京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [8]

(2)北丹鉄道 初めての乗車

北丹の沿革については、前回のとおりですが、輸送実績について述べると、昭和40年代前半の年間旅客輸送人員は約23万人、全国には、貨物専業に近い私鉄もあり、それよりも低い数値もありますが、隣り合う加悦鉄道は約40万人で半分程度、兵庫県の別府鉄道25万人よりさらに少ない数字でした。それでも一日平均にすると約630人で、今から見ると、破格の数字に見えますが、昭和40年代では、全国でも最小部類の私鉄でした。車両はあとで、詳述するとして、末期に日常的に使われていたのは、国鉄キハ04のキハ100が2両、付随車のハニ11と3両のみ、あとはDL、客車、貨車は合ったものの、営業に使われることはありませんでした。

北丹鉄道路線図(RM LIBRARY「北丹鉄道」より転載)

草茫々の線路を行くキハ101、晩年は枕木が朽ち、犬釘が抜け、レールが浮くこともあった。線路際の草が車体に触れ、側面の塗装が剥げるほどだった。ローカル私鉄の素朴さと、晩年の苦しさが同居していた。

昭和45年9月、この時は、Tさんのクルマに乗せてもらい、何人かで、北丹の本格的な撮影となった。この頃になると北丹廃止の噂が流れ始めた。決定的だったのは、収入の3割程度を占めていた河守鉱山が閉山されたこと、また、国鉄が宮津と河守を結ぶ宮守線の計画が浮上した時期とも重なり、国鉄へは宮津~福知山のの新線建設を持ちかけて、買収の思惑もあったようだ。▲▲北丹は、福知山西を過ぎると、由良川に沿って走るようになる。レールは草に覆われているので、よく見ないと列車がどこから来るか分からない。ゆったりと過ぎて行くと、後部には、国鉄からのワム車が連結されていた。

楽に北丹を追い越して、途中、クルマを置いて、蓼原から初めて北丹に乗車することにした。ワム車を連結したキハ101が到着。乗車したキハ101の運転室は半室で、右手の座席は特等席、窓を開けると、由良川からの川風が入って来る。数分の乗車を終えて終点の河守に16:20に到着した。後には、いつも車庫にいるはずのハニ11が留置されていた。

折り返し河守16:27発の列車は、クルマで追い越して、定番となった下川~福知山西の荒河鉄橋で待ち受けて撮影、本日の締めくくりとした。

 

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