京都は烏丸三条、NTT西日本京都支店内で行って来ました写真展「京都からすま市電通り」は、5日間の会期を終え、昨20日(金)滞りなく終了しました。写真展の企画・進行・応援で多くの皆さんのお世話になりました。そして600名以上の皆様に入場いただき、楽しく、有意義な時間を共有することができました。厚く御礼申し上げます。▲最終日20日(金)の14時ごろの様子、この日も引きも切らずにご来場、最終日のため、15時終了予定のところ、その段階でも20人が滞留、まだ次つぎとご入場のため、急遽一時間延長、16時過ぎにようやく終了。みなさんに手伝っていただいて、素早く撤収することができた。
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
叡電で2時間 紅葉三昧
カビの生えた古典テーマの投稿に励む一方、出版や写真展で多忙な毎日を送っていますが、こんな時に限って、“撮りに行きたい”症候群に駆られます。今年は、紅葉が遅れに遅れて、12月に入ってからも見頃が続きます。短時間で行ける先は、叡電しかなく、天候を見計らって出かけました。一人で撮影に行くのは、約半年ぶり、自主的に撮りに出掛けるのが、ホント少なくなったと実感しますが、間が空くと、カメラの操作も分からなくなり、説明書片手の電車乗車となりました。▲向かった先は叡電鞍馬線「二ノ瀬」、ホームの紅葉は、いつになく鮮やかだった。次駅の貴船口ほどではないものの、日本人、外国人でいっぱいだった。
▲二ノ瀬に到着する“青もみじ”、2019年からメープルグリーンに塗り替えられていた「きらら」901-902だが、工場入りに際して本来のメープルレッドに戻されることになり、この塗装で走るのもあとわずかとなった。
車両のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈16〉
ナンバーの話④ 形式入りナンバー C51225余話
前項で1900生さんから、C51ゆかりの鳥羽快速と修学旅行の思い出を記していただきました。私も京都の小学生でしたから、往復とも鳥羽快速に乗車して、伊勢志摩へ一泊2日の修学旅行へ行ったものです。ただ、道中のことは全く記憶になく、卒業アルバム用に客車内で撮ってもらった写真に、木の背摺りが写っていましたので、乗車したのはオハ61系だったことは判明しました。1900生さんが目撃された加太越えの補機もC51だったかも知れませんし、折り返しで7分停車する亀山駅では、C51225が車窓を横切って行ったのかも知れません。▲修学旅行で出会っていたかもしれないC51225だったが、そのあとは、亀山へ行く機会もなく、同機は昭和40年に廃車となってしまい、私にとってはこの眼で見ることが叶わない幻の名機となったが、その廃止を前にして行事が行われた。
車両のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈15〉
ナンバーの話③ 形式入りナンバー C51225
前回の本シリーズ〈14〉で触れた形式入りのナンバープレートでも、皆さんから多くの思い出を寄せていただきました。なかでも、準特急さんが、亀山区の形式入りC51225をきっちり収められていたこと、“先達のやることは違う”と感嘆しました。C51225は、形式入りのナンバープレートはもちろん、化粧煙突、スポーク動輪とC51が具備すべき要素は、完璧に備えた機でした。現役のC51を実際に見た人間は、もう私のような後期高齢者しかいませんが、すべての年寄りが憧憬の念を持っていた蒸機でした。撮影の昭和38年と言えば、準特急さんは高校3生のはず、目覚めの速さと言うか、その気づきには改めて畏敬の念を持った次第です。翻って私は寸前のところで撮り逃がした口で、パイプ煙突の梅小路のC51を何とか収めた世代でした。その悔しい思いは、今も沸々と湧いてきて、先輩から美しいC51たちの姿を見せてもらって、溜飲を下げているのです。▲形式入りプレートを備えたC51 225号機、最後は亀山区にいて、当時の蒸機ファンの人気を一身に集めていた。同じ形式入りにしても、前記のC575に較べて、英数6文字あり、左右寸法が大きい。
保護中: 遅報 ! 11/10 ホームカミングデー行われる
車両のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈14〉
ナンバーの話② 「形式入りナンバー」
