過日の日経新聞に相撲列車という記事が載っていました。車輛については書かれていませんが、裸の力士が通路に座っているというのと、やはり二人席を一人で使っている画像が面白く転載してみました。室内妻面の色から車輛は185系と思いますが、客車時代の団臨相撲列車は楽しい混成の編成が組まれていたんでしょうね。
準特急さんにより各地で活躍したDF50の記事が続いていて楽しませてもらっています。DF50機関車はキハ55系気動車と同じように国鉄車輛近代化転換期に登場しましたが地味な存在でした。端正な車体でED70とともに好きな機関車でした。塗色が変わったころは客車もブルーに変わったころでともに亀山駅で初めて見たのを思い出します。
50号の表紙は題が「なごり雪」で1981(昭和56)年3月2日土讃本線雪の坪尻駅となっています。ガリ版刷りからタイプ印刷にグレードアップしたと中島禎孝会長が巻頭に書いておらqれ1983(昭和58年)11月26日の発行でした。
「晩秋の渓谷」 紅葉・国鉄色列車・構図など、ほんまにいいですね。場所探し大変だったでしょう。
いつも楽しくトップ画面を拝見しています。
鉄道資料を片付けていると東海道線電化完成の葉書と煙草が出てきた。米原京都間の電化で東海道線全線が1956(昭和31年11月19日に電化されたときの記念である。その日を始めに特急つばめと特急はとは列車全体が淡緑5号に塗装されEF58を先頭に大阪東京間を7時間30分で運行を始めた。米原京都間の客車列車は80系湘南電車に替わりみかん畑のない近江路を走りだした。
葉書は配布されたもので裏に大阪駅31・11・19日付と大阪城と客車特急の絵の丸い記念スタンプが押してある。きっとその日、坊主頭の中学生だった私はスタートカメラ片手に今里大阪駅間担当の1600型市電に乗って大阪駅へ駆け付けたのだろう。
煙草の空き箱は親爺が買ってきてくれたのだろう。漫画家横山隆一氏が描く
フクちゃんが展望車に乗っている。煙草のピースは火を着ける前でも独特の良い香りがした両切り煙草で、一時期愛用していた。ピー缶という缶入りもあって懐かしい。この空き箱はヤフオクで即決280円で値がついている。
最近自動車免許の更新をしましたが、高齢なので認知試験がありました。画像を見せられ、いっとき置いてからさっき見たのは何やったという試験です。さて下の画像の場所は何処でしょうか。時は1959年。最近の掲示板投稿の一枚に違う角度からの画像が掲示されていましたが記憶にありますでしょうか。
初期クローバー会員の動向の連絡がありましたのでお知らせします。
2003年8月31日付部外秘の会員名簿に掲載されていた61044山下紘正さん(工学部)より、62046梶原幸一さん(工学部)が逝去されたとのメールがありました。梶原さんは卒業後は阪急東宝クレジットサービスに勤務。
2023年2月28日永眠。腸閉塞を発症し養生中に誤嚥性肺炎を併発されたとのことです。ご冥福をお祈りいたします。
なお山下紘正さんは、昨年にはC62を中心とした大型蒸機の素晴らしい写真集を自費出版されるほどお元気です。
1961(昭和36)年、浪人中だった私は、模型も写真もやめて趣味の鉄道は読書のみに縮小していました。11月下旬に鉄道ピクトリアルを買ってくると、同志社大学鉄道同好会による私鉄車両めぐり48・京阪電気鉄道が掲載されていました。戦時中に空襲をのがれ大阪市から先祖の地である京都府宇治市に疎開していて、京阪電車は幼いときから身近な電車だったのはさておき、こんな記事を掲載させる実力のある鉄道同好会があるんや!これは何がなんでも同志社大学に合格せんとあかんと年末年始も猛勉強して1962年度生として入学できました。入学式を終えるや鉄道同好会を探し回り無事入会できました。
