訃報

初期クローバー会員の動向の連絡がありましたのでお知らせします。
2003年8月31日付部外秘の会員名簿に掲載されていた61044山下紘正さん(工学部)より、62046梶原幸一さん(工学部)が逝去されたとのメールがありました。梶原さんは卒業後は阪急東宝クレジットサービスに勤務。
2023年2月28日永眠。腸閉塞を発症し養生中に誤嚥性肺炎を併発されたとのことです。ご冥福をお祈りいたします。
なお山下紘正さんは、昨年にはC62を中心とした大型蒸機の素晴らしい写真集を自費出版されるほどお元気です。

 

 

 

 

沖中・湯口 両先輩を偲んで

1961(昭和36)年、浪人中だった私は、模型も写真もやめて趣味の鉄道は読書のみに縮小していました。11月下旬に鉄道ピクトリアルを買ってくると、同志社大学鉄道同好会による私鉄車両めぐり48・京阪電気鉄道が掲載されていました。戦時中に空襲をのがれ大阪市から先祖の地である京都府宇治市に疎開していて、京阪電車は幼いときから身近な電車だったのはさておき、こんな記事を掲載させる実力のある鉄道同好会があるんや!これは何がなんでも同志社大学に合格せんとあかんと年末年始も猛勉強して1962年度生として入学できました。入学式を終えるや鉄道同好会を探し回り無事入会できました。
京阪電車の記事の主筆、沖中先輩・湯口先輩は大学入学の恩人です。円山公園の長楽寺でのコンパをはじめ、同好会では鉄道を種に広く雑学なるものを学ばせてもらえ、その後の人生に少なからず役に立ったと思っています。早いもので入学してから60年余り、仲良くお二人、ご逝去の2022年は感慨深い年になりました。
沖中忠順さん湯口徹さん、本当にありがとうございました。

鉄道ピクトリアル 私鉄車両めぐり48 京阪電気鉄道の一頁目と編集後記です。難産のうえ、お二人を中心に4回にわたって掲載された大作であることが分かります。

 

謹んでお知らせいたします。

乙訓の長老・沖中忠順さまが、昨日8日に84歳で逝去されました。1957年度生で曙期の鉄道同好会で活躍されDRFCの基礎を築かれたお一人です。祇園石段下での同志社チアーをはじめ色々な会合で一緒にチアーを叫ばれた方は沢山おられるでしょう。画像は1969年1月26日大阪駅4番ホーム急行丹波3号豊岡行きキロ28の前でチアーを送られる在りし日の沖中さんのお姿です。DRFCには心から愛着を持たれ、幾多の後輩を育てていただきました。
ご冥福をお祈りいたします。

画像は掲示板2017.1.26の記事を再掲したものです。

国鉄臨時急行「聖火」

今日1000人超のコロナ感染者が検出された大阪府に、東京五輪の聖火がやってきました。更なる蔓延を恐れて、大阪府の聖火リレーは吹田市の万博公園内に走者と近親者のみを府内から集めてひっそり行われました。予行演習と見間違えるようなしょぼいものでした。昨日の松山選手のゴルフ快挙の余韻冷めやらぬ中では尚更です。
さて、今から56年余り前の1964(昭和39)年10月に、三波春夫の東京五輪音頭のもとにオリンピックが開催されました。開催に合わせて東京大阪間に新幹線が開通しましたが、九州など遠くからの観客のために臨時急行「聖火」が東京発10/7~10/25熊本発10/8~10/25に運行されました。品川客車区(東シナ)が仕立てた旧型客車編成で、2号車にはオロ60が一両連結され優等列車らしく装っていました。しかしすぐ隣にリベット車体のスハ32が連結された写真を見たことがあります。急遽集めたスハ32オハ35スハ43の混成で客車狂には楽しい列車でした。対面四人掛けで背もたれ垂直の座席で20数時間の夜行列車。本当に昔の人はエラかった。
東京9:18→大阪18:14→熊本8:27 熊本19:47→大阪9:37→東京17:46。不定期急行「桜島」のスジを使っていたそうです。
列車の画像は1964年10月24日に、三回生の授業に行く途中、神足駅西方で撮影した「聖火」3032レです。パールⅡヘキサーF3.5・1/250f8・コニパンSSと記録があります。票差しに入った愛称票はアルミ琺瑯製で裏は白地です。

