先月、本件列車をモデルとした鉄道模型が販売された。私自身はDE10形式への形式改善前までの数年間の付き合いであったが、懐かしくなり少しまとめてみた。▲DF50 18+DF50 44+ホキ5200×18B、1983/04/03 入14便、多ノ郷~取卸場
【斗賀野~多ノ郷間石灰専用列車について】
模型化された斗賀野~多ノ郷間石灰専用列車は、高知県高岡郡佐川町にある大平山鉱山(積込場)から高知県須崎市にある大阪セメント㈱高知工場(取卸場)までの約13kmの区間(途中の土讃本線斗賀野駅から多ノ郷駅までの間は国鉄線を利用)を、高知機関区のDF50が重連でホキ5200(土佐石灰工業㈱所有の私有貨車)×18Bをけん引し、石灰石を輸送していた列車である。 ▲石灰専用列車運行区間
▲①DF50 56+DF50 44+ホキ5200×18B、1983/03/06 入14便、積込場~斗賀野 (DF50 56号1E運転席後方の山腹に坑口がある。)
▲②DF50 48+DF50 28+ホキ5200×18B、1981/07/30 入14便、積込場~斗賀野 (場内及び通過信号機は、本線用である。)
▲③DF50 44+DF50 28+ホキ5200×18B、1983/03/09 5793レ、斗賀野~吾桑 (上り22.7‰勾配を20km/h弱の速度で斗賀野トンネルに向け登ってくる。)
▲④DF50 46(?)+DF50 18+ホキ5200×18B、1980/03/06 5796レ、斗賀野~吾桑 (上り25.0‰勾配も空車なので、軽やかにみえる。)
▲⑤DF50 44+DF50 18+ホキ5200×18B、1983/04/03 5795レ、吾桑~多ノ郷 (あと10日。高松運転所へ転出するカマとそうでないカマ、些か残酷である。)
▲⑥DF50 28+DF50 48+ホキ5200×18B、1981/03/20 5794レ、吾桑~多ノ郷 (このあたりまでは平坦なので、換算25両は朝飯前。)
▲⑦DF50 517+DF50 ?+ホキ5200×18B、1978/03/31 5794レ?、多ノ郷駅 (拙い写真ですが、MANの写真がなかったので。)
▲⑧DF50 56+DF50 48+ホキ5200×18B、1983/02/25 入14便、多ノ郷~取卸場 (石灰石を下ろし大平山鉱山へ戻る。空車ではあるが私有貨車なので甲種輸送である。)
【石灰石輸送略史】
石灰石輸送は、戦時中に始まったようである。戦後一時期、石灰石輸送を中断していた時期があったようではあるが、1959年にはDF50+ホキ9B、1961年にはDF50重連+ホキ18Bによる輸送形態へと変遷しているようである。DF50けん引以前は、C58がけん引していたようであるが、詳細は不明である。
▼石灰石輸送略史
多ノ郷駅周辺の国土地理院地図(1961~1969年の航空写真)を見ると、1961(昭和36)年12月の大阪窯業セメント㈱高知工場開設以降については下図上の③線であることは確実なのだが、他に廃線跡のようなものも見られ、①→②→③のような変遷があったのではないかと推察される。また、同社高知工場の開設以前については、石灰石は船に載せ替えられたのではないかと考えているのだが、船の航行に支障となりそうな③線の西側にある道路橋(「大峰橋(ダイボウハシ)」)は1966年度の架設で、問題はなかった。▲多ノ郷駅専用線(石灰線)の変遷(国土地理院地図を加工して作成)
【石灰石輸送量】
石灰石の輸送量は、1962年度以降約120万t/年で推移している。石灰列車は30t/両、18両編成なので540t/列車、8列車/日の設定なので、1年のうち約280日稼働していたことになる。2024年度のJR貨物の輸送量がセメントと合わせて140万tであることからも、この輸送量の凄さがご理解いただけるのではないかと思う。
また多ノ郷駅と斗賀野駅は、見た目からはわからないが全国でも有数の貨物取扱駅であった。積込場や取卸場が駅構内ではないので当然ではあるのだが、斗賀野駅は上下2線、石灰列車の着発線が1線、予備のホキを留置するための側線が1線の計4線しかなく、多ノ郷駅に至っては分岐する専用線がなければ、ただの棒線駅であった(現在は、交換可能駅となっている)。
1982年には大平山鉱山の掘出口変更工事のため約1ヶ月石灰列車が運休となった他、1983年には石灰列車のけん引機がDF50形式からDE10形式となり、定数が現車15両と3両減車されたこともあり、徐々に輸送量は減少し、1992年9月30日をもって石灰石輸送を終了した。
ちなみに、1987年に国鉄は民営化され貨物輸送事業はJR貨物が継承したが、石灰列車についてはJR四国がJR貨物から受託する形で、動力車も同乗務員もJR四国で継続された。
【ホキ5200(二代、旧ホキ1800)】