京阪電車の記事の主筆、沖中先輩・湯口先輩は大学入学の恩人です。円山公園の長楽寺でのコンパをはじめ、同好会では鉄道を種に広く雑学なるものを学ばせてもらえ、その後の人生に少なからず役に立ったと思っています。早いもので入学してから60年余り、仲良くお二人、ご逝去の2022年は感慨深い年になりました。
沖中忠順さん湯口徹さん、本当にありがとうございました。
鉄道ピクトリアル 私鉄車両めぐり48 京阪電気鉄道の一頁目と編集後記です。難産のうえ、お二人を中心に4回にわたって掲載された大作であることが分かります。
乙訓の長老・沖中忠順さまが、昨日8日に84歳で逝去されました。1957年度生で曙期の鉄道同好会で活躍されDRFCの基礎を築かれたお一人です。祇園石段下での同志社チアーをはじめ色々な会合で一緒にチアーを叫ばれた方は沢山おられるでしょう。画像は1969年1月26日大阪駅4番ホーム急行丹波3号豊岡行きキロ28の前でチアーを送られる在りし日の沖中さんのお姿です。DRFCには心から愛着を持たれ、幾多の後輩を育てていただきました。
ご冥福をお祈りいたします。
画像は掲示板2017.1.26の記事を再掲したものです。
今日1000人超のコロナ感染者が検出された大阪府に、東京五輪の聖火がやってきました。更なる蔓延を恐れて、大阪府の聖火リレーは吹田市の万博公園内に走者と近親者のみを府内から集めてひっそり行われました。予行演習と見間違えるようなしょぼいものでした。昨日の松山選手のゴルフ快挙の余韻冷めやらぬ中では尚更です。
さて、今から56年余り前の1964(昭和39)年10月に、三波春夫の東京五輪音頭のもとにオリンピックが開催されました。開催に合わせて東京大阪間に新幹線が開通しましたが、九州など遠くからの観客のために臨時急行「聖火」が東京発10/7~10/25熊本発10/8~10/25に運行されました。品川客車区(東シナ)が仕立てた旧型客車編成で、2号車にはオロ60が一両連結され優等列車らしく装っていました。しかしすぐ隣にリベット車体のスハ32が連結された写真を見たことがあります。急遽集めたスハ32オハ35スハ43の混成で客車狂には楽しい列車でした。対面四人掛けで背もたれ垂直の座席で20数時間の夜行列車。本当に昔の人はエラかった。
東京9:18→大阪18:14→熊本8:27 熊本19:47→大阪9:37→東京17:46。不定期急行「桜島」のスジを使っていたそうです。
列車の画像は1964年10月24日に、三回生の授業に行く途中、神足駅西方で撮影した「聖火」3032レです。パールⅡヘキサーF3.5・1/250f8・コニパンSSと記録があります。票差しに入った愛称票はアルミ琺瑯製で裏は白地です。
冬季企画展として下記のような展示会が行われます。自宅待機のお触れがでている時節ですが、阪和線支線の鳳~東羽衣の乗りつぶしも出来ますのでいかがでしょうか。
東羽衣で南海電車に乗り換えて汐見橋線に今のうちに行っておくのもよろしい。
冬季企画展 1月16日~3月28日
泉州を貫く軌跡ー阪和電鐵全通90周年
大阪府立弥生文化博物館
JR阪和線信太山(しのだやま)駅600米
通信員高齢のためチラシの添付はできませんので、おのおの方で検索いただき詳細をご覧ください。
お詫びとして復刻版の阪和電鐵封筒をご覧いただきます。郵便番号が五桁のころに手に入れたものです。大阪の終点は阪和天王寺駅で四天王寺の五重塔も描かれてるのに、南側近くに隣接の大阪鐵道(今の近鉄南大阪線)の終点あべの橋と印刷されてるのは何故でしょう。
発売中の週刊文春11月26日号に、加太会幹部の1960年度生鶴紘明先輩の写真が掲載されてます。そのいきさつは次のとおりです。
