2006年3月25日 南海貴志川線の最後を見に行く
しばらく私鉄を続けます。南海電鉄貴志川線(和歌山~貴志14.3km)は、岡山電軌100%子会社の和歌山電鐵へ運行が引き継がれることになり、初の公募による、民間事業者の鉄道譲渡認可事業となりました。貴志川線としての最終の日曜日、2006年3月26日には、スタンプラリーなどの感謝イベントが行われて、私も行って来ました。同社は「タマ駅長」や「いちご電車」など、奇抜な施策で注目を浴びていますが、それは少し後のことで、南海色をそのまま残しての引継ぎとなりました。▲以前の貴志川線には1201形が走り、何度かクローバー会の面々と訪れたこともあるが、引継ぎ時には、ズームカー22000系を貴志川線用に改造した2270系の2両編成Mc+Tcに統一されていた。貴志川線は、日前宮・竈山神社・伊太祈曽神社への三社参りの鉄道として、大正5年に山東軽便鉄道が、大橋~山東(のち伊太祈曽)を開業させた。昭和6年には和歌山鉄道に改め、昭和18年、全線電化。その後、和歌山電軌を経て、昭和36年に南海電鉄貴志川線となった。貴志川線は南海の鉄道線からは孤立した存在で、昭和46年に和歌山軌道線が廃止されると、すべての南海線とは離れ小島となり、南海が昇圧後も、貴志川線だけ600Vで取り残された。平成7年から、2270系電車が投入され、ワンマン運転となった。
▲平成15年、赤字経営を理由に、南海が廃止を検討していることが明らかになり、貴志川線の存続問題が一気に浮上した。「貴志川線の未来をつくる会」が生まれ、住民の熱意が行政を動かし、県や市町は存続で合意したが、南海は平成17年9月末で同線の経営撤退を発表し、鉄道事業廃止届出書を提出した。県・市町は、事業の引継ぎ先を公募することとなり、応募した9つの企業・団体・個人の中から岡山電気軌道が選ばれ、正式に事業を引き継ぐことが発表された。
▲JR和歌山駅に隣接する貴志川線の和歌山駅から、11:45発の電車に乗り、伊太祈曽へ。▲▲当日の運賃は全線170円均一。▲電車に乗っていた乗客の大半は伊太祈曽で下車、車庫を開放して撮影会に。
▲伊太祈曽の駅舎と駅名標。▲▲駅の真ん前が伊太祈曽神社の参道になっていて、なるほど参宮鉄道として開業した経緯がよく分かる。
▲「乗って残そう」のスローガンが今も各所に。▲▲伊太祈曽は島式ホーム一本、ファンと言うより、地元の人たちが多く見られた。▲伊太祈曽発の電車に乗って、前面から注視、終点の貴志に到着。
▲まだ「タマ駅長」も居ない、ただの終点の貴志駅と駅名標。▲▲和歌山~貴志は360円だから、今日は半額以下の大盤振る舞い。▲次の到着電車を待ち受ける。2270系は全部で6編成あるが、すべて南海の標準色に塗られていて、面白みがない。▲沿線の景勝地、大池遊園へ。池の水面ギリギリに渡る、今も昔も変わらないシーンを撮影。▲事業者が変更になるだけで、廃止の時のような感傷は湧かないが、ホーム上の何気ない風景を見ると、やっぱり鉄道っていいなぁと思う。なお「大池遊園」は、写真のように「おいけ」、かつては「おおいけ」だったが、地元の読みに合わせて、途中で「おいけ」に変更したと言う。
総本家青信号特派員様
南海貴志川線の廃止を知ったのは、NHKの「ご近所の底力」という番組でした。この放送がきっかけで存続に話が加速していったことも鮮明に覚えております。
南海が廃止表明した時は、このままなくなってしまうのかと思いましたが、沿線の住民パワーは、県市に公募という形を取らせましたね。まさに「底力」です。
総本家青信号特派員様
貴志川線には1201形時代には何度か訪れました。その時、感心したのは車両は半鋼の戦前型というもののニス塗りの車内、外装共にとても綺麗で整備の心意気を感じました。その後、高性能化されてからは経営体が代わってからも含め1度訪問しただけです。個人的にはあの猫のキャラクターの押し出しは○△?ですが、中小私鉄は、存廃問題が取り沙汰されており、強力なキャラクターで話題を集め、増収に繋げる手法が一般化してきています。写真は1984年3月、貴志駅。
ブギウギさんが私鉄の写真をよく撮られているのは何となくわかっていましたが南海の代表的車両の1201形を貴志川線でカラーで撮られていたのには驚きました。
1201形は私も撮りましたが、端正な顔立ちで、いかにも“電車”というスタイルでした。緑の濃淡塗装も、よく似合っていましたね。
総本家様 ブギウギ様
私も1201形を撮影していました。1992年7月9日の午後、鉄道全線完乗の折、貴志川線に乗った時に伊太祁曽で撮影した時の写真です。
車輌は良く手入れが行き届いて、非冷房を感じないほどさわやかな風が車内を流れていました。
1201形の並び、いいですね。南海のグリーンの濃淡は、京阪のそれと似ていますが、それぞれが濃くなっていて、より重厚さを感じ、歴史ある南海らしい塗装です。
個人的なことですが、今は亡き叔父の出身が山東村でした。
サンド、イダキソ、懐かしい響きです。ツレモッテ イコラヨ!
山東村の中心は伊太祁曽でしょうか、駅の降りると、写真にも上げましたが、駅前に伊太祁曽神社の鳥居がドーンと建っていました。しかも木造で、いかにも歴史を感じました。「いだきそ」とはなかなか読めず、鉄道雑誌にも、ふりがなが無く、苦労したことを覚えています。
貴志川線の昭和30年代の様子については、故・沖中忠順さんが書いておられます。ポールを付けた、珍車の数々をご覧ください。
https://drfc-ob.com/wp/archives/88851