 

 

 

 

 

阪和電鐵全通90周年企画展

冬季企画展として下記のような展示会が行われます。自宅待機のお触れがでている時節ですが、阪和線支線の鳳~東羽衣の乗りつぶしも出来ますのでいかがでしょうか。
東羽衣で南海電車に乗り換えて汐見橋線に今のうちに行っておくのもよろしい。
冬季企画展 1月16日~3月28日
泉州を貫く軌跡ー阪和電鐵全通90周年
大阪府立弥生文化博物館
JR阪和線信太山(しのだやま)駅600米
通信員高齢のためチラシの添付はできませんので、おのおの方で検索いただき詳細をご覧ください。
お詫びとして復刻版の阪和電鐵封筒をご覧いただきます。郵便番号が五桁のころに手に入れたものです。大阪の終点は阪和天王寺駅で四天王寺の五重塔も描かれてるのに、南側近くに隣接の大阪鐵道(今の近鉄南大阪線)の終点あべの橋と印刷されてるのは何故でしょう。

 

 

 

加太会だより

発売中の週刊文春11月26日号に、加太会幹部の1960年度生鶴紘明先輩の写真が掲載されてます。そのいきさつは次のとおりです。

デジ青の記事を検索し、週刊文春から写真の提供依頼がありました。週刊文春11月26日号。巻末に『夢の軌跡』大和ハウス工業第2回の連載記事があり、寝台急行『大和』の話が出て、イメージ写真として、昭和40年、小生撮影下り『大和』が、掲載されています。記事と写真に10年の開きがありますが。資料提供は大和ハウス工業らしく、撮影者名は表記されていません。

記事の写真については、デジ青掲示板2013年7月9日の「C57急行大和を曳く」をご覧ください。デジ青はいろんな方がご覧なのですね。その筋では周知のことなんでしょうか。世の役に立ち嬉しいことですね。ダイワとヤマトを掛けた記事と画像も編集者の機転でしょうか
デジ青を立ち上げた皆さん、ここまで育てられた投稿者や関係者の皆さん、勤労感謝の日に謝意を表します。
 

 

颱風がくると思い出す大阪市電

12日に東日本に大量の雨を降らした台風19号は、長野車両センターにあった新幹線車両を水没させた。すぐ横の高架の本線上に疎開させておけばと思うのは、大阪市電の台風疎開を思い出したからです。
当時、大阪市電には今里車庫というのがあり、大雨が降るとすぐ水浸しになるという低地帯に設けられていました。台風が大阪来襲となると、交通局では市電が水没しないように車庫西方の上町台地の高台に市電を疎開させたものです。1961年9月、翌春の同志社大の入試を目指して浪人していた通信員は、台風が来るとの報道で、暴風雨をついて突撃取材したのが添付の画像です。
画面右側奥の建物は近鉄上本町駅ビルです。2201型がずらりと連なっているのは虎の子の新車で大事にされていたからでしょう。方向幕は今里車庫前となっています。吊掛駆動ながら新型台車に弾性車輪と間接制御の半鋼製車でした。大きな前面窓で戦後の大阪市電スタイルを知らしめた車両で、1954年に登場し全車が今里車庫に集中配置されていました。
東海道新幹線の鳥飼基地も淀川のすぐ横なのが気になります。大津の、無印不良品さんや86さんに琵琶湖の水をしっかり守ってもらわなあきません。

 

 