本シリーズ、前回の「ナンバーの話」では、50件以上のコメントを頂戴し、皆さんから寄せられた貴重なナンバーを楽しませていただきました。デジ青の双方向システムが遺憾なく発揮された例だと思います。投稿テーマは何でも自由ですが、やはり車両にまつわる話題は欠かせないものだと痛感しました。続いてナンバーの話、蒸機に取り付けられたナンバープレートの話です。形式・製造番号を表すナンバープレートは、いわば機関車の表札であり、とくに前面の煙室扉に取り付けられたナンバープレートは、蒸機のシンボルと言っても過言ではありません。国鉄の蒸機の場合、全国の各工場の鋳物作業場で、銅と錫の合金である砲金を木型に流し込んで製作されます。そのなかでも人気があるのは、戦前製のナンバープレートに見られる、下部に小さく「形式〇〇」と入ったプレートです。昭和13年ごろまでに製造されたプレートは、すべて形式入りでしたが、戦争で金属類の使用を抑えるため、形式入りの無いプレートへと変化していきます。その後、形式入りプレートも、工場入りした際に新しいプレートに付け替えられることもあり、撮影していた昭和40年代には形式入りの蒸機は少数になっていて、撮影したうちでは1割にも満たなかったと思います。身近な梅小路機関区で見た蒸機のなかで、ダントツの人気は、形式入りのプレートの若番号C575に尽きると思います。皆さんも、蒸機に限らず、ナンバープレートの思い出、お寄せください。▲C575の正面のナンバープレートには「形式 C57」の小さな刻印が入る。これが入るだけで、グッと品格が上がる気がする。プレートは、英数字の数によって左右長が異なり、C575は最小の4文字、形式入りなので天地はあるため、“名刺”比率の珍しいプレートだった。
車両のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈13〉
ナンバーの話 ①
続いて“37枚目”の別テーマに飛びます。今までの「駅」では、鉄道車両は脇役でしたが、やはり車両は欠かすことができません。37枚目のあれこれ、車両ナンバーの話です。われわれの習性として、車両で真っ先に見るのは、形式、製造番号のナンバーでしょう。数字の羅列ですが、得られる情報は無限にあり、趣味活動を深化させました。トップナンバーやラストナンバー、また切りのいい数字が写せると、内心ほくそ笑んだものです。同じ数字の並んだ“ゾロ目”のナンバーもありました。京阪や阪急でも“2222”や“3333”があり、割と身近なナンバーですが、これが蒸機となると、制式蒸機では、形式も含めて数字が並ぶのは、1並びと5並びしかあり得ず、実際にはC11 1、C11 11、C11 111、C55 5、C55 55と、5両しかありません。私はうち3両だけは写していました。初期の時代で、キズ付きのひどい写真ですが、見ていただきます。皆さんもゾロ目にこだわらず、ちょっと面白いナンバーが見つかれば、ぜひコメント・写真お願いいたします。
▲米子区のC11 1、入換用として、米子駅で黙々と働いていた。ごく当たり前のC11だが、昭和40年には植樹祭でお召列車を米子~境港で牽いた実績がある。やはり、1並びのナンバーが買われたたのだろうか。昭和46年に廃車になっている(昭和42年8月)。
都電も定点対比してみる 6 ~路面電車あれこれ噺 (27)
都電「高田馬場駅前」 今昔
少し間が空きましたが、最近、現況を撮影した都電跡の今昔対比を続けます。前回の新宿からふた駅目、高田馬場駅前です。面影橋方面から路線が延長され、高田馬場駅前まで伸びて来たのが昭和24年のことでした。系統は15系統(高田馬場駅前~茅場町)一本で、電停は一線のみの終端式で、乗降を終えると、もと来た道を戻って行きました。 ▲昭和43(1968)年8月、東北・北海道へ向かう途中、丸一日を都電撮影に当てた。昭和43年度の都電廃止予定の系統を写すため、前々回の渋谷駅前に続いて高田馬場駅前に来て、電停付近の様子を、一枚だけカラーに収めた。いまでも覚えているのは、写していると、掃除をしていた高下駄を履いた寿司屋の主人から“どっちから来たんだい?”と聞かれた。初めて江戸っ子訛りを聞いた気がした。“京都からです”と答えると、ずいぶん驚いていた。都電を写す人間など、ほとんどいなかった。▲高田馬場駅前は、その後、大規模な再開発がされて、ロータリーが広げられて、街並みもすっかり変わってしまった。横断歩道を定点の目安に写してみたが、改めて当時の雑誌を見ると、停留場はもっと山手線、西武線に近く、もう少し手前(左手)かもしれない。
鉄道少年の時代に戻ってみる 〈8〉
開業直後の新幹線を写す
中学生の頃、鉄道少年の時代の思い出、あと一回載せます。先月になりますが、東海道新幹線が開業して60周年を迎え、JR東海のテレビCFが流れていました。開業は昭和39年10月1日、鉄道少年真っ盛りの時代でした。その翌週には、東京オリンピック開幕と、週替わりで日本が大きく進化を遂げて行くことを中学生も感じていました。
