京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [9]

(3)北丹鉄道 DRFC貸切列車走る <カラー版>

これがDRFC貸切列車、昭和30年後半まで運転の混合列車が再現され、DLには江若、伏見線に続き、三たびヘッドマークが輝いた。参加者は客車に乗車して、撮影地に来ると停車してもらい飛び降り下車、列車だけバックして撮影好適地に停車、こんな鉄橋上の撮影も可能だった。何とも身勝手極まる振る舞いを実現していただいた北丹鉄道の皆さんには感謝しかない(下河~上天津)。

次はいよいよ昭和45年11月3日、北丹鉄道福知山西~河守を往復したDR FC貸切列車の模様です。前年の昭和44年10月の江若鉄道廃止、同じ年、昭和45年3月の京都市電伏見線廃止に続く、DRFCの仲間とともに迎えた感動的な出来事でした。その感覚は、心の隅に残っているものの、細かい事実については、もう記憶にありません。そこで「青信号26号」に、北丹のために、全身全霊を投じたTさんの手記「北丹アピール 全ての会員は北丹廃止に決起した!!」を読むと、Tさんの北丹への情熱がひしひしと伝わるとともに、細かい様子もよく分かりました。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [8]

(2)北丹鉄道 初めての乗車

北丹の沿革については、前回のとおりですが、輸送実績について述べると、昭和40年代前半の年間旅客輸送人員は約23万人、全国には、貨物専業に近い私鉄もあり、それよりも低い数値もありますが、隣り合う加悦鉄道は約40万人で半分程度、兵庫県の別府鉄道25万人よりさらに少ない数字でした。それでも一日平均にすると約630人で、今から見ると、破格の数字に見えますが、昭和40年代では、全国でも最小部類の私鉄でした。車両はあとで、詳述するとして、末期に日常的に使われていたのは、国鉄キハ04のキハ100が2両、付随車のハニ11と3両のみ、あとはDL、客車、貨車は合ったものの、営業に使われることはありませんでした。

北丹鉄道路線図(RM LIBRARY「北丹鉄道」より転載)

草茫々の線路を行くキハ101、晩年は枕木が朽ち、犬釘が抜け、レールが浮くこともあった。線路際の草が車体に触れ、側面の塗装が剥げるほどだった。ローカル私鉄の素朴さと、晩年の苦しさが同居していた。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [7]

(1)北丹鉄道  福知山~河守

京都北部を走っていた二つのローカル私鉄、前回までは加悦鉄道、今回からは、もうひとつの北丹(ほくたん)鉄道です。加悦と北丹、両社の終点は、12キロ程度しか離れておらず、京都の北部に特徴あるローカル私鉄が接近して、二つ存在していたこと自体今から考えると信じられない気持ちになります。加悦鉄道は昭和60年まで現役で、古典蒸機・客車がいることでも知られ比較的、記録もありますが、その陰にあって、北丹鉄道は特に特徴のある車両でもなくしかも昭和46年に廃止されてしまい、記憶も薄れてしまった鉄道でもあるのです。

初めて北丹に接したのは、昭和43/1968年の3月だった。それまで、何度も福知山へ行っているものの車庫が隣の福知山西にあるため、福知山駅で北丹に接する機会がなかった。この時は福知山駅の構内に5枚窓のハニ11がポツンと置かれていた。この当時は、ラッシュ時、DC+ハニ11の2両編成で運転があり、DCは車庫へ引き上げたあともハニ11だけは夕方ラッシュ時まで留め置かれていた。大正13年製の南海モハユ751で昭和32年に電装解除のうえ北丹に来た。典型的なタマゴ型の車体で、もう1両、同型のハ10とともに北丹初のボギー車となった。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [6]

加悦鉄道 「蒸機の旅」の珍編成

昭和45年10月に大阪~丹後山田~加悦で3回にわたり運転された「蒸機の旅」を続けます。前回は丹後山田の様子まで紹介しましたが、今回は、いよいよ加悦鉄道で運転された、愉快な珍編成の列車の紹介です。大阪・京都からの団体列車「蒸機の旅」は、牽引機を4回変えて、12:46に丹後山田に到着、定員350名の乗客は、加悦鉄道が特別に編成した列車に乗り換えて、終点の加悦へ向かった。その編成がコレ、DC351+サハ3104+ハ10+キハ51+ハ21と、現役の車両をほぼ動員した、木造単車あり、気動車あり、東急から来たサハありの珍編成だった。この時期、キハ083はまだ入線しておらず、通常はキハ51、予備としてキハ101が使われていて、客車列車は昭和40年代初頭に無くなっていた。次位のサハ3104は、もと東横電鉄デハ104で、電装解除でサハ3104になり、昭和43年に加悦に入線したが、実際に営業に出たことは聞いたことがない。