総本家青信号特派員さんがテレビに

今朝、辛坊治郎氏のウェークアッププラスを視聴していると、路面電車の復活という話題があり、富山・宇都宮・京都が紹介された。京都の場面には天然色写真の語り継ぎなどで活躍中の我らが総本家青信号特派員さんが登場された。今や鉄道愛好家として不動の地位を固められたもようで、ご同慶のいたりです。京都にLRTをとの地元商人の声や特派員さんのコメントもありました。当掲示板はもとより研究家としてもますます元気にこまめに活躍されますように。

 

十連休にボーとしないために

先日、日本橋駅近くの文楽劇場へ観劇にいくと上掲のチラシが置いてました。好物の近鉄2200系と2250系の画像が眼をひきました。2250系は今年1月の鉄路輝く写真展にも採用いただき60年ぶりに輝きました。2200系は十代に母親に連れられ神道団体の貸切列車で伊勢神宮初詣に毎年乗りました。今月は近鉄しまかぜが退位報告の陛下と共に大和路伊勢路と活躍し近鉄関係者もお疲れのことでしょう。落語と8ミリ映画という変な取り合わせ、8ミリ映画と聞いて温泉宿などを思い出されたのは後期高齢者でしょうね。日本橋駅は大阪メトロ近鉄阪神阪急で交通至便、十連休の暇つぶしにいかがですか。
クローバー会の皆さんも高齢の方々が増え、最近の桜井線撮影会の掲示板報告にも帰途の近鉄電車にトイレが付いていて助かったとありましたが、大阪線で数少ない5200系運用に乗車されたのはもっと幸運でしたね。通信員は前立腺が廃線となってから五年になりますが、皆様もPSA検査などで保線に努められ機嫌よく趣味に没頭されますように。
なお本稿掲示に当たり介護士壱号さまより適切なる介助を受けましたことに深謝いたします。

 

画像サイズの投稿ありがとうございました。

掲示板管理人さまより投稿画像の寸法についての記事が、阿吽の呼吸でありました。1月26日に48年前の画像を投稿しましたが、初めてスキャン経験で適当に縮小した画像を挿入しました。画像が小さすぎてお見苦しい記事となりました。鉱石ラヂオを組み立て、エナメル線の接触不良を紙ヤスリで磨いていたアナログ爺さまにはネットの仕組みは解りません。見かねての御教示、このOB会は誠にありがたい集団です。さっそく細工をして再掲とさせていただきます。

投稿後しばらくして米手作市さんよりDVDが届きました。EF58150とマイテ492展望車の同志社大学鉄道同好会三十周年記念列車の映像が収録されたものです。あまりの時機の良さに思わず投稿のご褒美かと思いました。

展望車の三軸台車の走行音を聞いて懐かしんでいると、一畑電鉄の古いクハ111が三軸台車だったとの投稿がこれまた米手作市さんよりあって吃驚仰天。1962年に一浪の末に同志社大学に合格。大阪からの通学は当初は国鉄を使っていました。その頃の快速は80系湘南電車で、京都交通博物館にある三枚窓の正面を持つクハ86も現役でした。京都駅の留置線には三軸台車の格下げ客車マハ29を見ることができました。まだ客車の普通列車が残っていて京都姫路間の増結用に使われていたので、下校時に乗ることもあり、独特のジョイント音をがらんとした車内で聞いたものです。京都長崎の夜汽車急行「玄海」の食堂車は三軸台車のマシ29だったのを見たように思います。

この掲示板をご覧の方はたくさん居られるとのことですが、案ずるよりするが易し一度投稿いかがですか。失敗しても教えてもらえます。身近な情報や珍しい画像があればお見せください。コメント投稿ならもっと簡単ですよ。

48年前の1月26日

 

身辺整理をしていると正方形の古い天然色のコダック印画紙がでてきた。1969年昭和44年1月26日に撮影されたものである。通信員が結婚式披露宴を済ませ日本国有鉄道大阪駅4番ホームにて新婚旅行出発のときの一齣である。列車の窓が開けられなくなり、駅弁の立ち売りと共にホームで見られなくなった新婚旅行見送り風景である。

