と1101は、のちに扉間クロスシートに改造された。丹波橋駅に停車する急行1102ほか。丹波橋駅は、当時から京阪との共同駅となっていた。現在の京阪丹波橋駅と同じ場所だが、写真を見ると、対向式ホームのようで、待避線なしの棒線式だったのだろうか。デハボ1102は、昭和38年の近鉄合併で、モ671となる。昭和40年には、特急車18000系の登場まで、つなぎとして、京都~橿原神宮前の特急の「予備車の予備」となったこともあったが、のち同年に解除されてロングシート化された。丹波橋駅を発車する奈良行き。電車は桃山御陵方面に向かうところで、右へ分岐するのは京阪線。丹波橋駅は、近鉄合併後も共同駅だったが、列車の輻輳により、近鉄は貨物駅跡へ移転し、現在のような構造となった。このあたりは、いまも廃線跡の雰囲気が残っている。電車はデハボ1000形で、奈良電創業時から活躍を続ける奈良電の主でもあった。

 羽村さんが遺したアルバムから 〈9〉” への8件のコメント

  1. コメントが無い時は、自分でコメントするに限りますね。
    当時の奈良電・京阪の共同駅である丹波橋駅のことを、対向式ホームのように見えると書きましたが、これは見間違いでした。やはり待避線を持った2面4線の構造でした。京阪に勤務されていた中村靖徳さん(故人)が著された「走る窓から」に、丹波橋駅信号扱い所の写真があり、構内の操作盤があり、構内の様子がはっきり確認出来ました。列車が輻輳し、両線が平面で交差する丹波橋駅は、「操車を預かる者は丹波橋が捌けてこそ本物」と言われたと述懐されています。

    • 総本家青信号特派員さま
      小生もコメントしたかったのですが遅くなりました。ご本人さまに先にコメントさせてしまい申し訳なかったです。
      木津川水泳場は小学生時代にほぼ毎年のように家族で行っていました。当時は東寺の西に住んでいたので、遊泳は木津川か京阪八幡の水泳場が近くで便利でしたが、八幡は既に上流域の開発で水質が悪くなりつつあり、泳いでいても時々「水が汚れてきた」として遊泳中止になり、川から上がるようにいわれて楽しくなかったことから、専ら木津川へ行っていました。仮駅には確か急行も臨時停車していたと記憶しますが、乗った電車はデハボ1000型が多かったように思います。
      尤も1100に乗っていた可能性はありますが、形式もよく知らなかった当時のことゆえ、みんな1000に見えていたのかもしれません。丹波橋駅は往きは比較的スムーズに入構したものの、復路はたいがい京阪の通過待ちをさせられました。京都駅行は京阪の下り本線と上り本線を横断しなければならず、そのため待たされることが多かったのだと思います。木津川へは最寄り駅の羅生門前から東寺駅前まで市電利用でした。たまに単車の300型が来て上下に揺られながら行ったものです。一度母に連れられて行ったときに、手前の「久津川」を木津川と聞き違えてホームに飛び降り、電車を一本遅らせたこともありました。現在の小倉~向島間のカーブでは広大な巨椋池干拓地がレールのカントによる影響で大きくせり上がり水平ではなかった風景と、大久保駅北の弾薬庫との間の土手が高かったことが印象に残っています。

  2. 1900生さま
    コメント、ありがどうございました。貴重な証言、ありがどうございました。エラそうに書いていますが、私は木津川の水泳場へ行ったこともなく、奈良電に乗った記憶も定かではありません。巨椋池干拓地のこと、木津川と久津川を聞き間違えられたこと、よく記憶されていて、びっくりしました。
    唯一の水泳場の手掛かりとして、昭和43年、DRFCの見学会で新田辺車庫へ行った際に、木津川の仮駅ホーム跡の横を行く、近鉄電車を貼ります。木組みのホームが、鉄橋の南端の両側に残っていました。この撮影も、奈良方面ホーム跡から撮ったものと思います。

    • 総本家青信号特派員さま
      つまらぬ記憶をいつまでも憶えているもので申し訳ありません。そうそうこういう感じの臨時駅でしたね。昭和43年まで在ったということは、小生の利用時点から10年は残っていたことになりますね。駅から河原に下りて行くと沢山のテントが張ってあり、そこで着替えをしたり休憩したりしていました。ある時夕立にあい、鉄橋上の架線柱に轟音と共に落雷が何発もあり、すぐ下のテントで恐怖でガタガ震えていたことがありました。変圧器の取替えかなんかで1時間ほど電車が止りました。海と違って流れがあるので、帰宅後の夕食時に体がスッーと流されるような感覚があって困ったものでした。

  3. 旧型車や水泳場広告電車の時代を感じさせるデザインも魅力的ですが、私の知らない地平時代の奈良電京都駅の情景(横に客車が見えていますね)にもそそられます。

    京都駅に南北自由通路ができたのは、地下鉄開業時?現駅舎開業時?でしたか?
    それ以前は烏丸側で近鉄の乗車券を買ったり入場できたりしてたのでしょうか?
    少年時代に勝手が分からず、(確か市電があった頃、難波直通の特急にいちびって乗ったか)近鉄に乗るのに国鉄の入場券を買ったような記憶も、、、、

  4. 戦争が終わってまだ6年の時に、広告電車が存在していたなんて驚きました。
    素朴な感じですが、今でも通用するデザインですね。
    関東鉄道や島原鉄道の田舎くさい広告車両の写真は見たことありますが、これはなかなか本格的ですね。
    阪急のアメリカ博塗装の800系もこの頃だと思いますが、実は当時はやっていたかも知れませんね。
    ところで、これより古い今でいうラッピング車両あるのでしょうか?

    • コメント失礼します。私も生まれていませんが、これは自社車両を使った広告宣伝活動の一環で、「動く宣伝媒体」と捉えた方が理に叶うように思います。
      抑圧された戦時下態勢からの解放で、戦後は鉄道車両の色を一斉に明るく塗り替えた。その走りが25年の湘南電車の登場だったと聞きます。
      広告、宣伝活動の自由化は、いろんな社会活動をもたらし、また駐留軍の施策は日本中にいろいろな影響をもたらせた。阪急の米国博塗装などは、人によればやや軽薄に見えたかもしれません。
      「走る広告塔」の時代は昭和40年代まで続き、各社が特急電車に最新の設備とデザインを競います。今から見るとコストや採算を度外視した設備投資で、日本の鉄道車両は一気に近代化して、新幹線で世界をリードする技術と自信をつけました。
      半世紀以上が過ぎて、特に地方には極端に夢の無い時代になりましたが、先輩が遺された作品を見て、感慨に耽ることは、とても大切なことだと考えます。

  5. 総本家青信号特派員様

    遅ればせながら『木津水泳場』絡みの話です。
    例によって京都駅構内をウロウロ『取材』?していた時、新幹線工事も近づいた大キト区に行ってみて、ガランとしてしまった風景にポカンとしてしまった記憶が蘇りました。
    それまでは甲子園や須磨など『海水浴場』が小生の中の常識だったため、『水泳場』に違和感を感じてシゲシゲと見つめたものです。
    その時のワンショットに『木津水泳場』の看板が有り、思わずアップしたくなりました。
    撮影は1962-8-5でした。

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