日本の鉄道を塗り替えた新幹線の出現は、各世代それぞれに思い出もあることでしょう。前回の「駅と高校生」ネタも、思わぬ方向に“飛び火”して、コメントで賑わいましたね。皆さんの思い出もお願いいたします。▲最初の日曜日、10月4日、10円で入場券を買い、さっそく新幹線京都駅のホームに立った。いままで試運転で遠目から見たことはあったが、眼の前で新幹線に接すると、さすがにデッカイというのが第一の印象だった。新大阪発東京行き超特急「ひかり8号」 N5編成
保護中: 「スペーシアとライトレールに乗る」レポート (津山英士さんから届きました)
駅のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈14〉
ホームにて④ 「ラッシュの主役 高校生」余話(2) 会津坂下
高校生と駅、あと一回だけ載せます。全国各地、高校生が乗り降りする駅はあまたありますが、私にとってのベストワンを選ぶとすれば、只見線会津坂下駅に尽きます。昭和46年2月、夜行列車で会津若松に着いて、7:47発、C11の牽く只見線の列車に乗りました。会津若松を出た時は、それほどの混雑ではなかったと記憶していますが、以後、各駅に停車するごとに、続々と高校生が乗り込んで来て、客車の通路まで、びっしりの高校生となりました。▲そして8:35、列車は会津坂下に到着、約6分の停車。すると超満員の車内から、高校生がごっそり下車、駅の本屋へ通じる構内通路はたちまち高校生で埋め尽くされた。ほぼ男子学生、真っ黒な集団には圧倒された。
駅のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈13〉
ホームにて③ 「ラッシュの主役 高校生」余話
前回、ローカル線ラッシュ時の主役だった高校生のことに触れました。平日は、勤め人とほぼ同じ時間帯の高校生ですが、当時は、勤め人は週休2日制が普及する前で土曜日も出勤でしたが、土曜日の高校生は昼間まで。当時の時刻表を仔細に見ると、土曜日の昼に下校する高校生のために、北海道などでは特別なダイヤが設定されていました。日本全国、同一サービスを提供する国鉄ならではの心配りでした。
▲当時、日本一の赤字線と喧伝されていた根北線(斜里~越川)、左の時刻表のように、平日は、朝、夕方、晩の3本のみだが、赤枠のように、土曜日だけ網走発越川行き645Dが運転されていた。まさに、土曜日、授業を終えて根北沿線に帰る高校生向けに運転されていた列車だった。写真は、たまたま土曜日に訪れた網走駅に停車する同列車で、キハ22319単行と、北海道ではごく一般的な列車だった。快速つくばねさんは終点の越川まで乗られたとのことコメントを頂戴したが、私はここで見たキハ22が最後で、根北線は2年後に廃止になった(昭和43年、以下、時刻表も昭和43年基準)。
保護中: では日光、宇都宮でお会いしましょう
駅のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈12〉
ホームにて③ ラッシュの主役 高校生
地方のラッシュ時、乗客の中心は、勤め人と高校生で、車内はいっときの満員状態となります。ところが、勤め人は、ホントに列車に乗らなくなりました。ことし、三陸鉄道で、朝8時台の中心駅へ向かう列車に乗る機会がありましたが、勤め人風の乗客はほぼゼロで、三陸地方ならではの事情があるとは言え、愕然としました。残る乗客はは高校生となりますが、高校生そのものも少子化の影響を受け、地方では高校の統廃合もあると言います。自転車では通えない列車通学生に対しては、学校専用のスクールバスがあったり、一人一台の親のクルマで送迎もあって、列車利用の減少に拍車をかけています。交換駅で対向の列車を写そうとすると、ホームで待つ高校生が見えます。なかでも女子高生には眼が向いたものでした。決して、その筋の興味はないのですが、やはりセーラー服など服装や、髪形、持ち物には、時代差、地域差があって、昭和ならではの思い出です。
▲名松線家城での交換、昔も今も、家城が唯一の交換駅で、キハ30系が入るぐらいだから、ラッシュ時は乗客が多かったのだろう。先日、名松線に乗ったところ、夕方の列車には、家城から一定数の高校生の乗車があって、同線では、いまでも高校生は重要な乗客のようだ(昭和45年)。
駅のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈11〉
ホームにて② 朝夕のラッシュ時
前回は、ホームに入線する列車と乗客の組み合わせを見ていただきました。今回は、地方の駅でも見られた、朝夕のラッシュ時の様子です。今でも、地方へ行っても、線区によっては、ラッシュ時は一定の利用があるようですが、昭和の時代のラッシュ時は、地方でも破格の賑わいがありました。今と較べると、そのあと、地方の過疎化、少子化、あるいはクルマ化が進んだことを、如実に語っている光景に思えます。▲ 18:45の西鹿児島駅、時刻からして、ちょうど仕事終わりの乗客が待つ4番ホームに、鹿児島発川内行き226レが、C61 33[鹿]が客車7両を牽いて入線する。蒸機の牽く客車編成、ホームで待つ多くの乗客、まさに昭和の時代、本線級の中核駅ならではの光景だ。いま駅は、鹿児島中央と名を改めて、川内まではJRとして残った鹿児島本線だが、いまはどの程度の輸送量なのだろうか(昭和45年)。