ホキ5200は、私有貨車としては初の無蓋ホッパ車で、1958(昭和33)年に10両、1961(昭和36)年9月に10両の計20両が㈱日立製作所で製造された。所有者は、大平山鉱山を運営する土佐石灰工業㈱で、常備駅は斗賀野駅であった。
㈱日立製作所がタマンガン鉱山(マレーシア・クランタン州)向けに鋼管鉱業㈱(現JFEミネラル㈱)から受注・製造した鉱石運搬車をベースに、底扉の自動開閉機構を備え、鉱山鉄道ほど線路が脆弱ではなかったとみえ車長を切り詰め、石灰石を溢さないよう高さを若干高くしたような貨車で、自重は14.7〇t(「無蓋ホッパ車のすべて(下)」(2012年4月1日、㈱ネコ・パブリッシング)掲載のホキ1804の写真による、〇は判読不明)となっている。私が見ていた頃は自重は15.8t(操作室無し)~16.0t(操作室有り)であり、約1t増の原因はわからないが5t/mを超過し、結果論ではあるが切り詰めすぎたようである。また、空車換算が1.4のままである点も、釈然としないものはある。
操作室は底扉の開閉操作を行う機器室であり、ホキ5205とホキ5206の2両にのみ取り付けられていた。なお、車掌室ではないので「フ」は付かない。また石灰専用列車には緩急車が連結されないが、次位機関車に添乗されていた方は列車掛だったと思っていたが、操車掛だったかもしれない。▲DF50 28+DF50 48+ホキ5200×18B、1981/07/30 5794レ、斗賀野駅4番線
【DF50】
四国のDF50は他地区と比べて特徴的なことが多いが、本件石灰専用列車の運行に関連するものとしてはツリアイ管が挙げられる。ツリアイ管は、本務機の単独ブレーキ弁での操作を重連次位機にも反映させるものである。重連可の電気機関車ではあたりまえの機能であったが、ディーゼル機関車ではDD50や一部のDD13、DD14のみであった。DD51は1968年2月製造の593号より取り付けられるようになったが、DF50は多度津工場のみで1968(昭和43)年度より一部のDF50に取り付けられた(下表参照)。
▼DF50ツリアイ管取付改造車一覧
多度津工場でのDF50のツリアイ管取付改造は、本件石灰専用列車の安全性向上を目指したものと考えられるが、高知機関区配属のDF50全機に一斉に改造された訳でもなく、1968年度以前は未改造で問題なく運行されていたこと、改造車と未改造車の重連となることもあることなどを考えると、本件石灰専用列車として必須の機能ではなさそうである。しかし、ツリアイ管を使用したのはこの石灰専用列車の重連仕業に含まれる列車のみであり、それ以外の列車では、たとえツリアイ管取付改造車同士であってもツリアイ管が接続されることはなかった。
四国総局の「運転取扱基準規程」(昭和40年6月、四支達第29号)には、次のような条文があり、この制定過程と何らかの関連があるのではないかと思っているのだが、定かではない。
ちなみに、高知~須崎間のDF50の最高速度は50km/hである(同規程第79条)。
斗賀野~吾桑間の下り列車では、斗賀野トンネルの多度津方坑口から吾桑駅までの約4kmにわたり25‰の下り勾配となり、石灰専用列車も抑速しながら降りて行くこととなる。制動力を簡便に計算してみると、天候による制輪子の摩擦係数次第のところもあるが、ツリアイ管取付改造車同士の重連の場合、単独ブレーキのみで抑速可能となることがわかる。また、斗賀野~吾桑間の高低差からくる上下列車の最短所要時間の違和感は、上り列車が空車のため軽量であることもさることながら、この条文によるところが大きい。
▼石灰専用列車の25‰下り勾配上35km/hでの制動力比較
ツリアイ管についてはまだ不思議なこともある。一つは2号である。ツリアイ管取付改造を施工したにも関わらず、1969(昭和44)年12月に亀山機関区へ転出している。ツリアイ管を繋ぐ相手もいないのに、である。
もう一つは、2019年10月10日に総本家青信号特派員先輩の投稿された「天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【18】 秋編」の最初の写真である。高松運転所の537号が米子機関区へ貸し出され、山陰本線の客車列車を悠々とけん引している。昭和46年とのことである。この当時の米子区のDF50の走行範囲では、他形式を含めツリアイ管を取付けた車が配属されていないところがほとんどで、この537号のブレーキ装置の前後切換は難儀されたことであろう。1E側は本来締切コックのところが、2E側と同じ切換コックになっているためである。
