時刻表とともに 想い出の列車を再見する (7)

九州の列車 〈7〉 佐賀駅に発着する蒸機列車

佐賀は、昔から目立たない県庁所在地でした。いまも長崎新幹線は“佐賀飛ばし”しています。昭和の時代も、たしかに規模としては、ほかと較べて小さなものでしたが、駅には、長崎本線、佐賀線、唐津線が集まり、幹線の中枢駅らしい雰囲気を醸し出していました。朝の佐賀駅、C57が朝陽を浴びて、佐世保発鳥栖行き426レを牽いて到着する。磨き込まれた早岐区のC57、この124号機は、ナンバープレートの取付位置がやや高い。打ち水されたホーム、2番線ホームの表示、木造の柱、ホームの売店、左手には、手小荷物も積まれている。左の広告を見ると、佐賀県らしく「サロンパス」の広告も。昭和ムードいっぱいの駅に、“シューシュー”とドレーンを吐きながらC57が到着するのが、眼に浮かぶ。乗車列車をホームで撮っただけの写真だが、こんな雰囲気の写真は大好きだ。なお、佐賀駅は昭和51年に高架化されている(昭和42年4月5日)。

赤枠が乗車した426レ、佐賀のユースに泊まり、鳥栖機関区へ行くため、終点の鳥栖まで乗車した。佐世保を5:36に出て、3時間20分かけて鳥栖に着く。客車列車は、この426レのみで。あとはDCだった。朝は30分ヘッドぐらいで鳥栖方面の列車が出ており鳥栖や鹿児島本線沿線に通勤需要があったことが分かる。

当時の佐賀駅は二面三線の構造だった。3番線に出入りしていたのが唐津線の列車だった。旅客はDC化されていたが、朝に1往復だけ客車列車が残っていて、これを牽くのが唐津機関区の9600だった。客車は7輌あって、ローカル線にしては、結構な長さ。「さが」の駅名標や、背後のテルハ、昭和の駅を演出している。この左手には隣接して佐賀機関区の煉瓦庫があった(昭和44年3月14日)。

この時刻表は昭和43年10月改正号で、写真の727レは、佐賀9:07発、西唐津10:58着として掲出されている。実は、昭和43年10月以前、これに相当する列車はDCだった。なぜDCから蒸機に置き換えるなど逆行したのだろうか。どうやら、駅の高架化工事と関連があるようで、上掲のように、機関区や留置線が高架駅用地に転用、地上駅スペースは駅前広場の拡幅に使われた。昭和51年完成だから、計画が進行した段階、用地提供のため、機関区の縮小が始まり、客車の留置も困難になり、上り客車列車が到着後、即、西唐津へ返却する必要があり、DCを置き換えたようだ。

 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (7)」への7件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    地平時代の佐賀駅は急行「ちくご」に乗車して佐賀線から通過した時と唐津線に乗り換えた時ぐらいで、夜間に通ったことが多く昼間の想い出はあまりありません。
    高架駅は地平駅から200mほど北に離れた場所に移設され、それまで佐賀県庁のある佐賀城跡方向に回り込んでいた線路が、前後区間を含めて直線化され、これは将来北側に新幹線駅を併設することを考慮したものといわれています。現時点では西九州新幹線の駅ができるかどうか先行きが見通せませんが。佐賀駅が終点駅になっていた佐賀線も1976年に高架化とともに移設されましたが、国鉄分割民営化直前の1987年3月28日に廃線となったので専用の切込線も僅か11年しか使用されませんでした。
    移設後、駅東側の踏切を渡って北側にあった佐賀市役所が、南側に位置することとなり、当時の鉄道用地との境界線が現在の県道267・294号で、駅から南に伸びる県道29号(本丸通り)との交差点に「駅交番西」という名称が残っています。
    2018年6月25日に駅近のホテルから撮った佐賀駅ですが、このホテルの敷地が佐賀機関区の所在した場所で、駅の北側の新幹線駅予定地?にはマンション群が建っています。

    • 快速つくばね様
      佐賀駅の現況写真も添えていただき、ありがとうございます。そうなんですか、200mも北へ移設されたのですか、当時の機関区、客貨車区がいかに広大だったのか分かりました。改めて、グーグルマップを見て、その変わりように驚いています。現在駅の西南に広大な緑地がありますが、これも旧線跡の用地なのでしょう。

  2. 昔の写真と今を見て、佐賀は在来線もなくてもバスとマイカーでことが足りるくらい、中近距離圏の宿痾に陥っているように思えます。
    長崎新幹線は県庁都市佐賀市でなく風光明媚な唐津から嬉野・武雄経由に決まるでしょう。唐津は大物政治家保利茂とか出た所ですから、政治的決着を早くつけるべきです。

    • K.H.生 さま
      いつもコメント、ありがとうございます。現在、佐賀駅の一日乗降数は11,000人程度で、JR九州では11位とか。県都としては、寂しい数字ですが、K.H.生 さんも書かれているように、佐賀駅の置かれた位置が微妙なのでしょう。クルマは別としても、西鉄バス王国の影響もかなの受けているようです。

  3. 総本家青信号特派員様
    佐賀は目立たないと思いますが、幕末の雄藩であった薩長土肥の一つを形成していました。鍋島直正、江藤新平、大隈重信等が有名です。私の会社の同期で熱烈な大隈重信ファンがいて苦労して早稲田大学に入りました。八王子在住で佐賀の出身です。ずっと私と同じ酒の飲めない真面目な人間です。ところで、私にも佐賀のホームに到着するC57124[早岐]の426列車と同じ鳥栖行きの写真がありました。多分総本家さんご覧済みと思いますが私は佐賀のユースホテルに泊まり翌日1967年9月7日に鍋島駅から徒歩で撮影地に向かいました。有名なC57100[早岐]牽引の佐世保発の426列車の平凡な写真です。肥前山口で長崎本線の肥前浜からの客車を増結して長大編成になっています。夏なので多くの通学の高校生がデッキに乗り出しています。16両くらいの客車ですが佐賀や他の駅はホームからはみ出さなかったのか気になります。

    • 準特急様
      この写真は、いつ見ても驚きます。なんと16両も客車が連なっているとは‥。併結しているとは言え、しかも各デッキから高校生がブラ下っています。なんという輸送量が、驚くばかりです。

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