最終回、米原~田村の交直接続区間、“熱中時代”のその後を見て行きます。湖西線の開業、2回に渡る交直接続区間の変更に伴い、同区間を行き交った車両も、ずいぶん変わってきました。▲田村駅を通過する「白鳥」、初めて訪れた時、キハ80系14両編成の「白鳥」は最もまぶしい存在だった。それが、昭和47年10月の日本海縦貫線の全線電化で485系電車に変わり、昭和50年3月の湖西線経由変更で、同区間を通らなくなった。そして平成13年3月には運転を終える。電車化されてから、編成短縮、食堂車なしと、輝きを失ったものの、関西・北海道連絡の使命を持ち続けた昼行特急だった。
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
速報! ピク「京阪2600系」特集 発売
つい先ほど送られて来た鉄道ピクトリアル4月号「京阪2600系」。はて、私はこの号には写真投稿もしていなかったはず、訝りながらも、表紙から口絵、目次、本文へと ページを進めるうちに、あの写真、この記事に、見たことのある名前が ! クローバー会の面々、私のお知り合いの名前が続々と誌面に出てきます。
▲本日午後3時30分、家に籠ってデジ青を楽しんでいる時、“ドサッ”という郵便物の投函が。見ると鉄道ピクトリアル4月号「京阪2600系」が。
感動のあまり、ページをめくる手の震えが止まらないほどです。影の編集長と言われるSさんから、“やってまっせ~、ええ本になります”と以前に聞いていましたが、言うことなしの充実ぶり。デジ青でもおなじみの、あの人、この方、本文執筆者のOさん、Sさん、Fさんの三本柱の記事も必読、Nさんのカラーはいつでも素晴らしいなぁ。DRFCなしでは、京阪特集は作れないという神話(?)が出来たのは、50、60年前のこと、しかし、その威光も次第に薄れて来たと危惧を感じていましたが、そんなことはない、いまもしっかり生きています。亡き沖中さんや湯口さんが活躍されていた60年前の再来ではないですか。編集後記を読みますと、ピク編集長が新人の頃、澤村達也さんにお世話になったことも述懐されています。以前の京阪特集号にも同様のことが書かれていて、ベテラン編集長にも強く残った事柄なのでしょう。鉄道雑誌に関しては、鉄道ジャーナルの休刊など、寂しいニュースが続いていますが、久しぶりの活力を、私にも与えてくれました。関係のない私に献本していただいたSさんにも感謝です。
わが 鉄道熱中時代 ~7~
その後の交直接続区間 機関車編
米原~田村の交直接続区間の蒸機牽引は、昭和43年ごろに終わり、そのあとはDD50、DE10に代わり、“熱中時代”も終わりますが、その後も機会あるごとに同区間へ行き、その変化を確認してきました。同区間を含む北陸本線の出来事をまとめますと、昭和44年に直江津まで電化が完成、北陸本線は全線電化となります。昭和49年には湖西線が開業、大阪発着の特急などは同線経由となり、米原~田村は一挙に寂しくなりました。そして、平成3年には長浜まで直流化され、北陸本線にも新快速電車が走り、平成18年には、敦賀まで直流区間まで延伸、新快速も敦賀発着となります。
▲交流電機3形式のうち、その後も残ったのはEF70で、ED70、ED74なきあと、敦二区、富二区の81輌が田村~糸魚川で客貨を牽いて活躍した(田村付近)。
叡電“リバイバル721” 雪のなかを走る
わが 鉄道熱中時代 ~6~
交直接続区間 米原~田村で熱中する ④
米原~田村の交直接続区間の歴史を少し。昭和32年10月、田村~敦賀で初の交流電化が成り、交流専用のED70が造られて客貨の牽引を始めます。米原~田村は複線化されますが非電化のままで、E10による蒸機接続を行なっていました。昭和37年12月に、同区間が直流電化され、田村駅の南側に交直セクションが設けられました。交流電化のテスト線区としても着目され、関門用のEF30の試作機1号機や、常磐線用の試作機ED461も、この区間でテストされたり、蒸機接続の代わりとして、日本車輌で試作されたDD931も入線しています。北陸本線は、北陸トンネルの開通により福井まで電化したのが昭和37年6月、金沢へは昭和38年4月で、電機もED74、EF70が新製され、逆に余剰のD50、D51が交直接続に転出し、私が初めて訪れた昭和40年に見た光景へと続いていきます。今回は、この時代の田村以北の交流機の活躍を見ています(以下、昭和40、41年撮影)。▲初の量産形の交流電機、ED70の 1号機が牽く上り普通列車、昭和32年に1~ 18が、翌々年に改良形となる19の計19両全機が製造され、おもに客車列車を牽いた。同機は長浜鉄道スクエアで保存中。田村~長浜
