電車はこれでお終いです。
ご覧下さい。
この当時は列車事故が続きました。
三河島事故に続いて鶴見事故、この時初めて『競合脱線』という言葉を覚えたのです。また、同じ日に三池炭鉱の爆発事故もあって世の中が騒然としたのを思い出しました。
⑨と⑩は私鉄らしいのですが分かりません。同じ車のようにも見えますが、窓数が違うようです。どなたか、お教えください。→『うずら校長』様より解説を頂戴しました。
電車はこれでお終いです。
ご覧下さい。
この当時は列車事故が続きました。
三河島事故に続いて鶴見事故、この時初めて『競合脱線』という言葉を覚えたのです。また、同じ日に三池炭鉱の爆発事故もあって世の中が騒然としたのを思い出しました。
⑨と⑩は私鉄らしいのですが分かりません。同じ車のようにも見えますが、窓数が違うようです。どなたか、お教えください。→『うずら校長』様より解説を頂戴しました。
貴重な写真、いつも楽しんで拝見しております。
9枚目 京王電気軌道200型 204 場所は背後の建物から、桜上水の車庫と思われます。
10枚目 京王電気軌道400型 500型にも見えますが、縦樋の位置から400型としました。
撮影は、200型が3扉化した後ですから、昭和15年頃?から昭和22年頃(大東急合併後も車番書き換えをしていなかったようです)かと思われます。400型の方は車番が見えませんので、ペンキで書き換えたのかも知れませんね。
400型は、ご存知かと思いますが京王レールランドに保存されていますね。
貴重な記録で圧倒されています。
京王車は東急合併後、2000番台が附番されています。
写真では、1983年夏の鉄道ピクトリアル京王帝都特集号に高松吉太郎さんお写真が、2000番台でありますね。
因みに、京王は2000番台でしたが、
他社では、
小田急が1000番台(帝都は既に小田急に合併されていたので当然1000番台でした)
東急が3000番台
京浜が5000番台(こちらは三桁のままで終わったそうです)、4000番台がないのは、南武鉄道を合併するつもりだったそうですが、こちらは昭和19年に国有化されてしまいました。
⑥のクハ76は314ではありませんね。全金属車体の300番台ではありませんし。
鶴見事故のクハ76039とも破損度で違うと思います。
他の事故大破したのはクハ76005→クハ76351がありますが、ナンバーが判らないので何とも・・・・。
うずら校長様
謎の解明、ありがとうございます。
さっそく記載致しました。今後ともよろしくお願い致します。
ほへほへ様、
毎度ありがとうございます。
拡大写真をご覧下さい。見にくいですがこれが限界です。
クハ76014で確定ですね。
1960.1.13に保土ヶ谷-戸塚間の踏切でダンプカーと衝突の記事が出てきます。
湘南電車も衝突しているので、二重事故です。
連投失礼致します。
申し忘れましたが、京王電車は昭和19年東急併合後はそれぞれデハ2200、2400形になっております。よって撮影がそれ以降でしたら、そちらになりますね。
あと、クハ76ですが、これは昭和36年に事故に遭って復旧されたクハ76014ではないでしょうか。
下記の記載を見つけました。
http://blackcatk.ojaru.jp/nenpyou/anotoki/jnr/s36.htm
76014とすれば、昭和25年一次形で、台車形状や戸袋Hゴム化の改造後の姿が昭和35年以降で、記載とも一致します。
014ですね。言われればそう読めます。
『東海道本線で二重衝突 36.1/13
横浜市保土ヶ谷区戸塚~保土ケ谷間の無人踏切で、上り湘南電車(クハ86017)と砂利運搬用ダンプカーが衝突、そこへ更に下り横須賀線電車が衝突先頭車(クハ76014)が衝突 死者5 重軽傷96、この事故での車両はいずれも復旧している。』
こんな被害車両でも復旧しているのは時代のせいでしょうか。
米手作市様
いつもの通り出遅れましたが、今回は遅まきながら参加させていただく事にしました・・・。
⑥については小生も『ほへほへ』さんと全く同意見です。
同氏も仰る通り、スカ線の破損事故は鶴見事故ともう1件の事故位しか思い浮かびません。
鶴見事故の上りの先頭車76039は右側から対向編成の中間に突っ込みましたが、損傷は同じ右前方側からとは言え、この写真より大でした。
また、逗子の衝突事故では先頭のクハ76は左半分の損傷でしたので該当しません。
では、米手様が314と判定された右前を破損したクハ76は果して何者?