2件とも何故ツリアイ管取付改造車を、と思っただけのことではあるが、天局や米局の関係者を思えば、面倒臭かったのではないだろうか。1977(昭和52)年頃には28号が亀山機関区へ貸し出されているが、この頃にはDD51のツリアイ管取付車も配属されており問題なかったものと思う。1971(昭和46)年度と1972(昭和47)年度の多度津工場での本改造施工両数が0であることも、他局への貸し出しも考慮して未改造車を残しておこうという配慮があったのかもしれない。ただ、これらの年度は前面強化工事や45号の繁藤事故もあり、それどころではなかった、だけのことかもしれない。いずれにしても、中のひとにしかわかならないことである。
ツリアイ管取付未改造車と同改造車の場合の締切コック及び切換コックの取扱方は、下表のとおりである。
▼締切コックと切換コックの取扱方(ツリアイ管取付未改造車)
▼切換コックの取扱方(ツリアイ管取付改造車)
上表のように、単機であればさほどのことではないのだが、重連等の場合には些か複雑である。本件石灰専用列車の場合、下表のように取り扱われたことと思われる。
▼締切コック及び切換コックの取扱方
【DE10への置換】
1983(昭和58)年4月13日、DE10形式への形式改善が実施された。機関車重量が軽くなり、空転や制動力が若干心配されたが、石灰専用列車は3B減車されたこともあり、以降1992年9月の石灰石輸送終了まで問題なく運行された(事故はあったようだが)。なお、1985(昭和60)年3月14日改正の機関車運用表を見ると、斗賀野~多ノ郷間の所要時間は、下りが17分から約16分(H7→G2)、上りが16分15秒から約14分(F7→E8)と若干早くなっている。▲DE10けん引781レとDF50けん引780レ、1983/04/13、伊野駅
(改めて見ると、少し気になる写真である。781レ次々位は斗賀野行きの検査上がりのホキ5200であるが、その後位のワム車との解放作業のため斗賀野駅2番線では機関車はホームにかかった付近で停車する。かなり手前で停車していることになり、とても奇妙な光景である。写真では見たことはあるのだが、実見しておきたかった。
もうひとつは、DF50 43号に連結されている大物車(シキ550形?)である。伊野駅は前年11月15日改正で貨物運輸営業は廃止しており連結特認で連結しているが、詳細は不明である。)
四方誠様
難しいことは分かりませんが、昭和40年代に四国を旅行していた時に今回のテーマの「斗賀野~多ノ郷間石灰専用列車」をよく見ていましたので遅ればせながらコメントいたします。
四国旅行で高知方面への車中泊をする列車としてDF50の牽く221列車を常宿にしていました。1966年7月の時刻表では高松発0:03、高知着4:37・高知発4:47、須崎着6:06で運転されていました。この列車を高知で下車して行動するには時間が早すぎたので、終着駅の須崎まで乗車し、須崎から下り方向の列車に乗り継ぎ当時の最西端駅の土佐佐賀まで進むか、折返して高知方面に戻るかの行程をとっていました。佐川を過ぎてもうすぐ下車をしなければと用意している時にどこかの駅でこの列車を見かけることがありました。掲載されています機関車運用ダイヤによれば5791列車か5792列車が該当するようです。
当時は情報も少なく、編成から何かの鉱石を鉱山から工場へ運搬していることは想像できましたが、石灰石だと分からず「四国カルスト」の東端部分を削り取って運んでいたわけですね。今回終日運行されていたことも初めて知りました。
後年、221列車は気動車化されて721Dに変更され、夜行では珍しくキハ20を中心とした編成になりましたが、時にはキロハ25が格下げされたキハ26 300番台車やキロ25が格下げされたキハ26 400番台車が連結されたので選択して乗車しました。
1967年12月2日の須崎駅です。
快速つくばね様、
コメント頂戴し、ありがとうございます。
221レは須崎行きでしたか。昭和50年代の列車番号は、高知までが200台、高知を跨ぐもしくは高知以西のみの列車は700台、また客車列車は20台、気動車列車が30台以降となっていましたので、これまでの快速つくばね様のコメントに出てくる221レは高知行きだと勘違いしておりました。
私が愛用していた731Dは、高知は4:37発須崎5:39着でしたから、50km/h規制の客レでは20分程遅くなるということですね。車は急行編成の間合いでしたのでキロ28くずれのキハ28の5000番台(4VK無し)や5200番台(4VK有り)を利用していましたが、やはり冷房エンジンはうるさく、予讃線の場合はキロ28は料金が必要ということもあり、キハ57が一番快適でした。
お写真の須崎駅のC58も、威勢よく煙が上がっており、影野までの上り勾配も安心できます。ちなみにDF50の最高速度は、須崎~土佐久礼25km/h、土佐久礼~土佐佐賀45km/hとなります。(C58に制限があったのかどうかは、わかりません。)
添付は、2023年3月24日の須崎駅です。小綺麗になっており、びっくりしました。