あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~40~

2007年2月 「くりでん」へ ②

2007年3月限りで廃止された、宮城県北部を走る、くりはら田園鉄道(「くりでん」  石越~細倉マインパーク)を訪問した二日間、その後半を見ていただきます。

くりでんには、腕木信号機やタブレット交換、信号てこなど、ほかではほとんど見られない通票閉塞方式が、まだ残っていたことも魅力だった。それまでに、三セク化、電車からDC化と、次つぎ施策を断行してきた、くりでんだったが、閉塞システムの近代化まで手が回らなかったのだろうか。ただ廃止前は若柳~栗原のみがタブレット閉塞で、石越方、細倉方は簡易なスタフ閉塞になっていた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~39~

2007年2月 「くりでん」へ ①

もう3月になりましたが、2月分の「あの日あの頃」を積み残していました。2007年3月限りで、くりはら田園鉄道(くりでん)が廃止されることになり、二日間にわたって訪問、撮影しました。

くりはら田園鉄道は、東北本線の石越から西へ向かい、細倉マインパークまでの25.7キロ、当時は第三セクター化され、動力を電気から内燃に変更して運転を続けていたが、2007年3月限りで廃止となった。鴬沢工業高校前~細倉マインパーク前

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 西のC59・C62全記録  (11)

昭和44(1969)年3月29~31日 DRFCメンバーとともに撮影

広島のユースで一泊した翌日3月29日は、DRFC春の狂化合宿が、呉市の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく行われる日、九州で泥池にはまって風邪気味で体調は万全でないものの、メンバーとの再会を楽しみにして、ユース前からバスに乗り込み、広島駅へと向かいました。合宿の最終日の「安芸」狙いは、煙が期待できる安登~安浦の勾配区間へメンバーとともに向かった。と言うものの今まで、この区間で煙に恵まれたことは無かったが、今度は違った。北海道ヤマ線のC62重連も顔負けの凄い爆煙だ。見始めは違和感を覚えた「あき」のヘッドマークも、見慣れて来ると必須のアイテムとなった。体調は最悪だったが、それを吹き飛ばすシーンとなった。

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 西のC59・C62全記録  (10)

昭和44(1969)年3月28日 DRFC合宿を前に一人で足慣らし

前記のように、ポールが建ち始めた呉線で丸一日撮った後は、九州各地へ転戦しました。DRFCメンバーとも要所で顔合わせしながら、17日間に渡って各地で蒸機を撮影。最終日は筑豊でたっぷり写したあと、夜行で広島へ向かいました。DRFCの春の合宿が開かれる前日であり、まずは一人で呉線撮影となりました。折尾から夜行の座席急行「桜島」に乗って、広島に4時30分に到着、呉線の一番列車622レが発車する7番ホームへ行く。外はまだ暗いが、ホームは明るく照らし出され、C62が堂々と待機していた。ほんの数年前、まだ山陽本線の蒸機が華やかな時代、次つぎに夜行列車が発着していた広島駅の昔日を思い起こさせるような雰囲気だった。C62 41[糸]

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 西のC59・C62全記録  (9)

昭和44(1969)年3月 1年ぶりの呉線へ

ふたたび呉線に移ります。前回は昭和43年3月の呉線行きでしたが、この年の10月にはヨンサントオ改正がありました。呉線には大きな変更はなく、列車番号の変更や、一部ダイヤの手直しで交換駅の変更が行われた程度でした。いっぽうで、昭和45年10月を目指して行われている電化工事は着実に進み、全区間でポールの建植が進んで来ました。DRFCでは、ちょうど昭和44年春の“狂化合宿”が呉の音戸ロッジで行われることになり、絶好の機会と、例によって九州方面との撮影と兼ねて、1年ぶりの呉線入りとなりました。

「安芸」にヘッドマークが付いた! 何の予告もなく、雑誌に掲載されて驚いたことを覚えている。蒸機牽引の優等列車は、特急にはヘッドマークが付き、急行には無いのが、われわれ世代の常識で、“ヤラセ”っぽくて違和感を感じたものだった。「あき」とかな書きしたのも気になる。改めて写真を見ると、ヘッドマークより、続く客車に眼が奪われた。ヨンサントオでカニ38などの荷物車の連結はなくなり、機関車+ハネフ+ロネ2両+ハネ‥が通常編成だが、なんとオロネ10が3両、間に挟まっているのは、10系ではなく、青色に塗られたスハネ30のようだ。安芸幸崎~忠海