これから研究してみる事にします。
河 昭一郎様
お待ちしておりました!
よろしくお願い致します。
ところで思い出したことがあります。この鶴見事件当日か翌日のテレビのニュ-スを見ていたら、脱線しながら砂塵を上げて突っ込んでくるクハ76の映像を見た記憶があります。当時中学生だったので、「なんでこんな映像が撮れたのだろうか?」と不思議に思っていたのですが、その後、この映像が流れたのを見たことはありません。確か局は読売テレビ(東京では日本テレビ)だったと思います。夢を見ていたのか、記憶違いなのか、未だに気になっている事件でした。
米手作市 様
多分このことでしょうね。
https://blogs.yahoo.co.jp/trfcanm2002/14926692.html?__ysp=44Kv44OPNzYwMTQ%3D
クハ76014の件、折角『うずら校長』様が2時間半も前に解説されていたのに気付かず、間の抜けたコメントをしてしまいました。
思いかえせば『うずら校長』様のコメントが出る時刻より以前にコメント欄に記述を開始しましたが、途中で急ぎの用件が発生したためPCを『スリープ』にしたまま長時間放置したためと思われます。
2時間半後に『スリープ』を解除し、『うずら校長』様のコメント表示が無いままの画面に、コメントの続きを書き加えて送信した結果の大失敗でした。(笑)
河 昭一郎様、
いえいえ、なんでも念を入れて、が私のモットーです。ご両人様のお墨付きなら安心して訂正致しました。
私もよくあることで、休止後に再開するときは必ず“再読み込み”のボタンを押してからにしています。
④の参考となるカラー写真をRMライブラリNo.100 星晃氏著「国鉄車両誕生」で見つけました。④のキャプションにもあるように1959年(昭和34年)で、星氏の撮影は12月16日 有楽町となっています。飾り付けを施した電車が少なくとも2編成はあったことがわかりますし、クリスマス飾りを模したのか飾り電球まで取り付ける念の入ったものですから、1ケ月ぐらいはこの姿で走ったのかもしれません。そうなれば、2編成が並ぶ時刻と駅を特定して撮影された熊谷氏の執念を感じます。
なるほど、言われればそうですね!大変な写真だと今、気がつきました。それにしてもこの写真、あの星晃さんが撮ったのですか?
電車版はこれで終了との事ですが、駆け込みコメントです。
スカ線関連の事故車に気をとられていて、もっと『衝撃的』?な153系の事故写真をスル―していました。
この件についてはコメントもゼロですが、何か気になりますネ。
2両とも低運転台の初期タイプですが、未だ500番代が出て無かった頃でしょうか?
