九州の列車 〈8〉 長崎駅の不定期急行
長崎駅もすっかり変わりました。私は、まだ新幹線開通後の長崎へは行ったことがありませんが、駅は高架になって、在来線も一新され、駅前の風景も激変したようです。訪問した昭和42年当時、長崎本線はもちろん非電化、単線でした。旅客列車はDCが多かったものの、朝にC57の牽く列車が残っていて、貨物もD51が牽いていましたが、優等列車はDD51化が完了していました。ただ、多客時に運転される不定期列車は、まだ鳥栖区のC60が牽いていました。▲ C60 26[鳥]の牽く不定期急行、大阪行き「第二玄海」が長崎駅を発車する。夜行列車ながら、一等車1両で、あとはモノクラス編成であることが分かる。右手には、長崎機関区、客貨車区、貨物駅があり、広大な用地が広がっていた。この撮影位置まで、駅から行くのに、ずいぶん遠回りして行ったこと覚えている。長崎機関区には、配属車輌は無かったが、鳥栖、早岐の蒸機が盛んに出入りしていた。扇形庫はなく、機関車は広々した側線に停車するので、形式写真が撮りやすかった。長崎の先には、長崎港駅へのレールが伸びていて、駅は終端ホームもあったが、一部は通り抜けができる配線になっていた。
▲「第2玄海」は、翌朝6:24に大阪に到着、本家の「玄海」は京都行きだが、こちらは大阪止まり、行き先「大阪」の右横にある「※」は、不定期列車を指す。不定期列車は、定期列車に属するが期間を限定して運転される列車を指し、現在では「季節列車」と呼ばれている。同じ時刻表の巻頭の臨時列車のページには、この期間に、長崎15:45発の東京行き臨時急行「第2雲仙」も運転されていた。設定期間が不定期列車より短い列車を臨時列車として区別していたが、いまは「増発列車」と呼ばれるようになった。いずれにしろ、多客時には旺盛な需要があったことが分かる。時刻表を見ると、ほぼ一時間ヘッドで、島内、大阪、東京行きの優等列車が出発している。左欄、諫早で分割、併合される島原鉄道の加津佐を発着する列車があるのも懐かしい。島原鉄道が自前で国鉄型DCを造り、長崎へ乗り入りしていた。
▲扇形庫などの建屋もなく広々した機関区は形式写真に最適。▲▲路面電車も見える長崎駅前、駐車するクルマに時代を感じる。
総本家青信号特派員様
1962年10月23日長崎駅のホームから見た長崎機関区周辺です。この頃は長崎機関区にはD51が8両、8620が3両計11両配属されていました。この日で北九州(神戸→関西汽船→別府→阿蘇→熊本→雲仙→長崎)の修学旅行は終わり長崎からC57の団体臨時列車で大阪に向かいました。その出発前に撮ったD51814[長崎]です。。
また、脱線しますが長崎と言えば内山田洋とクルーファイブ唄前川清の「長崎は今日も雨だった」が有名で好きな曲ですが、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲唄藤山一郎の「長崎の鐘」は悲しいがいい曲です。
総本家青信号特派員様
準特急様
長崎の鉄道の写真を初めて撮ったのは1964年4月の修学旅行の時で、 長崎電気軌道の長崎駅前電停の1枚です。コースは出発が大阪の天保山だった以外は準特急様と全く同じコースで宿泊地は内牧温泉と雲仙温泉でした。
長崎市内観光の貸切バスの中で歌われていた歌は、いずれも前年の1963年に発売された『修学旅行』(作詞:丘 灯至夫、作曲:遠藤 実、唄:舟木一夫)と『長崎の女(ひと)』(作詞:たなかゆきを、作曲:林 伊佐緒、唄:春日八郎)でした。
総本家青信号特派員様
臨時急行「第2雲仙」東京行きのことも少し触れられていましたが1964(昭和39)年4月2日鳥栖でC6038[鳥栖]牽引で撮っています。九州の日の入りは遅く、場内信号機手前で停車してしまったのでだらしない写真ですがかろうじて同列車をとらえることができました。
準特急さんが撮られた同じ場所へ行きました。鹿児島本線と長崎本線がY字に分岐する地点で、どちらの列車も撮れました。この時は、左手に工事現場事務所があって、誰も居ないのを幸いに、勝手に二階に上がって、下りのC60列車を写したのが、この写真です。高田さんも指摘されている、背後のボロ家も同じように見えます。
総本家青信号特派員様
写真ありがとうございます。明るい日差しのもとでは、民家の印象も違いますね。納得です。漫画家つげ義春が描く世界の家みたいです。
総本家青信号特派員様
「朝にC57の牽く列車が残っていて」に該当する1968年4月8日の「喜々津-東園」間の佐世保発長崎行きの通勤列車です。事前に園主さんに断ってミカン山から撮影しました。
快速つくばね様
写真を見せていただき、ありがとうございます。すごい高所から撮られているのですね。私も行きましたが、ごく平凡な位置からでした。ここは、入り江に沿って、海を手前に入れたり、逆に山手へ上がって、朝の列車を逆光シルエットで撮ったりと、さまざまな撮り方ができる場所でした。ただ、行くとなると、便利なのは夜行になりますが、睡眠不足と空腹で、茫然としながら撮ったことを覚えています。