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~38~

2008年2月24日 淡雪の京都駅で国鉄型を撮る

今日は各地とも4月並みの気温で、スキー場の雪も融け始めたとか。いつもは寒波の戻りで、京都でも2月中頃には積雪もありましたが、今年はもう期待できません。毎年、少しでも積雪があると、嬉々として朝早くから近くへ駆けつけた日々も懐かしく思い出します。まだ国鉄型車両が幅を利かせていた時代、原色に塗られた車両は、実に淡雪に似合ったものでした。朝の光線に“こだま色”が映える。特急「たんば」クハ183-702ほか。下回りは白く化粧していた。「はるか」専用の30番ホームに、一日に何本か山陰本線特急が発着して、2番ホームからの編成・形式写真の撮影に最適だった。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~37~

東京でも撮ってまっせ ④  東急渋谷駅を記録する  2008年2月22日 

東急東横線の渋谷駅が、東京メトロ副都心線との直通運転に伴い、地下化され、駅も地下に潜ったのが2013年3月のことで、もう10年以上経つことになります。撮影の合い間に、それまでの高架駅も記録したことがありました。いま駅の跡地周辺では、高層ビルが建ち再開発ラッシュが続いています。最近、会合で、年に1、2回、渋谷に行くことがあり、渋谷で都電を写していた世代にとっては、異次元の世界に戸惑うことばかりでした。9000系急行が終点の渋谷に到着、両側の扉が開いて降車客が吐き出される。2004年には、みなとみらい線との相互直通が始まっていて、9000系にとってはいちばん華やかな時代だった。

 

 

 

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~36~

東京でも撮ってまっせ ③ 中央線複々線区間で撮る  2007(平成19)年1月8日 

首都圏の多くの通勤路線のなかで、都心部と多摩地域を結ぶ中央線の近郊区間、なかでも御茶ノ水~三鷹は緩行線・急行線の複々線区間で、ラッシュ時の通勤電車は、緩行・快速あわせて一時間に40本程度が走り、圧倒的な輸送量を誇っています。急行線を走る快速・特急は、その後、車両も世代交代していますが、訪れた十数年前は、快速は201系、一部でE233系が運転を開始した頃です。また特急列車も、ひと世代、ふた世代の前の車両が走っていました。中央線複々線区間の駅撮りとして有名なのは、高円寺か阿佐ヶ谷だろう。今回は阿佐ヶ谷の下り方ホーム端から順光下の列車を狙った。平日の午前8時、「中央特快」が次つぎ通過して行く。これは、クハ201-1先頭のH1編成、量産化の第一編成であり、総数1000両余りの201系のトップナンバー車。この車両、201系が無くなってからも保管され、ネットで見ると、いま改修中の青梅鉄道公園に展示されるようだ。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~35~

東京でも撮ってまっせ ② 朝も夜も583系  平成20(2008)年2月22日 

583系はこの時代、定期運用から離脱し、波動輸送、団体輸送に使われていました。JR西日本の京都車は、JR西日本の独自色に変更されたのに対して、JR東日本の仙台車(当時)は国鉄色を堅持していて、先の485系とともに、東は国鉄スタイル・カラーを纏っていることが魅力的でした。冬のこの時期、583系季節運転としては、まだ盛んだったスキー臨や、さらにディズニーランドへ向けて団体臨も多く運転されていました。

583系の「ゲレンデ蔵王」、クハネ583-8ほかの583系6連、大船が始発で、埼京、東北、仙山線経由、山形行きの快速列車、JR東の「びゅう」の旅行商品としてのツアー専用列車だった。寝台も設営がなく、全車“ゴロンとシート”での運転。 続きを読む

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~34~

東京でも撮ってまっせ ① 「能登」を撮る 平成19(2007)年1月 

デジ青誌上であまり紹介のできなかった首都圏の撮影、今回、集中的に10~20年前のデジカメ撮影分を紹介します。元日に石川県能登地方を襲った能登半島地震の発生から、ちょうど1ヵ月が経ちました。改めてお見舞いを申し上げますが、「能登」を冠する列車が、かつて走っていたことを思い出しました。早朝の上野駅16番ホーム、6時05分、憧れの489系ボンネットの急行「能登」が姿を見せた。485系のボンネットは関西でも「雷鳥」で馴染みはあったが、先頭が原型の正調ボンネットは、定期列車では上野発着の「能登」「白山」でしか見られず、しかも夜間で撮影が限られていて、関西からも憧れがあった。この日は、最後の鹿島鉄道を撮るため、「ムーンライトながら」で東上し、乗り換えの間に上野駅で姿をとらえることができた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~33~