デジ青の記事を検索し、週刊文春から写真の提供依頼がありました。週刊文春11月26日号。巻末に『夢の軌跡』大和ハウス工業第2回の連載記事があり、寝台急行『大和』の話が出て、イメージ写真として、昭和40年、小生撮影下り『大和』が、掲載されています。記事と写真に10年の開きがありますが。資料提供は大和ハウス工業らしく、撮影者名は表記されていません。
記事の写真については、デジ青掲示板2013年7月9日の「C57急行大和を曳く」をご覧ください。デジ青はいろんな方がご覧なのですね。その筋では周知のことなんでしょうか。世の役に立ち嬉しいことですね。ダイワとヤマトを掛けた記事と画像も編集者の機転でしょうか。
デジ青を立ち上げた皆さん、ここまで育てられた投稿者や関係者の皆さん、勤労感謝の日に謝意を表します。
12日に東日本に大量の雨を降らした台風19号は、長野車両センターにあった新幹線車両を水没させた。すぐ横の高架の本線上に疎開させておけばと思うのは、大阪市電の台風疎開を思い出したからです。
当時、大阪市電には今里車庫というのがあり、大雨が降るとすぐ水浸しになるという低地帯に設けられていました。台風が大阪来襲となると、交通局では市電が水没しないように車庫西方の上町台地の高台に市電を疎開させたものです。1961年9月、翌春の同志社大の入試を目指して浪人していた通信員は、台風が来るとの報道で、暴風雨をついて突撃取材したのが添付の画像です。
画面右側奥の建物は近鉄上本町駅ビルです。2201型がずらりと連なっているのは虎の子の新車で大事にされていたからでしょう。方向幕は今里車庫前となっています。吊掛駆動ながら新型台車に弾性車輪と間接制御の半鋼製車でした。大きな前面窓で戦後の大阪市電スタイルを知らしめた車両で、1954年に登場し全車が今里車庫に集中配置されていました。
東海道新幹線の鳥飼基地も淀川のすぐ横なのが気になります。大津の、無印不良品さんや86さんに琵琶湖の水をしっかり守ってもらわなあきません。
今朝、辛坊治郎氏のウェークアッププラスを視聴していると、路面電車の復活という話題があり、富山・宇都宮・京都が紹介された。京都の場面には天然色写真の語り継ぎなどで活躍中の我らが総本家青信号特派員さんが登場された。今や鉄道愛好家として不動の地位を固められたもようで、ご同慶のいたりです。京都にLRTをとの地元商人の声や特派員さんのコメントもありました。当掲示板はもとより研究家としてもますます元気にこまめに活躍されますように。
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先日、日本橋駅近くの文楽劇場へ観劇にいくと上掲のチラシが置いてました。好物の近鉄2200系と2250系の画像が眼をひきました。2250系は今年1月の鉄路輝く写真展にも採用いただき60年ぶりに輝きました。2200系は十代に母親に連れられ神道団体の貸切列車で伊勢神宮初詣に毎年乗りました。今月は近鉄しまかぜが退位報告の陛下と共に大和路伊勢路と活躍し近鉄関係者もお疲れのことでしょう。落語と8ミリ映画という変な取り合わせ、8ミリ映画と聞いて温泉宿などを思い出されたのは後期高齢者でしょうね。日本橋駅は大阪メトロ近鉄阪神阪急で交通至便、十連休の暇つぶしにいかがですか。
クローバー会の皆さんも高齢の方々が増え、最近の桜井線撮影会の掲示板報告にも帰途の近鉄電車にトイレが付いていて助かったとありましたが、大阪線で数少ない5200系運用に乗車されたのはもっと幸運でしたね。通信員は前立腺が廃線となってから五年になりますが、皆様もPSA検査などで保線に努められ機嫌よく趣味に没頭されますように。
なお本稿掲示に当たり介護士壱号さまより適切なる介助を受けましたことに深謝いたします。
明けましておめでとうございます。