快速つくばね様
いい写真ですね。私はこの辺り友人と歩き通しましたが既に蒸機はなく天気にはめぐまれたんですが気動車ばかりで充実感がなかったです。
準特急様
コメントありがとうございます。「阿保と煙はなんとやら」といいますが、高い所に登り、煙ばかり撮っていました。同日の「東園-大草」間です。気動車9両の見事な寄せ集め編成が長崎に向かって下って行きました。
快速つくばね様
これは見事な寄せ集め編成ですね。35系が先頭で、26・55系の急行色、10系、20系も挟まっています。この場所は、カーブになった、もう一ヵ所ですね。私も九州では、筑豊本線で寄せ集め編成をよく見ました。これは10両編成なのですが、後部が見えていません。ここでも、35系が1両、中間に入っています。
冒頭の長崎駅や快速つくばね様のミカン山からの写真、長い編成の客車列車に合っているいい写真ですね。
東園駅から喜々津駅まで、準特急さんのガイドで歩いたことがあります。平成11(1999)年3月、長崎~佐世保間に特急「シーボルト」が運転を開始した月です。(結果的に短命の特急でした。)線路と道路が付かず離れず景色はいいのですが、短編成のDCばかりで、ワクワク感が乏しかったものです。
当時の時刻表は残しておらず、該当部分だけでも残しておけば、路線の印象ももう少し鮮明に残っていたかもしれません。
ところで準特急さんの、だらしない写真と述べられている「第2雲仙」C60の写真は、右に写っているスゴイ民家?に目がいきます。
高田幸男様
有難うございます。一緒に行った日は3月6日で佐世保-長崎間のキハ183系1000番台4連の「シーボルト」は3月13日からの運行でした。この日は試運転でした。それにしてもお互いに健脚でしたね。C60よりも民家の方に興味を持たれたようですがあの時代は殆んどあのような家屋で茅葺きの家も白川郷ほどではありませんが各地で見られました。ところでいつもコメントをいただいている快速「つくばね」さんの博学ぶりには脅威を通り越していますが、「つくばね」さんの傑作気動車9連には非常に興味を覚えます。あちこちで気動車の異形式の連結を見てきましたがこんなん始めてです。今になってC57の列車よりも面白い作品と思いました。長崎と言えば「長崎の鐘」を挙げましたが私は「長崎のザボン売り」の小畑実な軽やかの歌い方も好きです。朝鮮の平壌の生まれで確か千葉県のゴルフ場で若くして亡くなったように聞いたことがあります。有名な「勘太郎月夜」も小畑実のヒット曲です。
準特急様
高田幸男様
キハ183系1000番台は、何度も化粧直しをした車両ですね。最初は「オランダ村特急」として1988年3月から運行を開始し、一部区間を485系の「有明」を相手に電車と気動車の併結・協調運転をしていました。1992年には久大本線の特急「ゆふいんの森」の増発用に転用されて「ゆふいんの森II世」となり、さらに1999年3月に古巣に戻り、「佐世保-長崎」間の「シーボルト」となりました。しかしまた長く定着できず2003年にもう一度久大本線に戻ることとなり、「ゆふDX」に改造されました。2011年には4度目の転用改造が行われ、豊肥本線の特急「あそぼーい!」になりました。この車両は、富士重工業と新潟鐵工所で製造されたので九州に送られる前に宣伝を兼ねて品川駅で車両の展示が行われましたが、国鉄分割民営化直後とはいえ今では考えられないことです。写真は2014年5月11日の「南熊本-新水前寺」間の「あそぼーい!」です。連結相手の485系は残っていませんが、先頭部には双頭連結器をいまでも装備しています。
小畑実といえば、「湯島の白梅」や「花の三度笠」がありますが、鉄道に関するものといえば、映画では信濃追分駅が舞台となりD50が牽く旧型客車が登場する「高原の駅よさようなら」ではないでしょうか。
快速つくばね様
これですね
http://tetueizuki.blog.fc2.com/blog-entry-328.html
米手作市様
そうです。早速ありがとうございます。
この歌で気になっていることがあるのですが、2節目の歌詞で
2 旅のおひとと 恨までおくれ
二人抱(いだ)いて 眺めた月を
離れはなれて 相呼ぶ夜は
男涙で くもらせる
とあるのですが、最近、森昌子を始め若い人(それほど若くありませんが)がカバーしている歌は、「二人抱(いだ)いて」を「二人抱(だ)いて」と歌っています。言葉足らずの様でしっくりしません。
快速つくばね様
時代の差でしょうね。
『いだく』と『だく』ではニュアンスがちがいます。おそらく作詞者が現存されていたら著作権侵害で抗議されていたでしょう。私は『いだく』には「抱き合う」のニュアンスがあり、『だく』は一方的に抱え持つのイメージがあります。
戦時歌謡に『~笑って死んだ戦友の遺骨を「だいて」今入るシンガポールの街の朝』というのがあり、首から白い布で骨箱を提げた兵隊さんを想像していました。