京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [1]

廃止直前の加悦鉄道 カラー版  昭和60(1985)年1月4日

京都府の北部に、昭和の時代、ちょっと浮世離れした二つのローカル私鉄が走っていました。北丹鉄道と加悦鉄道であることは、高齢世代なら先刻知っているでしょぅが、廃止・休止されたのは昭和46年と昭和60年とあっては、若い世代には理解できないかもしれません。両鉄道とも、DRFC現役時代、貸切列車を走らせたり、合宿で行くなど、ずいぶんお世話になりましたが、地元のため、いつでも発表できる思いがあったのか今まで満足な発表もできていませんでした。ちょうど、加悦鉄道の廃止を控えて、最後の訪問をしたのが、40年前の正月明けの今頃の季節、積雪があって、空は日本海側独特の鉛色に覆われていました。国鉄宮津線の丹後山田駅(現・京都丹後鉄道野田川)のホームで発車を待つ、加悦行きのキハ08 3、昭和60年3月を目途に鉄道廃止の方針が発表されていた。従来、13往復の列車が運転されていたが、ほとんどがバス代行になっていて、列車は午前3往復、午後1往復しかなかった。

加悦鉄道が旅客営業を行なっていたのは、丹後山田~加悦の5.7km、使われていた車両は、国鉄オハ62客車を気動車化改造したキハ08 3であり、昭和49年に加悦へ導入、もっぱら単行で使われていた。列車は丹後山田を出るとすぐ南へカーブ、あとはほぼ一直線で、かつて丹後ちりめんの産地として賑わった街並みと並行しながら、加悦へと至っていた。三河内~三河内口終点の加悦駅構内、左からキハ10 18、キハ51、 DB20 1、キハ08 3が並ぶ。奥には古典蒸機や二軸客車が残り、廃止後、大挙して山に上がって、SL広場に保存されることになる。列車代行は、加悦鉄道バスによって行われていた。丹後山田から加悦駅前を通り大江山登山口まで結んでいた。社紋を正面に掲げた富士重ボデーのバスは、なかなか粋な塗装だった。

 

 京都のローカル私鉄 昭和の時代をしのぶ [1]」への2件のフィードバック

  1. 加悦鉄道がなくなって、もうすぐ41年ですか。月日が経つのは早いものです。正月にもかかわらず出かけるのは、鉄道好きの悲しいサガでしょうか。おまけに雪まで積もっていますよ。今の私にはとても真似できません。
    さて、総本家様が加悦鉄道を訪問されたのは、ホントに最後だったのでしょうか。実はわたくし、廃止が目前に迫った4月29日(昭和の時代は天皇誕生日で休日)に行きました。この頃は鉄道趣味から遠ざかっていて、なぜ行ったのか今でもわかりません。当然運行状況など知るはずもなく、行けば何とかなるだろうと気楽な気持ちで、山陰本線の始発に乗りました。午前3往復、午後1往復とは驚きです。知りませんでした。
    綾部だったか西舞鶴だったか忘れましたが、ホームでそばを食べていると背後から突然声をかけられ、振り向くと高校鉄研の中でバス好きの友人がいました。彼の言うままにバスに乗り、一緒に撮影したのを覚えています。
    丹後四辻でバスを降り、丹後山田行きを待ちます。駅舎は開業から3か月も経たない昭和2年の北丹後大震災で焼失し、2代目の駅舎が廃線まで使われていました。蒸機時代の給水塔も残っていて、以前は交換設備もあったようです。地元の方でしょう、名残りの乗車をする人や、記念写真を撮る親子連れも見かけました。
    添付の画像は昭和60年4月29日、丹後四辻駅で撮った丹後山田行きのキハ08 3+キハ10 18です。

  2. 加悦鉄道の代行バス、私も撮っていました。バス好きの友人の手前もあって、しぶしぶシャッターを切ったようで、こんなもんで失礼します。前中扉のワンマンカーで、シャーシは日産ディーゼルです。

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