C57のちにDF50牽引の客車寝台急行列車が走り、いっときはDC特急までが走り抜けた駅です。今日は新嘗祭で日の丸が掲揚されています。
掲示板管理人さまより投稿画像の寸法についての記事が、阿吽の呼吸でありました。1月26日に48年前の画像を投稿しましたが、初めてスキャン経験で適当に縮小した画像を挿入しました。画像が小さすぎてお見苦しい記事となりました。鉱石ラヂオを組み立て、エナメル線の接触不良を紙ヤスリで磨いていたアナログ爺さまにはネットの仕組みは解りません。見かねての御教示、このOB会は誠にありがたい集団です。さっそく細工をして再掲とさせていただきます。
投稿後しばらくして米手作市さんよりDVDが届きました。EF58150とマイテ492展望車の同志社大学鉄道同好会三十周年記念列車の映像が収録されたものです。あまりの時機の良さに思わず投稿のご褒美かと思いました。
展望車の三軸台車の走行音を聞いて懐かしんでいると、一畑電鉄の古いクハ111が三軸台車だったとの投稿がこれまた米手作市さんよりあって吃驚仰天。1962年に一浪の末に同志社大学に合格。大阪からの通学は当初は国鉄を使っていました。その頃の快速は80系湘南電車で、京都交通博物館にある三枚窓の正面を持つクハ86も現役でした。京都駅の留置線には三軸台車の格下げ客車マハ29を見ることができました。まだ客車の普通列車が残っていて京都姫路間の増結用に使われていたので、下校時に乗ることもあり、独特のジョイント音をがらんとした車内で聞いたものです。京都長崎の夜汽車急行「玄海」の食堂車は三軸台車のマシ29だったのを見たように思います。
この掲示板をご覧の方はたくさん居られるとのことですが、案ずるよりするが易し一度投稿いかがですか。失敗しても教えてもらえます。身近な情報や珍しい画像があればお見せください。コメント投稿ならもっと簡単ですよ。
身辺整理をしていると正方形の古い天然色のコダック印画紙がでてきた。1969年昭和44年1月26日に撮影されたものである。通信員が結婚式披露宴を済ませ日本国有鉄道大阪駅4番ホームにて新婚旅行出発のときの一齣である。列車の窓が開けられなくなり、駅弁の立ち売りと共にホームで見られなくなった新婚旅行見送り風景である。
この印画紙が貴重なのは写っている当会員の方々です。中央で同志社チェアの音頭をとっておられるのは長岡京の長老で、祇園石段で鍛えた美声が聞こえてくるようである。左下の後頭部は特徴的な板状の耳殻を持つ軽便鉄道の第一人者であらせられる須磨の長老です。ともに身体の修繕をされお元気にこの掲示板に秘話や昔話また押入れの秘蔵写真を投稿されているのは喜ばしいことである。右端は名古屋の和尚さんで名鉄谷汲美濃町線など600V区間を追い続けた方です。禿頭の人は会員ではありませんがボレックスの8mmフィルムカメラを操っています。この画像をゼンザブロニカで撮影されたのはローズ山下氏で各地の大型蒸機の雄姿を中型カメラに収められられました。大勢の先輩にお見送りいただいた果報者の通信員であります。
列車は大阪17:05始発の気動車急行「丹波3号」豊岡行きで宝塚までの乗車であった。画像はキロ28で、窓下に淡緑6号の帯が入っているのが見える。4ケ月後の5月には等級制の変更でグリーン車と呼ばれるようになり窓下帯は無くなりクローバーのマークに変わった。キロ28は1961~1963年に製造された一等座席の気動車である。東海型電車サロ152で採用された二連下降窓を採用し更に張り上げ屋根なのでべっぴんさんである。急行たかやま号として99年12月まで同じ大阪駅に顔を見せていた。
一年後に大阪万国博覧会を迎える日本も国鉄も三波春夫も元気な頃でした。
加太会ならびにクローバー会の皆さまの、ご多幸ご健康を!