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 「伏見線」写真展 ご来場ありがとうございました ③

伏見線写真展で、皆さんから反応のあった写真や新たな発見などを紹介しています。酒蔵や鉄橋と言った伏見線の定番ポイントより、意外な写真に反応を示されました。

0系新幹線は昭和の象徴

京都タワーから見た高倉跨線橋の大判写真を、会場エントランスのアイキャッチとして掲げた。それに引き込まれて入場された方からは、肝心の伏見線の市電ではなく、別のところに焦点が行った。「いゃあ~0系新幹線やんか」と言われる女性の多かったこと。0系は誰もが知っている昭和を代表する車両、われわれ世代では、昭和の代表は「こだま」型151系あたりだが、同じ昭和世代でも、平均値が若くなっていることが改めて分かった(写真:宮本郁男)。「京都駅八条口」から見た新幹線京都駅と市電。新幹線の本数は、今よりウンと少なかったが、市電は結構の本数のため、少し待てば難なく撮れた。現在でも、新幹線京都駅には、この部分だけ風防壁がなく、周囲はすっかり変わったが、この角度で新幹線を取り入れることができる。

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 「伏見線」写真展 ご来場ありがとうございました ②

車両編~みなさんからの声

伏見線写真展では、3日間とも10時開場から18時閉場まで、勘秀峰さんとともに、ご来場者の対応に当たりました。ずっと立っぱなし、食事もほとんどできずの3日間でしたが、ご来場の皆さんから、多くの感想や質問などを対面で直接聞くことができて、写真展の醍醐味を感じていました。ご来場の方々から、今回は車両に関する感想をまとめました。

全部ツーマン

伏見線廃止時は、すべて車掌が乗ったツーマンカーだったことに驚かれます。京都市電の体験者でも、全廃時の赤帯を巻いたワンマンカーの印象がより強いのでしょう。伏見線廃止が昭和45年、すべてワンマンカーの外周線廃止が昭和53年、今なら瞬間で過ぎ去ってしまいそうな数年間は、改めて市電激変の時代だったと思います。なかでも伏見線の再末期には見られなかった、ツーマンカー800形の姿に、京都市電の黄金時代を感じておられるようでした。

800形の一次車とも言うべき801~865の直接制御車は、昭和43年から順次1800形ワンマンカーに改造が進んでいた。これらが見られたのは、廃止前年の昭和44年までで最末期にしか行けなかった私は、1両も写すことができず、先輩方から写真をお借りして、肥後町付近の情景を展示した。800形が走る、いわば伏見線の原風景を皆さん感じられていた(写真:大西友三郎、藤本哲男)。

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 「伏見線」写真展 ご来場ありがとうございました ①

1月30日から2月1日まで3日間開催しました写真展「伏見の街を走った京都市電」、もう2週間前の開催となりますが、多くの皆さんにご覧いただき、いまも快い余韻に浸っています。その分、まとめが遅くなりましたが、その様子を報告します。写真展「伏見の街を走った京都市電」。55年前の1970年に廃止された京都市電伏見・稲荷線を、クローバー会メンバーで結成したTeam 1970 Fushimiによる写真や資料で展示した。わずか3日間の会期だったが、会場立地と広報も奏功して、680名もの入場者を記録、最終日は常時30~40人が会場に滞留するなど、終日大賑わい子どもから老人まで、さまざまな世代にご覧いただいた。

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 2026年版 雪が降ったら叡電へ

雪が降ったら行くしかない叡電、2026年はイルミネーションの八瀬比叡山口駅へ。雪が降ったら大喜びする子供の心が、今でも抜けない高齢者の行動パターンだった。

冬型の気圧配置になって、京都でも〝顕著な大雪に関する気象情報〟が発令されました。昨日の午前はそれほどでもなかったものの、昼頃にはかなりの降雪状態に。もうこうなったら、次の行動は決まっています。過日の伏見線写真展のまとめもしなければならないのに、それを放って、久しぶりにカメラを取り出していました。行先は、今年も叡電、八瀬比叡山口駅へ。毎年、冬季に同駅で実施されている〝イルミステーション〟、ことし叡電は100年を迎えて、さらに華やかなイルミネーションで飾られます。

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 伏見線 写真展 あと一日 !