この印画紙が貴重なのは写っている当会員の方々です。中央で同志社チェアの音頭をとっておられるのは長岡京の長老で、祇園石段で鍛えた美声が聞こえてくるようである。左下の後頭部は特徴的な板状の耳殻を持つ軽便鉄道の第一人者であらせられる須磨の長老です。ともに身体の修繕をされお元気にこの掲示板に秘話や昔話また押入れの秘蔵写真を投稿されているのは喜ばしいことである。右端は名古屋の和尚さんで名鉄谷汲美濃町線など600V区間を追い続けた方です。禿頭の人は会員ではありませんがボレックスの8mmフィルムカメラを操っています。この画像をゼンザブロニカで撮影されたのはローズ山下氏で各地の大型蒸機の雄姿を中型カメラに収められられました。大勢の先輩にお見送りいただいた果報者の通信員であります。

列車は大阪17:05始発の気動車急行「丹波3号」豊岡行きで宝塚までの乗車であった。画像はキロ28で、窓下に淡緑6号の帯が入っているのが見える。4ケ月後の5月には等級制の変更でグリーン車と呼ばれるようになり窓下帯は無くなりクローバーのマークに変わった。キロ28は1961~1963年に製造された一等座席の気動車である。東海型電車サロ152で採用された二連下降窓を採用し更に張り上げ屋根なのでべっぴんさんである。急行たかやま号として99年12月まで同じ大阪駅に顔を見せていた。

一年後に大阪万国博覧会を迎える日本も国鉄も三波春夫も元気な頃でした。

火事や!火事や!十三駅のそばが燃えた!

昔の十三駅前

3月7日朝6時すぎ、阪急電鉄の十三駅神戸線側の駅前で火災が発生した。36店1500平方米が焼失し、NHK夜の全国ニュースでトップで放送された。添付の古地図の神戸行きプラットホームと夜店通りの間にある安西呉服のあたりが焼け落ちた。夜店通りはションベン横丁と言われたとこで、火事の一報もトイレから火が出てるとのことで皮肉なものだ。十三は阪急電車の扇の要をなす駅で、大騒ぎとなり朝のラッシュと重なるも駅西口は閉鎖となりごったがえした。煙が吹き付けるなか列車の運行は続けられたが、一時は神戸線の列車は通過となった。一角は大阪でも残り少ない戦後の香りが残る飲み屋街である。十三で飲んだ方も多いだろうが、十三のねぇちゃんや十三ミュージックを思い出す方もおられるはず。十三駅は1963年発行の同志社大学鉄道同会の機関誌「青信号」の13号の表紙を飾ろうとしたが、駅はあかんと京阪電車石坂線13号にとって代わったという思い出がある。通信員二回生のときで手を取り足を取りお金は取られなかったが、先輩方々に機関誌づくりを強要されたものである。

古地図は今里あんやきと記される十三焼餅の案内にあったもので、いつの頃の地図か解らないが1921年大正10年に北大阪電鉄として十三~千里山で開通した北大阪電鉄の終点だったことは解る。その後1959年昭和34年に線路は梅田まで延ばされ、楽しい三複線となっている。

 

 

