DF50 4号、解体撤去される!

今年(2024年)も残すところあと5時間半となりました。

少し時間が経過してしまいましたが、DF50 4号の解体撤去は、私にとっては今年最もショッキングな出来事でした。                          ▲DF50 4号(左:2010.08.10、右:1983.02.13)

DF50 4号は、1957年に製造された電気式ディーゼル機関車で、当初は関係職員の研修目的で米子機関区へ配属されましたが、SG未搭載、重連総括制御不可のため敦賀第一機関区へ転出、北陸隧道開通以前の山中峠越えに勤しむこととなりました。翌年敦賀第一機関区へはMAN機関を搭載した500番台車が配備されたため、量産型改造(SG搭載、重連総括制御可)を行ったうえで長野機関区へ転じ、篠ノ井線や中央東線で本来の製造目的である優等旅客列車の無煙化に貢献しました。タブレットキャッチャーのボルト跡や2エンド貫通扉桟の左右両側の滑り止めは、現存する1号とともに長野機関区時代を偲ばせるワンポイントでした。1965年には中央東線の電化開業に伴い亀山機関区へ転じ、紀勢本線を中心に活躍することとなりました。このとき長野機関区から亀山機関区へは4号を含む4両のDF50が転じており、亀山機関区が名古屋鉄道管理局から天王寺鉄道管理局へ移管されたこともあってか、関西本線の急行「大和」に進出することとなり、この実績が1971年10月のお召し列車けん引へとつながります(4号ではなく、8号と26号の重連でしたが)。また、担当工場は浜松工場から鷹取工場へと移管されました。京都駅では、1976年秋には米子区のDF50がDD51へと交代したものの、けん引機の次位無動ではありますが亀山機関区のDF50の工場入出場シーンを見ることができました。そして1980年3月、亀山機関区はDD51形式への形式改善が終了し、4号は2月29日のDLA34仕業(亀操次㋞△5191レ大泊次㋞単181レ新宮5196レ亀操)をもって引退しました。

▼DF50 4号略歴

用途廃止後の1980年5月30日、1791レで亀山機関区を後にし、1981年3月、大阪市東淀川区菅原2丁目にある豊里西4号公園(菅原天満宮公園)で保存されることとなりました。保存に至る経緯については知る由もありませんが、当地で進められていた土地区画整理事業を記念したものであり、残念ながらDF50である必要性はなかったようです。                                      ▲DF50 4号の案内説明板(1983.02.13)                          ▲左(②-④)側面のナンバープレートと製造銘板(2010.08.10)

新三菱重工の製造銘板では昭和31年となっていますが、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション13(国鉄の気動車1950)」(平成19(2007)年11月10日発行、株式会社電気車研究会)によると発注当初の工期は1957年2月だったらしく、年度表示だったのだと考えられます。ちなみに、1958年3月29日製造のDF50 17号の製造銘板では昭和32年、1959年1月17日製造のDF50 33号では昭和34年となっており、この間に年度表記から年表記に切り替わったものと考えています。当時の新三菱重工ではインド向けの蒸気機関車(1D1、90t)を1956年9月から1957年3月までに39両も製造しており、この状況でED70形式の製造(受注は三菱電機株式会社)までもねじ込まれたため、国鉄当局としても工期延長に応じざるを得なかったのではないかと邪推しています。つまりこのDF50 4号の製造銘板は、工期延長決定以前に既に準備されていたものと考えています。                      ▲DF50 4号の解体撤去作業(大阪市東淀川区、2024.01.30)

現役期間(約23年間)よりも長い約43年間にわたり保存されてきましたが、2018年9月の台風21号による上屋損傷に伴い、上屋もろとも残念ながら解体されてしまいました。管理されていた菅原天満宮の方々には謝意を表したいと思います。

参考までに、DF50 4号に搭載されていた機器の諸元を、私がメモできた範囲のみですが記しておきます。

それでは、皆様よいお年をお迎えください。

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