2008年1月19日 紀州鉄道へ

取材の依頼で、紀州鉄道へ行ったことがありました。いまも発行されている「50代からの旅と暮らし発見マガジン」がキャッチの月刊誌で、創刊まもない頃、まだ編集体制が手探りの時期で、私のような人間にも声が掛かりました。「春を探して、身近なローカル線散歩」が与えられたテーマ、関西圏からの日帰り先として、選んだのが紀州鉄道と御坊市内の街散歩でした。雑誌のテーマどおり、春を思わせる日差しに誘われるように、カーブの向こうから列車が現れた。この時の車両はキハ603、大分交通から移って来た同番号車で、耶馬渓線で使われていたが、同線の廃止で紀州鉄道に来た。この時は、金土日は収容力の大きいキハ603、そのほかの平日は、北条鉄道から来たレールバスのキテツ1が使われていた。

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 西のC59・C62全記録  (8)

昭和43年3月 再び安登へ 

広島機関区でC59・C62の形式写真を撮影して、広島10:36発の糸崎行きに乗車、呉線の撮影に向かいました。この頃になると、鉄道雑誌の撮影地ガイドにもたびたび呉線が登場するようになります。新規の撮影地へも行きたいところですが、往きに寄った安登付近に再び行くことにして、その際に撮れなかったリベンジ撮影としました。往きに紹介したカットと、ほぼ同じようなシーンばかり続きますが、“全記録”として、ご了承ください。広島から、呉線に乗って安登へ向かった。乗車列車が呉に到着すると、17分の停車アナウンスがあり、ホームの先頭に行ってみる。3番ホームには上り、貨物も待機するなか、下り「安芸」の到着だ。やって来たのは、常磐線から転属したばかりのC6246で、さっそく急行を牽いての登板だった。C62以上に興味深いのは、次位に側面総シャッターの荷物車、三軸ボギーのカニ38が連結されていること。昭和34年に、マロネフ37を種車として、手小荷物をパレットごと搭載できる試作車として誕生した一形式一両、翌年の昭和44年には救援車スエ38に改造されるが、この時期は「安芸」専用のように連結されていた。そして、続く編成にはオロネ10が2両も連結されている。まだ等級制の時代だから、“一等寝台”となる。黒いC62+茶色の3軸荷物車+黄緑帯を巻いた青色の一等寝台2両‥の編成は、当時、数多く走っていた急行列車のなかでも、「安芸」だけに見られた異色の豪華編成だった。▲▲現在の呉駅同一地点、周囲は大きな建物に囲まれてしまった。 続きを読む

 西のC59・C62全記録  (7)

 広島で常磐線のC62と再会  昭和42年3月

では、通常投稿に戻ります。高齢者の脳の活性化には、昔話が一番、今年も性懲りなく昔話を続けます。さて、前回(6)のC59、C62の記録は、昭和43年3月、高校3年生の終わり、北九州へ撮影に行く際に写したものでした。今回は、その北九州からの帰り、初めて広島機関区へ寄った時の記録です。前回、書き漏らしましたが、この昭和43年に、呉線のC62に大きな変化が起こりました。前年の昭和42年10月、常磐線の平~岩沼の電化完成により、平機関区で使われていたC62のうち、状態の良い5両が糸崎機関区へ転属、それに対応する糸崎区の5両が廃車と、半数の顔ぶれが入れ替わりました。

「ゆうづる」牽引で有名だったC6223、平区のC62のなかで特に状態が良く、特急「ゆうづる」の専用機のようにして常磐線仙台~平で使われた。私の唯一の「ゆうづる」撮影も23号機だった。同線の電化後、昭和42年10月に糸崎区に転属した。前の年に“東”で見た同機が、翌年には“西”へ来ていて、人生になぞらえた蒸機の一生を思ったものだった。

