青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から②

年も押し詰まりましたが、烏丸線の先を急ぎます。二つ目の「丸物」、京都駅前にあった百貨店だけに、来場者の皆さんからも、「ありましたなぁ」の声が聞こえてきたのでした。昭和27年ごろに撮られたTさん撮影の写真にも、中央に丸物があった。もともとは土産物を販売する京都物産館として誕生した。写真の建物は大正15年に完成し、次第に百貨店としての業態を整えて行った。マークが、“物”をマルで囲んだもので、“マルブツ”が通称名、のちに商号となった。ポールの200形が旧の系統板を付けて、ボンネットの市バスと並走する。

故・羽村宏さんのカラーには注目が集まった。丸物の看板もよく分かる。手前は京都タワーの建つ、もとの京都中央郵便局だが、さすがに記憶のある来場者はいなかった。「新春初売出し」から分かるように、正月に撮られたもので、市電に興味のある方は700形に眼が注がれる。赤い「臨」の系統板、方向幕には「いなり」の文字が。そう、正月など多客時に、壬生車が四条大宮から京都駅前を経由して稲荷へ直通していた貴重なカラー。

この3点は、未発表も含めて、京都駅前のルートをたどっている。左:「いなり」の円板を付けた804号が京都駅前に到着。右上:西乗り場に到着して逆向する。円板は前に付け替えられている。右下:連絡線を渡って東乗り場へ、ここで乗降扱いをして、通常ルートで稲荷へ向かう。

烏丸線の廃止前、まだ壬生の500形が出入りしていた昭和45年の同一地点。京都タワーがあって、丸物があって、その向こうに東本願寺の伽藍が見え、前を市電が曲がって行く駅前風景は、高齢者には眼に焼き付いた風景で、大部分の来場者も「そやったなぁ~」と写真を見て納得。丸物は、新宿、池袋、岐阜などに出店するが、業績はもうひとつ、丸物には悪いが「お上りさん相手の安売り百貨店」のイメージを払拭できなかった。烏丸線廃止後の昭和52年に、丸物は近鉄の傘下に入り、京都近鉄百貨店となった。その後、若者層に照準を当てた「プラッツ近鉄」で業態転換を図る。この時の目玉は、旭屋書店がワンフロア1000坪と京都一番の書店として入店したことで、鉄道書がとにかく豊富で、もう梅田まで行かなくても京都で手に入ることに大喜びだった。しかし、業績は好転せず、平成19年に近鉄百貨店も閉店、旭屋書店も7年しか持たなかった。そのあとは、建物が新しくなって、ヨドバシカメラ マルチメディア京都となって現在に至っている。

 青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から②」への12件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    200型と丸物、いやあ懐かしいですね。もう後期高齢者ですから当たり前ですが。単車の200型と300型には随分お世話になりました。小学1年の1学期だけ羅城門前から島原口まで、西大路九条~西大路七条~七条大宮を経由する⑰番系統で通学しました。九条車庫受け持ちの基幹⑦・⑧番系統を補完するような系統だったためか、単車か600型などの比較的小型車が配車されていたようです。ところで200型の右側に写っているバスは市バスでしょうか?こういう塗装があったのでしょうか。京阪バスのように見えるのですが。
    丸物もよく買い物に行った店でしたからいくつかの想い出があります。当時は大宮五条に住んでいたので、ちょっとした買い物は四条の大丸かこの丸物でした。京都で真っ先にエスカレーターが設置された施設でした。買い物もないのに出かけて行き、何度も何度もエスカレーターに乗って上り下りしたものです。またDRFCへの入会直前の1回生の夏休みに丸物でアルバイトをしました。仕事はともかく、悩みは冷房と帰宅時の市電内高温の温度差でした。仕事中かかなかった一日分の汗を僅か半時間強の市電内でかいて帰宅しました。周りの女性店員たちは寒い寒いと云って困っていました。現代のECOのEも無かった時代ですからね。また7月下旬から約1か月半のバイト代22000円をもらった時は嬉しかったですね。初めての勤労報酬でしたから。この一部はその後鉄模社のC56購入に充てた覚えがあります。つまらない想い出話ですみません。

    • 1900生さま
      200形、丸物の思い出、ありがとうございます。200形、300形は、われわれ世代なら、かすかな乗車記憶があるものですが、私は全くなく、写真で偲ぶのみです。昭和44年の暮れだったと思いますが、DRFCで九条車庫を見学しました。奥のトラバーサーにの横に、300形の廃車体が置かれていましたね。
      丸物のエスカレーターは、大丸や高島屋より早く、京都では初めてでした。これには苦い思い出があります。エスカレーターは横1~2人分の幅ですが、当時は横に数人が乗れる、階段がそのまま動いているような、幅広の乗り物でした。中央に乗ると掴まる手すりがなく、家族と物珍しさで乗ったら、たちまちひっくり返って、恥ずかしい思いをしました。それ以来、エスカレーターはトラウマになって、百貨店へ行っても階段ばかり使っていました。

