青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から③

続いて烏丸線の写真展、あれこれ噺を、年内ギリギリまで載せていくことにします。

50年前の真展会場

「烏丸三条」電停の真ん前という、烏丸線ゆかりの会場で写真展ができたことは何よりの幸運でした。加えて、50年前の現地の様子を皆さんから寄せていただき、展示に花を添えることができました。この地の歴史をたどると、明治30年に京都で初めての電話交換局ができたことに始まります。大正15年には新しい京都中央電話局が竣工、その建物は背後の古風な建築で、いまは複合商業施設の新風館となり、手前のビルは新館として建てられ、50年前は、電電公社三条営業所となっていました。最初に見つけたのは、顧問の故・大西友三郎さんのネガから。「電電三条営業所」「烏丸三条」と文字情報も言うことなし。市電、クルマもいい位置に入っている。最初にNTTへ申し込みに行った際に、同志社出身の担当者に見せると、入社前の姿に驚いていて、すっかりフレンドリーな関係になった。

一緒に企画を進めていた勘秀峰さんからも写真が届けられた。父上の運転するクルマに同乗中に信号で停車、ちょうど700形が止まっていて、咄嗟に下車して撮ったと言う。右の建物もさることながら、左の交通信号の上に尖塔が見えている。平安教会の煉瓦建築で、その後に岩倉に移転し、教会は昭和48年に取り壊された。烏丸線の廃止直前には姿はなく、小品ながら品格のある建物に私も記憶はあるものの、ついに記録ができていなかった。続いて、ぶんしゅうさんからのネガからも見つかった。より建物が中心にとらえられていて、建物の外観がよく分かる。窓の無い無機質な外観だが、中に電話交換機が並んでいたのだろう。「ハイヤー京聯タクシー」とあり、1階は京聯タクシー(その後、破産解散)の待機場として使われていた。別に電電公社とは関係がなく、賃貸していたと担当者は話していた。タクシー無線やアプリがない時代、タクシー会社は、得意先の多い中心部に待機所を設けて、電話で配車を受けていた時代だった。

各方面から写真の協力が得られた結果、同一地点でも、それぞれに付加価値のある写真が寄せられました。大西さんの写真は会場玄関のポスター、勘秀峰さんの写真は案内はがき、ぶんしゅうさんの写真は会場のアンケート記載所に配置、それぞれ有効に使うことができました。

50年前の取材社

今回の写真展の驚異的な来場者数は、やはり、京都新聞記事と、NHKニュースの取材・紹介に依るところが大きいものがありました。両社とも、烏丸線の電停地近くに拠を構えていました。電停看板が写真の中に写り込んだ「烏丸線全18停留所」のなかにも、その姿がありました。

京都新聞社は烏丸夷川にあり、「烏丸二条」のすぐ近くだ。初日にご来場いただいた記者さんもも熱心に見学されて、すぐ自社の建物を見つけられ、「何にも変わってませんなぁ」とひとこと。たしかに「京都新聞」のサインは、当時は新聞の題字だが、現在はロゴに変更されているぐらいで、大きな変化はない。地下の印刷工場跡は、広大な空きスペースとなり、世界報道写真展などの催事場となった。一方のNHK、写真展会場の斜め向かいに、今は京都局があるが、50年前は、千本丸太町付近にあって、その後、現在地に新築移転している。当時の「烏丸御池」が西村雅幸さんの撮られた写真で、ESSOのガソリンスタンドは、現在の交差点角の井門ビル、その隣、「明治生命」の看板のあるモルタル2階建てが、いまのNHK京都局に当たる。若いカメラクルーに説明するのだが、なかなか理解ができない様子だった。

4世代の定点対比

市電時代と現在の定点対比も何箇所か行いました。普通なら今昔2点組となるのですが、本展では、なんと4世代の定点対比を行うことができました。それが同志社を背景にした烏丸今出川東北角で、クローバー会からも多くの写真が寄せられました。

烏丸今出川に市電が到達したのは大正2年で、同交差点を左折して今出川通りを西に向かっていた。記録していたのが、石井行昌と言う公卿で、居宅がこの近くにあったため、この付近で多く撮られた。大西友三郎さんが京都府立総合資料館で複写された写真があった。写真は交差点を曲がるところで、左手に同志社彰栄館の時計塔が見えていて、今出川以北の烏丸通は拡幅前の狭い通りだったことも分かる。▲▲烏丸線が全盛のころの交差点を井原実さんが撮られていた。市電・市バスが並走して京都駅方面に向かう。背後の和風の建物は、戦前まで華族会館の本館で、戦後に同志社の用地となり、当時は大学院の校舎、啓真館になっていた。

華族会館があった東北角には、烏丸線の廃止直前の昭和48年に図書館が建った。当時、図書館勤務だった大西顧問から招き入れられて、立ち入り禁止のバルコニーから烏丸線の写真を撮影したのも思い出だ。▲▲現在の烏丸今出川、図書館は取り壊されて2026年に、さらに新しい図書館ができることになり、現地は更地になっていて、基礎工事が行われている。今まで交差点からは隠れていた明徳館の搭屋が見えるようになった。

以上、思いつくままに挙げてきました。まだ載せたい話もありますが、年も改まりそうで、ここらで打ち止めとしますが、烏丸線の持つ多様性を認識した次第です。お世話になった皆さん、ご来場の皆さんに改めて御礼を述べて、終わりとします。

 青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から③」への2件のフィードバック

  1. 昭和46年の秋、友人と烏丸通を歩いていると、ビルの一階にあるタクシー車庫へ入っていきました。彼のお父さんが京聯タクシーの運転手で、あわよくば家まで送ってもらおうとしたようです。あいにくお父さんは不在で、企みは果たせませんでした。ぶんしゅう様の写真には車庫の様子が鮮明に写っていて、当時の記憶が会話を含めてよみがえってきます。
    京都新聞社は本館の増築中で、KBS近畿放送が同居していたこともあって、手狭になっていたのでしょうね。来場されたKBS関係者から、内部の様子を聞かせていただきました。「手前は貼り付けで、屋上の飛び出したところにテレビのスタジオが、真下に社長室があった」など、外部の人間では知りえない情報を教わりました。
    NHKが移転する直前は記憶にありません。しかし、半世紀前の町並みからは想像できず、若い取材スタッフが理解できないのも無理はないでしょう。ガソリンスタンドと明治生命が見える角度で、私も撮っていました。撮影は昭和49年3月で、廃止の直前です。

  2. 新年、おめでとうございます! 令和7年もよろしくお願いします。
    さて、写真展のアンケートは来場者の約4分の1にあたる148名に記入を頂きましたが、「写真展をどうして知られましたか」の問いに最も多かったのが「雑誌新聞のイベント欄」で49名。これに「京都新聞」6名を加えると相当な数になります。次いで多かったのが「NHK京都のニュース」で29名いらっしゃいました。これらの数字を単純に4倍すると300名を超える人が新たに来場した計算になります。マスコミの告知がこれほど効果があったのは初めてでした。
    大好きな市電の話題を年末年始もコメントすることが出来るのは何と幸せなことでしょう!

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