わが 鉄道熱中時代 ~5~
交直接続区間 米原~田村で熱中する ③
初めて米原~田村の交直接続区間を訪れた昭和40年は、湖西線が開業するもっと前のことで、その前身たる江若鉄道がまだ元気に走っていた時代でした。京都・大阪から北陸方面への旅客・貨物は、すべて米原経由で運転されていました。名古屋方面からの列車も加わって、米原~田村はボトルネックのようになって、列車の頻度も相当なものがありました。今回は、蒸機・電機以外の電車。DCを見ました(昭和40年8月、41年2月撮影)。▲特急用の481系交直両用電車は、その前年、昭和39年12月から走り始めたばかりで、この区間では、大阪~富山の「雷鳥」、名古屋~富山の「しらさぎ」が見られた。朝に米原に着くと、まず通過するのは、下り「しらさぎ」で、ピッカピカの車体で、オリジナルのボンネットスタイルがまぶしかった。
わが 鉄道熱中時代 ~4~
交直接続区間 米原~田村で熱中する ②
客貨列車の牽引はすべて蒸機だった交直接続区間に、昭和37年に、注目の電気機関車が登場します。ED30(二代目)の新製で、この区間へ専用の交直電機の配置は初めてでした。EF55の3号機の部品を再利用して、浜松工場で製作されましたが、EF13以来の凸型で、交直両用を示す鮮やかなローズピンクの塗装と相まって、強烈な印象となりました。さらに増備も計画されていたようですが、結局1両だけに留まり、昭和43年ごろに鉄道技術研究所へ実験用として送られたと言われています(昭和40~43年撮影)。▲蒸機牽引で行なわれていた米原~田村の交直接続区間に、突如、特異な交直両用電機、ED30が出現した。凸型、交差形パンタを装備し、派手なローズピンクの塗装をまとっていた。
わが 鉄道熱中時代 ~3~
交直接続区間 米原~田村で熱中する ①
いまでは、“交直接続”という言葉も死語に近くなりましたが、北陸本線の米原~田村には、平成3年まで交直接続区間がありました。交直両用機がない時代、客車列車は、米原で直流機から蒸機に付け替えて、田村まで4.7kmを走り、あとは交流機に代わるという煩雑な付替作業が伴いましたが、その分、さまざまな車両が見られたのが、この区間の魅力で、昭和40年に初めて行って、その後何度も撮影することになります(以下、昭和40~42年撮影)。
▲米原まで来ると、ここは名古屋鉄道管理局の駅であり、ホームに吊り下げられている「のりかえ敦賀・金沢方面」の案内を見て、北陸方面に向かう高揚感を覚えたものだ。上下線ホームが分離した広大な構造で、貨車がびっしり詰まった操車場、忙しそうに行き交う入換機、国鉄の一大ジャンクションであることを強く感じたものだ。北陸本線ホームへ行くと、待望のD50の牽く列車が発車を待っていた。初めて写すD50だった。
わが鉄道熱中時代 ~2~
わが鉄道熱中時代 ~1~
「鉄道少年の時代」として、小・中学生の頃に撮った写真を本欄に載せたことがあります。昭和36年のN電の廃止から、昭和39年の東海道新幹線の開業前後までの3年間でした。その鉄道少年も、高校に入ると鉄道へ興味をさらに傾注させ、撮影回数も増えていきます。以来60年、75歳となった高齢者ですが、社会人として成すべきことは、きっちり済ませたうえで、鉄道趣味を楽しんで来たつもりです。常軌を逸する活動は厳に謹んで来たはずですが、今から思うと、よくぞこれだけ撮っていたと思うケースもあります。鉄道趣味への熱量が、今とは違っていたと改めて感じ、そんな“熱中時代”を綴っていくことにしました。昭和39年10月の東海道新幹線の開業後に、山科の大カーブを行き交った記録を、熱中時代の第一号としました。
新幹線開業後の山科大カーブで熱中する ①
昭和39年10月、東海道新幹線が開業し、一夜にして、東海道の旅客輸送は、東海道線から東海道新幹線に移行します。ただ、それは昼間の電車特急「こだま」「つばめ」などから、新幹線「ひかり」「こだま」への移行だけで、国有鉄道として均質で平等なサービスが求められていた時代、昼間の特急列車は全廃されたものの、補完する昼間の急行・準急、夜行の特急、急行、準急はすべて据え置かれました。▲東海道新幹線の開業により、東海道を走る電車特急はたしかに消えたが、山科ではまだ特急を見ることができた。それが、北陸本線へ向かう「白鳥」、「雷鳥」だった。「白鳥」は、上野行き、青森行きの2編成併結で、82系14両という長編成で山科の大カーブを爆音を響かせて通過して行く。両数だけで見れば、特急「こだま」「つばめ」より長く、特急列車の洋々さを感じたものだった。
今年も “雪が降ったら叡電へ”
昨10日は、全国的に冬型が強くなり、大雪の予報。前日に天気予報を見て、カメラのホコリを払い、バッテリーの残量をチェックします。75歳になっても、このルーティーンは昔から変わりません。ところが、当日、いつもより一時間以上早起きして、外を確かめると、雪空ながらも、全く降雪なし。諦めていた頃になって、急に雪が舞い始めました。あわてて近くのバス停へ急ぎました。
▲行き先は叡電の八瀬比叡山口しかない。なにせ街の中央から、乗車時間20分で、ひなびた終着駅に到達できる。東京や大阪では真似のできない、街の規模の小さな京都の魅力と納得しながら、バスを降りて、徒歩3分で叡電八瀬比叡山口に到着した。ただ期待したほどの積雪はなく、空も晴れて来て、見る見るうちに溶け始めていた。
“頭出し”のあとは 丹波口駅へ
50年前の昭和49年1月、梅小路蒸気機関車館で“頭出し”を撮ったあと、近くの丹波口駅へ寄ってみました。いまの高架化された丹波口駅は、五条通の南にありますが、地上線時代の当時は、七条通の少し北へ行ったところに所在していました。山陰線に蒸機が走っていた時代の昭和46年までは、丹波口でも撮影しましたが、京都発の下り列車を狙うため、駅の北側や陸橋で写していて、まともに駅舎を撮ったことはありませんでした。 ▲京都鉄道博物館の展示室にも丹波口の駅名標が展示されていた。
▲都会のエアーポケットのような山陰本線の丹波口駅。昭和47年までなら、市電大宮線「島原口」下車、まっすぐ西へ行くと、突き当りに丹波口駅があった。明治30年、山陰線の前身、京都鉄道の駅として開業した。昭和51年に、高架化と同時に北へ500m移転した。
梅小路 50年前の“頭出し”
梅小路蒸気機関車館の“頭出し”、ネガを見返すと、同館が開館された直後の正月にも“頭出し”があり、見に行っていました。昭和49年1月、今から51年前のことで、3月には市電烏丸線の廃止が予定されていて、京都駅前で撮影してから同館へ行きました。その昭和49年の様子を見て行きます。ご承知のように、梅小路蒸気機関車館は、昭和47年10月、鉄道開業百周年の記念事業として、国鉄梅小路機関区の扇形庫に開館しました。静態・動態保存の蒸機17両が全国から集められ、少し前に撮影地で出会った懐かしい蒸機、撮影が叶わなかった憧れの蒸機が京都で見られるとあって、テンションも沸騰でした。▲日章旗と注連縄で正月を祝った、梅小路蒸気機関車館の蒸機たち。開館してまだ一年余り、現役時代を感じさせる、煙を吐いた生きた姿で並べられた。
梅小路の“頭出し”に行って来ました
新しい年が明けてから、もう一週間が経ちました。遅くなりましたが、デジ青読者の皆さま、本年もよろしくお願いいたします。昨年、いろいろなところで “デジ青、見てまっせ”の声を直接頂戴し、多くの読者がおられること、改めて知りました。われわれ高齢者にとっては、発信することが大事。書いて、話して、投稿して、発表することに、社会との繋がりを感じますし、元気にやっていることの生存証明にもつながります。気負うことはありませんが、日々、“デジ青”に向き合っていきます。と言っても、“デジ青”は、クローバー会全員で育てて行く媒体、みんなで活発な投稿・コメントを続けたいものです。