会長を訪ねて

 梅小路公園に計画されている路面電車が蓄電池電源と分かり、お嘆きのクローバー会会長を訪ねる。会長が団体記念写真の撮影で糊口をしのいでいる西本願寺で待ち合わせ、鉄道趣味者らしく近くの東急ホテルへと向かい西洋料理の昼食とする。会長は胆嚢や腎臓を摘出しているも、お元気でにこやかで、しきりに架線集電しない路面電車計画や折角保存した市電を公園の売店に使うなどの京都市の暴挙に立腹の様子。蓄電池は流行のリチウムイオン電池らしい。梅小路の近所の電池屋が入れ智慧を和服着流し市長に吹き込んだのだらうか。B787のように火を噴かねば良いが。
 この掲示板のことにも話がおよび、長老の投稿がなく如何されているのか、冬眠されてるのか、入院されてるのか、お寺参りをされているのか、ご家族から丁重に扱われているのか、ベランダに監禁されておられないか、会長の心配はつきない。かくいう通信員にも投稿が無いように思うがと、婉曲にいやみをお聞きするので、食卓の勘定書をそっと手許に曳きご馳走することでお慰めすることに。
 なお、掲示板の投稿に対するコメントは製造会社が異なる二種のWinXP機からはどちらもコメントが書き込めない。別なる会社のWin7機からはコメントできることが帰ってから判明。何かの原因があるかもしれませんが、XP愛用者もお見捨てにならぬようお願いいたします。
 会の運営にも会長は色々と腐心されておられる様子ですが、商人や町会長の経験を生かして、楽しめるクローバー会にしていただけるでしょう。
 大宮通を南下し帰途につくと、東海道線山陰線をまたぐ高架橋を渡ることになる。何故かいまでも京都市電の架線柱が二本残っているが、なんでだろう。ここを通るときや新幹線の車窓から眺めて、在りし日の市電を思い出す。
 梅小路公園の路面電車計画もただ走らすだけでは長続きせず、水族館と新しく計画の交通科学館を結ぶ移動手段になると良いのだが。

大宮通陸橋遺物

大阪通信員だより 井笠鉄道バスの巻

突然の発表であったが、井笠鉄道バスが10月末をもって会社破綻により廃業する。通信員宅のそば千日前通を日に三往復してきた神辺・笠岡~大阪(上本町)間の井笠鉄道バス「カブトガニ号」も見られなくなる。鉄道の名前がついたバスで、いつも懐かしく眺めていた。いっとき近鉄グループに入っていたので、井笠の高速バスや観光バスも色遣いに近鉄観光バスの面影を残している。旧新山駅跡にある井笠鉄道記念館(カブトガニ号新山下車すぐ)を訪ねたいと思っていたが、引き継ぐ中国バス(両備グループ)で行かねばならない。記念館はどうなるのだろう。
話のついでに45年ほど前と数年前の千日前通の同じ場所での画像をご覧いただく。地下鉄千日前線と近鉄難波乗り入れで道路が拡幅される前の活気ある風景と、天皇皇后両陛下がすぐ近くの国立文楽劇場に行幸されたときの通行規制状況です。11月25日には大阪マラソンも走ります。クローバー会員で参加される方はありますか。投炭や給水の応援いたします。


 

大阪通信員だより 浜大津の巻

日本晴れの10月27日、浜大津スカイプラザへと向かう。一年ぶりの再訪である。京阪電鉄京津線開業百周年の写真展と模型運転会が行われているのだ。訪れた目的は、クローバー会西村雅幸氏の新作による江若鉄道・京阪電鉄京津線の浜大津駅の精巧なジオラマを見学するためと会場警備である。

昨年は、江若鉄道三井寺下駅構内の忠実な再現と今津駅にいたるジオラマであったが、多数の要望に応えて今年は浜大津駅が主役となった。昭和中期の複雑な浜大津の駅と線路はもとより周辺の街並みを細かく再現したものである。江若線・京津線の車輌も在籍車をほぼ全て揃えてある。江若の車輌は狭い窓が多くならび、それも二段窓だ。カッター片手に奮闘される老眼を寄せ付けない西村氏の姿とあきれを通り越した奥様の様子が浮かぶ。
十人近い江若OBの古老やご家族も見えられ、回転する転車台や開閉とともに警手が飛び出してくるカラクリ踏切を見て、警手は?ちゃんやったなあ!このあたりで大ケガをした仲間がいたんや!など話の花が咲いていた。この後でOB昼食会があるとのこと、これも昨年の催しが種をまいたのだらう。もちろん通信社の取材もあり、京都新聞社をはじめとして数社の小姐記者が西村氏をアタックしていた。当クローバー会会員もヒマのある方が随時来場され、感心している様子だった。

