あの日あの頃 番外編

鉄道資料を片付けていると東海道線電化完成の葉書と煙草が出てきた。米原京都間の電化で東海道線全線が1956(昭和31年11月19日に電化されたときの記念である。その日を始めに特急つばめと特急はとは列車全体が淡緑5号に塗装されEF58を先頭に大阪東京間を7時間30分で運行を始めた。米原京都間の客車列車は80系湘南電車に替わりみかん畑のない近江路を走りだした。
 葉書は配布されたもので裏に大阪駅31・11・19日付と大阪城と客車特急の絵の丸い記念スタンプが押してある。きっとその日、坊主頭の中学生だった私はスタートカメラ片手に今里大阪駅間担当の1600型市電に乗って大阪駅へ駆け付けたのだろう。
煙草の空き箱は親爺が買ってきてくれたのだろう。漫画家横山隆一氏が描く
フクちゃんが展望車に乗っている。煙草のピースは火を着ける前でも独特の良い香りがした両切り煙草で、一時期愛用していた。ピー缶という缶入りもあって懐かしい。この空き箱はヤフオクで即決280円で値がついている。

 

 

 

 

 

 

 

 

あの日あの頃 番外編」への1件のフィードバック

  1. 大阪通信員さま
    グリーンつばめ・はと、懐かしいですね。その頃は小学3年生くらいで、学校から帰るとすぐに自転車で西大路駅の東方、丁度梅小路辺りの線路南側へ行き、線路沿いの道から東海道線を上下する列車・電車を見るのが日課でした。つばめ・はとは見始めた当初は茶色で、その後眩いばかりに見えたグリーンに替わりました。殆どがグリーン58機の牽引でしたが、まれに茶色機が牽くことがありガッカリしたものです。急行・普通客レをグリーンが牽いたのを見た記憶はありませんでした。
    80系湘南電車は準急比叡と普通で走っていました。比叡は10両だったと記憶します(のちに153系)。先頭車の大きなヘッドマークが印象的でした。普通は大概6両でしたが、それまでの長距離客レのスジを継いだ米原行は大阪方に4両の付属編成を増結した10両でした。のちに時刻表を見るようになって気付いたのですが、この長編成80系も増解結していたはずの大阪駅の停車時分は他の快速と同じ1分間でしたから、1分での増解結はどう考えても無理だろうと思っていて、今に至るも謎!のままです。恐らくは数分遅れて運転していたのではないかと思いますが、あの定時至上主義の国鉄がそんなことをしていたか大いに疑問も残ります。どなたか実際の取扱いを見聞されておられましたら是非ご教示戴きますようお願い申し上げます。
    話を戻しますと、今これを書いていて想い出したのですが、当初はSL(C62・C59・D52)牽引でした。微かにC62とつばめ・はとのヘッドマークを見た記憶が残っています。
    緩行線電車は茶坊主が眼をひきました。朝夕7連、昼間時4連での運転でした。余談ですが151系の試運転は高学年の頃で、NHKの中継(中継の殆ど初期の頃ではなかったかと)が学芸会の練習と重なり、悔しい想いをしたものでした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください