わが 鉄道熱中時代 ~4~

交直接続区間 米原~田村で熱中する ② 

客貨列車の牽引はすべて蒸機だった交直接続区間に、昭和37年に、注目の電気機関車が登場します。ED30(二代目)の新製で、この区間へ専用の交直電機の配置は初めてでした。EF55の3号機の部品を再利用して、浜松工場で製作されましたが、EF13以来の凸型で、交直両用を示す鮮やかなローズピンクの塗装と相まって、強烈な印象となりました。さらに増備も計画されていたようですが、結局1両だけに留まり、昭和43年ごろに鉄道技術研究所へ実験用として送られたと言われています(昭和40~43年撮影)。蒸機牽引で行なわれていた米原~田村の交直接続区間に、突如、特異な交直両用電機、ED30が出現した。凸型、交差形パンタを装備し、派手なローズピンクの塗装をまとっていた。

交流電機が待機する田村を出発したED30、狭い屋根を活用するため、この時代としてはたいへん珍しい下枠交差型パンタのPS20を装備していた。大阪発新津行き523レを牽くED301 交直接続での活躍は6年と短命に終わった。

ED30は客車列車に優先的に運用されたが、その合間に長い貨物列車を牽くこともあった。

 

 

 

D50・D51に代わって、接続区間の中心となったのがDD50、DE10で、いずれも昭和43年に入線し、ようやく米原~田村の無煙化を達成した。DD50は、その前、富山機関区にあって、倶利伽羅峠などでも活躍したが、E10と同じ運命で米原へ転じた。

DD50は、片運転台を2両ユニットにした運転で、DD501~6が3組で使われ、独特の風貌が米原でも見られるようになった。バックは、米原駅の長い長い跨線橋、上下ホームが離れた、抱き込み式の構造のため、乗り換えはたいへんだった。

DD50の活躍期間は長くなく、その後に新製されたDE10に代わられることになる。写真は、寝台特急「日本海」の運転初日、20系客車を牽いて現れたのはDE10だった。試運転時にはD50も牽いたことが記録として残されている。

 わが 鉄道熱中時代 ~4~」への23件のフィードバック

  1. D50とED30を見ることは叶いませんでしたが、DLには何とか間に合った世代です。とはいうものの写しに行ったのはわずかに一度だけ、たいした写真は残せませんでした。
    田村駅の跨線橋で待っていると、EF70に引かれた荷物列車が到着し、待機していたDE10に付け替えて米原へと発車してゆきました。遠くにDD50が見えます。昭和50年2月3日の撮影で、もうすぐ50年になろうとしています。

    • 紫の1863様
      昭和50年の田村の様子、ありがとうございます。たしかに、私の感覚では、DE10のいる田村は、後年のこととなりますが、それでも、今年で丸50年なんですね。DE10は真新しく見えること、郵便車を2両も連結していることも、その時代を感じます。

  2. 同じ日に撮影したDD50です。総本家様が撮影された1~4とはスタイルが異なり、幾分スマートな印象の5号機です。

  3. 総本家青信号特派員さま
    DD50に替わった頃だったと思いますが、田村へ行ったことがありました。プルプルさんとあと何人かだったと記憶します。恐らくN村さんの車で出かけたのだと思います。小生は余り関心がなかったものの、交直接続には興味があったので付いて行ったようです。DD50の記憶は殆ど無いものの、眼にした際にこれが噂のDD50かと思ったのを憶えています。1時間前後居たと思いますが、その間ひっきりなしにEF70やDD50などが入換に忙しく構内をウロついていたのを楽しく見ていました。列車の動きがない間はプルプルさんがウイスキーを取り出して、線路端の田んぼに積もった雪をキャップに載せて「オンザスノー」だとご満悦の様子で飲んでいましたね。
    田村の後は近江鉄道に沿って彦根~高宮~多賀大社と回ったように思います。ここで思い出しました。定かではありませんがI伏さんもおられたと思いますがどうでしたでしょうか。その後の行動は記憶に残っておりません。この地域は東は名鉄谷汲線、西濃鉄道、関ケ原から、西は草津線、信楽線辺りまで、プルプルさんと何度か訪ねていましたから、記憶が混ざっているかもしれません。

    • 1900生様
      INUBUSEです。
      残念ながら当日は参加できていません。
      米原は懐かしい場所でD50やED30の時代(1963年7月)に行っています。当時をしのんで本棚にED30を飾っています。

    • 1900生さま
      みんなで田村、近江鉄道へ行った証拠写真が出てきました! クルマではなく、鉄道移動でした。写真を見ますと田村でDD50やED70を撮り、近江鉄道では車庫でED14を撮り、多賀へ行って、貨物を撮りました。写真はその時のものです。ぷるぷるさんも写っていますし、当日は参加できていないと言われていましたInubuseさんも写っていますょ。

  4. 総本家青信号特派員様
    交流による電化が本格的に開始され、直流電化区間との間で「交直切替」が必要になりました。初期の頃の切替方式の歴史を振り返ってみました。
    一番最初が1957年(昭和32年)に近江塩津経由の新線経由への切替に伴い「田村-敦賀」間が交流電化された北陸本線でしたが、この時点では「米原-田村」間は非電化のまま残され、蒸気機関車が継走することになりました。
    次が1959年(昭和34年)に「宝積寺-黒磯」間が直流電化、「黒磯-白河」間が交流電化された東北本線ですが、この時は黒磯駅構内に「地上切替施設」が設けられ、機関車が牽引する列車は全てここで機関車の付け替えを行っていました。この状態は2018年(平成30年)に黒磯駅構内が完全直流化され、「黒磯-高久」間にデッドセクションを設け、「地上切替」から「車上切替」に変更されるまで続きました。
    三番目が1961年(昭和36年)6月1日に「取手-勝田」間と「門司港-久留米」間が同時に交流電化された常磐線と鹿児島本線でした。この時は大都市近郊区間でもあるため「車上切替」となり、「取手-藤代」間と門司駅構内にデッドセクションが設けられ、電気機関車も交直両用のEF80とEF30が開発され、電車も401系・421系が登場しました。
    その後、北陸本線は電車列車の直通運転を実施するため、1962年(昭和37年)に「米原-田村」間が直流電化され田村駅の米原寄りにデッドセクションが設けられました。デッドセクションも1991年(平成3年)に「長浜-虎姫」間に移設され、2006年(平成18年)には北陸トンネル敦賀口付近に変更されたので、北陸新幹線敦賀延伸後はJR西日本の北陸本線は全て直流電化区間となりました。

    1966年8月25日の田村です。

    • 快速つくばね様
      ほかの区間も含めて、交直接続の変遷をお聞かせいただき、ありがとうございます。改めて知りましたが、いまの「北陸本線」は全線が直流電化なのですね。かつて、交流電化の牙城のように言われた北陸本線、いまの変転ぶりには、言葉もありません。

    • 米手様
      さすがにアングルが秀逸です。ED30の特徴である、パンタや屋根の形状がよく分かります。パンタの直下には屋根がなく、空洞になっているのですね。初めて知りました。

    • これも凄い。E10は撮っていません。左は暖房車のようです。マヌ34が2両、米原に配置されていたそうです。交直接続区間の専用でしたが、最初の交流機、ED70には当初電気暖房がなく、田村以北も暖房車を連結したそうです。

  5. 1964(昭和39)年5月10日 国鉄柳ケ瀬線の最終日に、中学3年生としては初めて敦賀まで遠征しました。その時米原で乗り換える際に初めてD50とED30に会いました。買ってもらったばかりのハーフカメラPen-Dにサクラリバーサルを仕込んで柳ケ瀬線の最後を見届けてからもう60年が経過しました。米原駅では新幹線の建設工事中でした。

    • 西村様
      中学生で敦賀まで行かれたとは、凄い。私は山科、山崎まででした。D50+ED30の色調もよく分かりました。真っ黒にローズピンクの組み合わせは衝撃的です。背後の長い長い跨線橋も米原の特徴でした。真ん中に現業部門や留置線のある抱き込み式の駅構造のため、上下ホームが離れていました。乗り換えの時は、たいへんでした。

  6. 総本家青信号特派員さま
    おぉ~有難うございます。懐かしい面々の写真を拝見できて嬉しいですね。青春の一コマでした。てっきり車でせいぜい数人と思っていましたが、なんと団体?さんではないですか。総本家様を忘れておりました。ゴメンなさいです。電車で行っていたとは。ED14も記憶があります。多賀で電車の説明を受けたのでI伏さんも参加されていたと思い込んでいましたが間違っていなかったですね。横に大家F本さんも居られますね。同氏から聞いたのかもしれません。多賀への移動の途中に鳥居本駅に寄りましたね。三角屋根の瀟洒な駅舎に驚きました。多賀からの帰路の記憶がありません。近江鉄道で貴生川~草津線だったかもしれませんね。貴重な写真を有難うございました。

  7. 懐かしい写真をありがとうございます。
    青春時代の若々しい皆様にお会い出来てうれしく拝見しています。
    近江鉄道の記憶は有るのですが 田村は覚えていませんでした。申し訳ありません。また皆様にお会いできるのを楽しみにしています。

    • INUBUSEさま
      1900生さま
      ホント懐かしいです。昭和44年3月ですから、56年前になります。私もすっかり忘れていましたが、一枚の記念写真から、当時が蘇りました。INUBUSEさんは田村のことが記憶がないとのこと、途中から合流されたのかも知れません。

  8. 昨日 長崎で偶然にN村さんにお会いしました。蛍茶屋で電車を撮影しているとトコトコと見たような姿が近寄ってきました。つい「ここはどこ」と言ってしまい「広島ではないのに」とびっくりしました。
    その後 田村の話題になり 帰って写真を確認しようということになりました。
    本日確認するとS44年2月9日に確かに行っています。写真を添付します。
    DD50 EF70などを写していて その後近江鉄道に移動したようです。
    懐かしい青春の一コマです。

  9. INUBUSE様 こちらこそ驚きました。長崎の冬の名物、旧正月を祝う「ランタンフェスティバル」に合わせて久しぶりに長崎を訪ね、観光の合間に長崎電軌を撮っていました。蛍茶屋で撮っていると、まるで待ち合わせていたかのような絶妙のタイミングでご対面となりました。奇遇としか言いようがありません。さて、田村の件ですが、昭和44年2月9日、車両班主催の近江鉄道見学会でした。まずは田村まで行き、田村で撮影後、彦根に戻って車庫見学。そのあと多賀線でセメント列車などを撮っています。ED143の前での記念写真を添付しておきます。みんな若いですね!もうすぐ あれから56年になります。

    • 西村雅幸さま
      INUBUSEさま
      懐かしすぎて声も出ません。ED14も見ていましたか。忘れていましたが当時小型凸型電機に興味を持ち始めていたので、ED14を見られたのが嬉しかったことを想いだしました。
      私は黒っぽいコートを着ていますね。青信号印刷時に印刷用の謄写インクが付いて大慌てしたあのコートだったのでしょう。
      私も撮影地でのニアミスはままありましたが、こうバッタリというのは一度きりで、嬉しい奇遇ですね。四谷署の前でなくてよかったです。

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