通信員も、警備をお手伝いすることで、西村氏の楽屋裏をのぞくことができ、ジオラマ製作途上の走り書きから経費明細まで雑多な資料を几帳面に保存されたファイルを拝見した。エンジニア気性がほとばしるものであった。
なお、昨年の江若展をご覧になった「レイル」誌の前里孝編集長が、是非とも江若特集をと企画されクローバー会福田静二氏の暗躍を得て、「レイル84号」として今月発刊されている。江若鉄道の記録の集大成として、クローバー会会員の記事や写真の実力をめでるものとして、是非一家に一冊購入いただき書架のこやしとしていただきたい。

催しは11月3日4日にもおこなわれるので、詳細は掲示板25486号を精読ください。
「そうだ浜大津いこう!」

 

猛暑をくぐり京都の写真展へ

 お盆休みの13日を利用して、大文字でスカタンな話題を提供する京都へと向かう。烏丸御池で開催の福田静二さんの写真展「市電の記憶 昭和の京都」ならびに五条河原町で開催の佐竹保雄さんの写真展と津田雅司さんの模型運転会共催の「東北を旅して」を鑑賞するためだ。一日に二度楽しめるコスパ満点の機会だ。
 大阪市営地下鉄堺筋線日本橋駅から堺筋線に乗る。途中の市営と阪急の運転手が交代する天神橋六丁目駅のすぐ上にある大阪くらしの今昔館では世界的な鉄道マニアと云われる原信太郎翁92歳の特別展示「鉄道模型と極める-関西の鉄道-」が9月4日まで開催されている。ちょうど今日の日経夕刊に原信太郎さんの自作や収集された鉄道模型約六千輛のうち一千輛を順次展示する鉄道模型博物館が横浜市みなとみらい21地区に来年7月を目途に開設されるとの記事が載っていた。天六駅から昔の新京阪線となる。新京阪の旧天六駅ビルは解体中で高層マンションになる。立体交差工事がすすみ三階ぐらいの高架橋が散見する淡路駅で特急?に乗り換えるが盆休みでか混雑していて烏丸駅まで立ち席。しかし良く停車駅がある。京都市営地下鉄にひと駅乗って烏丸御池ギャラリーへ。
 写真展の写真はすべてモノクロで福田調ただよう素晴らしいものである。安全地帯に溢れんばかりのお客が市電の到着を待っているのは微笑ましいばかりだ。今でも正月の初詣のときに阪堺電車の住吉大社停留所の安全地帯で、同じ光景が見られる。鉄道写真としてはもちろん、街の情景や服装・建物など記録写真としても貴重なものだ。少し奥まったとこにあるので多くの人に見て貰えないのが惜しい。
 過剰装備の背の高い豪華ホームドアが設置された大赤字の地下鉄東西線と馴染めない配色になった京阪電車に乗って清水五条駅へ。地上へ出ると猛暑。報道に寄りますと、この日の京都市は全国二番目の暑さだったとか。二つめの目的地に着くと佐竹さんご夫妻・福田さん・津村さんのお顔を拝することができ、幸運だった。暑さにも負けず佐竹さんはお元気で、直々に写真の説明をしていただけた。懐かしい蒸気機関車や旧型客車列車、大好きだった薄幸のキハ55系準急色の写真を見る。また福田さんには阪堺電車撮影会など情報提供をいただきながら音信不通のお詫びをする。大阪通信員というのに通信しないと風評が立っているとお叱りを受ける。よってこの一文を熱帯夜のなかで発信する次第である。今春定年を迎えた津村さんは模型鉄道の社長に就任し悠々自適とのこと、ご要望があれば出張運転会が可能のようだ。キハ17系気動車・焦げ茶のDF50の牽くスハ32系客車などお若いのに通信員好みの渋い車輌があり気分良好。なお滞在中に、はるばる伊丹市からご婦人がトランクを引いて来場される。朝日新聞の紹介記事を見て、鉄道資料のチャリティに役立てて欲しいと「日本の電車」などの書籍と記念乗車券や東北新幹線開業メダルなどを持参されたのだ。最近お亡くなりになったご主人のものだとか。ちょうどお盆で旦那さまへの良き供養となれば幸いである。通信員のみならず、OB皆様もお盆を機会に、ご家族には収集品を安易に片付け屋などに渡さぬよう一言云っておかれることも肝要ではありましょう。
 大谷廟へのお盆のお墓参りなのか五条大橋の東行きは長い渋滞。京阪電車に乗って丹波橋でこれまた良く停まる特急に乗り換える。やってきたのは生き残った8000系。淀駅は高架駅となったが引き込み線などの工事は残っている。高架になったので淀城跡が上から良く見える。また橋本駅横では遊郭だった建物がまだ見える。途中すれ違う旧色の列車がすっかり少なくなっと嘆いているうちに北浜駅から日本橋駅へと戻る。

