準特急さんに怒られますが・・

ボーッと見ていると、「ぞろ目の車両特集」が始まっていました。
それをまたボーッと見ていると、ウチにもあった様な気がしてきまして探しましたところ、ありました。

でも、投稿しようと準備していたら「三桁のぞろ目など価値はない!」とDRFCのプーチンが言っているとか。子供の頃に神風関にだっこして貰った者としてプーチンごときの圧力に負けるわけは行かぬと敢えて投稿します。

まずはゾロ目から

ナハフ111 福知山客車区

 

オロフ333 向日町運転所

 

スハ444 米原駅

次は「回文」式車番。上から読んでも山本山、下から読んでも山本山みたいな。

スエ7117 福知山

 

キハ454 釧路

 

スエ313 遠軽

と、こんなとこです。
古すぎてわからん、て?<m(__)m>

想い出の阪急京都線・・・②

想い出の阪急京都線・・・①より続く

⑩ エレガントな高性能車(1300・1350形)

1957(昭和32)年に京都線に投入された1300形は、920形に代表される

阪急スタイルを一新し脱阪急とさえ思わせた。

車体が全体的に丸みを帯びたデザインで、屋根の両側に沿って長い通気用のル―バ―が設置されていたのがアクセントとなっていて大変エレガントな印象を与えた。

1956(昭和31)年に高性能車と銘打った1000形が神戸線に現れたが、その姿はそれまでの阪急車とは全く趣を異にした洗練されたスタイルであった。屋根はそれまでの阪急には無かった柔らかさを感じる張り上げ仕様となっていた。更に、この高性能車は性能的にも斬新さがあって、全電動車方式の軽量化車体に加えて台車に取り付けられた小型高速度電動機の効果が期待された。その後1000形は1010形に発展し、その京都線版が1300形であったが、製造総数は16両に止まり量産には至らず、2300シリーズの量産車が次に続く事となった。
写真:1302他 京都行通勤特急(1962.8.15.総持寺)

続きを読む

想い出の阪急京都線・・・①

この記事は河 昭一郎氏が以前に鉄道ピクトリアル誌に掲載されたものをデジタル青信号用に改めてご寄稿下さいました。
米手作市が代理で投稿致します。

阪急京都線が元々は阪急ではなかったのは有名な話で、そのルーツは京阪電気鉄道の子会社であった新京阪鉄道が1925(大正14)年10月15日に天神橋~淡路間を開業したのが始まりである。
後の1928(昭和3)年11月には京都(西院)まで延伸され、大阪(天神橋)~京都(西院)の直通運転が実現した。

その後、北大阪電気鉄道との合併によって十三~千里山間が編入され、その内の淡路~十三間が後の梅田乗り入れの足がかりとなった。
しかし、その後の社会情勢の変化により1930(昭和5)年9月15日には親会社の京阪電気鉄道に合併され同社の新京阪線となった。

この新京阪鉄道は名古屋までの延伸が念頭に有ったため、軌道法を超えた鉄道法に沿って建設されたため、軌道法の阪急とは規格が違いレールは50キロ級、架線方式についても高速対応のコンパウンドカテナリー式(但し、補助吊架線とトロリー線との間隔が広い変形)を採用していた。

写真:爆走する1519他4連の京都行急行・3両目に1550形が混結されている。(1963.7.18.富田)

続きを読む

探偵団の皆さん!教えて下さい

給水塔の話はおもしろかったですね。
久しぶりに全員参加でワイワイやれて良かったです。

それならばと、大阪通信員さんからご下命がありましたので成り代わりまして探偵さんに調査を依頼致します。

と言いますのは、先日通信員さんのご自宅へ訪問致しましたところ、奥座敷に9㎜ゲージの複線を引いて、DF50の引く旧型客車を走らせておられました。その時「ぶどう色の旧客3等車でアルミサッシというのはあるだろうか?あれば作って走らせたいが、もしなければ偽物(最近の用語ではフェイク)だ!と罵倒されるのは貯金・勉強・親孝行を座右の銘にしてきた老身には堪えられない」と仰ってました。

そこで探偵の皆様にお願いです。
通信員さんの安らかな老後を保障するためにも「アルミサッシを付けたぶどう色の旧客3等車」の写真があるならば見せてあげてください。
私のアルバムには旧2等車はあります。3等車もありますがモノクロのため青か茶色か判然としません。

なお、旧客の青色化は昭和39年から始まっていますので、それ以前に撮影されたなら茶色(ぶどう色)です。

宜しくお願い致します。

ただ今整理中 こんなんが出てきました(その2)

引っ越し後の整理が遅々として進まぬ米手です。
先日の暑気払いの会で大阪通信員さんから「音沙汰なしやないか!なにしてんねん!」とやんわり怒られましたので、台風接近の中一丁で一丁で格闘し始めたところ、おもしろいモノが見つかりましたのでご紹介します。

昭和54(1974)年8月1日に発行されたフジイ大丸の広報誌「むくちじょうほう」で、”あれから10ヶ月京都市電のその後物語”と題する特集です。
これがなかなか専門的にも詳しい編集をしていて、百貨店の顧客サービス品とは思えない出来栄えです。もしかしてあの人が一枚噛んでいたのでは・・・?

続きを読む

ただ今整理中 こんなんが出てきました

引っ越しとはこんなに煩わしいモノかと、この歳になってつくづく思い知らされました。

家内のケガや病気が重なったこともあって共用スペースの整理を優先したため、私の部屋は未だに段ボールの山。
皆さんの投稿を見るにつけても心ははやりますが、どの箱に何が入っているのかが判らず、本棚が20日頃まで来ないこともあって休止状態です。
そんな中、準特急さんからは「早く書け!サッサと書かないと縁を切る」と言われて焦りまくりです。道理の通じる方ではないので何とか材料を作ったのがこれです。

若い会員はあまり使ったことはないでしょうが我々が現役時代はこれが命、これなしでは長期の旅行など出来ない時代でした。一泊二食付き800円はありがたい限りでした。

ユースホステルの会員証が出てきました。
皆様方の泊まったことがあるホステルはありますか?