駅のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈10〉
ホームにて① 入線列車を撮る
改札口を入ってホームで列車を待つ。やがて乗車する列車が向こうから姿を現わす。ホーム入線の瞬間を、乗客の好奇の眼も気にせず撮る。鉄道ファンと言う人種の生まれながらの習性でしょうか。65年前に初めて撮った鉄道写真も、ホームに入線する列車でした。今でも機会があると撮ります。ただホームですから、列車だけ撮ることができず、乗客にジャマされます。なら、ジャマする人間も一緒に入れて撮ってしまえが、私の撮影スタイルでした。その方が、人の服装などで、時代だけでなく、地域性、季節感を表現できるのではないかと思っています。近頃は、肖像権とやらで、なかなか大手を振って撮影ができないだけに、大らかな昭和の時代がなおさら懐かしくなります。▲「水のきれいな日本海へ」に誘われて、夏休みともなれば、綾部駅ホームは大賑わい。京都方面から乗って来た子供たちは、D51の牽く西舞鶴行きに乗り換える。これからの水遊びを楽しみに嬉々として列車に乗り込んだ。遠い日の夏休みの思い出だ(綾部、昭和45年)。
駅のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈9〉
駅名標② 終着駅
駅名標の写真を投稿したのが、一日余り前のこと、この間に、速攻の紫の1863さんはじめ、多くの方から、駅名標にまつわる思い出の写真を寄せていただき、改めて、駅名標への関心の高さを思いました。なかでも、西村さん、奈良の駅研さんから、終着駅の駅名標を載せていただきました。今回紹介しようとするのも、「終着駅」てす。当時の駅名標の場合、下部には、両端の駅名が書かれていますが、終着駅の場合は、どちらか一方が白地のままで、“これ以上は行けない!”感を無言で表現しています。ここが白いだけで、なんとも感慨深さを覚えたのではないでしょうか。さらに終着駅は、その後の変転があります。延長されて、もう一方に駅名が記入されることもあるでしょうが、大部分は、廃止の運命をたどり、終着駅としての歴史を閉じたものです。
駅のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈8〉
駅名標 ①
駅の施設・表示類のなかで、必須アイテムは、やはり駅名標だと思います。考えたら、駅名標は、鉄道が創業した時から、乗客に駅名を伝える、重要な役目を負って来ました。家であれば、表札のようなもので、旅先の駅で、駅名標を見て、感慨深い思いを持って、下車したものです。いまは、JR各社、私鉄各社がさまざまなデザインで独自の駅名標を開発していますが、われわれの時代は、ホームにある駅名標は、鳥居型と呼ばれる駅名標一本でした。この鳥居型は、屋根の無い、ホーム端に置かれることが多く、つまり、列車編成の端部にも当たり、駅名標と蒸機が一体になった光景をよく見かけたものです。▲加太越えの補機の仕業を終えたD51が、ゆっくり側線に入って来た。機関士は決められた点検を終えると、手すりをつかまって下りて来た。次の戻りの補機運用まで、蒸機、機関士とも、しばしの休みに入る(昭和47年4月)。
都電も定点対比してみる 5 ~路面電車あれこれ噺 (26)
都電「新宿駅前」 今昔
つぎは「新宿駅前」へ、とは言うものの、新宿駅前に都電の姿はなく、少し歩いた靖国通り、歌舞伎町の歓迎アーチの真ん前に電停がありました。ここは2面3線の終端式で、広い道路の中央にゆったりとあり、前記の通過式の渋谷駅前とは対照的でした。ここには12系統(新宿駅前~両国駅前)、13系統(新宿駅前~水天宮前)が発着して前年までは11系統(新宿駅前~月島)も発着、さらに、西側の国鉄ガードをくぐると、青梅街道の「新宿駅前」から14系統の荻窪駅前行きも発着していて、新宿には、11、12、13、14と並びの系統番号が揃っていましたが、撮影時点で残っていた12・13系統は昭和45年3月に廃止されます。▲世界の歓楽街「歌舞伎町」の真ん前に位置した都電「新宿駅前」、国鉄新宿駅からは少し歩くが、昭和27年に開業した西武鉄道新宿駅は真ん前となった。開業当時は、新宿駅に隣接した新宿通りにあり、昭和24年の靖国通りの拡幅に合わせて、新ルートに変更された。昭和28年には角筈で発着していた路線改良中の13系統も、新宿駅前に移転し、11、12、13の3系統が発着する「新宿駅前」が完成した(以下、昭和44年9月)。▲▲「歌舞伎町」の交通標識が見える、都電「新宿駅前」の現在。