これに関しての記録は写真には付いていません。記憶ですが、以前に青信号特派員氏が153系に関して書かれていた中に「事故」の記述があったように思いまして掲載しました。
恐らくこの事故でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E4%BA%8B%E6%95%85_(1950%E5%B9%B4%E3%81%8B%E3%82%891999%E5%B9%B4)#%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E9%A7%85%E6%BA%96%E6%80%A5%E3%80%8C%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E3%80%8D%E8%A1%9D%E7%AA%81%E4%BA%8B%E6%95%85
500番台はその後の製造ですね。
ほへほへ様
これに違いありません。よく探し出されましたね!ありがとうございました。
どなたも書かれないので
1は(クハ16+モハ14)x2で身延線
2,3は社型車両を挟んだモハ52で阪和線
どちらも子供が見に行くには余りに遠く駅名などは判りません。
追記 戸塚のダンプ衝突は私もニュース映画と思いますが見て、本物の事故実写なので驚愕したのをおぼえています。あれはたまたま映画か何かの撮影をするためにカメラをセットしていた眼前で事故が発生したと説明されたと記憶しています。
村樫様、
ありがとうございます。
積年の悩みが解決できました。
いままで、だれに話しても『そんなもの、見たこともない。だいいち、事前にカメラをセットしておくなど事故ではなく事件になる!』などと言下に否定され、挙げ句の果ては『夢を見た』だの『心霊現象』とまで言われていました。60年ぶりの解決、心から感謝します。
はじめまして。
趣味人の一人として、こちらで大変勉強させて頂いております。
その昔は、旧型国電が好きで、各地を巡っておりました。
1の写真ですが、ホーム上屋の形状など、飯田線の天竜峡駅と思われます。
こちらの動画の冒頭部分など、わかりやすいかと。
参照動画のリンク
NOBUNOBU様
動画拝見しました。左手奥の大きな木立もぴったりで天竜峡駅に間違いないですね。撮影場所も同じ構内踏切からですね。ありがとうございました。
NOBUNOBU様
ありがとうございます。
早速訂正致します。
ほへほへ様
こんなサイトが有ったんですネ。
お陰で自分自身の勉強意欲の無さを思い知らされました。
安易に質問のみをぶつけて『待ち』を決め込んでいた自身を反省し、恥じております。
米手作市様
砂塵を上げて突っ込んでくるクハ76の映像の件、村樫四郎様のコメントで真相が判りましたネ。
で、『へェ~っ、そんな事が有ったんだ!』と驚く事しきりでした。
これを知れたのは、やはりデジ青のネットワークの威力ですネ。
ところで、今更ながらの追加コメントです。
阪和線での茶色の流電ですが、京阪神のアイスキャンデー急電が忽然と消えて『何処へ行ったのだろう?』と不思議一杯だった幼少の身には、遠方の阪和線など思いもつかず。
こんな風景は見る事ができませんでした。
で、広窓流電が走行中の場所を特定する等とても出来ませんが、もう1枚の狭窓車については櫛形ホームからして天王寺では・・・と思います。
更にもう1枚の⑤ですが、初めてスカ線に113系が運用された時のもので、湘南色だったため全面にスカ色に塗り分けた特製ヘッドマークを掲げて運行された時のものですネ。
場所は、ほぼ間違いなく東京駅です。
上記文中、終わりの項『全面』は『前面』に訂正です。
河 昭一郎様、
このシリーズー8ーは驚くことばかりでした。
クハ76の事故映像に関すること、東海3号のこと、そして113系の横須賀線のことなどです。特に最後の横須賀線の写真は白黒のため、河さんのご指摘がなければ何の写真か分からないところでした。車輌が湘南色でヘッドマークがスカ線色ならば大変な記録性があります。ありがとうございました。
電車は苦手な小生ですが、このシリーズは良い勉強の機会となりました。
⑨・⑩が京王帝都の前身である、京王電気軌道の車両だったとは意外で、目からウロコでした。400形は後年庄内交通のモハ8となった仲間もありますが、前照灯の位置や塗色が変わると別の電車に見えます。関東の私鉄、中でも京王帝都は特に興味が無かったのですが、遅まきながら小型車が載った記事を探して、むさぼり読んでおります。