雪景色・花輪線に想う

turukame先輩の投稿「雪景色・花輪線」の素晴らしい列車寫真に混じってヒュッテの室内画像がありました。ヒュッテはダブルルーフのオハ31系客車4輛ほどを、台車代わりに積み上げた枕木のうえに線路横にならべたものです。やまぶき色車体に窓周り青色に塗ってあり、遠目には側線に列車が停まっているように見えます。一輛は食堂、他は宿舎としてスキーや八幡平の観光に供されていたのです。竜が森は1960年代に数回同好会合宿が行われています。
1967年正月休みを利用し、一年先輩のローズ山下氏とともに大阪から米坂線・八郎潟を撮影し竜が森へとたどり着いたのです。スパッツを着けカンジキを履いた雪装備で線路脇をとぼとぼと歩いていると、ドケーと大きな声が聞こえました。雑誌鉄道ファンの撮影地ガイドにも載った好適地なので正月の雪のなかにも先客があったのです。掃き溜めではなく、雪の中にturu一羽というところです。雪深い東北の片田舎でバッタリお会いするとは思いもしませんでした。ヒュッテに戻り、縄張りを荒らしたことを詫び、一献をかたむけ手打ちを期して記念に撮った写真です。網棚からはローズさん愛用の望遠付ザンザブロニカが吊され、卓上には通信員愛用のペンタックスSV・SPが見え、コニパンSS・サクラカラーが装填されています。「彼らは雪に消えていった」と腹立ちが44年後もまだおさまらないように愛想無く記述いただいていますが、竜が森を後にしたふたりはその後常磐線の平と四ツ倉の間で大型蒸機大好きのローズ氏とC62を撮影しました。ローズ氏は全国各地で蒸機を沢山撮り溜めされてるので発表いただきたいものです。
なお、投稿のなかに総天然色画像で到着した気動車(キハユニ26他)に乗り込むスキー客を撮ったものがありますが、そのとき通信員は先頭車を正面線路上から撮影していました。その一枚が2006年10月のクローバー会写真展「鉄路輝く・記憶に残る昭和の鉄道風景」に「全員乗せてくださいね」の題名で展示いただきました。マイカーや宅配便の無かった時代に、スキー場で過ごした人々がスキーを抱えて14:27発の列車に殺到しているところです。次の盛岡行きは16:51分で積み残されると大変です。日帰りの人は随分早い列車で来たのでしょう。
また写真展が開催されるそうですが、準備いただく方々はもとより力作をお持ちの方々よろしくお願いいたします。

教えて下さい!

検索サイトのストリートビューを覗いていましたら、こんなお家がありました。こんな田舎まで町並みを撮影しに行ってるのか?と思いましたが、だれが撮ったかは差し置いて何てお家なのでしょう。家のすぐ裏には線路があるようです。