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 阪堺電車に詣でる ~路面電車あれこれ噺⑦

「デジ青」読者の皆様、新しい年もお健やかにお迎えのことと思います。正月早々、地震・事故で、気も滅入りますが、今年も、外へ出て大いに写し、昔話もたっぷりして投稿に励みます。今年も、 事始めは 阪堺線としました。正月に必ず阪堺線に行かれていた沖中忠順さんの思いを引き継ぎ、初めて阪堺線に行ったのが2010年で、路面電車を見直す契機ともなりました。以来、ほとんどの正月に、阪堺線を訪れるようになりましたが、少しずつ変化していく初詣風景や車両に、時代の推移を感じました。

明るいうちは、住吉、大和川、浜寺で撮り、暮れて来ると、いちばん手軽なブルーモーメントスポットの「松虫」へ寄ってみた。あべのハルカスをバックに、停留場の佇まいと堺トラムの組み合わせとした。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~32~

大みそか 日常の阪急電車を記録する

前回も書きましたが、過去には、年末年始も、よく撮影に出掛けたものでした。試しに「2006-12-31 阪神 阪急」と記された保存フォルダーを見てみました。2006年は、初めてデジカメ一眼を購入した年で、この日は朝暗いうちから動き出して夕方までフルに撮影しました。その後、17年が経っても内容をほとんど見ることなく、撮影データは眠ったままでした。今回、見直すと、今となっては貴重な記録が残されていることとが分かり、日常の当たり前の記録が、鉄道趣味活動の原点であることを改めて思うのでありました。この歳になって、日常の記録を忘れかけている自分への励ましとして、ことし最後の投稿としました(以下、平成18(2006)年12月31日)。この年の10月、阪急と阪神が経営統合して阪急阪神ホールディングスとなり、その記念の一日乗車券が発売されていて、それを使って、朝暗いうちから夕方まで、阪急電車の撮影を続けた。この年の最後を締めくくるイメージとしては、やはり夕陽バックしかないと思い、淀川鉄橋で、大みそかの仕上げとした。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~31~

年末の青森で583系三昧

ほぼ同月同日シリーズに戻ります。世間で言えば、年末年始の休暇に入っています。私の会社時代、年末は徹夜も厭わぬ猛烈な忙しさが続きましたが、それでも最終日は会社で終業式があって、全員で一献やって仕事終了、そのあと同僚と深夜まで打ち上げと、いかにも、その時代らしい年末でした。それでも翌日は、朝早くから撮影旅行に出かける年もあって、今では考えられないようなエネルギッシュな活動をしていたなと思います。同月同日シリーズ、年末年始の記録を探しました。

平成9(1997)年は青森まで出掛けた。新幹線は盛岡までで、盛岡~青森・函館の新幹線リレーに583系「はつかり」などが走り、年末は臨時も多い。隠れ581系ファンの私は逃す手はない。朝の青森駅には583系があふれ、在来線特急列車の最後のシーンを見せていた。

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  西のC59・C62 全記録   (6)

初めての小屋浦へ  昭和43(1968)年3月朝、広島へ向かう呉線の列車は、客車12両でも満員で、何本も通り過ぎる。C62本来の目的ではないものの、あらたな働き場所を見つけたようだった。(以下、小屋浦~坂 昭和43年3月)

では呉線のC59・C62に戻ります。前項(5)では、高校3年生の春休みの昭和43年3月に、北九州撮影旅行の途上、呉線に寄って、初めて走行中を撮ったことを記しましたが、その帰りにも、呉線に立ち寄っています。九州から夜行鈍行に乗って、早朝の広島に到着、呉線に乗り換えて、小屋浦へ向かいました。呉線を有名にしたひとつは、朝のラッシュ時に、広~呉~広島で運転されていた通勤列車を牽くC59・C62でした。これに広島行きの夜行列車も加わって、小屋浦で見ると、6~9時台に上下8本の蒸機列車が通りました。

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 阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑦

④ 野田

北大阪線の最終は、終点の「野田」を紹介します(書類上は、天六が終点)。4.3kmという短い路線、絵になるような場所もなく、おなじ阪神の軌道線でも、行楽客や女子高生で満員になる甲子園線とはエライ違いでしたが、その分、飾らない日常の大阪を堪能できました。反応はイマイチだと思っていましたが、皆さんから多くの思い出を寄せていただきました。やっぱりコメントがあると嬉しいものです。「野田」を発車、天六へ向けて、4.3kmを走り出す。背後の高架は、阪神本線の野田駅、背後に留置線もあった(Tさん提供)。

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