①の身延線も意外でしたが、駅の様子は私鉄の雰囲気が感じられます。しかし、モハ14については何も知らず、これも調べなければなりません。
⑦のクハ153ですが、左右で乗務員扉の位置が違うとは、これまで気が付きませんでした。
毎回楽しみにしておりますが、今回は特に楽しめました。ありがとうございます。
紫の1863様
チョットでも知ってる事が有れば、ツイツイ何でもヒケラカしたくなる小生です。
(ク)モハ14は、相棒のクハ47共々70系スカ形の横須賀線への投入によりお役御免となって都落ちした車です。
1933(昭和8)年に32系として40数両が登場しましたが、当時は70系や80系のようなスカ形や湘南形と言う表現が無かったため『横須賀線専用車』と言われていたようです。しかし、実はこれこそが『スカ形』の元祖と言えます。
この『横須賀線専用車』の登場に際しては他に『日本初の20メートル車』とのフレコミがあって、大いに話題を呼んだようですが、相棒のクハ47をはじめT車は20メートル車でしたが、ご存知モハ32(1953.6.1.にモハ14と改称)は旧来の17メートル車でした。
これは、電動車を20メートルに延ばすには台枠の強度に不安が有ったためで、その対策が時間切れで間に合わず取り敢えず17メートル設計のまま、実質的にはT,Tc,Ts等の付随車のみ20メートル車とした『専用車投入』に漕ぎ付けたためでした。
スカ形が投入されたスカ線からの放出車は、静鉄管内の買収2線に転用され社形車の淘汰に活用される事となり、この写真の飯田線の他に身延線で活躍しましたが、1964年4月時点で飯田線には19両(トヨX5、チウX5、ママX9)、フシ区には24両が在籍しました。
さらに、身延線については国鉄規格に合わないトンネルが存在しパンタ高に問題が有ったため、1959(昭和34)年には屋根を削ってカマボコ屋根に低屋根改造したため、チンチクリンのモハ14が標準高クハ47とチグハグな凸凹編成を組む様が話題になりました。
これのことですか?
河 昭一郎様
簡潔にして明瞭な解説、ありがとうございます。「スカ形」旧32系由来のモハ14のこと、よくわかりました。また、身延線に投入するため低屋根化された800番台車も、元は同じ仲間だったのですね。ですが、旧モハ62の100・101や、旧モハ30形を2扉セミクロスシートに改造した110~116もあって、同じ形式でも窓配置などに違う形態が見られ、初心者には難解です。複雑ですが奥深さに敬遠せず、ひとつひとつ調べる楽しさもありますね。
実は「ピク」721号、戦前製旧型国電17m鋼製車を見ながらコメントを打っているのですが、アッ、河様の写真が載っているではありませんか!
米手作一様
何でも撮ってはりますねェ。
東京駅ですか?
米手作市様
写真は東京駅でのクハ47073ですが、これは元来の『横須賀線専用車』ではなく、1959年にサハ48012から改造されたクハ47の増備車ですネ。
因みに、この車は後の1963年には更に3扉化改造された後、クハ68211となって新潟国電の増備車として供出されました。
国電は改造や改番が何度もあってヤヤコシ、ヤヤコシ(笑)です。
従って、答えは『これの事ではありません。』です。ああヤヤコシ。
河さんにホメていただこうと探し回った20m2扉車でしたが、違いましたか!残念!
何でも撮っている米手作市でした。
はじめまして。
神奈川新聞社刊の写真集『激流・かながわ昭和史の断面』に於いて、1961(昭和36)年1月13日に起きた横浜市戸塚区の東海道本線秋葉踏切に於ける、ダンプカーが湘南電車(東海道線東京口)と横須賀線直通の電車(クハ76014号)と衝突し、ダンプカーが炎上してるのと、側面が抉られ大破したクハ76の写真が載ってます。
また、この4日後の17日には、東京都下北多摩郡狛江町(現在の市)の小田急電鉄小田原線は、和泉多摩川駅ちかくの多摩川堤防上の踏切で、新宿発向ヶ丘遊園ゆき普通列車(2400形4連、80人余りが乗車)がダンプカーと衝突し、電車のうち先頭車のクハ2460号とモハ2410号が脱線し、乗客と運転士の18人が負傷、ダンプカーの運転手は即死という事故が起きており、この頃から踏切事故防止対策(危険度が高い踏切を、逐次自動遮断機つき第1種踏切への更新をはじめ、立体交差化の進展など)が図られてた頃だったです。
以上をもちまして、失礼します。
みやのこ様、
発生年の間違いを確認して訂正致しました。
ご指摘、ありがとうございます。
⑧は山科駅の京都方で準急「比叡」名古屋行を後追い撮影されたものです。
ゴハチ信者様
加筆訂正致しました。
ご指摘ありがとうございました。