  2. 今回来場者へのご案内で、一番リアクションがあったのが丸物でした。われわれ60歳代以上は「京都駅前には丸物がある」のが当然の風景になっていましたので、懐かしがられるものも無理はありません。記憶違いかも分かりませんが、昭和30年代~40年代初頭にかけてのお正月には、四条通りの百貨店は三が日は休みのところ丸物は元日から営業していました。
    200形に写っているバスは市バスと思われます。展示会にお見えになったKさんから、昭和29年3月の、白川線開通時の交通局の新聞広告に、市バスの塗装を一新する(=現在の色)旨のお知らせがあったそうです。昭和27年の写真ですから、市バスは旧塗装で走っていたようです。しかし旧塗装の市バスを数枚写真で見るのですが、みなモノクロなので、どんな色なのか、私は分かりません。

    • 勘秀峰さま
      お書きのように並走するのは京都市バスですね。デジ青にも、以前に羽村さんの撮られたバスの解説をしていました。
      https://drfc-ob.com/wp/archives/100540
      側面下部の3本のラインが京都市バスの目印になっていました。
      さらに別原稿で、カラーリングにも触れています。
      https://drfc-ob.com/wp/archives/102762
      ベージュ&濃青と記しています。

    • 戦後のカラーなら進駐軍が撮影した写真を探せ!というわけで、「戦後京都の「色」はアメリカにあった!」という本をさがすと、121ページにクリームと濃紺のバスが載っていました。クリームは明るい色で、市電700形のような色合いです。
      添付の画像は昭和12年に発行された電気事業二十五周年記念切符で、バスのイラストが描いてあります。この頃はクリームと茶色の塗分けだったようです。

  3. 259の後ろに映っている531は、昭和43年、廃車になるまで、未更新のままでした。
    写真展は、無理をしてでも行きたかったのですが、病み上がりの身の故、かないませんでした。
    昭和42年6月22日の撮影です。

    • 藤本哲男様
      お気遣い、ありがとうございます。またやってほしいとの声も聞きます。言うのは簡単ですが、その声に励まされて、また機会もあると思います。その節はぜひお越しください。500形の未更新の写真もありがとうございます。

  4. 物産館の絵葉書がありましたのでご覧にいれます。
    烏丸通の東側に、足場になる高い建物でもあったのでしょうか。どうせなら市電をもっと近くに入れてシャッターを切って欲しいですね。屋上に見えるタワーは遊具でしょうか。

    • 撮影した場所は、当時はイセヤと称したイセヤビルからでしょう。現在は鳥居ビルと名を変えています。オーナーの鳥居さんは私の一年先輩でラグビー部でした。

    • 井原 実さま
      年も押し詰まってからの続々コメント、ありがとうございます。貴重な絵葉書、見せてもらいました。手前の2階建ての看板を見ますと、「(物)京都物産館」とあり、この建物が、土産物店時代の丸物なのでしょう。5階建てのビルは、われわれの知る丸物の北半分で、その後南側、西側へ増床を繰り返していたことが分かります。

    • 二階建ての建物が大正9年にできた京都物産館で、五階建ては大正15年10月にできた京都物産館の新館です。撮影されたのは米手様がおっしゃる通り、「イセヤ」からでしょう。
      添付の画像は石井行昌氏の撮影で、新館はまだ見えません。左は京都中央郵便局、右はイセヤです。

  5. コメントを投稿しているうちに日付が変わり、新しい年になりました。今年もよろしくお願いします。
    市電の写真には街並みが写っていて、見覚えのある建物を見つけると一緒に行った人や、その時の会話まで思い出すことがあります。丸物があった一角もすっかり変わりました。京都タワービルができて60年、京都駅前の風景で最初に思い浮かべる人も多いのでは? 七条通の東京生命館は昭和27年ころには建っていたのですね。これには驚きました。市電がいたころとは建物の色が変わり、入居する会社も変わりましたが、この辺りでは最古参になったのですね。
    昭和45年の写真に写る、自転車に乗った人物に注目しました。制服から判断して郵便局員、かばんが配達用とは異なりますので保険の外交に出かけた帰りでしょうか? 祖父が中央郵便局に勤めていたので、つい反応してしまいました。昭和49年3月に撮った写真に、郵便局員が写っていました。三つボタンの制服と制帽が、かっこよく見えました。ただ、色が思い出せません。緑がかった紺だったような、記憶は限りなく薄れ、モノクロの写真では判断できません。

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