時刻表とともに 想い出の列車を再見する (9)

九州の列車 〈9〉 佐世保のプッシュプル運転

長崎県には、もう一つの中核都市として佐世保があります。佐世保線の早岐~佐世保では、その線形によりプッシュプル運転が日常的に行われていた興味深い区間でした。肥前山口方面から佐世保へ向かう列車は、手前の早岐で進行が逆になるため、牽引機の機回しとなるところですが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロしかなく、機回しの手間を省くため、早岐に着いた列車の後部に別の機関車を付け、プッシュプルで佐世保へ向かいました。佐世保発の列車はその逆でした。

その代表が、特急「さくら」佐世保編成、写真は、C11 192牽引の東京行き「さくら」。DD51が本務牽引ではあるが、早岐で逆向になるため、本務機を機回しすることなく、C11が前部に付き、C11+20系+DD51のプッシュプル編成で同区間を走った。佐世保の構内は狭くて留置線もないため、早岐までの客扱い前後の回送を含めると、2往復のC11「さくら」が見られた。この光景は、昭和40年10月改正から、昭和43年10月改正までの3年間だけ見られた。C11 の次位は、旧型客車改造の簡易電源車マヤ20で、これもこの時代ならではの光景。

佐世保16:10発の「さくら」、早岐までの12分間がC11が牽引となる。C11牽引の「さくら」は、Tさんのスクープで大々的に鉄道誌に発表された。そこには「さくら」のヘッドマークが燦然と輝いていて、何としても撮りたい一心で、高校2年生の時に初めて九州へ行く動機になった。ところが、現地に着いてみると、ヘッドマークなど何も無い。機関士に聞いてみても、いつも付けていないと、つれない返事。あとで分かったことだがTさんが“ヤラセ”で装着したことが分かった。急行列車も同様の運転で、こちらはハチロクが先頭だった。時刻表青枠の大阪行き「平戸」、58648〔早〕+客車+DD51 573〔鳥〕が早岐へ向けて発車していく。なお撮影は昭和44年で、43年10月改正で愛称は「平戸」から「西海」に変更されている。

「さくら」と並ぶDCは、呉発佐世保行き急行「出島」で、かつての軍港同士を結ぶ列車だった。

 

 

 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (9)」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    車両のある風景~37枚目の写真から~〈18〉の「異動力による重連、三重連」で大塔駅に通過中の「さくら」の回送列車を投稿いたしましたが、1968年3月27日同日の下りの「さくら」の写真を再度投稿します。「大塔-日宇」間の日宇トンネルの入り口ですが、この時はヘッドマークを付けていました。
    理由としては①この日に何かイベントがあった②3年目になりマニアがうるさいので付けるようになった③時間帯から下り列車の先頭となる佐世保方のみ固定で付けていたなどが考えられると思います。どうでしょうか。

    • 快速つくばね様
      貴重な写真を再度、見せていただき、ありがとうございます。今回が、客扱いの下り「さくら」となるわけですね。なるほど、炭庫に当たる後部に「さくら」ヘッドマークが掲げられています。挙げておられる3つの理由は、いずれも可能性としては、アリだと思います。3年目となり、撮影ツアーが盛んに行われており、ヘッドマーク付きの例も確認しています。この年にはC11の撤退も予測されているところから、イベントで使ったヘッドマークを、そのまま装備していたことも考えられます。

  2. 「さくら」ヘッドマーク騒ぎの寄稿者のTさんは、そのあと「鉄道ジャーナル」を創刊されて、編集長として手腕を発揮されます。ときどきエキサイトされて誌面論争が繰り広げられ、いつもお世話になっている京都のKさんも、撮影方法をめぐって俎上に挙げられました。Kさんと話していると、“ワシも若かった”と述懐されていましたが、Tさんは会うと、実に穏やかな紳士的な方でした。そのTさんが育て上げられた同誌が、いよいよ終刊号を迎えました。60年近くの刊行の間、いろいろなことを教えてもらいました、最後の終刊号まで、きっちりした編集方針を貫かれたのも、Tさんの遺言だったと思います。最終号近くになって、寄稿の縁ができて、今回も献本をしていただきました。本当にお疲れさまでした。

  3. 急行「西海」と「平戸」の関係について補足です。
    「西海」は本来進駐軍の準指定列車で発足した東京発佐世保行きの優等急行。
    「平戸」は昭和30年代にスタートした200番台の列車番号を持つ関西発の佐世保行き急行でしたが、ヨンサントオで先の「西海」の東京大阪間が廃止になり、「平戸」の列車名を改称して「西海」2往復になります。
    「平戸」の名前が勿体無いので、博多発の筑肥線松浦線経由の長崎行きローカル急行「九十九島」が、2代目「平戸」を名乗り、これが昭和の終わりの廃止までモノクラスで活躍しました。写真は1981年2月の当会春季旅行の際に大村線松原で撮影しています。

  4. 総本家青信号特派員様
    東京からの直通列車が長崎まで初めて運転されたのは、「下関-門司(開通するまでは大里)」間の「関門トンネル」が旅客営業を開始した1942年11月15日でした。このとき「富士」の運行区間が東京-長崎(長崎港)」間に拡大され、運航日には上海航路と接続をとるようになりました。
    戦後になって1946年3月13日から「東京-博多」間に「Dixie Limited」の運転を開始し、この列車に「博多-佐世保」間の普通列車が併結され、のちに全体の運行区間が「東京-佐世保」間に延長されました。この列車がサンフランシスコ平和条約締結後の1954年10月1日から「西海」という列車名が付きます。
    この区間の列車で忘れてはならないのは1945年10月から1950年4月までに約1150本運転された外地から引揚者用の専用列車です。1947年6月には「南風崎-東京」間に8012列車(南風崎15:40-3日目の06:25上野)、8014列車(南風崎17:15-3日目の06:28東京)、8018列車(南風崎23:31-3日目の18:40東京)の3本が運転されています。
    引揚者(復員兵)の上陸地として、「岸壁の母」で歌われた舞鶴港や長門市の仙崎港が有名ですが、一番人数の多かったのは139万6468人が上陸した佐世保市・針尾島の浦頭港でした。帰国上陸した人は佐世保引揚援護局で検疫や入国手続きをして最寄駅となった南風崎から全国各地に向かいました。この情景を歌った田端義夫の「かえり船」の歌碑が浦頭引揚記念平和公園に建てられています。
    この時代、多くの客車や機関車が集結した早岐機関区はさぞ賑わったことと思います。

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