伏見・大手筋を会場に30日より開催の写真展「伏見の街を走った京都市電」も、明日2月1日(日)が、いよいよ最終日となりました。朝から引っきりなしのご来場が続いています。デジ青読者の皆さま、ヒマを持て余しておられましたら、最終日、ぜひ京阪「伏見桃山」、近鉄「桃山御陵前」、JR「桃山」から会場「大手筋ギャラリー」へ足をお運びください。

朝から 途切れることなく、ご来場される皆さん。やはり鉄道写真展は、その切り口と会場立地だと納得した。このペースで行くと、今までの写真展のなかで最多人数を記録するのではと勘秀峰さんと話しながら会場を後にした。

 

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 明日から3日間限定 京都市電伏見線の写真展

伏見で「伏見の街を走った京都市電」

デジ青投稿もマイペースで思い付き投稿していたら、いま必死になって進めている写真展の告知が、開催の前日になってしまいました。1月30日(金)から3日間限定の写真展「伏見の街を走った京都市電」を開催します。お知り合いの方から発信・拡散していただいたり、鉄道系出版社のサイトにも掲載していただいており、あるいはご存じかもしれませんが、当の本人からの告知が遅くなってしまいました。例によって、準備作業が遅々として進まず、加齢による、持続性、根気の低下をつくづく感じています。残された時間は、あと10時間余り、まだ作業は山積みですが、あとは野となれ山となれ、なんとか滑り込みセーフの様相となりました。限られた日数ですが、デジ青読者の皆様と会場でお会いできれば幸いです。

 写真展「伏見の街を走った京都市電」

 2026年1月30日(金)~2月1日(日) 10:00~18:00

 京都伏見・大手筋「大手筋ギャラリー」

ご承知のように、伏見線は明治28年、日本で最初に電車が走った路線で、その開業日が2月1日に当たり、それを記念して開催することにしました。廃止になったのは昭和45年のこと、私はまだDRFCの現役生でした。市電の廃止を初めて実体験した線であり、廃止前は何度も伏見へ通ったものでした。そして一番印象に残るのは、DRFCのヘッドマークを、西村さんとともに2点作ったこと、自転車の荷台に括り付けて、九条車庫まで行き、局長に直談判、最終日の500形のトップナンバー501号に付けてもらったこと、そんな個人的な思い入れもありこのたびの開催となったものです。幸いクローバー会の皆さん、いつもお世話になっている伏見チンチン電車の会の皆さんからも、写真の提供、資料を制作していただき、開催に至りました。

装飾された501号に掲げられたヘッドマーク、その前年の江若のヘッドマーク制作で味をしめて、今度は市電に向けられた。お堅い交通局のこと、半信半疑だったが、遠くから来た501号にマークが掲げられて小躍りした。竹中さんのクルマに乗せてもらって何度も追っ掛けしたものだ。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [5]

廃止直前の加悦鉄道(5) 大阪・京都から企画列車が走った② 

昭和46年10月に3回運転された「蒸機の旅」、続けます。前回も記しましたが、大阪~丹後山田~加悦の機関車の形式・運用も多彩ながら、それに続く客車も、多彩さでは負けていませんでした。デジ青常連の皆さんから、ネタばらし(?)をされて、鮮度が落ちましたが、改めて「蒸機の旅」に連結された客車編成を記すと、大阪←オハフ33 462+オハ35 1308+オシ17 2022+スハネ30 2127+マロネ40 19+スロフ51 2039+オハフ33 1010→京都 と言う編成で、新聞各紙は〝バラエティー列車〟という見出しを付けました。すべて現役の客車で、なかでも食堂車は大阪発車時から営業で、車内では軽食、ビール、ジュース、フィルムが提供と書かれていました。運賃は、大阪~加悦で弁当付きで1900円、募集定員は350名は、マロネ、スロフにも着席でき、乗車できる客車は、当日、受付の際に抽選と記されていました。山陰本線千代川付近を行く「蒸機の旅」、C57 128[福]の牽引、京都で牽引機、編成の向きが変わった。山崎付近で撮ったあとは、DRFCメンバーのクルマに乗せてもらい、追っ掛けを開始した(昭和46年10月)。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [4]