2016.1.1 加太会
3月7日朝6時すぎ、阪急電鉄の十三駅神戸線側の駅前で火災が発生した。36店1500平方米が焼失し、NHK夜の全国ニュースでトップで放送された。添付の古地図の神戸行きプラットホームと夜店通りの間にある安西呉服のあたりが焼け落ちた。夜店通りはションベン横丁と言われたとこで、火事の一報もトイレから火が出てるとのことで皮肉なものだ。十三は阪急電車の扇の要をなす駅で、大騒ぎとなり朝のラッシュと重なるも駅西口は閉鎖となりごったがえした。煙が吹き付けるなか列車の運行は続けられたが、一時は神戸線の列車は通過となった。一角は大阪でも残り少ない戦後の香りが残る飲み屋街である。十三で飲んだ方も多いだろうが、十三のねぇちゃんや十三ミュージックを思い出す方もおられるはず。十三駅は1963年発行の同志社大学鉄道同会の機関誌「青信号」の13号の表紙を飾ろうとしたが、駅はあかんと京阪電車石坂線13号にとって代わったという思い出がある。通信員二回生のときで手を取り足を取りお金は取られなかったが、先輩方々に機関誌づくりを強要されたものである。
古地図は今里あんやきと記される十三焼餅の案内にあったもので、いつの頃の地図か解らないが1921年大正10年に北大阪電鉄として十三~千里山で開通した北大阪電鉄の終点だったことは解る。その後1959年昭和34年に線路は梅田まで延ばされ、楽しい三複線となっている。
梅小路公園に計画されている路面電車が蓄電池電源と分かり、お嘆きのクローバー会会長を訪ねる。会長が団体記念写真の撮影で糊口をしのいでいる西本願寺で待ち合わせ、鉄道趣味者らしく近くの東急ホテルへと向かい西洋料理の昼食とする。会長は胆嚢や腎臓を摘出しているも、お元気でにこやかで、しきりに架線集電しない路面電車計画や折角保存した市電を公園の売店に使うなどの京都市の暴挙に立腹の様子。蓄電池は流行のリチウムイオン電池らしい。梅小路の近所の電池屋が入れ智慧を和服着流し市長に吹き込んだのだらうか。B787のように火を噴かねば良いが。
この掲示板のことにも話がおよび、長老の投稿がなく如何されているのか、冬眠されてるのか、入院されてるのか、お寺参りをされているのか、ご家族から丁重に扱われているのか、ベランダに監禁されておられないか、会長の心配はつきない。かくいう通信員にも投稿が無いように思うがと、婉曲にいやみをお聞きするので、食卓の勘定書をそっと手許に曳きご馳走することでお慰めすることに。
なお、掲示板の投稿に対するコメントは製造会社が異なる二種のWinXP機からはどちらもコメントが書き込めない。別なる会社のWin7機からはコメントできることが帰ってから判明。何かの原因があるかもしれませんが、XP愛用者もお見捨てにならぬようお願いいたします。
会の運営にも会長は色々と腐心されておられる様子ですが、商人や町会長の経験を生かして、楽しめるクローバー会にしていただけるでしょう。
大宮通を南下し帰途につくと、東海道線山陰線をまたぐ高架橋を渡ることになる。何故かいまでも京都市電の架線柱が二本残っているが、なんでだろう。ここを通るときや新幹線の車窓から眺めて、在りし日の市電を思い出す。
梅小路公園の路面電車計画もただ走らすだけでは長続きせず、水族館と新しく計画の交通科学館を結ぶ移動手段になると良いのだが。