さて、年末年始は、ある定期刊行物の編集に追われ、全くどこへも出ず、家にこもって悶々とパソコンに向かっていました。ようやく送稿を済ませて、やっと時間ができました。まずは、デジ青ネタ探しとばかり、今日は梅小路蒸気機関車館へ行ってきました。同館では、年始には、恒例の“頭出し”が行なわれており、この日が最終日、天気も良く、勇躍、出かけたのでした。▲通常は扇形庫に入っている蒸機を、DLが一両ずつ数メートル引き出して、“頭出し”を行った。日章旗が交差され、頭だけではあるが、白日のもとに出た蒸機は活き活きして見える。
青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から③
続いて烏丸線の写真展、あれこれ噺を、年内ギリギリまで載せていくことにします。
50年前の写真展会場
「烏丸三条」電停の真ん前という、烏丸線ゆかりの会場で写真展ができたことは何よりの幸運でした。加えて、50年前の現地の様子を皆さんから寄せていただき、展示に花を添えることができました。この地の歴史をたどると、明治30年に京都で初めての電話交換局ができたことに始まります。大正15年には新しい京都中央電話局が竣工、その建物は背後の古風な建築で、いまは複合商業施設の新風館となり、手前のビルは新館として建てられ、50年前は、電電公社三条営業所となっていました。▲最初に見つけたのは、顧問の故・大西友三郎さんのネガから。「電電三条営業所」「烏丸三条」と文字情報も言うことなし。市電、クルマもいい位置に入っている。最初にNTTへ申し込みに行った際に、同志社出身の担当者に見せると、入社前の姿に驚いていて、すっかりフレンドリーな関係になった。
青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から②
年も押し詰まりましたが、烏丸線の先を急ぎます。二つ目の「丸物」、京都駅前にあった百貨店だけに、来場者の皆さんからも、「ありましたなぁ」の声が聞こえてきたのでした。▲昭和27年ごろに撮られたTさん撮影の写真にも、中央に丸物があった。もともとは土産物を販売する京都物産館として誕生した。写真の建物は大正15年に完成し、次第に百貨店としての業態を整えて行った。マークが、“物”をマルで囲んだもので、“マルブツ”が通称名、のちに商号となった。ポールの200形が旧の系統板を付けて、ボンネットの市バスと並走する。 続きを読む
青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から①
京都市電烏丸線の写真展、多くの皆さんに来場いただき、いろいろな話をお伺いしました。まだその余韻に浸っています。なかには、初対面の方から“デジ青、見てまっせ”の声もあり、本欄が多くの皆さんに支えられていること、改めて感じています。
さて、写真展会場では“珍しい写真、見せてもらいました”の声をもらうのも、ひそかな楽しみでした。その一例が、表題の「青い電車」「丸物」でした。見学者の中心である中高年にとっては、小さい頃に、見たような、見たことがないような、かすかな記憶が、写真によって蘇ったことでしょう。なかでも、“色”や“文字”と言った、視覚にしっかり訴える要素は、より強烈なものだと感じました。
青い電車
▲ “こんな色、走ってましたんか!” あえて入場口の柱の目立つところに掲げただけに、皆さんから声を掛けられた。「見たことある」より「見たことない」が多かったようだ。京都市電2000形2600形は、昭和39年にデビューして、烏丸線などを走り始めた。ラッシュ時は連結市電ツーマン、閑散時は単行ワンマンカーとして使用するため、その識別、とくに初のワンマンカーとして、事前の料金の用意を促すため、スカイブルーに塗られた。 続きを読む