廃止直前の加悦鉄道(4) 大阪・京都から企画列車が走った① 

加悦鉄道について、私が体験した珍しい企画列車を紹介します。昭和45年の鉄道記念日の前後、10月14日、18日、25日の3日間、大鉄局では大阪~京都~綾部~西舞鶴~丹後山田~加悦を往復する企画列車「蒸機の旅」を運転しました。愛称のとおり、大阪~丹後山田は、すべて蒸機の牽引、途中、京都、綾部、西舞鶴は向きが変わるため、牽引機も代わって都合4種の蒸機が牽引、なかでも大阪~京都を蒸機が走るのは、昭和31年の東海道線完全電化以降は初めてのことで、そのあとの東海道・山陽筋の蒸機イベント列車の端緒にもなりました。しかも蒸機だけではなく、それに続く客車編成もクセの強い車両ばかり、〝SLブーム〟の渦中でも、ひときわ趣味性に富んだ列車となりました。

ここまで書くと、加悦とは一切関係がないのですが、丹後山田からは加悦の古典客車を連ねた特別列車に乗り換えて加悦へ行き、車両を見学するのが最終の目的でした。この日は朝からDRFCメンバーにクルマで追い掛けてもらい、たいへん収穫の多い一日でした。撮影順に見ていただきます。東海道本線大阪~京都に14年ぶりの蒸機の牽く企画列車「蒸機の旅」9921レが走った。牽引するのは梅小路区の花形C57 5だった。しかもまだ現役で、京都~園部で列車を牽引していた時代、大阪~京都の牽引に抜擢された(昭和45年10月、神足~山崎)。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [3]

廃止直前の加悦鉄道(3) 国鉄時代のキハ08 3 

末期の加悦鉄道で使われていた車両は、国鉄オハ62客車を気動車化改造したキハ08 3でした。前述のように昭和49年に加悦へ導入されました。もう1両、昭和54年に入線したキハ10 18もありましたが、末期、日常的に使われていたのは、キハ08 3でした。そのキハ08 3の国鉄時代の姿も撮っていたこと、今回の投稿で初めて分かりました。加悦に到着したキハ08 3、車体長は標準的な国鉄DCとほぼ同じだが、車体高は屋根が深いため4085mmもあり、もう1両のキハ10 18の3710mmより、375mmも高く、切妻もあって、デッカイ印象だった。機関は急行型DCにも使われているDMH17H、動力台車はDT22Aに換装されていた(昭和60年1月)。国鉄時代の客車改造のキハ08・09は各所で撮っていたが、今までナンバーも確認していなかった。改めて調べると、釧路に配置されていたキハ08 3を何回か撮っていたことが分かった。写真は、厚岸にて、根室発釧路行き236D、キハ08 3+キハ21 18 ただし、加悦は1位側、厚岸は3位側から撮っているので、逆の角度となる(昭和44年9月)。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [2]

廃止直前の加悦鉄道(2) 戻りは全区間歩いて 

一日4往復に減ってしまった、廃止前の加悦鉄道、昭和60年1月4日、午前2番の列車に乗って、9:53に終点の加悦に到着しました。まずは構内に置かれた蒸機、客車など車両や駅周辺を見学。これを終えると、午後一番の列車までは相当な時間があります。代行バスで戻る手もありましたが、途中の各駅も記録しておきたく、丹後山田までの5.7km、歩いて戻ることにしました。

行きのキハ083車内から見た加悦鉄道、途中ゆるやかなカーブがあるが、ほぼ一直線で加悦へ向かっていた。

9:53 加悦に到着した2番列車のキハ08 3、加悦の古ツワモノが構内に並んでいた。

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 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [1]

廃止直前の加悦鉄道 カラー版  昭和60(1985)年1月4日

京都府の北部に、昭和の時代、ちょっと浮世離れした二つのローカル私鉄が走っていました。北丹鉄道と加悦鉄道であることは、高齢世代なら先刻知っているでしょぅが、廃止・休止されたのは昭和46年と昭和60年とあっては、若い世代には理解できないかもしれません。両鉄道とも、DRFC現役時代、貸切列車を走らせたり、合宿で行くなど、ずいぶんお世話になりましたが、地元のため、いつでも発表できる思いがあったのか今まで満足な発表もできていませんでした。ちょうど、加悦鉄道の廃止を控えて、最後の訪問をしたのが、40年前の正月明けの今頃の季節、積雪があって、空は日本海側独特の鉛色に覆われていました。国鉄宮津線の丹後山田駅(現・京都丹後鉄道野田川)のホームで発車を待つ、加悦行きのキハ08 3、昭和60年3月を目途に鉄道廃止の方針が発表されていた。従来、13往復の列車が運転されていたが、ほとんどがバス代行になっていて、列車は午前3往復、午後1往復しかなかった。