今日はこんなところでカンベンして下さい、準特急さん!

謎のメーター

引っ越しをすると訳の分からんモノが突然現れます。
これもその一つです。
もらった覚えも買ったおぼえもなく、もちろん機関車からもぎ取ってきたおぼえもありません。そもそも何をするメーターかも分かりません。
そこでしばらく暇をもてあましているだろう探偵諸氏にお伺い致します。
これは一体なんのメーターでしょうか?何に使われていたのでしょうか?

スクラップブック 事件・事故編・第17回

永らくご無沙汰を致しました。

この度、復活致しました。
その間、会員の皆様より「生きてるのか?」「死んだのなら連絡しろ!」などと暖かい励ましのメールを頂き、会員であった喜びを再確認しつつむせび泣いておりました。この度諸般の用事を片付けて投稿を再開することになりました。と、言っても新しいものは何もなく、古い話題での再出発です。取りあえず準備していたスクラップブック事件・事故シリーズの最終回をご覧下さい。

〈本編の編集中に、涌田浩氏の訃報に接しました。
彼は物静かでありながら知識は豊富で、なおかつ会員としての行動力もあり、よく行事で行動を共にしておりました。最後にお目にかかったのは伊賀電鉄へ行った時です。
この歳になると世の無常をひしひしと感じます。
心よりご冥福をお祈りすると共にご家族に哀悼の意を表します。〉

 

1964,8,23

続きを読む

帰ってきた米手作市

デジ青読者の皆様、
永らくのご無沙汰です。
巷には「米手は死んだらしいで!」との噂が出回っていたとか。
どっこい生きております。

実は昨年の後半頃から家内の体調が悪くなり、手術を繰り返しておりました。幸い生死にかかわるような事ではなかったのですが、やはり痛がったりしていると出歩くのは気が引けてしまいます。
さらに我が家が娘夫婦による乗っ取りに合い、彼女のマンションと交換することになりました。そしてその引っ越しの直前にまたまた家内の手に菌が入り、さながら豚足のように晴れてしまったのです。古い会員の方はご存じですが家内は免疫抑制剤を使い続けないといけないため菌に感染しやすいのです。結果引っ越しは私一人で荷造りから開封、設置まで一人でするハメになり、更には炊事洗濯までこなすスーパー爺さんになりました。

やっと家内の手も収縮しはじめて久しぶりにデジ青の画面に向かっている次第です。
宮崎繁幹さん、河 昭一郎さんはじめご心配いただいた会員の皆様、お礼とお詫びを申し上げます。

再開してもなにも資料が準備されていませんので、しばらくはコメント欄で構内試運転をする程度になりますがよろしくお付き合いをお願い致します。

最後にあたらしい我が家からの絶景をご覧に入れてご挨拶と致します。

※東寺の五重塔を背景に特急サンダーバードを追い抜く新幹線N700S。屋根はJR貨物・梅小路駅。毎日青い機関車が牽く22両のブルートレインや緑色の「青大将」更にはブドウ色の列車が行き交います。
ジョイントの音を聞きながら、お休みなさい。

スクラップブック 事件・事故編・第15回

永らくお休みしていましたが「スクラップブック」を再開します。家庭の事情でなかなか集中してスキャンなどの作業が出来ません。ボチボチと進めます。

当時では大きい事故とは言えないかもしれませんが、いまなら大事故でしょう。

昭和38年(1963年)ですが、まだまだ信号無視や居眠り運転が横行していました。

1963,11,28

1963,11,28

続きを読む

スクラップブック 事件・事故編・第12回

1963,11,11,

鶴見事故の混乱のさなか、またしても重大事故が発生しました。
国鉄としては頭の痛い事が続きました。

1963,11,11,0001

さらに責任者の自殺騒ぎまで起こるとは、良きにつけ悪しきにつけ国鉄職員が確実に責任感を持っていたという時代の記録です。

スクラップブック 事件・事故編・第11回

鶴見事故の続きです。
この事故をリアルタイムに見た世代はまだまだ多く居られるのではないでしょうか。
その時の感想など、書いては頂けませんか?
特に関東に居られた方々は大ショックだったのでは、と拝察します。

それにしても石田総裁は大変な役回りでした。
新幹線開通、三河島事故、そしてこの鶴見事故と、一番苦労された国鉄総裁だったのでは。

1963,11,10-13,0009

続きを読む

スクラップブック 事件・事故編・第9回

ここで少し災害ではない事件・事故をご覧頂きます。

1963,9,21

1963,9,21

⇩上の事故とはちがいますが、似た事故が多発していたのですね。キハ10系。

1963,10,3,

 

⇩この事故は特急「ひびき」の窓が開けられたことで発生した事象であります。当時157系は非冷房で窓が下降式で開けられました。不心得者がその窓から空き瓶か何かを線路に投げ捨てたのが運悪く対向車に当たったものです。157系は、この年から冷房か工事が始まっており、当該車両が未施工だったのではと思います。

1963,11,2,

1963,11,7,

この後に大事故が発生します。

スクラップブック 事件・事故編・第8回

昭和38年(1963年)は鉄道史上希有な年となりました。
三河島事故の記憶も真新しいのに大きな事故が続きました。
多難な昭和38年の幕開きです。
因みに私はこの年高校三年生です。

この年最初に起こった大事件は、世に言う「38豪雪」です。
沖中さんも勤務地の北陸で閉じ込められたと言っていました。

続きを読む