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 〝午年〟にちなんで 山陰線の蒸機を偲ぶ

新年も穏やかに明けました。本年も〝デジ青〟、よろしくお願いいたします。当特派員も、懲りずに古典ネタを載せていきます。今年の干支は「午」、動物を表す漢字として「馬」があります。奈良の駅名研究家さんが、駅名喫茶店「干支の動物を含む駅名」のなかで、「午」「馬」のつく駅名を挙げています。駅名喫茶店(第10回:干支の動物(の漢字)を含む駅名) | DRFC-OB デジタル青信号

「午」の駅名は存在しないものの、「馬」の駅名は56もあることが分かります。調べると、駅名に使われている動物名の漢字としては最多で、人の暮らしのなかに馬が身近だったのかも理解できます。ただ56のなかで、「うま」と読ませるのは、わずか3駅しかないのです。

小湊鉄道 馬立(うまたて)

山陰本線 馬堀(うまほり)

三岐鉄道北勢線 馬道(うまみち)

JR線のなかでは、「うま」の駅名は、「馬堀」だけだったことを初めて知りました。また山陰線が未電化で旧線時代の「馬堀」の駅名標、典型的な鳥居型、国鉄書体の駅名標だった。

馬堀、なんとも懐かしく思い出深い駅名です。蒸機が走っていた時代、何度、馬堀へ通ったことか。駅名を紹介するだけでは、もったいない。せっかくなので、馬堀を通り過ぎた蒸機列車、掲載済みもありますが、載せてみました(特記以外、昭和44~46年撮影)。

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 「信号場」を巡る  ⑮ (最終回)

〝三重連〟のメッカ 布原(ぬのはら)信号場

「布原の三重連」と言えば、蒸機時代を経験したことがない平成・令和世代にも、カーブした鉄橋をD51三重連が渡って行く、あのシーンかと頭に浮かぶことと思います。これほど左様に、布原信号場は、SLブームを象徴する撮影地として認知され、その狂騒状態は、SLブームの恰好のマスコミ素材ともなりました。いつも横目で見ていた私でしたが、話のネタにと、山陰旅行の行き帰りに三重連を見に行くことにしました(昭和46年9月)。

布原信号場は、伯備線新見~備中神代に昭和11年に開設された。備中神代から分岐する芸備線の列車も通るから、列車本数が多く、信号場の開設となったようだ。この時代、まだ客車列車があり、石灰岩輸送で貨物も多かったので、午前の時間帯では、一時間に3、4本の蒸機列車が見られた。布原付近には、両側から25‰勾配があり、とくに重量のある石灰岩輸送は、多くがD51の重連で、朝の1本がD51三重連となった。

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 「信号場」を巡る  ⑭

九州の信号場 南霧島信号場

しばらく途絶えていましたが、デジ青に復帰します。九州にも、当時はまだ単線、非電化の区間があった鹿児島、日豊、長崎の各本線にも信号場がありました。なかでも日豊本線の宮崎以南には、門石(田野~青井岳)、楠ヶ丘(青井岳~山之口)、南霧島(霧島神宮~国分)の信号場があり、それぞれ付近は撮影地として知られていたところでした。

当時、日豊本線にも夜行鈍行、門司港~西鹿児島の521レ、522レが走っていて、何度か利用した。この日は、夜行利用ではなく、宮崎に泊まって、朝6:09に発車する521レに乗って鹿児島方面に行った時だった。編成はDF50+客車7両で、夏休みでもあり結構な利用率だった。列車は都城を過ぎ、なおも山間部を延々と走り、駅でもないところに急に停車した、これが南霧島信号場だった。昭和41年の開設で、全体がカーブした標準的な信号場で、まだ4年しか経っていないので、すべてが新しい印象だ。カーブの向こうから、タイフォンを鳴らしながらDC急行が見えた(昭和45年8月)。

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 「信号場」を巡る  ⑬

城東貨物線 蛇草(はぐさ)信号場

もうひとつ、当時は関西で馴染みの信号場がありました。城東貨物線の蛇草信号場でした。いまは、同線を電化して旅客営業を行なう、おおさか東線となり、同信号場付近にはJR長瀬駅が設置されています。地名の蛇草に因んだ名称ですが、その地名も、今では長瀬に改名されてしまい、記憶の中から、信号場の存在も消えてしまいました。信号場は上下2線のみの標準的な配線だった。鶴橋で近鉄に乗り換え、俊徳道で下車して十数分歩くと、信号場に辿り着いた。貨物は、一時間に上下各1本はあって本数は多かった。画一的な写真しか撮れないものの、邪魔するものは何もない。今から思うと大阪の光景とは信じられない。D51 520[吹一]の牽く877レ(昭和43年8月)

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